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「死んだらどうなるか」、生きている今ハッキリする! [信心決定]

   「死んだらどうなるか」

       未来の行き先は

     生きている今、

        ハッキリする

 

       生死の大問題が解決すると

         絶対の幸福になれる

 

巻頭特集のお釈迦さまの例え話で、旅人は無常の虎から逃げ、

九死に一生を得て、命の藤蔓にぶら下がりました。

ところがその藤蔓は、太陽が昇れば白の、沈めば黒のネズミが

絶え間なくかじり続け、刻々と細くなっていきます。

絶体絶命と知って驚いたものの、

やがて旅人は甘いハチミツをなめて喜ぶようになりました。

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「そんな危ないところにいながら、どうして?」

と尋ねたら、旅人はどう答えるでしょうか。

〝どうせいつか死ぬ。どう抵抗しても死は避けられないから、

やりたいこと、楽しいことをやったらいいじゃないか〟

死を直視しても暗くなるだけ、

考えないで明るく生きたほうがいい、

せっかくのハチミツを楽しまなくっちゃ、

とごまかそうとしているのでしょう。

フランスの哲学者、ブレーズ・パスカルは、

『パンセ』にこう記しています。

「気を紛らすこと。人間は、死と不幸と無知とを

癒やすことができなかったので、幸福になるために、

それらのことについて考えないことにした」

そして、あと一週間の命なら何をすべきか。

それを今すべきである、と言っています。

「情念にじゃまされないために、

一週間の生命しかないもののように行動しよう」

「もし一週間なら、ささげるべきであるならば、

全生涯をささげるべきである」

             (パスカル『パンセ』)

 

不調を覚え病院へ行くと、病はすでに手遅れと診断された。

生きられるのはあと7日間となったら、どうしますか。

「もっと早く来ていれば・・・」

と医師に言われ、私の周りだけが切り取られ、

異次元の世界に迷い込んだよう・・・。

世の中はいつもと変わりなく動いているのに。

 

宝くじが当選して喜んだのもつかの間、

急転直下の暗闇となった人が実際にありました。

 

●1億円当たったけれど余命が・・・

 

アメリカ・ニューヨーク州北部に住んでいた大工の

ドナルド・サヴァスターノさん(51歳)は、

今年1月初め、地元のコンビニエンスストアで購入した宝くじで、

一等に当選し100万ドル(日本円で約1億900万円)を手にした。

(2018年5月号です)

「これで人生が変わるよ、本当に」

とドナルド氏は喜び、

「トラックを1台買って、それからバケーションにも

行きたいね。残りは定年後の資金にするつもり」

と、放送局のインタビューに答えていた。

そしてもう一つ、健康診断を受けようと思った。

最近、体調がよくなかったからです。

ところが、訪れた病院で告げられたのは、

ステージ4の肺がん。

すでに脳に転移、治療も不可能という事実でした。

宝くじ当選の23日後、ドナルドさんは51歳で亡くなりました。

ガンを告知された時、

「当たった宝くじ1億円で余命を思いっきり楽しんだら?」

と言われて喜べたでしょうか。

ガンを早期発見して完治していれば、

1億円で楽しい人生を過ごせたはずです。

 

●死を前にして楽しめることは

 

臨終を前に、その心を書き留めたのが、

10年間の闘病生活の末亡くなった、東大宗教教授の

岸本英夫氏です。

44歳で東大教授となりエリートコースを歩みました。

その後、アメリカのスタンフォード大学に客員教授として

滞在中、皮膚ガンの宣告を受けます。

手術の4年後に再発。再度手術するも、いつ再発して

死に至るかとの不安が常にありました。

その心境をこう述べています。

 

「人間が、ふつうに、幸福と考えているものは、

傷つきやすい、みかけの幸福である場合が、

多いようであります。

それが、本当に力強い幸福であるかどうかは、

それを、死に直面した場合にたたせてみると、

はっきりいたします。

たとえば、富とか、地位とか、名誉とかいう社会的条件は、

たしかに、幸福をつくり出している要素であります。

また、肉体の健康とか、知恵とか、本能とか、

容貌の美しさというような個人的条件も、

幸福をつくり出している要素であります。

これが、人間の幸福にとって、重要な要素であることは、

まちがいはないのであります。

だからこそ、みんなは、富や美貌にあこがれるのでありまして、

それは、もっともなことであります。

しかし、もし、そうした外側の要素だけに、

たよりきった心持ちでいると、その幸福は、

やぶれやすいのであります。

そうした幸福を、自分の死と事実の前にたたせてみますと、

それが、はっきり、出てまいります。

今まで、輝かしくみえたものが、急に光を失って、

色あせたものになってしまいます。

お金では、命は買えない。

社会的地位は、死後の問題に、答えてはくれないのであります

             (岸本英夫『死を見つめる心』)

 

元気な時は「死んだら死んだ時さ」と、欲しいものをかき集めて

喜んでいますが、いざ死に直面すると、全く楽しめない。

それを〝傷つきやすい、見せかけの幸福〟と言っています。

 

●不急のことで争っている

 

死は100パーセント確実に、すべての人に襲いかかり、

一切を奪ってしまいます。

これを仏教では「生死の一大事」とか「後生の一大事」と

いいます。

これほどの大事はないのですが、

なぜかほとんど問題にされません。

お釈迦さまは、

世人薄俗にして共に不急の事を諍(あらそ)う(大無量寿経)

と仰っています。

「世人」とは、世の中のすべての人。

「薄俗」は、浅はかで、俗っぽいこと。

すべての人は、急がなくていいことを争ってまでやっている。

人生の一大事に気づかずに、つまらない目先の小事に

とらわれている、ということです。

〝小事にこだわるには、人生は短すぎる〟

とイギリスの元首相、ベンジャミン・ディズレーリは

言いました。

 

●人生の一大事が、今、解決できる。

 

後生は小事ではない、一大事。

しかしその解決の道は、学校や親も、政治家も教えてくれない。

大学で研究されることもない。

すべての人が、準備もせず、何の予備知識もないまま

突如対面し、愕然とするのです。

どんな行き当たりばったりの人でも、

未来に重大なことがあると分かれば、

少しは準備するはずなのに・・・。

例えば自然災害や火災などは、誰もが遭うわけではありません。

一生涯、遭わない人も多いのに、

起きてしまったら大変だから、

万が一の準備に火災保険や地震保険に入ります。

そうしないと安心して暮らせないからでしょう。

ところが、死は万人が100パーセント直面します。

また、火事や災害なら、やけ太りや復興できましょうが、

命は一度失ったら取り返しがつきません。

それなのに、この無防備さはどうしたことでしょう。

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京都学派を創始した哲学者の西田幾多郎は、

死の問題を解決するというのが人生の一大事である

と言っています。

 

ここで誤解してはならないのは、

〝死を直視すれば人生が輝く〟とか、

〝死を意識すればより充実した生を送ることができる〟

と思うことが、生死の一大事の解決ではないということです。

そんなレベルの話ではなく「死んだらどうなるか」、

未来の自分の行く先をハッキリさせることなのです。

「そんなこと、死んでみなければ分からんだろう」

と思われましょうが、

〝違う。生きている時にハッキリさせることができる〟

と説くのが仏教です。

これを「平生業成」といいます。

 

●どうすれば一大事の解決ができるか

 

この生死の一大事の解決は、

阿弥陀仏のお力によってしかできないと、

お釈迦さまは教えられました。

2600年前、釈迦が7000余巻ものお経を説かれたことは、唯、

この生死の一大事の解決の道、阿弥陀仏の本願ひとつでした。

お釈迦さま自ら、こう宣言されています。

 

如来、世に出興する所以は道教を光闡(こうせん)し、

群萌(ぐんもう)をすくい恵むに真実の利を以てせんと

欲してなり      (大無量寿経

 

私〈釈迦〉がこの世に生まれ出た目的は、仏教を説き開き、

一切の人々を阿弥陀仏の真実の救いに導くためであった

 

この『大無量寿経』は、釈迦の説かれた7000余巻の

お経の中で、唯一真実の経典だと親鸞聖人は断言されています。

 (他の経典は方便ということ。つまり、真実に導くために

説く必要があったということ。

やればできると自惚れ強い我々に実際にやらせてみて、

自力無功を知らせるために、

善をやらせてみて、一つの善もできない罪悪深重の者と知らせるために、

7000余巻の教えが必要であった。by minsuke)


それ真実の教を顕わさば、すなわち『大無量寿経』これなり

                   (教行信証教巻)

阿弥陀仏とは、お釈迦さまが私たちに紹介された仏さまです。

大宇宙の諸仏方の師の仏が、阿弥陀仏です。

最高無上の仏さまですから、本師本仏とか無上仏とも

仰がれています。

その阿弥陀仏は、今にも命の蔓(つる)が切れ、

深海へ堕ちるしかない私たちを、

「必ず絶対の幸福に助ける」

と約束されています。

そのお約束を阿弥陀仏の本願といわれます。

人間の約束は不履行も少なくありませんが、

仏の約束は絶対です。

どんな人も、必ず救われるのです。

 

●絶対の幸福とは

 

私たちの求める幸福は、ハチミツのように、

なめている時は楽しいのですが、時間がたてば

色あせたり消えてしまう。

また、次第に甘さを感じなくなり、もっともっと、

と強烈な甘さを求めてのめり込んでしまいます。

心から満足できない楽しみなのです。

たとえ20~30年と求め続けても、最後死ぬ時には、

何の力にもなってくれません。

それを予感するからこそ、人生は常に不安と不足で一杯です。

 

一方絶対の幸福は、決して色あせたり壊れることがない、

何があっても、なくても喜べる幸福です。

この絶対の幸福は私たちの求めている幸せの

延長線上にあるのではありません。

生死の大問題を解決して初めて、本当の安らぎと満足の、

絶対の幸福になれるのです。

そしてやがてこの世の縁尽きれば、必ず極楽浄土へ

生まれられる、生きてよし死んでよしの身ですから、

何ものにも恐れるものはありません。

そんな幸せに、必ずしてみせると誓われているのが、

本師本仏の阿弥陀仏です。

 

室町時代に親鸞聖人の教えを日本中に広められた蓮如上人は、

こう言われています。

 

人間はただ夢・幻の間のことなり、後生こそまことに

永生の楽果なり。(中略)

人間は五十年・百年のうちの楽なり、後生こそ一大事なり

               (御文章1帖目10通)

 

人の一生は、50年から100年の夢や幻、

この世から永遠に変わらぬ幸せこそ、

求めるべき真実であり、必ず極楽浄土へ往く身に

なることが大事なのだと勧められています。

 

●みな人よ 信心決定あれかし

 

だから蓮如上人は、ご遺言に、

 

あわれあわれ、存命の中(うち)に皆々信心決定あれかしと

朝夕思いはんべり、まことに宿善(しゅくぜん)まかせ

とはいいながら、述懐のこころ暫くも止むことなし

                 (御文章4帖目15通)

 

あぁ、すべての人よ。命のあるうちに

信心決定(後生の一大事の解決)してもらいたい。

そのこと一つを終日、思い続けている〟と、

仰っています。

そして、仏法を聞いて後生の一大事解決できるか否かは

「まことに宿善まかせ」

と言われます。病気になれば「医者まかせ」、

車に乗れば「運転手まかせ」と言われるように、

「まかせ」とは一番大事なものにつける言葉です。

宿善とは、過去にやってきた善のこと。

最も大事なのは聞法善です。

仏法を真面目に真剣に聞いてきた人、そうでもない人、

善いことをたくさん行ってきた人、少ない人、

各人各様、皆違いますから宿善には厚い薄いの違いがあります。

宿善の厚い人と、薄い人はちょうど、枯れ松葉と青松葉の

ようなものだといわれます。

枯れ松葉はマッチ1本ですぐ火がつきますが、

青松葉に火をつけようとしても、プスプスと水をはじいて、

なかなか火はつきにくい。

聞法して早く救われる人は、阿弥陀仏のお慈悲の火が

すぐつく枯れ松葉のような人。

仏法を聞いても、同じことをどれだけ聞けばよいのかと

ブスブス文句ばかりの人は、青松葉のような人です。

しかし、どんな人も「聞く一つ」で、

阿弥陀仏の本願に救われるのですから、聞法が最も大事。

真剣な聞法に身を沈め、1日も早く一大事を解決して、

往生極楽の身になってもらいたい、

と蓮如上人は念じ続けられているのです。

仏法は聴聞に極まる

阿弥陀仏の本願を聞く一つで、後生の一大事が解決されれば、

孤独で寂しい人生も底抜けに楽しい人生に生まれ変わります。

「生きるって、こんなに素晴らしいことだったのか」

と、人生の醍醐味を満喫できるのです。

弥陀の本願に疑い晴れるまで、真剣に聞かせていただきましょう。


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