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龍樹菩薩、お釈迦さまの予言通り大活躍される! [龍樹菩薩]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)


釈迦如来楞伽山(しゃかにょらいりょうがせん)

為衆告命南天竺(いしゅごうみょうなんてんじく)

龍樹大士出於世(りゅうじゅだいじしゅっとせ)

 

これまでの流れを振り返ってみましょう。冒頭で、

「帰命無量寿如来、南無不可思議光」

親鸞は阿弥陀如来に救われたぞ〟と叫ばれた聖人が、

「印度西天之論家、中夏日域之高僧」

〝その阿弥陀如来のことをインド、中国、日本で、

親鸞まで正確に伝えてくだされた方が七人あったのだ〟と、

七高僧のご恩をしのび、活躍をたたえておられます。

その最初の方が、インドの龍樹菩薩です。

 

●龍樹菩薩とはどんな方か

 

「釈迦如来、楞伽山(りょうがせん)にして、

衆の為に告命したまわく、『南天竺に、龍樹大士、世に出でて、

・・・』」

 

お釈迦さまが楞伽山という山でなされたご説法が、

『楞伽経(りょうがきょう)』というお経です。

その中で釈尊は、大衆にこう告げられています。

「私の死んだ七百年後、南インドに龍樹という勝れた人が現れて、

真実の仏法を明らかにするであろう」と。

そのお言葉どおり現れたのが龍樹菩薩です。

大士とは菩薩のことで、勝れた方ということです。

仏教にはいろいろの宗派がありますが、

龍樹菩薩はあらゆる宗派の人から尊敬され、

「八宗の祖師」といわれます。

また人類史上、最も偉大な方は釈尊ですが、

その釈尊に次ぐ聖者として、「小釈迦」とも仰がれています。

しかし、そんな龍樹菩薩も、

初めから立派な方だったのではありません。

それどころか、手のつけられぬ不良青年だったのです。

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釈尊滅後、約七百年。南インドに生を受けた龍樹は、

幼い頃から聡明だった。当時の学問をたちまち学び尽くし、

20のころには天才の名声が四方にとどろいていた。

だが、年少、名を成すは身を誤るもとである。

龍樹には3人の勝れた親友があったが、ある時、

「あらゆる学問を極めたオレたちに、もはや学ぶべきものは

何もない。楽しみがなくなってしまったな」

と一人が言うと、

「それはそうだが、いちばんの楽しみを忘れていないか。

われらはまだ、肉体の喜びを十分に味わっていないではないか」

と、最高の歓楽は情欲を満たすことだと主張した。

なるほどそのとおりと、それから4人は色をあさり遊び歩いた。

満たすほど渇きの増す色欲のとりこになった4人は、

とうとう城の後宮に忍び込み、国王の寵愛している女性を誘惑し、

夜な夜な戯れるようになっていったのである。

だが、いつまでも気づかれずに済むはずがない。

事態を知った王は烈火のごとく怒り、厳命した。

「くせ者を捕らえ、その場で首をはねよ!」

そうとも知らず、いつものように夜陰に隠れて

忍び込んだ龍樹たちだが、待ち構えていた兵士たちに、

3人の親友はたちまち切り伏せられて息絶えた。

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●友人の死を縁に

 

ただ一人、命からがら逃げ出した龍樹は、

激しい無常に戦慄する。

「何ということか。さっきまで言葉を交わしていた友が、

もうこの世にいないとは・・・。

殺されていたのがオレだったらどうなっていたのか」

また、悲劇を生み出した欲望の恐ろしさ、

罪悪を知らされ苦しんだ。

こんな者が一息切れたらどうなるのか。

生死の一大事に驚いた龍樹は、その解決を求め仏門に

入ったのである。

悪に強い者は善にも強し。

厳しい仏道修行に打ち込み、さとりの五十二位中、

初地といわれる四十一段目のさとりに到達した。

最高の仏覚を開かれた釈尊を除けば、

この龍樹菩薩より高いさとりを開いた人は、今日までない。

だがさすがの龍樹もこれまでだった。

仏覚に至ることは釈尊のようなお方にはできても、

自分にはできぬ。

どこかに本当の救われる道はないかと、

必死で求めた龍樹は、ついに釈尊出世の本懐である

阿弥陀如来の本願を知らされ、

弥陀の本願力に救い摂られたのである。

龍樹菩薩の大活躍は、それから始まった。

当時のインドは仏教が衰退し、迷信邪教が蔓延していた。

その誤りを徹底的に打ち破り、仏法宣揚に挺身されたのである。

一方では、国王はじめ、多くの民衆を仏教徒に改宗せしめ、

また、『十住毘婆沙論』『大智度論』『中論』など、

多くの著作を書き残された。

その布教伝道はすさまじく、龍樹菩薩はついに、

邪教徒たちの反感を買い、殉教されたと伝えられている。

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●破邪顕正~お釈迦さまのご遺言

 

龍樹菩薩の偉大な功績を親鸞聖人は、

「悉能摧破有無見(しつのうざいはうむけん」

(間違った教えをことごとく破られた=破邪)

と、

「宣説大乗無上法(せんぜつだいじょうむじょうほう)」

(真実の仏法を顕らかにされた=顕正)

の二つだと仰っています。

龍樹菩薩の生涯は、破邪顕正のご一生であったということです。

破邪顕正とは、「邪を破り、正しきを顕らかにする」と

あるように、よこしまな考えや信心の誤りを破り、

正しい教えを明らかにすること。

それは、さかのぼれば、お釈迦さまのご遺言です。

釈尊は『涅槃経』の中に、

 

破邪顕正せざる者は仏弟子であらず

 

と仰せになっています。

邪を破り、真実を明らかにしない者は仏弟子ではない

という意味です。

それどころか、自分さえ喜んでおればいいと、

その幸福を分かち合おうとしないひとですから、

最も嫌いな人だとまで言われています。

それほど大切な破邪顕正ですが、ここで、

釈尊の言われる「邪」とは何か、「正」とは何かを、

よく心得ていなければなりません。

そうしないと、

「他人を非難する前に、まず自己の過ちを反省せよ」

と言われるではないか。聖徳太子も、

「我、必ず聖に非ず、彼、必ず愚に非ず、共にこれ凡夫のみ」

と言われているように、〝ともに間違いだらけの凡夫なのだから、

相手に非があっても、言わないようにしよう。

だから破邪顕正は控えたほうがよいのではないか〟と

誤解する人がでてきます。

 

●「邪」とは、「正」とは

 

釈尊が破りなさいと言われた「邪」とは、

例えば、他人の失敗、スキャンダルや

私生活の欠陥などではありません。

それこそ親鸞聖人が、

「さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし」(歎異抄)

と仰せのように、縁があればどんなことをしでかすか

分からぬ悪性の私たちに、他人の過ちを破邪する資格が

あるでしょうか。

まさに聖徳太子の言われたとおり、

「共にこれ凡夫のみ」の慚愧(ざんき)のほかはありません。

また、汚職や犯罪などの邪悪は、

法律や警察が取り締まることであり、

悪口や中傷などの反道徳的行為は、

道徳や倫理で批判されるべきものです。

では、仏法者が破るべき「邪」とは何でしょうか。

それは、人々を不幸にする迷信や邪教であり、

釈尊が教えていかれた仏法を、ねじ曲げる邪です。

もちろん、法律や倫理・道徳の邪も

軽視してよいのではありませんが、

すべての人が救われる道を閉ざしてしまう邪悪ほど

恐ろしいものはありません。

そして釈尊が明らかにしなさいと言われた「正」とは、

三世十方を貫く仏法のことであり、

すべての人がこの世も未来も、本当の幸福救われる

阿弥陀如来の本願のことです。

 

●何を信じていてもよいのか

 

世の中には、

「宗教は、どれを信じてもよいのではないか」

とか、

「〝イワシの頭も信心から〟で、何を信じていても、

本人がそれで喜んでいるのだから、

他人がとやかく言うものじゃない。

独り静かに喜ぶのが信仰ではないか」

と言う人があります。

確かに、スポーツや旅行など趣味や生きがいなら、

他人に迷惑をかけぬ限り、何をやっていても、

それがその人の明日への活力剤になるならよいでしょう。

あれこれ言う必要はありません。

しかし、迷信や間違った信仰は、

その人ばかりか多くの人を不幸にします。

例えば地下鉄サリン事件を引き起こした、

あのオウム教団を、「それもよい」などと、

どうして言っておれるでしょうか。

「不幸が続くのは、先祖の霊のタタリだ」と脅して

高価なつぼを買わせる者や、

「手かざしで、どんな病気でも治る」と言って

治療も受けさせない者もあります。

そんな者を黙って見過ごしておいてよいはずがありません。

また、「これさえ拝めば、金も儲かる、病気も治る、

何でも望みがかなうぞ」と言い触らす者。

「人間の運命は神によって決められたものだから、

この世の苦しみはどうにもならぬ試練だと

アキラメて耐えていきなさい」と言う者。

その他、さまざまな占いや迷信が、

今日なお横行しています。

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また、せっかく親鸞聖人の教えとご縁がありながら、

「家族仲良く、念仏さえ称えておれば、

死ねば極楽へ連れて行ってくださるのが阿弥陀さまじゃ」

とか、

「死ぬまで、これで助かったということのないのが仏法だ」

とか、

「信心を獲得しても、ハッキリする人もあれば、

ハッキリしない人もいる」

などと自分が聞き誤り、他人にもねじ曲がった教えを伝え、

親鸞聖人を悲しませている者があります。

それらを、見て見ぬふりをするのではなく、

その誤りを教え、正してあげることです。

それが本当の親切です。

もちろん、迷信を〝これこそ真実だ〟と思っている人には、

耳の痛いことであり、中には腹を立てる人もあるでしょう。

信じているのは、いわば、ほれているのですから、

恋人の悪口を言われるようなものだからです。

ですが、それを恐れていては仏法は説けません。

仏法を伝える布教とは、言葉を換えれば破邪顕正です。

邪を破らずして法を説くことは、

お釈迦さまでもできないことなのです。

 

●龍樹菩薩のみ跡を慕って

 

釈尊のご遺言を固く守られた龍樹菩薩は、生涯、

破邪顕正に徹し抜かれました。

永久の闇より救われた龍樹菩薩は、今なお、

こんこんと深い迷いの夢を見続けている人々を見ると、

自分が非難を受けてでも、何とか早く目覚めてほしいと

願わずにおられなかったのです。

そこまでして、阿弥陀如来の本願を正しく伝えてくだされた、

なればこそ、親鸞は救われた。

龍樹菩薩の破邪顕正のご苦労がなければ、

親鸞は救われなかっただろう。

この親鸞も続くぞ、と聖人も90年の生涯、

布教一筋に突き進まれたのです。

「末代の皆さん、親鸞とともに龍樹菩薩のみ跡に続き、

一人でも多くの方々に仏法をお伝えし、

ともに幸せになろうではありませんか」

との熱い聖人の呼びかけが、

日々の勤行を通して聞こえてくるようです。

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