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阿弥陀仏の本願を説き切られた法然上人とはどんなお方か!? [法然上人]

本師源空明仏教(ほんしげんくうみょうぶっきょう)

憐愍善悪凡夫人(れんみんぜんまくぼんぶにん)

真宗教証興片州(しんしゅうきょうしょうこうへんしゅう)

選択本願弘悪世(せんじゃくほんがんぐあくせ)

 

本師源空は仏教を明らかにして、

善・悪の凡夫人を憐愍し、

真宗の教・証を片州に興し、

選択本願を悪世に弘めたまう

 

本師源空は仏教を明らかにして

本師源空とは親鸞聖人の本当の師匠、法然上人のことである。

鎌倉時代の当時、法然上人は知恵第一と謳(うた)われ、

日本最高の仏教学者であられたが、

そうなられるまで法然上人には三十幾星霜の努力精進があった。

 

法然上人は約850年前、美作国(みまさかのくに)の

武士・漆間時国(うるまのときくに)の子として

生を受けられた。幼名は勢至丸。

9歳の時、父の時国が政敵である源定明の夜襲を受けて

非業の死を遂げた。

 

  父の遺言

 

勢至丸が時国の寝所に駆けつけたとき、

既に敵は去り、血まみれの父が横たわっていた。

けなげに敵討ちを誓う勢至丸に時国は、

遺言した。

敵討ちなど愚かなことだ。

我が死はひとえに自己の業縁によるもの。

父を哀れと思うなら敵討ちの代わりに

日本一の僧侶となって我が菩提を弔ってくれ

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父の遺言を心に刻んで近くの寺に入り、

15歳で郷里を離れ、天台宗比叡山へ進まれたのである。

やがて法然と改め、仏学研鑽の日々を重ねられた。

天台にみならず、当時あった仏教各宗の教義に精通し、

40歳の頃には、天台宗に比肩するものなき僧となられた。

ところが、比叡山切っての学僧となられても、

今死んだらどうなるのか、と自身の後生を見つめられると

真っ暗な心しかない。

このまま死ねば無間地獄、後生の一大事は依然、

未解決のままだった。

既存のいずれの宗派も善のできる者の助かる教えであったが、

法然上人はそれまでのご修行で自身が罪悪深重な人間と

知らされておられた。

「私のような悪人はこれまでの仏教では到底、

救われ難い。

どこかに悪の連続の凡夫が救われる教えはないか。

仏の慈悲は一切衆生に及ぶと言われる。

釈尊は必ず一切経の中に極悪人の私のための教えを

説かれているはずだ」

それを見つけ出そうと、比叡山黒谷の報恩蔵に

籠もられたのである。

そこには7000余巻の膨大な一切経が収められていた。

以来、来る日も来る日も経典に取り組まれ、

一切経を読まれること実に5回。

数年に及ぶ血のにじむ探求の末、ついに『往生要集』の

指南によって善導大師の

『観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)』の中に、

極重悪人の救われる道を発見されたのである。

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  本願を実地に体験

 

一心専念弥陀名号・・・」

「一心に専ら弥陀の名号を念じ・・・」

その一文を読まれたとき、たちどころに、

阿弥陀仏の本願力に救い摂られ、大安心、大満足の身と

なられたのである。

阿弥陀仏が「どんな人をも信ずる一念、必ず助ける。

絶対の幸福に」

と誓われていた本願を実地に体験されたのである。

これを信心決定(しんじんけつじょう)という。

「救われたぞ、助けられたぞ。

ここにあったぞ、極重悪人の救われる道があったぞ」

信心決定なされて「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・」

と高声に報恩の念仏を称えられたのだ。

承安五年の春、法然上人43歳の御時のことであった。

この年が浄土宗開創の年となっている。

以後、法然上人は天台宗、真言宗では救われなかった

ご自身の体験の上からも、それらの聖道自力の仏教を捨てよ、

浄土他力の仏教を信じよ、と徹底して勧められた。

 

  一切の人々に

 

善・悪の凡夫人を憐愍し

京都・吉水の草庵を拠点として法然上人は、

真実の仏教を末法の世に説き始められた。

善・悪の凡夫人」とは、

善人も悪人も一切の人々を、との意味である。

「憐愍し」憐れみ、愍(かな)しんで。

それまでの仏教諸宗の教えは、出家した僧侶でなければ

求められず、しかも比叡山、高野山などは女人禁制であった。

弥陀の本願は出家、在家を問わず、男性も女性も、

どんな人でも求められる教えである。

一切の人々に開かれた仏教である。

法然上人が慈父のごとき温容でどんな人も救われる

大乗無上の法を説かれたとき、貴族の関白九条兼実、

武士の熊谷直実(くまがいなおざね)、盗賊だった耳四郎、

聖道諸宗の僧侶など、あらゆる階層の人が

浄土真実の教法を求めるようになった。

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  選択の本願

 

真宗の教・証を片州に興し、

選択本願を悪世に弘めたまう

真宗とは浄土真宗であり、一切衆生の真実の拠り所のことである。

いかなる宗教を信じている人も、

最後は阿弥陀仏の本願によらなければ、救われない。

真宗の教えを、片州といわれるこの日本列島に興し、

阿弥陀仏の本願を、悪世に広められたのである。

選択の本願とは、阿弥陀仏の四十八願中、第十八の願をいう。

阿弥陀仏は四十八の願を建てられたが、

十八番目の願こそ阿弥陀仏が本心を誓われたものである。

故に選択本願とか王本願といわれるのだ。

法然上人が「天台宗、真言宗などの自力難行の仏教では

救われないから捨てよ、万人の助かる道は、

他力易行の阿弥陀仏の本願ただ一つである」と説かれたとき、

批判された自力仏教の側から猛反発が起き、

やがてそれが日本仏教史上空前の大法論、

大原問答となっていった。

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  知恵第一の法然房

 

法然上人は54歳の御時、京都大原の地で諸宗の学者と

大法論をなされた。当日、大原の勝林院には、

諸宗から三論宗の明遍、法相宗の貞慶といった

当時の仏教界を代表する学者たち380余人が集まって、

法然上人に痛撃を与えようとしていた。

直接、法論に参加できなかった者も含めると

2000人の僧侶が参集していたと伝えられる。

対する法然上人は唯お一人。

ところが法論が開始されるや、

法然上人は学者たちが次々に繰り出してくる

あらゆる非難攻撃を悉く論破してしまわれたのである。

一切経を縦横無尽に引用されての法然上人の破邪顕正に、

諸宗の僧侶たちは言葉は失った。

一日一夜が過ぎて肝腑なきまでに敗北を喫した自力聖道の

僧侶の中には、感服して浄土門に帰依する者も少なからずあり、

大原問答は法然上人の名声を一層高めることとなった。

まさに「本師源空明仏教」である。

知恵第一の法然房、勢至菩薩の化身とまで謳われた所以でもある。

法然上人は、『選択本願念仏集』という書物を著して、

阿弥陀仏の本願こそ、万人の救済される

唯一無上の法であることを明らかにされた。

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