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お釈迦さまや観音菩薩と、あなたも「親友」になれるのです! [親鸞聖人]

阿弥陀仏に救われると、
お釈迦さまや観音菩薩、他の諸仏方、菩薩方と
弥陀の浄土にて実際に会うことができるし、
今生で救われた時点で、親友にならせていただけることが
書かれています。
 

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(真実の仏教を説いておられる先生の書物「とどろき」から載せています。 ) 

仏言広大勝解者(仏は広大勝解の者と言い)
是人名分陀利華(是の人を分陀利華と名く)
                           (正信偈)

「仏は広大勝解(こうだいしょうげ)
の者(ひと)と言い(のたまい)」
の、広大勝解の者とは仏教の大学者のこと。
阿弥陀仏に救い摂られた人を、
釈尊(釈迦)はじめ大宇宙の諸仏方が口をそろえて、
「一切経を体で読破した大学者だ」
と称讃されるということです。

それだけではありません。次に、
「是の人を分陀利華(ふんだりけ)と名く(なづく)」
ともおっしゃっています。
分陀利華とは、白蓮華のことです。
泥沼に咲きながら、純白で、
シミ一つないきれいな蓮の華のことです。
シミ一つないとは、心の中に、
何の不安もない大安心を表します。
広大勝解者と褒められて大満足、分陀利華で
不安一つない大安心ですから、
阿弥陀如来に救われれば、
大安心・大満足の身になれるのです。

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●五種の嘉誉(かよ)

仏さまの誉め言葉を善導大師は、
詳しく「五種の嘉誉」として
次のように教えられています。

○好人(こうにん)・・・好きな人
○妙好人(みょうこうにん)・・妙なる好ましい人
○上上人(じょうじょうにん)・・上の上の人
○希有人(けうにん)・・めったにない人
○最勝人(さいしょうにん)・・最も勝れた人

信仰が徹底し喜ぶ人を妙好人といわれるのは、
ここから来ています。
こんな、はしにも棒にもかからぬ極悪人を上上人とは。
地獄より行き場のない者を大好きとは。
めったに咲かぬ白蓮華のような勝れた人だとは。
少しも褒められる値うちのない者が、
仏方からたたえられ、何と幸せなることかな。

これ皆、救いたもうた無上仏(阿弥陀如来)の
お徳による以外にありません。

●お釈迦さまが「親友」と

また釈尊(釈迦)は、
「我が善き親友なり」(大無量寿経)
と言われ、
“苦悩に満ちた世の中で、
難信の法をよくぞ聞き抜いた。
そなたこそ私の親友だ”
と手を差し伸べてくださっています。

幼なじみ、同級生、仕事の仲間、趣味の友など、
友達はさまざまですが、
親友は「喜びを倍にし、悲しみを半分にする」
といわれる、人生の貴重な財産でしょう。
つまらぬ人から親友になろうと言われても
うれしくありませんが、
世界最高の偉人、釈尊に、「私の親しい友よ」
と呼びかけていただけるとは
何という幸せでしょうか。
さらに、
「観世音菩薩・大勢至菩薩、
その勝友と為(な)りたまう」
            (観無量寿経)
とも説かれています。

観音菩薩・勢至菩薩といえば、
今日でも多くの信奉者がありますが、
この二菩薩は阿弥陀如来の脇士(わきじ)です。
脇士とは、仏に付き従い、
仏の智慧と慈悲を表す菩薩のこと。

古い寺院などで、仏さまの両脇に
菩薩が従っている三尊像を
見ることがあるでしょう。
釈迦三尊なら、釈迦如来(お釈迦さま)に
文殊・普賢の二菩薩です。

弥陀三尊像ならば、阿弥陀如来を中央に、
脇士は観音菩薩と勢至菩薩となっています。

有名人の友達を自慢する人もありますが、
こんな素晴らしい方々を友にしている人が、
皆さんの周りにあるでしょうか。
阿弥陀如来に救い摂られた人は、
観音・勢至の友達だよ、
と、釈尊はおっしゃるのです。

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●当てにならぬ人間の称讃

朝から晩まで私たちは、
“認められたい、褒められたい”
気持ちいっぱいでキュウキュウとしています。

髪型から、顔、服装、アクセサリー、靴に至るまで
寸分のスキもなくおしゃれをするのは、
羨望や称讃を求めるからでしょう。
だれか見てくれないかと
他人の視線を気にしてばかりいます。

逆に、
“オレは身だしなみなど構わない、中身で勝負さ”
と言わんばかりに、髪はボサボサ、破れた服、
ズタズタの靴を履いて見せる人もありますが、
やはり注目を浴びたい気持ちは同じでしょう。

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冗談を言って人を笑わせるのも、
勉強やスポーツに努力するのも、
多くは認めてもらいたい気持ちからではないでしょうか。
ところが、涙ぐましい苦労をして得た称讃も、
手放しで喜んではおれません。

人間の心ほど当てにならぬものはないからです。
禅僧・一休は、当てにならぬ人間の評価を、
「今日ほめて 明日悪くいう 人の口
      泣くも笑うも うその世の中」
とスッパ抜いています。

人間は皆、その人の都合で褒めます。
都合のよい時は善人、
都合が悪くなればたちまち悪人でしょう。


 
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約200年前のヨーロッパ。
イタリア、オーストリアと戦い、
連勝のナポレオンが凱旋した時のこと。
イルミネーションや旗行列、松明(たいまつ)や鐘、
祝砲など、国民の慶賀(けいが)は、
その極に達する。
部下の一人が、恭しく(うやうやしく)祝辞を述べました。
「閣下、このような盛大な歓迎を受けられ、
さぞ、ご満悦でありましょう」
意外にもその時、ナポレオンは、冷然と、
こう言っています。
「馬鹿を申すな。
表面だけの騒ぎを喜んでいたら大間違いだ。
彼らは、少しでも情勢が変われば、
またおれを“断頭台に送れ”と言って、
やはり、このように騒ぐだろう。
雷同(らいどう)の大衆の歓迎など、
当てになるものか

人の心の移ろいやすさが、
骨身にしみていたのでしょう。

とある大学での一幕。
抜き打ち試験の発表に、学生たちの顔が一斉に曇る。
“嫌な教授だ”
ところが問題が配られると、案外易しい。
“思ったよりも、いい先生かも”
評価は急上昇。
ところが、やがて返却された採点の厳しさに、
“何という意地の悪い人だ”
と今度は急降下。
成績表を手にして、予想外のよい評価に驚く。
“いい先生だなぁ”
とコロリと変わったといいます。
同じ一人の人でも、
都合が変われば「昨日の友は今日の敵」で、
コロコロ評価は変わります。

「ブタは褒められてもブタ、
ライオンはそしられてもライオン」

これも人間の称讃や
非難の無責任さを笑った言葉でしょう。
当てにならぬ人間に褒められてさえ、
うれしくて有頂天になるのですから、
間違いのない仏さまに褒められる幸福は、
比ぶべくもありません。

●親鸞聖人のたくましさ

思えば親鸞聖人ほど、波乱万丈の激しい生涯を
生き抜かれた方はないでしょう。
聖人は常に、非難中傷の的でした。
31歳の時、僧侶には固く禁じられていた結婚をなされ、
世間中から、
「破戒坊主じゃ」
「狂人じゃ」
「仏教を破壊する悪魔だ」
と八方総攻撃を受けられたことは有名です。
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しかし、すべての人がありのままの姿で
救われるのが真実の仏教であることを、
身をもって明らかにするために、
厳然として肉食妻帯を断行されました。

35歳では、新潟へ流刑になっておられます。
釈尊出世の本懐である「一向専念無量寿仏」
“阿弥陀如来一仏に向かい、阿弥陀如来だけを信じよ。
これよりほかに助かる道はないのだ”
を強調されたことが、
神信心の権力者の逆鱗に触れたからです。

最初は死刑だったのですが、
関白九条兼実公(くじょうかねざねこう)の計らいで、
越後流刑になったのです。
「偏執者(偏ったことを言うやつ)だ」
「他人の信仰をあれこれ言うな」
と疑謗の砂塵が巻き上がる中、

一向専念の義は、往生肝腑、自宗の骨目なり

“私たちが救われるかどうかは、
阿弥陀如来に一心一向になるか否かで決まるのだ。

これ一つが肝要なのだ”
と徹底して叫び抜かれたのです。

●諸仏に褒められる万劫(まんごう)の名誉

こんな親鸞聖人を知ると、
“名誉欲がなかったのだろう”
とか、
“何を言われても無頓着で平気な人だったのか”
とまで思う人があるかもしれません。
否。
聖人は、「名利の大山に迷惑している親鸞だ」
と告白されています。
“褒められたい、悪口言われたくないいっぱいの親鸞。
名誉欲が大きな山ほどあって迷惑している”
とおっしゃるのです。
ならば、どうして、あんな非難中傷の嵐の中を、
毅然として布教に突き進まれたのでしょうか。

大宇宙にまします無数の仏方から褒められる、
諸仏称讃の幸福を知れば、
その理由の一端が知らされるではありませんか。

真実の仏法は、迷いのまっただ中にある大衆に
都合のよいことは説きません。
だからこそ、真実に潔癖な親鸞聖人は生涯、
世間中からそしられたのですが、
無量の諸仏方から褒められる身に
なっておられた聖人にとって、
それらの非難は物の数ではなかったのです。

ウソ偽りのない仏に褒められるこそ万劫の名誉。
私たちも、十方諸仏に
称讃される身にならせていただきましょう。

 


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