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がんばって生きるのは何のため? [親鸞聖人]

shinran
(親鸞聖人)

「がんばって生きよ」と励ます本が相次いでベストセラーになりました。
「毎日が訓練と思って耐えなさい、きっと幸せになれるから」
「何でもいいから、信じた道を歩んでほしい」
と訴えています。
「思いは、かなう」のキャッチフレーズとともに、困難を乗り越え、
がんばった無名の人に、スポットを当てる番組も人気です。
「がんばれ」「あきらめるな」というメッセージを、
みんな待望しているようです。

ところが、若くして芥川賞を受賞し、
一躍、時の人となった金原ひとみさん(当時二十歳)の
「受賞のことば」は、少々変わっています。
がんばって生きてる人って何か見てて笑っちゃう(中略)
一生懸命、気張らずに、とりあえず書いて、まあ、適当に。
今までも適当に生きてこられたし、芥川賞を受賞できた」
          (『文芸春秋』平成十六年三月号)

「そんなにがんばって何になる」とでも言いたげなこの発言に、
「これは傲慢不遜な人間観だ」と政治評論家の早坂茂三氏(当時73歳)
は語気を荒げました。

かつて日本人の美徳とされた「努力、忍耐、勤勉」も、
今や「死語」になったとささやかれる時代。
「近頃の若者は・・・」と言えば、
「年寄りの常套句(じょうとうく)」と煙たがられる。
多少のことは「時代の流れ」と達観するのが処世術かもしれません。

しかし、がんばることを否定する物言いに、
多くの人が衝撃を受けるのは、
世の常識を、真っ向から否定しているからでしょう。
つまり「がんばることはよいことだ」の信念に、
「がんばることが、どうしてよいことか」と挑んでいるのです。
果たしてこの反論に、どう答えればよいでしょう。
「がんばって生きていれば、きっとそのうちいいことあるよ」
と励まされても、了解できません。
なぜなら心の片隅に、「どうせがんばっても報われない」
の苦い思いを抱く人が少なくないからです。

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要約
「がんばって生きることはよいこと」、これが多くの人の信念。
しかし、それに疑問を抱く人がいる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●「がんばっても報われない」と、多くの人が感じている

「がんばっても報われない」
こんな嘆きの声は四方に満ちています
「この坂を越えたなら、しあわせが待っている
そんなことばを信じて 越えた七坂四十路坂」
の歌(都はるみ)がはやったのも、
報われなかった苦労を嘆く人に共感を呼んだからかもしれません。

「この坂さえ越えたなら、幸せがつかめるのだ」と私たちは、
必死に目の前の坂を上っています。
「金さえあれば」「物さえあれば」「有名になれたら」
「地位が得られれば」「家を持てたら」「恋人が欲しい」などなど。
ところが、とらえたと思った楽しみも一夜の夢、
握ったと信じた幸福も一朝の幻、
線香花火のように、はかないものです。
やっとの思いで幸福を手にした瞬間から、
苦しみの魔の手が足下から背後から近づいています。
どんな幸せも、やがて私を見捨て、傷つけずにはおきません。



●会社と家族のために
      がんばってきた人の悲しみ

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以前に話題になったアメリカの映画『アバウト・シュミット』は、
がんばって築き上げてきたものを失い、
生きる意味を自問する還暦過ぎの男性の物語です。

主人公のウォーレン・シュミット(66歳)は、
一流保険会社を退職したばかり。
幼い頃に抱いた夢とは、少々かけ離れていたけれど、
会社のため、家族のために一生懸命仕事をし、
それなりの地位や財を築いたことを誇りとし、
42年間連れ添った妻と、溺愛する一人娘ジーニーと過ごす。
「平凡だけど、悪くない人生」を、自負していました。

ところが悲劇は退職直後に訪れたのです。
忙しさから解放されたものの、これといってすることもない喪失感と、
もはやだれも自分を必要にしてくれない惨めさに襲われます。
さらに追い打ちをかけたのは、
妻との永遠の別れ、そして娘の結婚でした。
妻の葬儀の後、さっさと自分の結婚式の準備へと娘は帰っていきます。
寂しさに耐えきれず、娘を訪ねようとするものの、
拒まれ、
しまいには、「結婚式にだけ来て、静かに座っていてくれればいい」
と吐き捨てられます。
愛され、必要とされいると思っていたのが誤解であったと知ったとき、
彼の中で今まで築き上げてきたものが、
音を立てて崩れていきました。
「がんばってきたのは何だったのか」
「すべては報われない苦労だった」
独りぼっちのシュミットは、最後つぶやきます。
“じきに私は死んでいく。
それは20年後かもしれないし、明日かもしれない。
どちらにしても同じことだ。
私が死んで、私を知る人も死んでしまえば、
私など存在しなかったも同じ・・・”


人間の一生は、賽(さい)の河原の石積みのようなものです。
汗と涙で築いたものがアッという間に崩されていきます。
会社の倒産、突然の病気、肉親との死別、不慮の事故、
友人や恋人との別離、突然の解雇、借金の重荷・・・。
「こんなことになるとは」予期せぬ天災人災に、何度驚き、悲しみ、
嘆いたことでしょう。
当てにならぬものを信じていれば、やがて裏切られ、苦しむだけ。
苦労は徒労に終わり、努力は水泡に帰す。
もう二度とこんな裏切りに傷つけられたくないと立ち上がり、
涙がこぼれぬよう、上を向いてまた歩き出す。
だが、一つの苦しみを乗り越えて、
ヤレヤレと思う間もなく、別の苦しみが現れる。
こんなことの繰り返しではないでしょうか。
やがて「がんばっても報われない、こんな人生何なのか」
の悲嘆が、「がんばっても報われない、どうせこれが人生さ」
のアキラメへと風化します。
「がんばって生きている人って何か見てて笑っちゃう」
という冷めた目も、この流転の人生へのいらだちなのかもしれません。

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要約
汗と涙で築いたものがアッという間に崩されていく。
この繰り返しでは、がんばっても報われない人生になる。
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●死に向かって走り続ける
       マラソンランナー

このようにして私たちは、
人生の終着点、死へと近づいています。

「ともかくわかっていたのは、なぜ走っているのかなど考えず、
ただせっせせっせと駆けなきゃならないことだった。
とにかく知らない野を抜け、不気味な森へはいり、
上り下りも知らぬうちに丘を越え、
落ちたが最後心臓がおだぶつになってしまう小川を飛び越えて、
どんどん走らなきゃならないんだ。
観衆はやんやの喝采で迎えてくれるだろうが、
決勝点はけっして終わりじゃない、
おまえは息をつく暇もなく、まだまだ先へ走らなきゃならないからだ。
そしてほんとうに立ち止まるのは、木の幹につまずいて首の骨をへし折るか、
それとも古井戸に落っこちて、永遠に暗闇の中に沈んでしまうかのときなんだ。
  (アラン・シリトー著、河野一郎訳『長距離走者の孤独』)

思えば生きることは、死へ向かって突っぱしているようなものです。
誰も逃れることはできません。
だからだれもが、「がんばれ、がんばれ」という声援を背に、
死ぬまで走り続ける長距離走者のようなものです。

では、いよいよ死なねばならぬとなったらどうでしょう。
必死にかき集めた財産も、名誉も地位も、
すべて我が身から離れ、
たった一人で暗黒の後生へと飛び込んでいかなければなりません。
“この坂を越えたなら幸せになれる”
希望に欺かれ、安心・満足のゴールのないまま、
死の腕(かいな)に飛び込んでいく。
これが人生ならまさに、がんばっても報われない、
死ぬまで苦しみ続ける一生ではないでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
要約
一切のものに捨てられ、たった一人で死んでいくのが私たちです。
最期、壊れるものばかりを求める人生は悲劇です。
何のためにがんばって生きるのでしょうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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●どんなに手を伸ばしても、
   永遠に届かない 坂の上の雲

求めても、本当の幸せが求まらない。
それはまた、幾多の歴史に明白です。
日露戦争の開戦から、もうすでに百年を超えましたが、
帝国主義列強の争覇のただ中、日本というまことに小さな国が、
近代国家への道を急速に駆け上ったのが明治時代でした。
独自の史観と、鋭くも温かい人間洞察で、
その時代を描いた司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』で、
氏は当時、日本の牽引者だった人々を「楽天家たち」と称し、
こう記しています。
「楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、
前をのみ見つめながらあるく。
のぼってゆく坂の上の青い天に、
もし一だの白い雲がかがやいているとすれば、
それをのみみつめて坂をのぼってゆくであろう」
         (『坂の上の雲』あとがき)

「楽天家たち」は国家存亡の危機に立ち向かい、
欧米列強に追いつき追い越せの「理想の雲」のみ見つめ、
ひたすら坂道を駆け上がりました。
小さな、世界の片田舎のこの国が、古くからの大国に勝利を収め、
上り切った坂の上で見たものは何だったのでしょう。
それは「花」でもなければ「果実」でもなく、
実に「雲」であったことを司馬氏は、
苦々しげに友人に、こうこぼしていたといいます。
花や果実なら手にすることができる。
でも坂の上の“雲”は、どんなに手を伸ばしても
山のかなたの空にたなびいているだけ。
決して届かない。
永遠に手が届かない目標なんです

       (『編集会議』平成16年2月号)

この物語が新聞紙上に連載され、
好評を博したのは、ちょうど高度経済成長期とその終焉の時代でした。
所得倍増、三種の神器(じんぎ)。
「一生懸命働けば豊かになれる。豊かになれば幸せになれる」
と信じ、欲しいものを次から次へと獲得、
暮らしは随分変わりました。
しかし「幸せだ」という実感がわかず、
一層乾く心に、失望と幻滅を禁じえなかったのです。
わき目も振らず上った坂の上で、
読者は司馬氏の先の述懐の真実に、思いをはせたことでしょう。


それから30年。21世紀を迎えても、
戦争、犯罪、自殺、暴力、虐待など、
日々報じられるニュースは、
変わらぬ苦しみ悩みの人生の実相を露呈しています。
永遠に手が届かない雲を追いかけ、
死ぬまで苦しみ続ける「終わりなき旅」は、
今日も少しも変わっていないのではないでしょうか。

●“苦海を渡す大船に乗る”
       ことこそ、人生の目的
       
死ぬまで苦しみ続ける人生への愁嘆ばかりの中、
親鸞聖人は、こう高らかに叫ばれました。
「人生には目的がある。それは、金でもなければ財でもない。
名誉でもなければ地位でもない。
人生苦悩の根元を断ち切られ、
“よくぞ人間に生まれたものぞ”と生命の大歓喜を得て、
未来永遠の幸福に生きること」
それは次のお言葉に明らかです。

「難思の弘誓は難度海を度する大船、
無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり」
         (教行信証)
弥陀の誓願は、私たちの苦悩の根元である無明の闇を破り、
苦しみの波の耐えない人生の海を、明るく楽しく渡す大船である。
この船に乗ることこそは人生の目的だ


ここでいわれている「無明の闇」とは、
「後生暗い心」ともいわれ
「死んだらどうなるか分からない、死後に暗い心」をいいます。
この「無明の闇」がすべての人の苦しみ悩みの根元なのです。
未来が暗いと、現在が暗くなります。
現在が暗いのは、未来が暗いからです。
後生暗いままで明るい現在を築こうとしても、
できる道理がありません。

「苦海を渡す大船に乗る」とは、
その苦悩の根元である「無明の闇」を破られ、
“よくぞ人間に生まれたものぞ”と生命の歓喜を得て
未来永遠の幸福になることです。
この世界を「摂取不捨の利益」と『歎異抄』にはいわれています。
「摂取不捨」とは文字通り、
“摂め取って(おさめとって)捨てぬ”ことであり、
「利益」とは“幸福”をいいます。
“ガチッと摂め取られて(おさめとられて)、
捨てられない幸福”を「摂取不捨の利益」といわれます。
やがて色あせ、続かない幸せを追い求める人生は、
裏切られて苦しむだけですから、
がんばっても報われない一生に終わります。
絶対に捨てられない身にガチッと摂め取られて、
“人間に生まれてよかった”と躍り上がる摂取不捨の幸福こそ、
万人の求めるものであり、人生の目的なのです。
人生には目的がある。それは現在、完成できる。
だから、早く完成しなさいよ。
親鸞聖人90年のご一生は、これ以外にありませんでした。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
要約
死ぬまで苦しみ続けるのが人生ではない。
すべての人が究極の願い、摂取不捨の幸福に平生なれる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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●今、おぼれている者に、
  土左衛門になったら助ける、
      と言う人はありえない

この世で、摂取不捨の幸福に救い摂り、
人生の目的を果たさせる弥陀の誓願を、
聖人は法友と大論争されてまで明らかにされました。
今日、親鸞聖人の3大諍論の一つとして有名な、
「体失不体失往生の諍論」と伝えられています。

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
ある時、法友の善慧房証空(ぜんえぼうしょうくう)が、
説法していた。
「釈尊がこの世にお生まれになったのは、
阿弥陀仏の本願一つを説かれるため、
どんな人でも、念仏さえ称えれば、
死ねば必ず極楽浄土に連れていくという、有り難いお約束です」

その時、親鸞聖人の声が善慧房の説法を遮る。
「お待ちください!」

ムッする善慧房、
「何でしょうか。親鸞殿」

「先ほど、あなたは、阿弥陀如来の本願は、
死んだら助けるお約束、と言われたが、
この親鸞、現在ただいま、救いたもうた本願を、
喜んでおります」

善慧房、驚いて、
「何を言われる。今救われたとな、そなたは。
この世はしょせん、どうにもならぬもの。
この世で救われたということなど、あるはずがないではないか」

この世さえどうにもならぬ者が、死んで、どうなれましょう。
今、おぼれて苦しんでいる者に、
土左衛門になったら助ける、と言う人がありましょうか。
今、腹痛で苦しんでいる者に、
死んだら治すと言う医者もいないでしょう


堂内はどよめき、一気に緊張した。
「まあまあ、親鸞殿。また後ほど」と、
執り成す者もいたが、

親鸞聖人は一歩も引かれない。
いいえ、釈尊ご出世の、ご本懐の中のご本懐である、
阿弥陀如来の本願のこと。
皆さんにもハッキリと、知っていただかねばなりません


●“苦悩渦巻く魂を、
    歓喜の泉に生まれさせる”

いらだつ善慧房ですが、そこは学者らしく、こう反論する。
「親鸞殿、幾らあなたがもっともらしいことを申されても、
経典にないことでは、仏教ではない。
お経のどこに、この世で救われるという根拠がありましょうか」

聖人、いよいよ弥陀の本願を開顕する勝縁来たり、
と微笑なされて、
もちろん、ございます。
阿弥陀如来の本願に、『若不生者 不取正覚』とあります。
必ず生まれさせると、仏の命を懸けて、誓っておられるではありませんか


一瞬、あきれ顔の善慧房、高笑いしたかと思うと、
勝ち誇ったようにこう言い放った。
「ハハハハハ・・・。親鸞殿。
それこそ、死んだら助けるということではありませんか。
死なねば、生まれることはできませんからね。
やはり、死んだら極楽へ生まれさせる、というお約束ではありませんか」

しかしその時、聖人のお言葉が、四方を圧する。
善慧房殿、あなたの誤りはそこにあるのです。
阿弥陀仏が必ず生まれさせると誓われたのは、
肉体だけのことではない。心のことなのです。
私たちの暗い心を明るい心に、
不安な心を大安心に、
苦悩渦巻く魂を、歓喜の泉に生まれさせると、
弥陀は誓っておられるのです


ざわめく聴衆の中で、一人老女がこうつぶやく。
「心を生まれさせる・・・・?」

親鸞聖人、大きくうなずかれ、
そうです。心をです。何のために生まれてきたのか。
何のために生きているのか。
なぜ、生きねばならないのか、分からないでしょう。
人生の目的が分からず、死んだらどうなるかもハッキリしない、
私たちの、その後生暗い心を、後生明るい心に生まれさせるというのが、
弥陀の本願ではありませんか


やがて法然上人が、こう判定を下された。
そうだ。親鸞の言う通りじゃ。
今、救われずして、どうして未来、助かるだろうか。
阿弥陀仏の本願は、この世から未来永劫、
助けたもうお約束。誤ってはなりませんぞ


・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

後に浄土宗を開いたほどの善慧房証空も、
その過ちを、この時聖人に徹底的に打ち破られたのです。

●すべての努力が報われるとき

「弥陀の救い(往生)は死後だから、人生にはない」
とする善慧房の主張は、「体失往生」といわれます。
体失とは、肉体を失う、という意味で、死後のことです。
もし、人生に目的(弥陀の救い)がないとするならば、
人は苦しむために生きていることになるでしょう。

それに対して親鸞聖人は、
「弥陀の救い(往生)は、生きてる時にあえる」
と説かれました。
これは「不体失往生」といいます。
弥陀の救いは、すべての人間に究極の願いを満たす救いであり、
それに平生にあえる。
だから、「よくぞ人間に生まれたものぞ」
と生命の大歓喜を得て、この世も未来も永遠の幸福に生かされる。
だから、どんなに苦しくてもこの目的果たすまで、
がんばって生き抜きなさいよ、と教えていかれたのです。


かくして親鸞聖人によって、
全人類渇望の明答が、ここに示されました。
本当の人生の目的を知らなければ、
死ぬまで苦しみ続ける人生に、がんばっても報われないと、
力を落とすのも無理はありません。
だが親鸞聖人のみ教えにより、真の人生の目的を知ったとき、
一切の悩みも苦しみも意味を持ち、
それに向かって生きるとき、すべての努力は報われるのです。



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