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人はなぜ生きるか。 [親鸞聖人]

(真実の仏教を説かれている先生の書物「とどろき」より載せています。)

人はなぜ生きるか。
いかなる文学者・哲学者も解答しえない、
この難問に、真正面から明確な解答を示された方が、
世界の光・親鸞聖人である。
八百年の古、鎌倉の世に活躍された親鸞聖人は、
九十年の生涯を賭けて、仏教により、
人生の意義・目的を明らかにされた。
今日、浄土真宗と言われる親鸞聖人のみ教えは
平生業成(へいぜいごうじょう)」である。


平生業成とは、平生に人生の大事業が完成する、
の意である。
では、大事業とは何か。
一般には松下幸之助が、松下電器を創立発展させたこと、
本田宗一郎が、オートバイのホンダを、
世界的な企業に躍進させたことが、大事業といわれる。

親鸞聖人が、
人生の大事業といわれたのは、
そのようなものではない。
全人類にとって最も大切な、
人生の目的である。


●どこへ向かうか

人は何のために生まれたのか。
生きているのか。
生きることは苦しいが、
それでもなぜ生きてゆかなければならないのか。

これを人生の目的という。
人生において何より優先して知らねばならないことだ。

例えば生きることを「歩くこと、走ること」としてみよう。
人生は旅だから「生きて行く」と言う。
歩くにしろ、走るにしろ、
その人が最初に知らねばならないのは、
目的地である。
どこに向かって歩くのか、走るのか。
それを知らずにスタートしても、
疲れるだけである。

人生の大事業とは、この人生の目的のことである。
それが平生に完成する、
親鸞聖人は教えられた。

数ある文学者・哲学者も、
人生の目的については「わからない」とか
「無意味である」とかつぶやいて、無力そのものだ。
中には自殺してしまった芥川龍之介や、
太宰治の例もある。

しかし、彼らは仏教を枠外において論じているのだ。

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幸福の追求が
      人生の目的ではない


人生の目的は、幸福である。
これに異論を唱える人はなかろう。

人類七十億、日々何をしているかと言えば、
幸福の追求ではないか。
学ぶのも働くのも、恋愛も結婚も、家を建てるのも、
みな、幸福の追求である。
それこそ人生の目的だと思っている。

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しかし、幸福の追求は、人生の目的ではない。
人生の目的は、幸福の追求ではなく、
幸福の完成である。

親鸞聖人の「平生業成」とは、
「平生に幸福が完成する」との大宣言であり、
その幸福の完成を、
親鸞聖人は、「無碍の一道」と言われた。


念仏者は無碍の一道なり
       (親鸞聖人)

「無碍」とは、一切の障り、病気、事故、災難なども、
その幸福をさまだげ、崩せないこと。
死という大敵すら、
この喜びを壊すことができないから
「無碍の一道」という。


親鸞聖人は、九歳にして出家され、約二十年間、
厳しい仏道修行に身を投じられたが、
二十九歳の時に、法然上人にめぐり会い、
阿弥陀仏の本願を聞信し、
無碍の一道に救い摂られた。

幸福の完成を体験なされた。

幸福の完成に至る道は、
人類史上最大の聖者・大聖釈迦牟尼世尊によって
明らかに示されていた。

●仏教の旗印
    諸行無常の真実

仏教とは、二千六百年前、
インドに出現された釈尊によって
説かれた教えである。
仏教は、他の宗教との違いを
厳然と表す旗印を持っている。

戦国時代、武将はそれぞれの旗印により、
敵味方を峻別した。
武田信玄なら「風林火山」、真田幸村なら、「六文銭」、
豊臣秀吉なら「千成瓢箪」などが有名である。

仏教の旗印を「三法印(さんぽういん)」という。
一、諸行無常印
二、諸法無我印
三、涅槃寂静印

この三つである。

「諸行無常」については『平家物語』の冒頭に
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり」
とあることから余りに有名だ。
「諸行無常」とは、
この世の存在するすべてのものは、
必ず崩れる、壊れる、亡びる、の意である。


諸行無常の真理の前には、
この世のどんな幸福も、たちまち色あせる。
金、財産、名声、健康、妻、子供、家、
これら一切もまた無常であり、続かない。
まさしく、不完全な幸福であり、
臨終になれば、総崩れになってしまう。


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聖徳太子はこれを、
「世間虚仮」(世間は虚仮なり)
と喝破なされ、親鸞聖人もまた、
火宅無常の世界はよろずのことみなもって、
そらごと・たわごと・まことあることなし

             (嘆異抄)
と仰せられている。

●苦悩からの解放

では人間は、完全な、真実の幸福は、得られないのか。
そうではない。


「涅槃寂静」が、これまた仏教の旗印である。
「涅槃」は、インドでは「ニルバーナ」と
釈尊が言われたお言葉だ。
「ニルバーナ」は「吹き消す」の意味であり、
その意味から「滅度」と漢訳されている。
滅度とは、苦悩が滅してしまった世界である。
「解脱」とも言われる。
苦悩から、解放され、脱出してしまった境地である。
「涅槃寂静印」とは、一切の苦悩から離れた、
そして再び滅びることのない真実の幸福が
厳存(げんぞん)するとの釈尊の大宣言である。

仏教以外、この世界を教える者はない。
これを仏覚、仏の覚(さとり)というが、
釈尊自ら、三十五歳十二月八日に仏覚を成就完成なされて、
その世界のあまりのすばらしさ、広大無辺で、
不可思議であることに驚いておられる。


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一時は、涅槃の世界の想像を絶する素晴らしさに、
「このような不可称、不可説、不可思議の世界のあることを、
欲、怒り、愚痴の煩悩に引きずり回されている世俗の人々に説いても、
到底、理解し得ないだろう。
それどころか、いたずらに謗らせ、恐ろしい謗法罪を造らせるだけではないか」
と、布教の至難さを感じて、自殺を図られたと仏伝は記している。

しかし思いなおされ、釈尊は、我々が、幸福の完成・涅槃に至る道を
二通りご教示なされている。

●自力と他力

自力難行道
釈尊のように、あくまで自力で善根を励み、難行に耐えて、仏覚を目指す道である。
禅宗、天台宗、真言宗などが代表である。
しかし仏の悟りに至る五十二段の階定は、自力難行道で上ることは不可能である。
天台宗の開祖の天台ですら、臨終に「我、五品弟子位のみ」と、
下から九段目までしか行けなかったことを告白している。

他力易行道
阿弥陀仏の本願力を信ずる一念に、五十一段高飛びして、
あと一段で仏覚という、等正覚、涅槃分に入る道である。
こちらは、老少善悪の人を選ばず、
誰でも「信ずる一念」で救われる。
親鸞聖人が明らかになされている道である。
等正覚とは、五十一段目の位。
あと一段で仏覚であり、ほぼ等しいから等正覚という。
涅槃分とは、仏覚が涅槃なのだが、あと一段だから、
その涅槃にほぼ等しいとの意味で「涅槃分」と言われるのだ。

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●法然上人の幸福の完成

親鸞聖人が二十九歳にしてこの等正覚、涅槃分を体験されたことは、
前述の通りであるが、その師、法然上人の場合はどうか。

法然上人はまた、幼少にして父君と死別され、
自力難行道である天台宗の僧侶となられた。
以来、二十余年、ひたすら、仏覚を求められたが、
やがて、天台宗を捨て、新たな道を求められた。
泣き泣き、釈尊の残された一切の経典、七千余巻を、ひもとかれること五度、
遂に中国の高僧、善導大師の書物を通じての指南により、
他力易行道、阿弥陀仏の本願に救い摂られ、無碍の一道、絶対の幸福たる、
五十一段の位に入られたのだ。
時に承安五年、法然上人、四十三歳の春であった。
これを信心決定ともいう。
阿弥陀仏の本願力によって平生に幸福を完成された法然上人は、浄土の一門こそ、
万人が幸福に至る道と、明らかに示された。


●死を眼前にしても
平生業成とは、絶対の幸福を体験することだ、と聞いて、
不審に思う人も多いだろう。
本当にそのような、死を眼前にしても壊れない幸福などあるのだろうか、
との疑問である。

富山県のある妙好人の例で示そう。
その方は、太平洋戦争の混乱期、真剣に仏法を求め、
弥陀の本願を心から喜ぶ身となっておられた。
ところが高血圧の持病があり、昭和四十三年春、
急に心筋梗塞で倒れられた。
医師の診断では、血圧ゼロ、脈拍は一分間に四、五回、
九分九厘、快復の見込みはなかった。
しかし担当した名医の判断により、
万が一の僥倖(ぎょうこう)を念じての執刀開始、
深夜に終了しても容体はほとんど変わらず、
依然、意識不明のまま翌朝となった。
その時、急に、その妙好人の口から
「力なくしてまいれば、めでたし、めでたし」
という声、更に念仏が続いた。
五日後、意識の戻ったその方は、そのことを問われた時、
「何にも覚えておりませんが、ただ、
阿弥陀仏にもたれた心安さがずっと続いておりました」
と、しみじみ述懐されたという。

生きるか死ぬか、の瀬戸際になお、
「力なくしてまいれば、めでたし、めでたし」
と心から言えるのだ。

●『歎異抄』には

親鸞聖人の最晩年のお言葉として『歎異抄』に
次のような言葉が伝えられている。

名残惜しく思えども、娑婆の縁つきて力なくして終る時に、
かの土へはまいるべきなり

            (第九章)

大意「今まで流転を重ねてきたこの娑婆世界は、
まことに名残惜しいものがあるが、
娑婆に生きる縁が尽き、生きる力を失った時は、
その時こそ弥陀の浄土にまいらせていただくのだ

死後への不安はまったくなく、生きてよし、死んでよし、
の無碍の一道・絶対の幸福の世界である。


●東条英機の意外な最期

太平洋戦争開戦時、軍国日本の首相であった東条英機は、
敗戦後、東京裁判により、死刑の宣告を受けた。
死刑囚として巣鴨の刑務所にいた時、
教かい師より、親鸞聖人のみ教えを聞法し、
弥陀の本願に救われたと伝えられている。
その東条英機が、いよいよ死刑になったのが、
昭和二十三年十二月二十三日午前零時一分であった。
死刑直前に彼は筆を執っている。
東条英機の辞世の歌は、以下のものである。
日も月も 蛍の光 さながらに 行く手に弥陀の光輝く
「娑婆の皆さん、さようなら。
この東条は、いよいよこの娑婆世界を離れて、
弥陀の浄土に往かせていただきます。
私のような極悪人が、なぜこのような幸福な身に救われたのか、
喜ばずにはおれません

まさに、「力なくして終る時に、かの土へはまいるべきなり」
との聖人のお言葉を彷彿とさせるものがある。


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●心は浄土に
     遊ぶなり

平生に人生の目的・絶対の幸福を弥陀の本願によって完成させられた人は、
この世から大安心、大満足で「心は浄土に遊ぶなり」(親鸞聖人)であり、
必ず、無上涅槃を証することができるのだ。

親鸞聖人のお言葉で確認しよう。
成等覚証大涅槃」(正信偈)
“本願に救われた人は、この世で等覚(さとりの五十一位)と成り、
浄土に往生してから、大涅槃を証する”
不断煩悩得涅槃」(正信偈)
“救われた人は、欲、怒りなどの煩悩あるままで、この世の涅槃分をうる”
念仏往生の願により
等正覚にいたる人
すなわち弥勒に同じくして
大般涅槃をさとるべし

        (正像末和讃)
“弥陀の本願によって、等正覚にこの世で至った人は、
かの弥勒菩薩と同じ位にいるのですから、やがて、
大般涅槃をさとるのです”

では、どうしたら、幸福に完成たる平生業成を体験できるのか。
それは、阿弥陀仏の本願を聞く一つなのである。

たとい大千世界に
みてらん火をも過ぎゆきて
仏の御名をきくひとは
永く不退にかなうなり

      (親鸞聖人)
ただ仏法は聴聞にきわまる
       (蓮如上人)
弥陀の本願に疑いが晴れるところまで、
ひたすら、聞き抜かねばならない。


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