間違った信心では不幸になる、正しい崩れない信心を持てよ! [なぜ生きる]
(真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」から載せています)
浄土真宗の勤行で拝読する『正信偈』は、
親鸞聖人が一字一涙の御心で書き遺されたものです。
『正信偈』とはどんなお聖教なのか、学びたいと思います。
漢字ばかりで書かれているためか、
『正信偈』を「お経」だと思っている人があります。
あるテレビ番組でも、100歳のおばあちゃんが
『正信偈』を元気に拝誦するシーンで、
字幕には「お経を読む、○○さん」
と紹介されていました。
「正信偈はお経」が常識になっているからでしょう。
しかし、それは誤りです。
『正信偈』はお経ではありません。
まずその違いから、お話する必要がありそうです。
「お経」は、お釈迦さまのご説法を、
弟子が書き残したものです。
正式には「仏説○○経」と命名されています。
「仏説」とは「仏さまが説かれた」の意で、
「仏さま」とは、お釈迦さまのこと。
約2600年前、インドに現れたお釈迦さまが、
35歳で最高無上の「仏」というさとりを開かれてから、
80歳でお亡くなりになるまでの45年間、
仏として説いていかれた教えを今日、
「仏教」といわれます。
その教えのすべては、「一切経」に書き残されており、
これがいわゆる「お経」といわれるものです。
その数は七千冊余りという膨大なものですが、
どのお経にも、「仏説大無量寿経」「仏説阿弥陀経」など、
「仏説」と冠されているのは、
「お釈迦さまが説かれた」ことを表しています。
それに対して『正信偈』は、
親鸞聖人の書かれたものです。
「帰命無量寿如来 南無不可思議光」
で始まり、
「道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説」
で終わる『正信偈』は、
一行七文字、百二十行で八百四十字。
「なんとか伝えたい。知ってもらいたいことがある」
と、親鸞聖人が泣く泣く筆を執られた、
一字一涙の『正信偈』には、
聖人90年の教えのすべてがおさまっています。
その『正信偈』を、多くの人が「お経」だと思っているのは、
漢字ばかりで、しかも棒読みのように聞こえるからでしょう。
しかし『正信偈』の「偈」とは、「うた」ということで、
読経とは異なり抑揚がつけられているのです。
このように、お釈迦さまの説かれた「お経」と、
親鸞聖人のお書きになられた『正信偈』とは、
違うことがお分かりでしょう。
では『正信偈』には、何が書かれているのでしょうか。
親鸞聖人が私たちに、なんとしても知ってもらいたいこと、
とは何だったのか。
名前に「正信」とあるように、
それは「正しい信心」ひとつでした。
●「オレは何も信じていないよ」は、ありえない
「信心」と聞くと、自分とは何の関係もないことだと
思われている人もあるかもしれません。
しかし、私たちは何かを信じなければ、
一日たりとも生きてはいけないのです。
例えば、明日も生きていられると、
命を信じて生きています。
だからこそ、明日は彼女と会う、
ディズニーランドに行くと、
予定を決めているのです。
また、いつまでも元気でいられると、
健康を信じています。
「人間ドックでも、異常は見つからなかったから」
と、診断結果を見て安心しています。
夫は妻を、妻は夫を信じ、
子供は親を、親は子供を信じて生きております。
「不幸の全ては金で解決できる」という金の信心もあれば、
名誉や地位の信心もあります。
才能が学歴を自負したり、資格を当てにする人もいます。
「宗教はアヘンだ」と否定するマルキストも、
共産社会こそ理想と「信じて」いる人たちです。
ある文化人類学者が指摘しているように、
「経済成長が私たちの幸せをもたらす」
と思っているのは「経済成長教」という宗教の信徒であり、
テストの点数のみで人間の優劣を決め、
GDPや年収などの数値こそが「豊かさ」の指標だ、
と信じているのは「数字信仰」でしょう。
このように、神や仏を信ずるだけが、
信心ではありません。
「オレは何も信じない」「だれも信用していない」という人も、
そんな「信念」で生きている人です。
“イワシの頭も信心から”といわれるように、
何かを信じておれば、それはその人の信心なのです。
何を命として信ずるかは一人一人違いましょうが、
すべての人は何かの信心を持って生きている。
「生きる」ということは、イコール「信ずる」ことだ、
ということです。
●苦しみ、悩み、怒り、悲しみの原因は
ところが私たちは、信じていたものに裏切られたときに、
苦しみ悩みます。
失恋の苦しみは、恋人に裏切られたからです。
その怨恨で相手を殺害したり、
自殺するほど深刻なケースもあります。
子供に老人ホームに入れられ、
「一度も会いに来てくれない」と泣くのは、
命と信じて育てた子供に裏切られたからでしょう。
バブルが崩壊し、何億という資産が
借金に変わった人の懊悩は、
「経済成長教」の信仰が絶望に転化した結果、といえます。
悪徳商法やリフォーム詐欺に引っかかり、
「老後の蓄えを取られた」
と途方に暮れる人も後を絶ちません。
「うまい儲け話なんかあるものか」
と警戒していたはずなのに、
きれいなパンフレットを見せられ
言葉巧みに説得されると、
もとより人間は儲けたい欲一杯、
「この人なら大丈夫」「チャンスだ」
と思ってしまうのでしょう。
「だまされた!」と気がついた時は後の祭り、
やり場のない怒りや後悔も、
「信じた」のが原因とはいえないでしょうか。
病気になると、健康に裏切られたことで苦しみます。
肉体的苦痛も酷いですが、検査で「ガンの疑いがある」
と医者から言われただけでも、
足元が崩れるようなショックを受けるといわれます。
「まさか、節制しているオレが」の健康信心、
「いつまでも生きていられる」という命の信心は、
自覚はなくても、実に根深いものがあるのです。
しかも深く信じていればいるほど、
それらに裏切られた時の悲しみや怒りは大きくなります。
私たちは決して苦しんだり悲しんだりするために
生まれてきたのではありません。
生きているのでもありません。
幸福を求めて生きているのです。
では、裏切らないものを信じて、
私たちは生きているでしょうか。
たとえ70年、80年信じられるものがあったとしても、
私たちは最後、死なねばなりません。
いよいよ死んでいかねばならない時には、
信じていた家族や、お金や財産、名誉にも裏切られ、
最も大事なこの肉体さえも
焼いていかなければなりません。
お釈迦さまの『雑阿含経』に説かれている、
「3人の妻」という喩え話は有名です。
■ ■ ■ ■
昔、ある金持ちの男が3人の妻を持って楽しんでいた。
第一夫人を最も可愛がって、
寒いと言っては労わり(いたわり)
暑いと言っては心配し、
ゼイタクの限りを尽くさせ
一度も機嫌を損なうことはなかった。
第二夫人は、それほどではなかったが、
種々苦労して、他人と争ってまで手に入れたので、
いつも自分のそばに置いて楽しんでいた。
第三夫人は、何か寂しい時や、悲しい時、
困った時だけ会って楽しむ程度であった。
ところがやがて、その男が不治の病床に伏すようになった。
刻々と迫りくる死の影に恐れおののいた彼は、
第一夫人を呼んで心中の寂しさを訴え、
ぜひ死出の旅路の同道を頼んだ。
ところが、
「ほかのことと違って、
死の道連れだけはお受けすることはできません」と、
すげない返事に男は絶望のふちに突き落とされた。
しかし、寂しさに耐えられぬ男は、
恥を忍んで第二夫人に頼んでみようと思った。
「貴方があれほど、かわいがっていた第一夫人さんでさえ、
イヤとおっしゃったじゃありませんか。
私もまっぴらごめんでございます。
貴方が私を求められたのは、貴方の勝手です。
私から頼んだのではありません」。
案の定、第二夫人の返事も冷たいものであった。
男は、恐る恐る第三夫人にすがってみた。
「日ごろのご恩は、決して忘れてはいませんから、
村外れまで同道させていただきましょう。
しかし、そのあとはどうか、堪忍してください」
と突き放されてしまった。
男というのは、すべての人間のことである。
第一夫人は肉体、
第二夫人は金銀財宝、
第三夫人は父母妻子兄弟朋友
などを喩えたのだ。
今まで命にかえて大事に愛し求めてきた、
それら一切のものから見放され、
何一つあて力になるものがなかったことに驚き悲しむ、
これが人間の実相なのである。
■ ■ ■ ■
やがて必ず裏切るものを信じているから、
苦しみ悩みが絶えないのだ、
本当の幸福になりたければ、
絶対に裏切ることのない正しい信心を持ちなさいよと、
親鸞聖人は教えられているのです。
●「正しい信心」は、たった一つ
『正信偈』の「正」という字は、
「一に止まる」と書きます。
正しいものは一つしかないということです。
二つも三つもあるものではありません。
そのただ一つの正しい信心を、
親鸞聖人が明らかになされたのが『正信偈』です。
ですから親鸞聖人は、
「なんでもかんでも、その人がいいと思っていたものを
信じて生きていけばいいのだ」
などとは、決しておっしゃっていません。
「正しい」信心があるということは、
そうでない信心がある、ということ。
すなわち、迷信、邪信、偽信といわれるものです。
それら間違った信心は、
必ず裏切られて苦しまねばなりません。
皆さん、一日も早く
「正しい信心」「真実の信心」を獲得して、
死の巌頭(がんとう)にも崩れない
「絶対の幸福」に救い摂られてくれよ、
と念じ、叫び続けていかれた方が親鸞聖人なのです。
その「正しい信心」一つを明示されたのが
『正信偈』であり、
冒頭の、
「帰命無量寿仏如来
南無不可思議光」
の二行は、聖人ご自身が、その「正信心」を獲得された
生々しい感動、喜びの体験を告白されたお言葉なのです。