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まことなのは、弥陀の本願だけ! [親鸞聖人]

印度西天之論家(印度西天の論家)
中夏日域之高僧(中夏・日域の高僧)
顕大聖興出正意(大聖興世の正意を顕し)
明如来本誓応機(如来の本誓、機に応ずることを明かす)

これは親鸞聖人が、
“インド、中国、日本の正しい仏教の先生方のおかげで、
親鸞、お釈迦さまの教え、阿弥陀如来の本願を
聞かせていただけた”
とお喜びになっているお言葉です。

そして「親鸞、更に私なし」
と90年の生涯、弥陀の本願をそのまま伝えていかれたのが
親鸞聖人でありました。

驚くべき聖人の信仰告白

このように聞くと、こんな誤解をする人があるようです。
“お釈迦さまは遠い昔の方、
ましてや弥陀の本願と言われても、
私たちには信じ難い。
だから、信頼できる仏教の先生の言葉を信ずる。
これが信仰というものだ”

“親鸞さまも、お師匠さまの法然上人が、
「弥陀の本願に間違いはないぞ」と言われるから間違いない、
と信じておられたのだろう”
ところが親鸞聖人は、全く逆の、
驚くべき信仰を表白(ひょうはく)なされています。

有名な『歎異抄』第2章の、次のお言葉で聞いてみましょう。

「弥陀の本願まことにおわしまさば、
釈尊の説教、虚言なるべからず。
仏説まことにおわしまさば、
善導の御釈、虚言したまうべからず。
善導の御釈まことならば、法然の仰せ、
そらごとならんや。
法然の仰せまことならば、親鸞が申す旨、
また以て虚しかるべからず候か」

            (歎異抄二鈔)
弥陀の本願がまことだから、
それ一つ説かれた釈尊、善導、法然の教えに
間違いがあるはずがない。
これらの方の教えがまことならば、
そのまま伝える親鸞に、
どうしてウソ偽りがあると言えるのか

聖人帰京後、関東に起きた動乱

このお言葉は、どんな時に、
どんな人におっしゃったものでしょうか。
20年間、関東で布教活動された聖人は、
還暦過ぎて故郷の京都へ帰られました。
ところが、その後の関東では、
聖人の教えを聞く人たちの信仰を惑乱する、
種々の事件や問題が起きました。

その一つが日蓮の問題です。
日蓮は、後の日蓮宗を開いた人物ですが、
この男ほど仏法をそしった者はないでしょう。

念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」(四箇格言)
と触れ回り、
「念仏称える者は無間地獄に堕ちるぞ、
禅宗の者たちは天魔じゃ、
真言宗のやつらは国を亡ぼすぞ、
律宗は国賊じゃ」
当時盛んであった仏教の宗派を、
片っ端から攻撃したのです。

仏教では、仏法をそしる謗法罪は、
大恩ある親を殺すよりも重罪であると教えられます。

真実の仏教をねじ曲げ、
そしることは、すべての人の救われる唯一の道を破壊し、
幾億兆の人々を地獄にたたき堕とすことになるからです。

もちろん、お釈迦さまの一切経のどこにも
「念仏無間」などという言葉は出てきません。
それどころか釈尊は、
臨終の父王に念仏を勧められています。
「念仏無間」は日蓮の造語にすぎません。


しかし“デタラメだ”と、
初めは相手にしていなかった関東の同行たちも、
日蓮があまりに熱狂的であったため、
「ウソも百ぺん言えばホントになる」で、
次第に信仰が動揺してきました。
“もし日蓮の言うことが本当なら大変だ”
“いやいや、念仏の教え、弥陀の本願しか助かる道はないと、
親鸞さまはいつも仰せだった。
親鸞さまに限って間違いない”
“そう信じてはいるが・・・”
“本当のところを、確かめたい”
“じかに聖人さまに、お尋ねするしかない”

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かくして関東の同朋たちは、
親鸞聖人一人を命として、京都へ向かったのです。

事は後生の一大事

当時、関東と京都の往復は60日かかったといいます。
道中、箱根の山や大井川など、
旅人の難所は幾つもありました。
盗賊や山賊もウロウロしている。
まさに命懸けの旅路であったに違いありません。

しかし、事は後生の一大事。

長生きしたところで、死なぬ身になったのではありません。
必ず飛び込まねばならぬのが後生です。
吸った息が吐き出せなければ、
吐いた息が吸えなければ、その時から後生です。
一息切れた後生、浮かぶか沈むかの一大事を解決し、
いつ死んでも極楽参り間違いなしの
大安心・大満足の身になることこそ、
“なぜ生きるか”の人生の目的であると、
親鸞聖人は教え続けていかれました。

この世、50年か70年、“どう生きるか”にさえ、
命をすり減らして、
朝から晩まで走り回っているではありませんか。

捨ててはおけぬ後生の一大事に、関東の同朋たちは、
弥陀の本願が本当に救われる道なのかどうか、
これ一つ聞きたいと、命懸けの旅を決行したのです。

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弥陀の本願がまことだから

それに対する聖人のお言葉は、
意外なものだったと言えましょう。

弥陀の本願がまことだから、
それ一つ説かれた釈尊、善導、
法然の教えに間違いがあるはずがない。
これらの方の教えがまことならば、
そのまま伝える親鸞に、
どうしてウソ偽りがあると言えるのか

これでは話が逆さまではないか、
とクビをひねる人もあるでしょう。
なぜかといえば、「弥陀の本願(念仏)に疑いが起きて、
言われるとおりに「本願」が“まことかどうか”
を確かめに来ている人たちに、
「弥陀の本願」は「まことなのだから」という大前提で
語られているからです。

この大胆な逆説的な断言は、何を意味し、
どのような体験からなされたものなのでしょうか。

まことなるかなや、歓喜の叫び

親鸞聖人は29歳の時、法然上人のお導きによって、
信心決定なされました。
信心決定とは、弥陀の本願に救い摂られたことをいいます。
弥陀の本願とは、
「後生の一大事を解決して、“極楽へ必ず往ける”
大安心・大満足の身にしてみせる」
という、本師本仏の阿弥陀如来のお誓いです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ある男が表を通りかかると、
道ばたの家で自分のうわさをする者がいる。
「あの男は怒りっぽくて、手が早くてね。
それが彼の欠点だよ」
「へえ、それは本当か」
男は、いきなり家に飛び込んで、
「何でオレが短気で手が早いもんか。
でたらめ言うな」
とみんなの頭をポカポカ殴りつけた。
なるほどうわさにたがわぬ男だと、
一同ハッキリしたといいます。

友人に貸した大金が返った時に、
“彼の誓約は本当だった”と、
それまでの疑いは晴れるように、
弥陀のお約束どおり、“必ず浄土へ往ける”
と大満足の身になられた聖人は、

誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法
             (教行信証)

と仰っています。
「摂取不捨の真言」も「超世希有の正法」も、
ともに弥陀の誓願のことですから、
このお言葉は、
まことだった!本当だった。
弥陀の本願にウソはなかった”
という、弥陀の本願に、
ツユチリほどの疑心もなくなった聖人の、
真情あふるる歓喜の叫びなのです。

さらに、こうも断言されています。

煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、
万のこと皆もって空言・たわごと・真実あること無きに、
ただ念仏のみぞまことにて在します(おわします)」

             (歎異抄)

いつ何が起きるか分からない火宅無常の世界に住む、
煩悩にまみれた人間のすべてのことは、
そらごとであり、たわごとであり、まことは一つもない。
ただ念仏(弥陀の本願)のみがまことなのだ

聖人には、弥陀の本願のほかに、
まことはありませんでした。

「念仏のみぞ、まことにて在します」は、
「本願のみぞ、まことにて在します」
を言い換えられただけです。
弥陀の本願以外に、この世に確かなものは何もない、
鮮明不動の世界に出られた聖人には、
「弥陀の本願はまことだから・・・」と、
何のためらいもなく言えたのでしょう。

「弥陀の本願まこと」が、常に聖人の信仰の原点であり、
大前提なのです。

●信前・信後で、大間違い

ところが、関東の同行にとっては、
最も間違いないのが親鸞聖人、
いちばん信じられないのが弥陀の本願。

まるっきり反対です。

弥陀に救われる前、信前は、
本願ではなく人を信じているのです。
だから、その人に間違いがあれば、
信心が全部崩れてしまいます。

関東の同行は、
“親鸞さまのおっしゃる弥陀の本願だから、間違いなかろう”
と信じているから、
「念仏無間じゃ!おまえらは親鸞にだまされているんだ」
と言われると、信仰が動揺したのです。

それに対して、弥陀に救い摂られたあと、
信後の心は、絶対に間違いない弥陀の本願の上に
立っていますから、崩れることがありません。

親鸞聖人は、
“法然上人が間違いないと言われる弥陀の本願だからまことだ”
と信じ教えられたのではありません。
法然上人のご教導を通して、
そのまま救う
という阿弥陀如来のじかの呼び声を聞き
「まことなるかな!弥陀の本願」
と、不倒の仏地に心を立てられたのです。

だから、かりに、お釈迦さまが実在の人でなかったとしても、
善導大師が間違い者だと立証されても、
法然上人はうそつきだと非難されても、
何がどのようになろうと、
弥陀の本願に対する疑心は、
兎の毛(うのけ)の先で突いたほども出ることがないのです。

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金剛の信心を獲得せよ

これを金剛の信心といわれます。
金剛石といえばダイヤモンド。
これ以上硬いものはありません。
硬いということは変わらないということ。
金剛心とは、何があっても微動だにしない心です。
迷った人間の言葉ぐらいでぐらつくような信心では、
臨終のあらしの前に吹き飛ぶのだぞ。

だが、日蓮を縁に、金剛の信心でなかったことが
知らされたのは喜ぶべきことだ。
ニセの信心を破り捨ててこそ、
真実の信心獲得まで進ませていただけるのだから、
そこまで求め抜きなさいよと、
親鸞聖人はご教示になっています。

聖人のお言葉に従い、
永遠不滅の「弥陀の本願まこと」に心を立て、
金剛不壊(こんごうふえ)の信心を
獲得させていただけるよう、
聞法精進させていただきましょう。


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