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他力になるまで聞き抜いてください! [Q&Aシリーズ]

親鸞聖人の教えを聞き、
阿弥陀仏のお力(他力)によって
往生一定の身に救われることが
人生の目的と知りました。
そこで、さあ次のステップにと思って
努力している自分にふと思いました。
自分の努力に「自力のはからい」
があることを見たからです。
「他力」の救いなのに、これでよいのでしょうか。
                (東京都・40代男性)

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(答え)
この方と同じように「『とどろき』を読んで、
人生の目的は弥陀に救われることだと分かりましたが、
どうすれば弥陀の救いにあえるのですか

という質問も、よく届きます。
親鸞聖人は「なぜ生きる」の答えを、
生死の苦界ほとりなし ひさしく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ 乗せてかならずわたしける

苦しみの波の果てしない海に、
永らくさまよい続けてきた私たちを、
弥陀の願船だけが、必ず乗せて渡してくださるのだ

と明示されています。
「乗せて」とありますように、
私たちが船まで泳いでいき、
はじごをよじ上って乗るのではなく、
阿弥陀仏のほうから、
溺れかかっている私たちを一念で船に乗せ、
必ず浄土へ渡してくださるのです。


このように
「全く阿弥陀仏のお力によって救われる、
無条件(ただ)の救い」と聞きますと、
「求めるのは自力だからダメではないか」と
思われるかもしれません。
それなら何もせず、ただボーッとしていれば助かるのか、
となりますが、それは「他力」ではなく、「無力(むりき)」です。


そこで、他力に救われるとはどんなことか、
ますます分からなくなりますね。
これについて昔から、
三通りの「ただ」があると教えられています。
一つは仏法を聞き始めの頃。
「阿弥陀さまは“ただ”で助けてくださるそうな」
と聞いて合点している「ただ」です。
ところが仏法を真剣に聞いていきますと、
お尋ねのように、
「阿弥陀さまは“ただ”で助けてくださるというが、
“ただ”とは、どうなった“ただ”だろうか。
“ただ”が分からん」
となってきます。

聞けば聞くだけ、求めれば求めるだけ、
聞き切らない自己に驚き、火の中を突破しても、
ここ一つはと思わずにおれなくなるのです。

そして、自力間に合わなかったと、
助かる望みが断ち切られて、
無間のドン底へたたき堕とされた時、
十劫以来、呼び続けてくだされていた阿弥陀仏の御声が、
五臓六腑を貫くのです。

「“ただ”の“ただ”もいらん“ただ”であったか、
他力とは、こんな楽な世界とは知らなんだ知らなんだ」
と躍り上がるのです。

そこまで聞かせていただかなければ、
本当の「ただ」は分かりません。

弥陀はどんな者を、どのように救うと誓われているのか。
その弥陀の御心を聞かせていただくのが聴聞です。
「仏法は聴聞に極まる」
他力になるまで、他力を聞き抜かせていただきましょう。

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タグ:他力
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