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人間死んだらどうなるか(諸法無我) [龍樹菩薩]

 


(真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています) 


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(お釈迦さまは約2600年前にインドに現れましたが、
龍樹菩薩はその700年後にインドに現れています。)


人間死んだらどうなるか。
有史以来、種々に議論されてきましたが、

大別すれば「有の見(うのけん)」と
「無の見(むのけん)」の二つになります。

有の見は、常見ともいい、
死後変わらぬ魂が存在するという考え方です。

無の見は、断見ともいい、
死後何もなくなるという見方です。

断見・常見ともに仏教では、
真実を知らぬ外道と教えられ、
龍樹菩薩は、この有無の二見を
徹底的に打ち破られました。


(※龍樹菩薩とは、“仏教を正しく伝えられた高僧で、
龍樹菩薩おられてこそ、
この親鸞は阿弥陀仏に救われたのだ”
と親鸞聖人が大変感謝され、
尊敬されている七高僧のうちの一人です。
第二の釈尊ともいわれた方です。


●“私”はどこに?

“私”とは何ですか、と尋ねると、
頭のてっぺんから足のつま先までで、
自分の体を指さして、「これが私」と答え、
「だから死ねば灰になって終わり。
死後なんてないよ」
と思っている人がありますが、
仏教にはこんな話があります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

釈尊に大号尊者という弟子がある。
彼が商人であった時、他国からの帰途、
道に迷って日が暮れた。
宿もないので仕方なく、墓場の近くで寝ていると
不気味な音に目が覚める。
一匹の赤鬼が、人間の死体を持って
やってくるではないか。
急いで木に登って震えながら眺めていると、
間もなく青鬼がやってきた。
「その死体をよこせ」
と青鬼が言う。
「これはオレが先に見つけたもの、渡さぬ」
という赤鬼と大ゲンカが始まった。


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その時である。
赤鬼は木の上の大号を指さして、
「あそこに、さっきから見ている人間がいる。
あれに聞けば分かろう。
証人になってもらおうじゃないか」
と言い出した。
大号は驚いた。
いずれにしても食い殺されることは避けられぬ。
ならば真実を言おうと決意する。
「それは赤鬼のものである」
と証言した。

青鬼は怒った。大号をひきずり下ろし、
片足を抜いて食べてしまった。
気の毒に思った赤鬼は、
だれかの死体の片足を取ってきて大号に接(つ)いでやった。
激昂(げきこう)した青鬼は、
さらに両手を抜いて食べる。
赤鬼はまた、ほかの死体の両手を取ってきて
大号につけてやった。
青鬼は大号の全身を次から次に食べる。
赤鬼はそのあとから、
大号の身体を元通りに修復してやる。
青鬼が帰った後、
「ご苦労であった。おまえが真実を証言してくれて
気持ちがよかった」
と赤鬼は礼を言って立ち去った。

一人残された大号は、
歩いてみたが元の身体と何ら変わらない。
しかし今の自分の手足は、
己の物でないことだけは間違いない。
どこのだれの手やら足やら、と考えた。
街へ帰った彼は、
「この身体はだれのものですか」
と大声で叫びながら歩いたので、
大号尊者とあだ名されるようになったという。

●肉体が入れ替わっても“私”

これは単なるおとぎ話ではありません。
胃も腸も、顔や手足も、
身体の器官すべてが工場で生産され、
必要に応じて付け替える、
そんな時代が来るかもしれません。


心臓病患者は、障害のある心臓を、
あれこれ治療するのはやめて、
心臓メーカーから新品を買い求め、
手術で取り替え、再び元気を取り戻すことができる。
胃腸の悪い人も、新しい人工胃腸と
交換して丈夫になれるし、
手足が動かなくなれば、
これまた新品の人工手足と取り替える。
もちろん濁った血液は、
きれいな血液と全部入れ替えもできる、
という具合に未来の医学は、
肉体丸ごと替えるかもしれません。
“私”の肉体全部入れ替えた時、
一体“私”とは何者なのでしょうか。


いや現に私たちの肉体は
約六十兆の細胞でできていますが、
絶えず新陳代謝し、おおよそ七年間で
全部入れ替わるといわれています。
つまり七年前の私とは、
物質的には全然別人ということになります。
しかし実際は、別人の感じはなく、
やはり同一人に違いないでしょう。

●万物は流転する(パンタ・レイ)

古代ギリシアの哲学者ヘラクレイトスは、
「万物は流転する(パンタ・レイ)」という
有名な言葉を残しています。
すべてのものは、変化し続け、
いっときとして同じではないということです。

「同じ川に二度と入ることはできない」
とも言っています。
なぜなら、二度目に入った時は、
川の流れも自分自身もすでに変わっているからです。

こんな小話があります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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ある男が借金した。
債権者が取り立てに行ったところ、
「借りた人間と、オレとは別人だ。
何しろパンタ・レイだからね」
と返済を断った。
怒った債権者は、その男をポカポカ殴りケガさせる。
「何をする!」
と腹を立て、殴られた男は裁判所に訴えたが、
殴った男は、
「殴った人間と、オレとは別人だ。
なにしろ、パンタ・レイだからね」
とやり返したという。

●断見を否定し、永遠不滅の生命を説く仏教

肉体がどんなに変化しても、
自分のした行為に責任を
持たねばならないのは当然でしょう。
してみれば、そこには一貫して続いている
統一的主体を認めねばなりません。


仏教では、私たちの行為を業といいます。
業は目に見えぬ力となって残り、
決して消滅しません。
これを業力不滅といいます。
そして必ず果報を現します。
いわゆる、まかぬタネは生えませんが、
まいたタネは必ず生えると教えられます。
肉体を入れ替えても、焼いて灰にしても、
業不滅なるがゆえに、
その業報を受けねばなりません。


ここに仏教では、死後も存続する
不滅の生命を教え、
死後(後生)を否定する「無の見」を、
「因果応報なるが故に、来世なきに非ず」(阿含経)
と排斥しています。

では後生を説く仏教は、
死後変わらぬ魂が有るとする「有の見」ではないか、
と思うかもしれませんが、そうではありません。


●諸法無我

仏教では「無我」と教えられます。
固定不変の我というものは本来無い。
つまり有の見のような、
死んでも変わらぬ魂というものは
無いということです。
そしてあらゆるものは因縁所生
(いんねんしょせい)のものと説かれます。

因と縁とが結びついて、
仮に出来上がっているものということです。


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昔の人はこれを、
引きよせて 結べば柴の 庵にて
   解くればもとの  野原なりけり

庵というものは、野原の柴を集めて結べばできますが、
縁がなくなってバラバラになれば、元の野原になります。
一時、庵というものがあるのであって、
変わらぬ「庵」というものがあるのではありません。


家でも、因縁でいろいろのものが集まって造られています。
柱、土台の石、壁、畳、かわら、ふすま、などが集まって、
あのような形になっているものを「家」といっているのです。
因縁が離れてバラバラになれば、家はどこにもありません。
家というものが、いつまでもあるように思いますが、
やがて因縁がなくなれば、跡形もなくなりますから、
「家」という固定不変の実体はないのです。
因縁のある間だけ家ということです。


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自動車ならば約三万個の部品が、
因縁和合して、あのような形に出来上がっている間、
「自動車」といわれるのです。
部品が散乱していたら、誰も自動車とはいわないでしょう。


日本の最新ロケットH-ⅡAなら、
実に約二十八万個の部品が、
精密に組み合わさっている間、
ロケットなのです。
例外なく皆そうです。


これを仏教で諸法無我といわれます。
“私”“私”と言っていますが、
変わらぬ「我」という実体は無いということが、
無我です。

仏教の深い哲理ですが、
分かりやすく言うとそういうことです。

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●固定不変の霊魂を否定し、
          後生の一大事を説く仏法

仏教では、私たちの永遠の生命を
阿頼耶識といわれ、
「暴流のごとし」と説かれています。
暴流とは滝のことです。
遠くから眺めれば、
一枚の白布を垂らしたように見える滝でも、
実際はたくさんの水滴が激しく変化しながら
続いているのです。
そのように阿頼耶識は、自分の行為を次から次と
業力としておさめて絶えず変化し、
流転輪廻していくのです。


ゆえに釈尊(釈迦)は、
無我なるが故に、常有に非ず」(阿含経)
と言われ、固定不変の霊魂を否定されます。
だから、死ねば魂が墓の下にジッととどまったり、
山や木や石に宿り、
いつまでも残っていることなどできないと
教えられます。
ましてや、その霊魂が生きている人間に
禍福を与える力があるなどと説くものは、
迷信だと打ち破られているのです。


すべての人は、各自の造った業によって、
死ねば種々の形に変化し、
遠く独り去っていくものである
と、
次のように釈尊は説かれています。

遠く他所に到りぬれば能く(よく)見る者なし。
善悪自然に行(おこない)を追いて生ずる所、
窈窈冥冥(ようようみょうみょう)として別離久しく長し。
道路同じからずして会い見ること期無し、
甚だ難く甚だ難し、
また相値うことを得んや
                (大無量寿経

“遠く他の所へ去ってしまえば、
再び会い見ることはできない。
一人一人造った善悪の業により、
次の生へ生まれ変わっていく。
行く先は遠く、暗くしてたよる道もなく、
愛する者とも永劫の別れをしなければならぬ。
各自の行為が違うから、
死出の旅路は孤独なのである”


親鸞聖人は、
一たび人身を失いぬれば
万劫にも復(かえ)らず
」(教行信証)
と言われ、蓮如上人は、
われらが今度の一大事の後生」(領解文)
と言われているとおり、
すべての人の後生に一大事のあることを教え、
その解決の道を説示されているのが仏法です。


龍樹菩薩は、有無の二見をことごとく破られ、
後生の一大事を説く正しい教えを
徹底的に明らかにされたのでした。



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