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念仏はお礼であって、称えても救われない! [信心決定]

憶念弥陀仏本願(弥陀仏の本願を憶念すれば、)
自然即時入必定(自然に即の時必定に入る、)
唯能常称如来号(唯能く常に如来の号を称して、)
応報大悲弘誓恩(大悲弘誓の恩を報ずべし、といえり。)
           (親鸞聖人・正信偈)
親鸞聖人が、尊敬する七高僧の第一、
龍樹菩薩の教えを述べておられるところです。

「弥陀仏の本願を憶念すれば、
自然(じねん)に即の時必定に入る」とは、
「阿弥陀仏の本願を信ずれば、
弥陀のお力によって、一念で必定に入る」
ということです。
これを蓮如上人は、
「一念発起・入正定之聚」 (聖人一流の章)
“一念で正定の聚(じゅ)に入る”といわれています。
一念とは、弥陀に救い摂られる、
アッともスッとも言う間のない短い時間のことです。
「必定に入る」とは、必ず仏に成ることに定まること。
「正定聚に入る」も、間違いなく仏のさとりを
開くに定まった人たちの仲間入りをすることです。

弥勒菩薩と肩を並べる身に

それは、弥勒菩薩と肩を並べる身になることであり、
いつ死んでも浄土に往生できる大満足の身になることだよ、
と親鸞聖人は『教行信証』に教えられています。
その驚くべきお言葉を聞いてみましょう。

真に知んぬ。
弥勒大士は、等覚の金剛心をきわむるがゆえに、
龍華三会(りゅうげさんえ)の暁、
まさに無上覚位をきわむべし。
念仏の衆生は、横超の金剛心をきわむるがゆえに、
臨終一念の夕、大般涅槃(だいはつねはん)を超証す

              (教行信証)
「本当にそうだったなぁ!
あの弥勒菩薩と、今、同格になれたのだ。
全く弥陀の誓願不思議によってのほかはない。
しかもだ。
弥勒は56億7000万年後でなければ、
仏のさとりが得られぬというのに、
親鸞は、今生終わると同時に浄土へ往って、
仏のさとりが得られるのだ。
こんな不思議な幸せが、どこにあろうか

「真に知んぬ」とは、
「あまりにも明らかに知らされた」驚嘆の叫びでありましょう。
弥勒大士」とは、仏のさとりに最も近い、
等覚というさとりを得ている菩薩のことです。

仏教では、凡夫が仏覚に到達するまでに、
五十二段のさとりの位があり、しかもその間、
三大阿僧衹劫の長い修練が必要だと説かれています。

一位から四十一位までに第一阿僧衹劫、
四十一位から四十八位までに第二阿僧衹劫、
そこから五十二の位に成るまでに第三阿僧衹劫かかるとあります。

阿僧衹劫(あそうぎこう)とは
億兆よりも数十桁高い桁の名ですから、
大変な長期間です。

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その五十一段まですでに上り、
釈尊の次に仏のさとりを開いて現れる、
釈迦の後継者といわれるのが弥勒菩薩です。

そのため今でも弥勒信仰の人は決して少なくありません。

ところが驚くことなかれ。
親鸞聖人は、弥陀の本願を憶念した一念で、
その弥勒と同等になったとおっしゃっているのです。

「念仏の衆生」とは、弥陀の本願を憶念した人であり、
聖人ご自身のことを言われています。
「横超の金剛心をきわむる」とは、
他力によって一念で五十一段高とびさせられ、
正定聚不退転の身に救われたことを言われます。
金剛心とありますように、
何ものにも壊されることのない、
絶対の幸福になりますから、
“よくぞ人間に生まれたものぞ”
という生命の歓喜は、生涯、変わりません。

しかも、それだけではないのです。
弥勒菩薩が無上覚を開き、
龍華三会という法座で初の説法をするのは、
五十六億七千万年後であると経典に説かれていますが、
弥陀に救い摂られている念仏の衆生は、
「臨終一念の夕」、つまり死ぬと同時に、
「大般涅槃を超証す」、弥陀の浄土へ往って
弥陀同体のさとりを開かせていただけるのです。

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アッと言う間もない一念で弥勒と肩を並べ、
命終われば“弥勒お先ごめん”と仏のさとりを開く。
これひとえに、
弥陀の威神力不思議によってのほかありません。

こんなとてつもない救いを、だれが想像できましょう。
事実、江戸時代、有名な比叡山の学僧だった鳳潭(ほうたん)は、
この『教行信証』を読んで狂人の書だと、
唾棄して庭に投げたといいます。

念仏はお礼の言葉

弥陀の本願は信ずる一念で救い摂るお約束、と聞くと、
では念仏は何のために称えるのか、
と疑問に思う人もあるでしょう。

それについてハッキリと、
唯能く常に如来の号(みな)を称して、
大悲弘誓の恩を報ずべし

と教えられています。
「ただ如来の号を称えなさい」
とは、阿弥陀如来の御名、念仏を称えなさいということです。
それは、大悲弘誓の恩に報いるためだと言われています。
大悲とは大慈悲心。
弘誓とは弥陀の本願のこと。
ですから、
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と
口に称える念仏は、
弥陀の本願によって、
絶対の幸福の身に救われた御恩報謝であると、
親鸞聖人は明らかにされています。

つまり念仏称えたら助かるのではない、
念仏は救われたお礼であるということです。

救いは信心か、念仏か
    信行両座の諍論

これは昔も今も、大変よく誤解されているところです。
そのため親鸞聖人は34歳の時、
法友と大論争までなさっています。
有名な信行両座の諍論です。

ある時、聖人は法然上人の御前で手を突かれました。
「お師匠さま。私は何の宿縁でか、
無二の善知識にお会いすることができました。
そのうえ、380余人の法の友達も持たせていただきました。
皆過去世からの、深いご縁のある方ばかりでございます。
ところでお師匠さま。
この世だけの友達では、寂しゅうございます。
未来永劫の友達が、何人おられるか、
親鸞、心にかかります。
お許しいただければ、この親鸞、皆さんの信心を
一度お尋ねしとうございます。
いかがなものでございましょうか」
「親鸞、そなたもそのことを案じ煩っていたのか。
この法然も常に心にかかっていたことだ。
しかし信心は心の問題だからなあ。
どのようにして確かめようとするのか」
「私に一つの名案がございます。
私に任せていただけましょうか」
「けっこうなことだ。それこそ、まことの友情というもの。
そなたの思うとおりやってみるがよかろう」
こうして師の許しを得られた親鸞聖人は、早速、
信の座と行の座を設定し、法友380余人を集めて、
厳かにおっしゃいました。
「本日は御師・法然上人の認可を頂き、
皆さんにぜひお尋ねしたいことがございます。
ごらんのとおり今ここに、行不退の座敷と信不退の座敷と、
2つの座敷に分けました。
いずれなりと、皆さんの信念に従って
お入りいただきたいのです

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ここで「行」とは念仏のこと、
「信」とは信心のこと
ですから、分かりやすく言えば、
「弥陀の本願は、念仏称えれば助けるという
お約束だと思っている人は行の座へ、
信心一つで救う誓いだと心得ている人は
信の座へ入ってください」
という問いかけです。

親鸞聖人の投じられた問題は、
法然門下380余人を驚かせ、戸惑わせるに十分でした。
果たして、決然と信の座に着いたのは、
信空、聖覚法印、熊谷蓮生房の3名のみ。
やがて、親鸞聖人も信不退の座に進まれ、
最後に380余名注視の中、法然上人も、
「それではこの法然も信の座に入れていただこう」
と、信の座に着かれています。

こうして、弥陀の本願は、
信心一つで救いたもうお約束であると、
聖人は争いまでして明らかになされたのでした。

蓮如上人のご教示も

これを受けて蓮如上人も、
聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候
               (聖人一流の章)
と、信心一つで救われることを明示されています。
そして、念仏さえ称えておれば救われるという誤りを、
至るところで破られています。

ただ声に出して念仏ばかりを称うる人は、
おおようなり。それは極楽に往生せず

           (御文章三帖)
ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかり称うれば、
極楽に往生すべきように思いはんべり。
それは大に覚束なきことなり

           (御文章三帖)
「念仏称えなさい。救われる」というのは、
断じて浄土真宗の教えではないのです。

念仏は、

「かくの如く決定しての上には、
寝ても覚めても命のあらんかぎりは、
称名念仏すべきものなり」
           (御文章五帖)
その上の称名念仏は、如来わが往生を
定めたまいし御恩報尽の念仏と、心得べきなり

           (聖人一流の章)

とありますように、信心決定した人が、
阿弥陀如来の御恩徳に感泣し、
そのうれしさのあまり、お礼の心で称えるものが、
他力の念仏だと説かれています。

報謝で浄土へ詣りょうか

ここは大変間違えやすい所なので、
蓮如上人は替え歌まで作って、
その誤りを正しておられます。

巡教中の蓮如上人が、
茶店の娘の奇妙な子守歌を耳にされた。
「泣いて呉れるな
    泣かしはせぬぞ
 泣けば子守の身が立たぬ。
    昔々に武士は
      箒(ほうき)と刀を間違えて
 箒で敵が討たりょうか」
この風変わりな歌の訳を尋ねられると、
“ある侍が、親の敵を探して旅をしていたところ、
ちょうどこの茶店で、
目の前を馬に乗って行く敵を見つけた。
あまりに慌てた侍は、刀とほうきを間違えて、
ほうきを手につかんで、
「敵待てい」と追いかけた”と言う。

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興味深げに聞かれていた上人は、
幾度もうなずき、
替え歌を作り供の者に与えられたという。
堕ちて呉れるな
    堕としはせぬぞ
 堕とせばこの弥陀
    身が立たぬ。
 昔々の同行は
  信と報謝を間違えて
 報謝で浄土へ詣りょうか

このように親鸞聖人・蓮如上人のご教示で明らかなように、
信心一つが浄土へ生まれる正しい因であり、
称える念仏はお礼ですから、
信心正因、称名報恩
といわれ、これが浄土真宗の骨格であります。
つまり信心決定できたかどうかで、
往生の可否を決するのです。

皆々信心決定あれかしと、
そればかりを善知識方が念じ続けられるゆえんです。


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