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何が私の運命を決めるのか!? [因果の道理]

人の数だけ生きざまがあります。
順風満帆の人生を謳歌する人もあれば、
迷走しているようにしか思えず、
悶々と過ごす人もある。
いずれにしても、「人生不可解なり」
を痛感する人は多いでしょう。
一体、自分の運命を生み出しているのは何か。
その謎を解く答えを、今回は仏教に学びます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
「どうしてこんなに不公平なの?」
      運命の違いはなぜ生じるか

「小学生の頃、背が低いのがイヤで、
親に苦情を言いました。
中学や高校になれば自然に伸びると言われ、
自分でもできるだけの努力はしましたが、
結局、大人になっても小さいまま。
もう少し背が伸びれば違った人生が送れたのでは、
と今でも思います」
「友達の家族旅行はいつも豪華なのに、
家は経済的に厳しくて、
日帰り旅行さえ行けない。
親には悪いと思いながら、
どうしてこの家に生まれたのかと思っていました」

人間誰でも、さまざまな劣等感を抱いて生きています。
生まれた時から差別があり、
自分より恵まれた人を見ては、
不公平感を味わうからです。
こんな運命の違いは一体、どこから生じるのでしょう。
その謎のカギを解くのが、
お釈迦さまの説かれた因果の道理です。

●答えは仏教に

お釈迦さまは、2600年前、インドに現れられた。
35歳でさとりの最高位である仏覚を成就され、
80歳で涅槃に入られるまでの45年間、
説かれた教えを仏教という。
今日、7000余巻の一切経となって書き残されています。

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その膨大な一切経の根幹が「因果の道理」です。
根がなければ木は枯れ、
幹を切れば倒れてしまうように、
仏教を一本の木とすれば、
根幹の「因果の道理」が分からねば、
仏教は絶対に分からないし、
親鸞聖人の教えも全く分からなくなるのです。

「因果」とは、原因と結果のこと。
どんな結果にも必ず原因があり、
原因なしの結果は万に一つもない。
たとえ太平洋の真ん中に墜落、
沈没した飛行機の事故原因が
究明できなくても、
原因不明とは言っても、原因なしとは言いません。
どんな結果にも例外はなく、原因はあるのです。

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次に「道理」は三世を貫き
十方をあまねく真理をいいます。

三世は過去、現在、未来「いつでも」ということ。
千年前も今も、何万年後も変わらぬことを「三世を貫く」
といいます。
十方は東西南北上下四維のあらゆる方角をいい、
「どこでも」ということです。

(※四維とは、北東、北西、南東、南西のこと)
地球上、どの国に行っても、たとえ宇宙へ飛び出しても
不変なのが「十方をあまねく」ものです。
時空を超越して間違いのない真理を道理といい、
この道理に立脚して仏教は説かれています。

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とりわけ仏教の因果律は、
私たちの運命に関する
因果関係を教示されているのです。

善因善果(善い原因は善い結果を生み出す)
悪因悪果(悪い原因は悪い結果を生み出す)
自因自果(自分のまいた因は、自分が刈り取らねばならぬ)

スイカの種をまけばスイカが生え、
大根の種をまけば大根ができる。
スイカの種から大根が出てきた国は聞いたことがないし、
そんな時代もありえない。

いつでもどこでも種に応じた結果が現れる。
これが「善因善果、悪因悪果」です。

「自因自果」は、善いも悪いも、
自己に現れる結果の一切は、
皆、自己がまいた種によるのだ、
ということです。

一般に「自業自得」ともいいます。

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●運命を生み出す原因とは

ここでいう原因や結果とは何でしょう。
原因とは我々の行為であり、
結果は一人一人の運命をいいます。
私の運命を決めるのは、
ほかでもない私の行為なのです。

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行為と聞けば、一般には身体の行いと思いますが、
仏教では心と口と身体の三通りあると教えます。

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この身口意によって造る行為(三業)が、
目に見えない力(業力、業因)となって、
私たちの阿頼耶識というところに蓄えられます。

阿頼耶識はインドの言葉で「蔵」のこと。
阿頼耶識とは、私の業力を全て蓄える蔵のような心です。
過去、現在、未来にわたって続く永遠不滅の生命の流れ、
と教えられ「暴流(ぼうる)のごとし」と説かれています。
暴流とは滝のことです。
遠くから眺めれば、
一枚の白い布を垂らしたように見える滝も、
実際には無数の水滴が激しく変化しながら
流れ落ちています。
そのように阿頼耶識は、
私たちの身口意の行為を
次から次と業力としておさめ蓄え、
絶えず変化しながら続いていくのです。

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この三世を流れる阿頼耶識に蓄積された業因が
縁と和合し、結果を現します。

縁とは業因が結果となるのを助けるものをいいます。
例えば米という結果の直接的な原因はモミダネですが、
それだけで米はできません。
土や水、空気、陽気や農家の方の手間ひまなどがそろって、
ようやく実りを手にできるのです。
これらを縁といいます。

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“そんなバカな・・・行いが力となって残るなんて”
と思う人もあるでしょうが、

見えない業力に、縁が加わって
目に見える結果となることを、
古歌を通してこう教えられています。

年毎に
咲くや吉野の 山桜
木を割りてみよ
花のありかは

桜の名所といえば奈良の吉野山。
ある人が冬に花見をしに出掛けたが、
枯れ木のような桜が突っ立っているだけ。
“花はどこだ”と木を一分刻みに砕いてみても、
一片の花びらも出てはこなかった。

しかし、それらの木が春の陽気に触れると一斉に開花し、
山全体が桜に彩られるのです。

冬の間は、花を咲かせる力として桜の木にあった、
その色も形もない力が、
春の陽気という縁と結びついた時、
桜花と現れたのです。

我々の運命も同様に、各人の阿頼耶識に
蓄えられた目に見えない業因に、
縁が結びついた時、
結果となって現れることをよく知ってください。

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●火の車(苦境)を
       つくっているのは誰?

さて、この因果の道理に例外が一切ありません。
幸せも不幸も全ては
自分のまいたタネ(行為)の結果なのです。

どんな苦しみも、自因自果にほかならぬことが、
こんな歌にも詠まれています。

火の車
造る大工は なけれども
己が造りて
己が乗りゆく

「あの家の台所は火の車だ」と言うように、
苦しい状態を火の車といいます。
そんな火の車(苦境)を造って
私に与える大工(他者)はいない。
そうなる業因が私にあったから、
そういう結果が私に起きたのだと教えられるのです。

●「現在」に
      「過去」と「未来」がおさまる

この因果の道理を深く知れば、
必ず「廃悪修善」の心が起きます。
「廃悪」とは悪をやめること、
「修繕」は善に向かうことです。
誰もが不幸を厭い、明るい未来を求めて
生きていますから、
幸せを得るには善を実行しなさい
と教えられるのです。

この廃悪修善の心の強弱が、
仏教を本当に分かっているか否かの
バロメーターだといえるでしょう。

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冒頭の疑問にも通じることですが、
自分に現れる結果の一切は、
過去の自らの行為が生み出したもの。
未来、私が受ける運命の原因は、
今、私がつくり続けているのです。

これをお釈迦さまは、

汝ら 
過去の因を知らんと欲すれば現在の果を見よ。
未来の果を知らんと欲すれば現在の因を見よ

                                  (因果経)

と説かれています。

過去の種まきを知りたければ、現在の結果を見よ。
未来が知りたければ、現在の種まきを見ればよい。
これは、この世だけでなく、
各人の三世を貫いていることです。

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三世と聞くと、親、子、孫の三世代のことと
思う人がありますが、
仏教では、一人一人に過去世、現在世、未来世の
三世があると教えています。

今の自分に分かるのは今生だけですが、
それぞれが違った運命(結果)を背負って生まれてきたのは、
それを生み出した過去世が間違いなくあったからです。

それを表す、こんなエピソードが経典に説かれています。

過去の私が
       現在の私をつくった

釈尊(釈迦)の十大弟子で「多聞第一」と
うたわれた阿難尊者は、
お釈迦さまに随行すること25年に及んだ。
多聞第一とは、最も数多く聞いたという意味でなく、
釈尊の説法を正確に聴聞し、
一言も忘れなかったということである。
頭脳の明晰さ、記憶の確かさに他の弟子たちは驚き、
それはなぜかお聞きすると、
過去世に次のようなことがあったからだと、
お釈迦さまは仰せられている。

昔、ある僧が一人の修行者に教育していた。
僧は非常に厳格で、毎日時間を定めて修行させ、
もし彼が日課どおりにしないと、すぐに厳しい訓戒を加えた。
修行者にはそのほかに、毎日、村々を托鉢し、
師匠と自分の生活の糧を求めねばならぬ、という仕事があった。
日課どおりに修行できねば厳しく叱られ、
托鉢もできないので、修行者は大変だった。
ある時も、師匠からひどく叱られ、
泣きながら歩いていると、一人の富豪に出会った。
修行者の様子に不審をもった富豪が訳を尋ねると、
苦しさのあまり、彼は次第を打ち明ける。
ふびんに思った富豪はこう提案した。
「よろしい、そんなことで苦労しているのなら、
明日からお師匠様とあなたの食べ物は、
全部私が供養しよう。
だから、あなたは安心して、一生懸命修行されるがよい」
富豪の言葉に彼は慶喜し、
直ちに帰って話したところ、師僧も大変感激し、
師弟ともにいよいよ修行に励んだのであった。

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お釈迦さまはこう話されてから、
「その時の師匠の僧は定光仏であり、修行者は私の前身である。
そして、2人供養し続けた富豪こそ、
実に阿難の前身である。
その時の布施の功徳で今、多聞第一の評価を得たのである」
と教えられている。

万人を驚かせる徳とは、一朝一夕の努力で
備わるものではありません。
遠い過去世からの精進あってこそです。
このように、過去世の種まきによって
今生(この世)の運命が決まり、
この世の種まきによって未来世が作られるのです。

この仏教の「三世因果」の道理が正しく理解されますと、
いかに「現在」が大切かが知らされましょう。
ゆえに、親鸞聖人の教えを聞き、
真実の仏法を知らされたならば、
よりよい未来を求め、一層、
光に向かって進まずにおれなくなるのです。
“どんなに頑張っても無意味だよ”
とか“適当にやり流せ”というような退廃的なアキラメ主義は、
そこからは出てきようがありません。
常に全力主義、努力主義で、
光に向かって無限に向上進歩できるのです。
では、何が善か。
どのような言動が幸せの種まきになるのでしょう。
それをお釈迦さまは詳しく教えられています。
それが仏法です。
教えのとおりに実践するには聞法が大事ですから、
より一層、真剣に仏法を聞いていくことが
何より大切なのです。

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Q&A
「こんなことも自因自果なの?」

前章で学んだように
「善因善果 悪因悪果 自因自果」
の因果の道理は、億に一つも例外はありません。
しかし、いざ不幸や災難に直面すると、
なかなかそうは思えないものです。
本当に例外はないのか。
ここからは読者の質問を通して、
より深く、因果の道理を学んでみましょう。

Q1.親の因果が子に報いるのでは?

五歳くらいまでの子供は無心で生きていると思いますが、
よい親に恵まれる子供もいれば、
悪い親に育てられる子供もいます。
このような場合、因果の法則は適用されるのでしょうか。
むしろ親の因果が子にたたっているように思えますが。
             (福岡県・88歳男性)

(回答)
先日、新聞でベトナムのドクちゃんの記事を読みました。
ベトナム戦争でまかれた枯葉剤の影響で結合双生児として
生まれてきたベトちゃんとドクちゃんは、
ベトナムと日本の医師による共同手術で足の分離に成功。
その後、ベトちゃんは亡くなりましたが、
ドクちゃんは成人して結婚し、
2人の子供に恵まれ、元気に暮らしています。
日本に対する感謝から、子供には富士山と桜を意味する
名前がつけられたと記事にはありました。
人間の運命ほど分からないものはありません。
中でも、どんな親の元に生まれ育てられるかは、
その後の人生に大きな影響を与える一つでしょう。
さまざまな苦しみから、
「なぜ、こんな家に生まれたのか」
と親を恨んでいる人もあるでしょう。

     私が生まれた因縁は?

私が人間に生まれたのは、一つの結果です。
この結果は、どんな因縁によって生じたのでしょうか。
常識的には、父を因とし、母を縁として私がうまれたと
思われるでしょうか。
実はそうではありません。
全く同じ因縁からは、同じ結果しか現れないはずですが、
同じ両親から生まれた兄弟でも、
顔や体型がまるで違うことがよくあります。
一卵性の双子で顔や背丈は一緒でも、
性格や好みは随分違うものです。
もちろん、その後の人生は、その人の行動によって
まるで変わってきます。
仏教では、私たちは過去の行い(宿業)を因とし、
父母を縁として、この世に生を受けたのだと教えられます。
このような両親の元に、このような私として生まれた因は、
過去に私自身がまいた種にあったのです。
父母は縁であり、決して「親の因果(種まき)が子にたたって」
いるのではありません。
「五歳くらくまでの子供は無心で生きているのでは」
と仰いますが、どっこい私たちの魂の歴史は非常に古く、
子供といっても過去無量劫(果てしなく長い間)の業を
もっているのです。

生まれた時から、兄弟でも驚くほど性格が
バラバラで嗜好も千差万別なのは、
皆、本人が背負ってきた宿業の違いによるのです。
その過去の業を因とし、今の両親を縁とし、
私たちはこの世に生を受けたのです。
無論、両親という縁が私の運命に与える影響は大きなもので、
決して親は無関係ということではありません。
また、親が造った業の結果は、
親自身が受けていかねばならないことは
言をまちません。
親もまた因果の法則の中で生きているのですから。
この機会に、私が生まれた因と縁とを、
深く考え直してみてはいかがでしょう。

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Q2.交通事故の場合はどうなの?

自因自果はよく理解できましたが、
交通事故による死傷はどのように考えるのでしょうか。
自分では管理できないことだと思います。
        (大阪府・70歳男性)

(回答)
こちらは法定速度を守って優先道路を走っていたのに
脇道から一時停止無視の車が飛び出してきて衝突したり、
歩道を歩いていた児童の列に
暴走車が突っ込むという痛ましい事件が、
時々耳に入ってきます。
「被害者に何の非があるか。
こんなことも自因自果なのか?」
と、やる方ない気持ちになるのもよく分かります。
事故の責任は暴走車にあることは間違いありませんし、
運転手の犯した罪が許されるはずはありません。
ではなぜ、これらも自因自果なのでしょうか。
衝突事故の例で考えてみますと、
私の前にも後にも車は走っていましたが、
それらの車は事故に遭わなかった。
私が事故に遭った原因は、無謀運転の車が飛び出す、
ちょうどその時その場所を通ったという、
私の行為そのものなのです。

      その時、そこを通る「業」があった

ではなぜ、その時その場所を私は通らねばならなかったのか。
それは、そんな「業」を私がもっていたからにほかなりません。
無謀運転の車はこの場合、悪い縁です。
同じ道を走りながら事故を免れた前後の車は、
幸いにして縁がなかったといえるでしょう。
では、そんな悪縁と結びついて
事故を引き起こした「業」とは何なのか、
と考えてみても、
私たちは過去にまいた自分の種まきを、
ほとんど忘れています。
しかし、結果が起きたということは、
それ相応の原因を過去において
自ら造ったことに間違いないのです。

      遅い、早いの違いはあっても

お釈迦さまは、まいた種が生える時期には前後があることを
「順現業」「順次業」「順後業」と説示されています。

順現業とは、現在世でまいた種の結果が
現在世ですぐに現れるもの。
順次業とは、現在世の種まきが次の生で現れるもの。
順後業は、現在世でまいた種の結果が、
ずっと後の生で現れるものをいいます。
おととい食べた夕食さえなかなか思い出せないのに、
私たちの永遠の生命に蓄えられている業は
過去無量劫からのもの。
記憶にないのも当然ですが、
たとえ覚えていなくとも、原因は厳しく結果を開く。
遅い早いの違いはあっても、
まいた種は必ず生えるのです。

まいた種によって結果の出る時期は違う
○順現業・・・現在世でまいた種の果が現在世で現れる
○順次業・・・現在世の種まきが次の生で現れる
○順後業・・・現在世でまいた種の果がずっと後の生で現れる

さらに、まいた種の生え方に二通りあると、
お釈迦さまは教示されています。

一つは「等流因等流果」。
これは、まいた種(因)と現れる結果が同質のものをいいます。
例えば、「殴ったら、殴り返された」
「悪口を言ったら、悪口を言われた」などです。
これは分かりやすい。
もう一つは「異熟因異熟果」。
これは、因と果が異質なもので、
例えば「悪口を言ったら、財布を落とした」
「泥棒したら、家が火事に遭った」など、
単純には因と果の関係が分からないものをいいます。

まいた種の生え方
○等流因等流果・・原因と結果が同質なもの
         「殴ったら殴られた」
         「盗んだら盗まれた」など
○異熟因異熟果・・原因と結果が異質なもの
         「悪口言ったら財布を落とした」
         「泥棒したら火事に遭った」など


「なぜ私がこんな目に?」と思うのは、
異熟因異熟果の場合が多いでしょう。
しかし結果が同質であれ異質であれ、
善因には善果、悪因には悪果を生み出すことに
変わりはありません。
「さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし」
               (歎異抄)
“縁さえ来れば、どんなことでもする親鸞だ”
の聖人の告白は「もたぬ悪業はない」
という深刻な自覚であり、
どんな悪果を受けても文句の言えぬ私が、
こんなに恵まれるとは不思議の中の不思議・
ゆえに、善果が来た時は仏祖のご加護と感謝し、
悪果が現れた時は過去の自分の種まきと懺悔し、
反省努力するのが、因果の道理を深信する
真の仏法者であると教えられているのです。

 


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