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後生の一大事を解決するには、真実の宗教を選びとらなければならない! [親鸞聖人]

 

●真の幸福はどこに

すべての人は幸福を求めて生きています。
これに異論を唱える人はないでしょう。
汗水流して働くのも、苦しみを辛抱して頑張るのも、
嫌な勉強に全力を傾ける学生も、果ては自殺をする者ですら、
幸福を望むからにほかなりません。

政治も経済も、科学も医学も、芸術も道徳も、
その他あらゆる人間の営みは、
この目的達成のために生まれたものです。

ところが文明の日進月歩に逆比例して、
人心はますます不満と不安・苦悩に襲われ、
おののいているのではないでしょうか。
この平和な日本で、年間三万人前後の人が自殺している事実が、
それを端的に物語っています。
親が子を虐待し、子が親を殺す。
強盗、殺人、詐欺、汚職など、
殺伐とした事件を耳にせぬ日はありません。
ストレス、心身症、アルコール依存症などの言葉が
広く知られるようになって久しくたちます。
これらは明らかに、金や物が豊かになれば、
科学や医学が発達すれば、人間は必ず幸福になれる、
という多くの人の抱いている深い迷信を、根底から覆すものです。

もちろん、政治や経済、科学や医学は必要です。
地位や名誉を得て、家庭を守り、
よりよい仕事をすることも大切なことでしょう。
ただ、それだけで人間が、不安、苦悩、不満を征服して
真の幸福になれるのではないのです。

●人類最大の悩み
    苦しくても生きねばならぬ理由は何か

室町時代の禅僧・一休が、
「人生は食てねて起きて糞たれて、
子は親となる子は親となる」
と歌ったように、私たちは毎日同じことを繰り返し、
世の中の娘が嫁と花咲いて、
嬶(かかあ)としぼんで婆(ばば)と散りゆく

と、後戻りできぬ道をどんどん進んでいきます。
古今東西、変わらぬ人生の裸形(らぎょう)ではないでしょうか。
やがて、どうすることもできぬ死の怪物が
目の前に立ちはだかります。


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結局、
「人生は タライよりタライへうつる 五十年」
産湯につかったタライより、棺桶というタライへの旅路が、
人生にほかなりません。
この実相を凝視する時、深刻な悩みが頭をもたげます。
「悲惨な最期に向かって、なぜ生きねばならないのか」
「一体、私とは何者なのか。どこから来て、どこへ行くのか」
「自分が今一生懸命やっていることに、
どんな意味があるというのか」
「苦労して生きるより、サッサと死んだほうがマシなのではないだろうか」
これほどの大問題は、ほかにないでしょう。
“仕事や趣味など、社会とのつながりの中で生き甲斐を見いだしなさい”
“生きる意味は自分でつくるもの”
“生きていれば、いいことだってあるよ”
と気休めを聞かされても、
天下をわがものにした太閤秀吉でさえ、
「難波のことも夢のまた夢」
と、むなしく死んでいったではありませんか。
家康も、
「人の一生は、重荷を負うて、遠き道を行くがごとし」
と、死ぬまで重荷を下ろせぬ人生を告白しています。
「花のいのちはみじかくて、苦しきことのみ多かりき」
と言い残したのは、自由奔放に生き、
作家として名を成した林芙美子でした。

 

真の宗教が希求されている

やがて死にゆく露の命、何のためにいきるのか。
この魂の渇きは、ついに真面目な若者をしてオウム教へ迷わせ、
史上まれな犯罪まで惹起(じゃっき)させました。
「自分の存在意義に、正面から答えてくれたのは教祖麻原だけだった」
と漏らした青年もいたといいます。
これに対して、
「あんな教祖についていった者の気持ちが分からない」
と切り捨てるのは、あまりに人間というものに無知、
無関心と言われても仕方ないでしょう。
人生の目的に渇ききった心は、泥水でもすすらずにいられなかったのです。
ただ、オウムの泥水を飲むな、飲むなの合唱では、
他の泥水に走るだけです。
現にたわいもない占い、迷信に迷う人は後を絶ちません。
なぜ生きるのか?
この人類最大の渇きを癒す、真の宗教が、
今こそ希求されているといえましょう。


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●親鸞聖人の、あらゆる宗教批判の原理

しかし、一口に宗教といいましても、
世界には無数の宗教が存在します。
私たちは、何を基準にどの宗教を選択すればよいのでしょうか。
親鸞聖人の畢生(ひっせい)の大著『教行信証』には、
あらゆる宗教批判の原理として、
三重廃立(さんじゅうはいりゅう)の教えが明示されています。
廃とは「捨てもの」、立(りゅう)とは「拾いもの」ということです。
本当の幸福になるには、三つの捨てねばならぬものがあり、
三つの信ずべきものがありますよ、と教えられているのが
三重廃立の教えです。

●内外廃立(ないげはいりゅう)

まず第一に「内外廃立」です。
内とは内道、仏教のこと。
外とは外道、仏教以外のすべての宗教をいわれます。
いつの世にも宗教といわれるものはたくさんありますが、
仏教以外の宗教は、すべて真理ならざることを
教えているものであるから捨てなさい。
そして唯一救われる仏教を信じなさい。
そうしなければ絶対に魂の解決はできないし、
本当の幸福にはなれませんよということです。

いわゆる、キリスト教やイスラム教、天理教や金光教、
創価学会やオウム教、生長の家や日本神道など、
それらを一切投げ捨てて、仏教に帰依しなさいと教えられたものです。

『正信偈』に、龍樹菩薩が、

「悉能摧破有無見(ことごとくよく有無の見をさい破し)」

・・・外道をことごとく打ち破られ、

「宣説大乗無上法(大乗無上の法を宣説し)」

・・・仏教を叫ばれたとあるのは、まさに内外廃立をなされたのです。


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●聖浄廃立

次が聖浄廃立です。
釈尊の説かれた仏教といっても二つあります。
一つには聖道仏教で、例えば天台宗や真言宗、
禅宗や華厳宗などをいわれます。
もう一つは浄土仏教
本師本仏の阿弥陀如来一仏に向かって専念せよと教える仏教です。
この二つの仏教の中、聖道仏教は方便の仏教であり、
私たちの救われない教えだから捨てなさい、
浄土仏教こそが真実の仏教であるから、
一刻も早く帰依しなさい
と教示なされたのが聖浄廃立です。

むろんこれは親鸞聖人の独断ではありません。
龍樹菩薩がすでに、仏教を「難行道」と「易行道」に分け、

「顕示難行陸路苦(難行の陸路の苦しきことを顕示し)」

・・・聖道仏教では助からないぞ、

「信楽易行水道楽(易行の水道の楽しきことを信楽せしめたもう)」

・・・浄土仏教に入りなさい、と教えられていたことなのです。

●真仮廃立

第三の真仮廃立といいますのは、同じく弥陀一仏に向かい、
同じく称名念仏する浄土仏教といっても、
その中に真実の浄土仏教と仮の浄土仏教とがあるから気をつけなさいよ。
仮の浄土仏教を捨てて、真実の浄土仏教に帰依しなえれば
人生究極の目的、絶対の幸福は獲得できませんよ
、と教えられたものです。

仮の浄土仏教とは、念仏さえ称えておれば死んだら極楽へ救われる、
と教えるものです。
これらは浄土仏教でも方便の教えだから、
それらを捨て切って、信心一つで平生の時、
絶対の幸福に救い切ると誓われた、
阿弥陀仏の本願を説き切る浄土真宗の教えを求めねばなりませんよ

と教えられたものです。

それを、

「憶念弥陀仏本願、自然即時入必定
(弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に即の時必定に入る)」

・・・弥陀の本願を信ずる一念で絶対の幸福に救われますよ、

「唯能常称如来号、応報大悲弘誓恩
(ただよく如来のみなを称して、大悲弘誓の恩を報ずべし)」

・・・称える念仏はご恩報謝ですよ、と教えられているのです。


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●弥陀の本願一つを説かれた龍樹菩薩、親鸞聖人

「どの宗教にもよいところがあるものだ」
などと思っている人は、宗教を道徳か倫理と混同し、
よりよい生き方を教えるものぐらいに思っているのです。
真の宗教は、人間苦悩の根本を抜き取り、
すべての人を本当の幸福に救い切るものです。
それは、
「平生ただ今、後生暗い心を一念で破り、
何ものもさわりとならない無碍の一道、絶対の幸福に救い摂る」
と誓われた、弥陀の本願あるのみです。
この弥陀の本願を聞き開き、お約束どおり救い摂られた時にこそ、
“よくぞ人間に生まれたものぞ!この身になるための人生であった”
と躍り上がって喜ばずにおれません。
渦巻く現実のままが光明の広海に転じ、
泣いても曇らず、笑ってもふざけず、富んでもおごらず、
貧しくても卑屈にならず、愛されてもおぼれず、
憎まれてもすねず、恨みとのろいの人生を感謝と法悦で
乗り切らせていただき、
未来永遠の幸福に生き抜くことができるのです。


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●廃立肝要なり

ならばこそ親鸞聖人は『御遺言鈔』に
当流は廃立肝要なり
とおおせになり、覚如上人も、
真宗の門においては幾度も廃立を先とせり
と、廃立ほど大切なものはない、と断言されています。

徹頭徹尾、一切の不純物を払いのけ、
捨てるべきものを捨て切って、
純一無雑の他力信心を獲得せよと教えられているのが、
浄土真宗なのです。

殉教してまで伝えられた龍樹菩薩のご恩、
流刑にまで遭われながらも三重廃立に徹し抜かれた
親鸞聖人のご恩をしのび、
速やかにご教導に従わせていただきましょう。


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