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悔いのない人生の選択 [なぜ生きる]

何もかもが華やぐ春。
「第2の人生」「新たな出発」を迎える季節ですね。

「未来をよりよくしたい」
それは、年齢や境遇に関係なく、
誰もが抱く思いでしょう。
そんなあなたに仏教は、
「限りなく明るい未来」を約束しています。
そのための「悔いなき選択」とは何か。
親鸞聖人にお聞きしましょう。

①モーレツに働いて、何が残った?
②尺取り虫と流転輪廻
③人生には“歓喜の決勝点(ゴール)”がある

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モーレツに働いて何が残った?
       ある読者の仕事人生

定年まで仕事に明け暮れたという愛知県の
杉本徳男さん(本誌読者)は、こう述懐しています。
「45年間、一生懸命働いてきたが、何も残っていない。
60を過ぎて80まで生きられるとすると、あと20年。
このまま死んでいくだけなのだろうか・・・。
何か心のよりどころが欲しい」
これは、ひとり杉本さんだけのタメ息でしょうか?

●“毎日残業”の45年間

愛知県碧南市に生を受けた杉本さんは、
中学卒業後すぐに、地元のトヨタ系の
自動車部品製造会社に就職した。
材料の発注と受け取りの仕事。
万が一、納品が遅れると、何千万もの違約金が課せられるため、
発注には神経を使ったという。
生産量のノルマも高く、月に7、80時間の残業もざら。
昭和40年代には120時間を超えることもあった。
朝7時から夜11時過ぎまで、ほぼ毎日残業だった。
それでも“働かなければ儲からない”とモーレツに働き続けた。
現場のミスで残りの材料がわずかになった時は、
自ら4トントラックのハンドルを握って
材料の会社まで往復する。
納期が守れない下請けには、足を運んで具体的な指示を出し、
改善を促した。
「現場を離れた今でも時々、『まずい!間に合わない』
と、絶望的な気分で目を覚ますことがあるんですよ」

入社20年を過ぎた頃、
杉本さんは静岡の関連会社に出向した。
愛知の自宅から、電車で往復4時間。
毎日、始発に乗らなければ間に合わない。
まだ眠るわが子に「行ってきます」と告げ、
帰宅して会うのも寝顔。
家族との時間はほとんど取れなかったが、
「これも3年間だけだ」と辛抱した。
ところがその3年目、突然、「もう一年頼む」と打診され、
やむなく承諾した。
さらに一年の出向先通いの後、ようやく戻れた時、
「後輩には、出向の延長はないように」
と意見を具申したのがあだとなり、
上司の心証を悪くした。
「本や通信講座で学んだことを生かし、
生産効率改善の提案をしても、
なかなか取り合ってもらえず、
待遇にも恵まれませんでした。
組織に生きる厳しさをいたくかみしめましたね。
『これも家族のため・・・』と割り切るまでが大変でしたが、
忍の一字で、苦労の先にきっと幸せがあると
信じて勤め上げました」
と杉本さんは当時を振り返る。

第二の人生どう過ごす!?

永年勤め上げて定年を迎え、
“やり切った”と来し方を振り返りつつ、
第2の人生に向け、
新たな出発を迎えている方もあるでしょう。

「定年後の自由な時間」について、
ある人がこう言っています。
“現役時代、週休2日で40年勤めた人の
過ごした休日は4400日。
60歳で退職し、80歳までの20年間は7300日。
定年後の方が圧倒的に時間が多いのです。
この時間を上手に活用し、
充実した第2の人生を過ごせるかどうか、
それが問題です”
引退とともに自由な時間を手にしたといっても、
少々の無茶もできた若い頃と違い、
経済や健康などあらゆる面で、
不測の事態に備えねばならなくなります。
人生は有限であり、終末を意識すれば、
残された時間はそう多くはない。

その中で、悔いなき選択をどうすればよいのか。
仕事一筋に過ごしてきた杉本さんは、
冒頭のような人生の疑問から、
「聞法のつどい」の案内チラシを縁に仏法と出遇いました。

杉本さんはこう言います。
その日は、『世界の光・親鸞聖人』
のアニメーションを見せていただきました。
『この世はどうにもならない。
阿弥陀仏は死んだら極楽に助けてくだされる』
と説いた兄弟子・善慧房証空に、
『親鸞は、ただ今、救いたもうた本願を、
喜んでおります』と弥陀の本当の救いを明らかにされた
聖人のお言葉にびっくりしました。

この世で救われる?生きている今、
弥陀の本願に救い摂られるということがあるのか
と、
聖人の、確固たる信念と、深い学問に感動しました」

「現在ただ今、未来永遠の幸福に救われる」
これこそが人生の目的と親鸞聖人は仰るのです。
では、未来永遠の幸福とは、どんな幸福なのでしょうか。


尺取り虫と流転輪廻の人生
      結局、死ぬのになぜ生きる?

平凡な毎日が飛ぶように過ぎる中、
ふと我に返り「なぜ生きる」という問いに
目覚めることがあります。
前段の杉本さんのように、
「一生懸命働いてきたが、何も残っていない」
と、漠然とした思いに沈む人も少なくありません。

その、もやもやした心の出どころはどこにあるのでしょうか。

「生命の歓喜」ありますか?

ある50代女性向け雑誌に、
「自由もある。夢もある。でも不安もある」
というキャッチコピーがありました。
仕事や子育てを終え、やっと手にした自由な時間を、
若い頃できなかった趣味や芸事に
使いたいと考える人も多いでしょう。
ところが、しばらくやっても次第にむなしくなり、
後が続かなくなったという話をよく聞きます。

夢や目標を達成した満足感は一時的で、
やがて単なる記憶に変色します。

そんな目標だけを追い続ける一生は、
どうなるでしょう。
目標を果たせば「達成した」という一時の満足はあっても、
時間とともにまた薄れ、またスタート地点に逆戻り。
「今度こそ・・・」と、さらなる労苦が始まります。

一点の周りをグルグル回るのみで、
「人間に生まれてよかった」という生命の歓喜には
永久にたどり着けません。
考えてみれば、これは悲劇です。

安心・満足というゴールがなく、
果てしなく同じ所を回り続けて苦しむさまを、
仏教で「流転輪廻」といわれます。

流転も輪廻も、車の輪が回るように
苦しみから離れきれないこと。

人生の本質は「流転輪廻」であることを、
中国の曇鸞大師は、
「しゃっ蠖の循環するがごとし
」(浄土論註)
と例えられています。
しゃっ蠖(かく)とは尺取り虫です。
以前、円い桶に突き当たった尺取り虫が、
桶の周りをはっているのを見たことがあります。
伸びたり縮んだり、虫は虫なりに一生懸命ですが、
いつまでも桶を回り続けている姿には、
何とも言えぬ悲哀を覚えました。

仏教では人間もこの尺取り虫と同じだと
説かれているのです。

虫と同じ?そんなバカな、
と思われるかもしれませんが、

人生は
食て寝て起きて クソたれて
子は親となる 子は親となる

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●「火鉢の縁を回る尺取虫」


アニメーション『世界の光・親鸞聖人』第四巻には、
火鉢の縁を回る尺取虫が描かれています。
親鸞聖人の教えを聞いた猟師の日野左衛門は、
この尺取虫を見て、
「なぜ生きるか知らない自分の姿と同じだ」
と気がつきます。
人間が尺取虫と違うのは、
虫は同じ所を回っていることさえ気づきませんが、
人間はそれに気づき、「なぜ生きる」の答えを
求めることができる点でしょう。

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越えなばと
思いし峰に きてみれば
なお行く先は 山路なりけり

毎日毎日、食て寝て起きてを繰り返し、
子は親となって、あっという間にじいさん、ばあさんとなる。

その間、受験や就職、結婚、マイホーム、ローン返済と、
「この坂を 越えたなら
しあわせが 待っている」
と信じて、幾つ坂(目標)を越えてきたことか。
果たして心からの幸せは得られたでしょうか。

どれも人生のゴールではなく、
一時の通過点ではなかったでしょうか。
どこまで頑張っても本当の満足に届かない、
そんな人生を「しゃっ蠖の循環するがごとし」
と言われているのです。

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なぜ、夢を実現しても
          むなしいのか

なぜ、夢を実現してもむなしいのか。
その根っこはどこにあるのでしょう。
作家の猪瀬直樹氏(前東京都知事)は、こう述べています。

毎日があわただしくて、
なにかどこかに忘れ物をしてきたように感じてしまうのは、
仕事が忙しいという理由だけだろうかーー。
疲れが躯の芯にたまって消えないのは、
いつも妻や子供のことなどなにくれとなく
考えているせいなのかーー。
どれもこれもそのとおりだが、
それだけではない。

本当は身近に枯れ葉のようにおびただしい死が
累積していることに見て見ぬふりをしているからである

             (死を見つめる仕事)
何をやってもむなしさが消えず、
流転輪廻を果てしなく繰り返しているのが
私たちの実態ですが、その根本原因を、
親鸞聖人はこう明らかにされています。

還来生死輪転家(げんらいしょうじりんてんげ)
決以疑情為所止(けっちぎじょういしょし)」

        (正信偈)
生死輪転の家に還来することは、
決するに疑情を以て所止と為す

“苦しみ悩みに果てしがないのは、
疑情(無明の闇)一つが原因である”

「生死輪転」も「流転輪廻」も意味は同じ。
家を離れては生きられないから、
離れ切れない苦しみを「家」に例えられ、
そんな苦しみの世界を行ったり来たりしていることを聖人は、
「生死輪転の家に還来する」
と仰っています。
これは、この世だけのことではありません。
私たちは果てしなく遠い過去から生死、生死を繰り返し、
水車が回るように六道(迷いの世界)を輪廻していると
仏教では説かれているからです。

今の流転は、永久の流転になるのです。
その果てしない流転の元凶を、
親鸞聖人は次に、
「疑情一つ」
とキッパリ仰っています。

「決するに」「所止と為す」の断言には迷いがありません。
疑情とは「無明の闇」ともいわれ、
「なぜ生きるか分からない、
死んでどこに行くのかも分からない後生(死後)暗い心」
をいいます。
この「無明の闇(疑情)」こそが、昿劫流転の元凶であると、
聖人は断定されているのです。

そして苦しみの根元であるこの闇は、
弥陀のお力によって必ずブチ破られる、
と親鸞聖人は教えられています。

次章で、無明の闇を破られた聖人の、
悔いなき人生へのメッセージをお聞きしてみましょう。

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人生には
“歓喜の決勝点(ゴール)がある”

           
親鸞聖人の断言

前章で、親鸞聖人は、苦悩の根元は
生きる目的の分からぬ「無明の闇」であると
教えられていることを明らかにしました。

その闇の心がハッキリと晴れることがあるのだ、
と聖人は教えられています。

不可思議な弥陀の誓願

人はなぜ生きるか。
この問いにもだえ苦しまれた親鸞聖人は、

生きる目的が分からぬ闇の心が晴れた!と仰っています。
それは、阿弥陀仏という仏さまのお力によってであったと、
その喜びを著書の至るところに書き記されています。
そして、
ご自身だけでなくすべての人に
“この無明の闇が破れ、生まれてきてよかった、
生きてきてよかった、人生の大目的果たしたぞ!
と踊躍歓喜する決勝点がある”と教えられているのです。

有名な『歎異抄』第一章には、次のように仰っています。

弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて
往生をば遂ぐるなり」
と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、
すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。

(“すべての衆生を救う”
不思議な阿弥陀如来の誓願の力によって救われ、
疑いなく弥陀の浄土へ往く身となり、
念仏称えようと思いたつ心のおこるとき、
摂め取って捨てられぬ絶対の幸福に生かされるのである

「弥陀の誓願」とは、阿弥陀仏という仏のお約束のことです。
阿弥陀仏とは、大宇宙に無数にまします
諸仏方の先生の仏さまです。

どこから来て、どこへ行くのか。
何のために生まれ、生きているのか。
肝心のことが何も分からぬまま、
またしても迷い苦しみの闇に沈まんとしている私たちを、
本師本仏の阿弥陀仏は
何とか助けてやりたいと大慈悲心をおこされた。
そして、すべての人の苦悩の元凶である無明の闇を破り、
必ず摂取不捨の利益(絶対の幸福)に救うと
約束なされたのです。

これを阿弥陀仏の誓願、または本願といわれます。

それは私たち人間の想像もつかぬことですから、
親鸞聖人は、
「弥陀の誓願不思議」
と言われています。

その不思議な弥陀の誓願に救われ、
無明の闇が破られたことを親鸞聖人は、
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて」
と言われたのです。

救われたらどうなる?
   水際立った救い

では、弥陀に救われ無明の闇が破れたらどうなるか。
疑いなく弥陀の浄土へ往く身となります。

いつ死んでも、往生極楽間違いなしと
心がハッキリいたします。
一息一息が摂め取って捨てられぬ
絶対の幸福に生かされるのです。

しかし親鸞聖人も、阿弥陀仏の誓願を
明師・法然上人から聞かせていただいても、
救い摂られるまでは
「本当だろうか」
「そんなことあるのだろうか」
との疑いに苦しまれました。

アニメーション『世界の光・親鸞聖人』第1巻には、
その聖人の苦衷(くちゅう)が描かれています。
暗い心(無明の闇)を晴らしたいと、
9歳から20年間聖人は、
比叡山(天台宗)でご修行なされましたが、
一向に解決のメドがつかず、堂々巡り、
流転輪廻の求道に行き詰まられました。
比叡山の教えに絶望された聖人は、下山後、
京都で法然上人と邂逅(かいこう)、

無明の迷闇(めいあん)を破り
絶対の幸福に救うと誓われた弥陀の本願を聞かれ、
雨の日も風の日も、
火のつくような聞法求道をなされました。

それでもしかし、闇は破れず、
親鸞聖人は師の法然上人に、弥陀の本願に対する
疑い(疑情)を告白されています。

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親鸞聖人 「阿弥陀仏の一声で、晴れて満足できると
      仰せられますが、聞いても聞いても、
      その一声が聞けません。親鸞の心は晴れません。
      仏法を聞いている時も、思ってはならないことが思われ、
      考えてもならぬことが浮かびます。
      一向専念無量寿仏どころか、雲のごとく、
      疑いが湧き上がってまいります。
      こんな心のままで、臨終を迎えるのかと思えば、
      ただ恐ろしいばかりでございます

      

阿弥陀仏のお約束に対する疑いは、なくなるどころか、
ますます湧き上がり七転八倒されたのです。
その聖人に、法然上人は厳しく仰る。

法然上人 「親鸞よ。形の上で捨てたつもりではだめじゃ。
      無始より迷わせ続けた自力我慢の親玉は、
      そんな生ぬるい聞き方では、聞かないぞ!
」(中略)

親鸞聖人 「親鸞の心は、ただ暗い・・・、
      それだけでございます。
      暗さも分からぬ、真っ暗がりでございます

果たして、聖人の疑情(無明の闇)は、
南無阿弥陀仏の宝を賜った一念に破れ、
明信仏智、破闇満願、極楽往生間違いない身に
ハッキリ救われたのです。

●“弥陀の本願まこと”
    疑い晴れた世界

私たちが南無阿弥陀仏を賜る、
何億分の一秒よりも速い時間の極まりを一念といいます。
その一念に、疑情が破られるのだと蓮如上人は『御文章』に、
こう教えられています。

「この大功徳を一念に弥陀をたのみ申す我等が衆生に
廻向しまします故に、
過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、
正定聚の位また等正覚の位なんどに定まるものなり」

南無阿弥陀仏の大功徳を、弥陀より賜る一念に、
過去・現在・未来の三世を流転させる元凶である疑情が
晴れわたり、いつ死んでも往生成仏間違いない
正定聚・等正覚の位にハッキリ定まるのである。

一念発起・入正定之聚
(いちねんぽっき・にゅうしょうじょうしじゅ)」

あっという間もない一念に、
いつ死んでも極楽参り間違いない、
正定聚不退転の身(絶対の幸福)になるのである

友人に貸した大金が返った時に、
“彼の誓約は本当だった”と、
それまでの疑いが晴れるように、
「助ける」という約束に対する疑いは、
「助かった時」に破られます。

摂取不捨の利益(絶対の幸福)という
弥陀の本願に対する疑い(疑情)は、
摂取不捨の利益を受け取った一念に消えてなくなります。

必ず浄土へ往ける”
と大満足の身にさせていただけますから、
「弥陀の誓願まことだった」
とハッキリするのです。

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弥陀に救われた驚きと歓喜を、
親鸞聖人は『教行信証』冒頭にこう記されています。
誠なるかなや、
摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ

        (教行信証総序)
誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」
とは、誠だった、本当だった、
弥陀の本願ウソではなかった
ということです。
「摂取不捨の真言」「超世希有の正法」
とは、ともに摂取不捨(絶対の幸福に救う)
の阿弥陀仏の本願のことです。

●「逃げまわる者を
     必ず救う」

「摂取」の「摂」は、逃げ回る者を追いかけて
捕らえるという意味がある。
欲に引きずられて、仏法に背を向け、逃げ回っている私を、
弥陀は追いかけ、追い詰め、救い摂るということです。
心は、家へ会社へ恋人へと娑婆じゅう飛び回り、
仏法を聞く気がありません。
そんな私を逃がしてなるかと弥陀は、逃げ場を封じ、
ついに一念で絶対の幸福に摂取して、
いつ死んでも往生極楽間違いない、
大安心の身にしてくださるのです。

絶対に捨てられない幸せになれますから、“不捨”です。

仏や神にすがり、信ずる者を救うというのが、
一般の宗教ですが、
信ずる心も念ずる心もなく、
背を向けて逃げ回っている者を、
追いかけて救い摂ってくだされるのは、
弥陀一仏だけですから、
「超世希有の正法」とも言われます。

世の常識を超えた、二つとない大本願なのです。
『正信偈』には、
「阿弥陀仏は、無上殊勝の願を建立し、
希有の大弘誓を超発された」
と讃嘆されています。
何もかも当てにならぬ、空事・たわごとばかりの世に、
たった一つの真実があるぞ、
この弥陀の本願を聞き抜き、
本当の幸せになることこそ人生の目的なのだ
と、
親鸞聖人は教示されているのです。

では、どうすれば摂取不捨の利益を頂くことができるのか。
聖人は、

聞思して遅慮することなかれ」。
聞く一つで救われるから、手遅れにならぬよう、
どうか命のあるうちに、皆さん早く聞き抜いてくださいよと、
必死に勧められています。

弥陀の救いは断じてぼんやりしたものではありません。
火に触ったようにハッキリいたします。
ハッキリ救われるまで、急ぎ聞き求めてください。
聞法の場に足を運ぶことです。
必ず広大無辺な世界がひらかれます。

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現在、杉本さんは毎月、「聞法のつどい」に参加して
親鸞聖人の教えを学びながら、
法の友といきいきとした毎日を過ごしている。
「あれからすぐに聖人のアニメを求め、
出てくるお歌やお言葉などを、
映像を止めてノートに書き写し、勉強しています。
「仏法は聴聞に極まる」のお言葉どおり、
これからも聞法に励み、
聖人の教えを聞かせていただきたいと思います


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cheese999

おはようございます!
by cheese999 (2014-04-12 07:21) 

minsuke

おはようございます。
書き込みありがとうございました。
by minsuke (2014-04-13 06:05) 

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