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今からできる恩返し [葬儀・法事とは]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています。

2014年7月のとどろきです)

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言えなかった

 「ごめんね、ありがとう」

 

親鸞聖人が9歳で仏門に入られたのは、

4歳でお父様、8歳でお母様を亡くされた、

悲しい別れがきっかけでした。

読者にも、肉親や伴侶との死別をきっかけに

仏法を聞き始められた方が少なくありません。

家族の無常にあわれた2名の方にお話を伺いました。

 

香川県の山本英二さん(仮名)は50年連れ添った夫人を

10年ほど前に病で亡くされました。

 

「春先の京都旅行中、ふと妻が『指輪が重い』と

つぶやくのです。その後、手を動かしにくい、

体がだるいと訴えるようになりました」

神経内科で検査入院し、告げられた病名は

『筋萎縮性側索硬化症(ALS)』。

筋肉に命令を出す運動神経が日一日と死滅し、

最後は呼吸もできなくなる原因不明の病気だった。

「1日でも1時間でも長く生きてほしい、

の願いもむなしく、翌年の9月、妻は私を置いて一人、

旅立っていきました。72歳でした。

あんなに優しかった妻がなぜ・・・」

亡くなったあとも妻が部屋で寝ている気がして、

〝一人にするのはかわいそう〟と、山本さんはどこにも出掛けず、

引きこもる日が続いたという。

「でも現実には目の前に位牌があるだけです。

しかたなく位牌にいろいろと話しかけてみますが、

全く返事がありません。

それでは妻が喜ぶことは何かな・・・?

どうすれば正しい供養ができるだろうか?

そればかり考えるようになりました。

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そんな時、チラシの『浄土真宗』の文字が

目に飛び込んできました。

そういえば、わが家も真宗だ。

供養の仕方が分かれば、と思い、

『聞法の集い』に参加したのです。

そこで初めて、仏教には人生の目的が説かれていることを

知りました

 

 この世の最も深い悲しみ

        「愛別離苦」

 

「会者定離

 ありとはかねて 聞きしかど

 昨日今日とは 思わざりけり」

          (親鸞聖人)

(どんなに親しい人とも必ず別れの時がやってくると、

かねてお聞かせいただいておりましたが、

こんなにも早く、その時が来ようとは

思っておりませんでした。

あまりにも、早すぎます・・・」

 

会うは別れの始めといいながら、

大切な人を失って初めて知る、深い悲しみ。

お釈迦さまは、愛する人や物との別離の苦しみを

愛別離苦」と教えられました。

 

人間の八苦のなかに、愛別離苦これ最も切なり

              (覚如上人

愛情の幸福にすっかり身を委ねていればいるほど、

別離の悲しみは、いつ癒えることがあるのかと

思うほど深く、痛切です。

無常はいつも突然に、何の覚悟もできていないまま、

愛する人を引き裂かずにはおきません。

親や伴侶が健在の時は、いるのが当たり前で、

時に疎ましく思ったり、おろそかにしがちですが、

失って初めてそのありがたみを知るのも、

人の世の常でありましょう。


次に紹介するのは、若くして母親をガンで亡くされた

愛知県の田代久志さん(仮名)です。

        ◆

「私の母は学校の教師でした。

テストの採点など、仕事を家まで持ち込み、

生きることに必死な母の姿を見て育った私は、

親の気持ちも分からず、生きて苦しむなら

死んだほうがましではないか、と考えていました」

その後、田代さんは仏法と出遇い、生きる明かりを得たが、

数年後、母親からガンであることを打ち明けられる。

「医者は私に、母はもう長くないことを日常会話のような

冷静さで話してくれました。

私の結婚を案じる母のため、

入院先へ婚約者を連れて行きました。

母は彼女に、私の子供の頃のこと、

私が死を考えていたことを知った時のショックを

涙ながらに話し、最後に『久志を頼むね』と

付け加えました。

彼女が帰ったあとも、『お母さんの姿を見て、

気分を害していなかったかい』と心配してくれました。

余命いくばくもない病苦と闘いながら、

なお私の幸せを案じてくれる母。

気づかなかった母の大恩を知らされ、

その日から、私の毎日は一変しました」

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仕事が終わると往復5時間の道程を、

面会時間ギリギリに病院に駆け込む日々。

寝るのはいつも車の中だった。

「そんな私に気がついてか、母は見舞いに行くと

『早く帰ったら』と言ってくれました。

しかし私が帰ろうとすると『夜は怖くて一人で寝られない』

と泣いていました。

私は仕事をしていられなくなり、

付き添いで看病するようになりました。

しかし無常は容赦なくやってきたのです。

お母さん、ごめんなさい。

死ぬことばかり考えていた私が、仏法と出遇い、

今は人生の目的に向かって力いっぱい生きています。

母なくば、私の仏縁はありませんでした。

体を酷使してまで育ててくださったご恩、

決して忘れません」

 

 生み育ててくださった

      親の恩

 

「恩」という字は「原因を知る心」と書きます。

今の私の幸せがあるのは、どんな人や物のおかげなのか。

ふだんは意識していなくても、

私たちは様々なご恩の中に生かされています。

中でも身近で大きなものは、

生み育ててくださった両親の恩でしょう。

お釈迦さまは、生まれ難い人間に、

よくぞ生まれたものぞ、

「人身受け難し、今已(すで)に受く」

人間に生まれたことを喜びなさいと教えられています。

人間に生まれなければ、仏法を聞き、

本当の幸せになることもできません。

だから人間に生まれたことは大変喜ぶべきことなのだと

教導されているのです。

私が人間に生まれることができたのは、

両親がいたから。

その両親にもそれぞれ両親があり、

その両親にもまた両親があった。

そうしてたどっていくと、33代で現在の地球の人口70億を

超えるといいます。

その中の一人欠けても、私はこの世に生を受けられなかった。

さすれば、仏法は聞けなかった。

だから一人もおろそかにできません。

仏教で親の恩、先祖の恩を説かれる理由がここにあります。

このような深いご恩に対して、

私たちはどうすることが最もご恩返しになるのでしょうか。

親鸞聖人からお聞きしましょう。

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  親鸞聖人と真の先祖供養

 

亡くして初めて知るのが親の恩といわれます。

生前は分からずとも、親を失った時、

「もっと大切にしておけばよかった」と

後悔が起きるもの。

その気持ちは伴侶や愛児に対しても同様です。

墓に布団も着せられず、遺骨にごちそうも食べさせられず、

葬式や法事を勤めることで、それらの人の恩に報い、

このやりきれぬ気持ちを静めたいと思われる人も多いでしょう。

人一倍孝心の厚かった親鸞聖人は、亡き家族の供養について、

どのように教えられているかお聞きします。

 

 聖人の意外な「告白」

 

幼くしてご両親と悲しい別れを経験された親鸞聖人は、

深く父母の恩を感じておられました。

しかし、その聖人が有名な『歎異抄』で

「親鸞は、亡き両親の孝養に、一回の念仏も、

一巻のお経も読んだことがない」

と意外なことを仰っています。

 

親鸞は父母の孝養のためとて念仏、

一返にても申したること未だ候わず

           (歎異抄五章)

 

死者に対し、念仏も称えられず、その他一切の仏事儀礼も

行われなかった告白です。

なぜでしょうか。根本の理由は、

「先祖供養できるような親鸞ではない」

と、ご自身の姿をハッキリと知らされたからです。

 

仏教を説かれたお釈迦さまは、

「仏教は法鏡である」

と仰いました。「法」とは、三世十方を貫く真実をいいます。

いつでも、どこでも変わらない、

本当の私を映す鏡のようなものが仏教です。

お釈迦さまは法鏡に映る万人の姿を、

「心も口も身も、やっているのは常に悪ばかり。

いまだかつて一つの善もしたことがない」

と『大無量寿経』に道破されています。

 

心常念悪(心常に悪を念じ)

口常言悪(口常に悪を言い)

身常行悪(身常に悪を行い)

曽無一善(曽て一善も無し)

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これは閣僚もオリンピック選手も、

警察官も学校の先生にも共通する、

古今東西変わらぬ人類の真相である、

と説かれています。

こう聞けば、「そんな無茶な」とあきれる人ばかりでしょう。

誰もが悪人なら、警察官が窃盗犯を取り締まることも、

裁判官が放火魔に判決を下すこともできないからです。

時代劇や刑事ドラマは、勧善懲悪の爽快感がウケるのであって、

双方が悪ならば芝居になりません。

では、果たして「悪人」は犯罪者や悪代官だけなのでしょうか。

 

「私」は善人か悪人か

 

大正時代の有名な布教使・西村法剣にこんな話があります。

         ◆

ある寺で、説法していた時のこと。

大の仏法嫌いの小学校長が、参詣した。

「仏教は、すべての人は悪人と説くから気に入らぬ。

有名な坊主が来るなら、懲らしめてやろう」

との腹である。

そうとは知らぬ法剣はいつものように、

「仏さまの眼から、ごらんになれば、

善人は一人もいない。皆、悪人なのです」

と力説する。

説法後、控え室を訪ねた校長は、

「あなたは今、人間はすべて悪人と説かれたが、

まことに困る。そんなことを認めたら、

教師も皆悪人になり、教育が成り立たんじゃないか」

と、カンカンになって抗議した。

「いやー、これは、あなたのような方がお参りとはつゆ知らず、

とんでもないことを申し上げました。

何とぞお許しください」

あまりの意外な反応に、校長は薄気味悪くなってきた。

なにしろ大正の一休とまでいわれ、

歯に、きぬ着せぬ物言いをする法剣が、

ただただ謝り果てている。

「いやいやそこまでせんでも、

あのような説教さえしてもらわねばよいのです」

そう言って校長は、早々に退散しかけ、

「じゃあ、私はこれで」

と靴を履き、玄関を出ようとした時、

「先生、ちょっとお待ちください」。

法剣が声をかけた。

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「何か?」

「先ほど、この世には善人もいれば悪人もいると

言われましたな」

「はい、そう申しました」

「では校長先生、あなたご自身は、

その善人でいらっしゃいますか。

それとも悪人でしょうか」

答えにくい質問をする。

今更、悪人とは言えない。さりとて、

善人と答えるのもはばかれる。

校長が返答に窮していると、

「他人のことではなく、あなた自身のこと。

なぜ答えられないのですか?

では質問を変えましょう。

あなたは学校で、うそは善だと教えられますか。

悪だと教えておられますか」。

「もちろん、うそは泥棒の始まり。

悪いことだと教えています」

「では先生は、これまでにうそをつかれたことはありませんか」

校長ならずとも、誰にも身に覚えのあること。

「では、けんかはどうですか。善悪、

いずれと教えられますか」

「悪に決まっています」

「では、先生は夫婦げんかされたことは、

一度もないのでしょうか」

これまた日常茶飯事。

「生き物を殺すことは、いかがでしょう。

子供たちに善だと教えますか。悪だと教えますか」

「言うまでもない。悪だと教えます」

「それならば、あなたは、一切生き物を殺しておられませんか。

また、肉や魚は食べられないのですか」

「そ、それは・・・」

まごつく校長に法剣は、

うそもけんかも殺生も、皆、悪だと知りつつ、

毎日それを繰り返しているのではありませんか」。

日常、何とも思わずに重ねている悪を

一つ一つ指摘されるうちに、さすがの校長も

反省の心が起きてきた。

ついには玄関に座り込み、

先ほどは失礼なことを申し上げました。

よくよく振り返れば、自覚なしにどれだけの悪を

造っていることでしょう。ご無礼をお許しください」。

それ以来、熱心に仏法を聞くようになったという。

 

        ◆

肉眼や虫眼鏡で見ればきれいな手のひらも、

電子顕微鏡で観察すれば雑菌だらけ。

見た人は素手でおにぎりを食べられなくなるそうです。

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そのように、法律や倫理・道徳からは善人に見えても、

ごまかしのきかない仏教の顕微鏡で精査すれば、

人間は皆おびただしい悪の塊です。

親鸞聖人は法鏡に照破され、

「どんな善もできない、地獄行き間違いない私であった」

と告白されています。

 

いずれの行も及び難き身なれば、

とても地獄は一定すみかぞかし」 (歎異抄)

 

自分にできないことをできると思うのは、

邪見であり、うぬぼれといわれます。

聖人は、やった善を亡者に差し向ける「追善供養」が

できると思うのは、悪しかできない自己の姿が分からず、

「善ができる」とうぬぼれているからだ、と仰っているのです。

 

 真の孝養とは

 

では、私たちに孝養はできないのでしょうか。

親鸞聖人は真の孝養について、

至るところに教えられていますが、

今は『正信偈』で示しましょう。

 

「一生造悪値弘誓

 至安養界証妙果」

(一生悪を造れども、弘誓に値(もうあ)いぬれば、

安養界に至りて、妙果を証せしむ)

 

「弘誓」とは、「善のかけらもない全人類を、そのまま救う」

という阿弥陀仏の弘い誓いです。

それを『教行信証』の冒頭では、

「難思の弘誓は

 難度の海を度する大船」

と、苦しみの人生を明るく渡す大きな船に例えられています。

これを聖人は「大悲の願船」とも仰っています。

「値(もうあ)う」とは、過去から未来にわたって、

一度しかない、あい方をいいます。

大悲の願船に乗じたことです。

死ぬまで悪を造る極重の悪人が、

大悲の願船に乗せられ、絶対の幸福に救われたことを

「一生造悪値弘誓」と言われています。

そして大悲の願船に乗った人は、

来世は必ず阿弥陀仏の浄土(安養界)へ往って、

弥陀と同じ仏のさとり(妙果)を

開かせていただくことができると、

「至安養界証妙果」と教示されているのです。

 

では、極重の悪人が幸せに救われることが、

どうして亡き家族への孝養になるのでしょう。

歌舞伎のせりふに、

三千世界に子を持った親の心はみな一つ

とあります。いつの世の親も、

「幸せになれかし」と子に願い、わが子の笑顔には

無条件で幸せを感じるもの。

亡き妻や夫も、残された家族の幸せを望んでいるに

間違いありません。

肉親を失って初めて、「もっと孝行しておけばよかった」

と嘆いている人も、今からでも仏法を聞き求め、

弥陀の大悲の願船に乗せていただくことが、

真の孝行であり恩返しになるのです。

大悲の願船に乗るには

「聞思して遅慮することなかれ」

と、聖人は明示されています。

聞く一つで大悲の願船に乗じて、

無上の幸せに生かされる。

これが亡き家族の真の供養なのだよと、

親鸞聖人は教示されているのです。

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