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弥陀に救われたらどうなるか? [親鸞聖人]

shinran


あなたに伝えたいことがある。
なんとか分かってもらいたいことがある。
どう書けばよいのか、
どのように表現すれば正しく知ってもらえるか。
祖師聖人が、一字一涙(いちじいちるい)の熱い思いで
筆を執られたのが『正信偈』です。

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その冒頭が、
「帰命無量寿如来
南無不可思議光」
という有名な二行。
これは、
「親鸞、無量寿如来に帰命いたしました。
親鸞、不可思議光に南無いたしました。」
と読み、
「親鸞、阿弥陀仏に救われたぞ。
親鸞、阿弥陀仏に助けられたぞ」
という、弥陀に救い摂られた聖人の告白です。

言葉を換えて同じことを繰り返されているのは、
二回だけではなく、何度でも叫ばずにはおれない、
弥陀に救われた大慶喜の表明であるのです。

この最初の2行で親鸞聖人は、

○弥陀の救いは「死んだらお助け」ではない、
現在ただ今の救いである。


○弥陀に救われたならば、ハッキリする。

という、弥陀の「凄い救い」を明らかにされているのです。

ところが、このような聖人の教えを聞くと、
「それは親鸞さまのような特別な方だけのことではないか。
私みたいな者がハッキリ救われることなんか、
ホントにあるのか」

と途方に暮れたり、
「どうせオレなんか無理だ」とアキラメたり、
「阿弥陀さまに救われたなら、
どこがどう変わるのだろうか」と、
疑問に思う人がある。

それらの不審に聖人は、同じく『正信偈』の中で、
「凡聖逆謗斉廻入(凡・聖・逆・謗、ひとしく廻入すれば)
如衆水入海一味(衆水の海に入りて一味なるが如し)」
と答えておられるのです。

今回は、この二行について解説します。



●「凡聖逆謗」=「すべての人」

「凡・聖・逆・謗」の「凡」は凡夫、
「聖」は聖人(といっても親鸞聖人のことではありません。
後述します)、
「逆」は五逆罪の人、
「謗」は謗法罪の人。
この「凡・聖・逆・謗」で、「すべての人」ということです。
何十億の人がいても、「凡聖逆謗」の中に入らない人は、
一人もいません。
まず「凡夫」について、親鸞聖人に解説をお聞きしましょう。

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「凡夫というは無明・煩悩われらが身にみちみちて、
欲もおおく、愼り(いかり)腹立ち、
そねみねたみ心多く間なくして、
臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず」
             (一念多念証文)

“凡夫というは、欲や怒り、腹立つ心、ねたみそねみなどの、
かたまりである。
これらは死ぬまで、静まりもしなければ減りもしない。
もちろん、断ち切れるものでは絶対にない”
「欲も多く」とは、あれが欲しい、これも欲しい、金が欲しい、
恋人が欲しい、尊敬されたい、才能も努力も認められたい、
若く見られたい、キレイと言われたい、まだ足らん、もっと欲しいと、
際限もなく求める欲の心で、
朝から晩まで振り回されていることです。
聖人ご自身、
「悲しきかな、愚禿鸞(ぐとくらん)、愛欲の広海に沈没し、
名利の大山に迷惑して」(教行信証)

と告白されるように、男女の性欲や人間の好き嫌い(愛欲)の
広い海に沈み切っている。
先生と呼ばれたい、悪口言われたくない名誉欲と、
一円でも金が欲しい利益欲が、
大きな山ほどあって煩わされ苦しんでいる、
情けないなあと言われています。
「愼り腹だち」とは、それらの欲の心が邪魔されてカーッと腹が立つ心。
ひとたび怒りの炎が燃え上がると、
相手が親だろうが親友だろうが恩師だろうが、
思ってはならないことを思い、
言ってはならぬことを言う、やってはならぬことをやる。
後先考えずに八方を焼き尽くす、恐ろしい心です。
「そねみねたむ心」は、仏教では愚痴といわれ、
宇宙の真理である「因果の道理」が分からぬバカな心をいいます。
不幸や災難に遭うと「あいつのせいだ」「こいつが悪い」と
他人を怨み憎しみ、ライバルの成功や隣家の新築を見てはねたみそねむ、
醜い心です。

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これらの欲や怒り・ねたみそねみの煩悩が、
「身にみちみちて」いるのが「凡夫」である、
と言われているのですが、そう聞いてどんなイメージを
思い浮かべるでしょう。
多くの人が想像するのは、大体こんな感じではないでしょうか。
「私という器があって、その中に汚い煩悩が入っている。
まあ七割か、多くても八割ぐらいだろう。
残りの二割が、理性とか真心とか愛とか、
なにか煩悩以外のピュアなものに違いない」

親鸞聖人が「身にみちみちて」と言われているのは、そんなことではない。
煩悩以外には何もない、百パーセント煩悩。
これを「煩悩具足」ともいわれます。
「具足」とは、「それによってできている」ことで、
例えば「雪だるま」は「雪具足」といえるでしょう。
雪だるまから雪を取ったら、何もなくなるからです。
といっても厳密に言えば、目や鼻に使った木炭やニンジンは残りますから、
完全な「雪具足」ではありませんね。
「煩悩具足」とは、「煩悩の塊」のことで、
我々から煩悩を取ったら、まさにゼロになる、何もなくなる。
これを「凡夫」と親鸞聖人は、言われているのです。


次に「聖」とは「聖人」のこと。
欲や怒り・ねたみそねみなどの煩悩が、凡夫ほどには荒っぽくない人。
ある程度はコントロールできる人。
ですから、「愛欲と名利に朝から晩まで振り回されている親鸞だ」
と懺悔されている、親鸞聖人ご自身のことを仰ったのではありません。
相当高いさとりを開いている人のことを、
「聖」と言われているのです。


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「逆」は「五逆罪を造っている人」
「五逆罪」とは、「五つの恐ろしい罪」をいいます。
中でも初めに挙げられているのが、「親殺し」の罪です。
包丁で刺したり、寝室に忍び込んで絞殺するなど、
子が親を殺す事件が絶えませんが、親鸞聖人は、
そのように手にかけて殺すばかりが五逆罪でないのだよと、
「親をそしる者をば五逆の者と申すなり」(末灯鈔)
と言われています。
「早く死んでしまえ」と言うのは無論だが、
「うるさい」「あっちへ行け」などとののしるのも五逆罪である、
ということです。
また仏教では、「殺るよりも、劣らぬものは、思う罪」と言われ、
もっとも恐ろしいのは「心」で殺す罪。
「心で親を殺す」とは、一つ屋根の下に暮らしておりながら
ロクに口もきかず、呼ばれても聞こえないふりをして親を
邪魔者扱いすることです。
赤ん坊のころは、おしめ換えから食べ物ひとつひとつ、
何もかも世話をしてもらい、
高熱を出せば夜通し看病してもらった。
小・中・高と心身を削って養育され、精神的にも経済的にも、
一人前になるまでどれだけ親に手間をかけて、
私たちは成長してきたことでしょうか。
ところが今度はその親が、寝たきりになったらどうでしょう。
おしめ一つ換えるのも面倒くさがり、
介護に疲れて「もういい加減に・・・」、
他人にはとても言えぬ恐ろしいことを、自分は絶対に思わないと、
言い切れる人はありましょうか。
音を仇(あだ)で返す鬼とはいったい誰のことか、
よくよく胸に手を当てて反省せずにはおれません。

これら「親殺し」など五つの罪のうち、
一つ犯しても「五逆罪」であり、
もっとも苦しみの激しい無間地獄に堕ちる「無間業」と教えられています。
その五逆の罪人を「逆」と言われています。

「謗」は、「謗法罪を造っている人」のことで、
親鸞聖人は、「善知識をおろかに思い、師をそしる者をば、
謗法の者と申すなり」(末灯鈔)
と仰っています。
「謗法罪」とは、真実の仏法を謗ったり非難する罪をいいます。
大恩ある親を殺す五逆罪も大変恐ろしい罪ですが、
最も恐ろしいのが仏法を謗る(そしる)罪であり、
「無間業」と教えられている。
それは、すべての人が救われるたった一本の道である仏法をぶち壊し、
幾億兆の人を地獄へ堕とすことになるからです。
だが、「仏法も鉄砲もあるか」「仏教なんて迷信だ」「邪教だ」と
ののしる者だけが、謗法しているのではない、
「善知識をおろそかに思う」ことも謗法罪である、
と教えられているお言葉です。
「善知識」とは、仏教を正しく教える先生のことであり、
「おろかに思う」とは、おろそかにする、軽んずること。
例えば、居眠り半分や他のことを考えながら聞いたり、
「どれだけ聞いても分からん」と不平を言う、
「今日の話は長かった」「短かった」と批評するのも、
善知識を疎かにしているのです。
このような謗法罪を造っている人を「謗」といわれるのですが、
一体だれのことでしょうか。
仏法聞かぬ人は、「仏法聞くなら他のことをする」と身体で謗法罪を造り、
聞いている人は聞きながら、謗法罪を造っているのです。
されば「凡・聖・逆・謗」とは「すべての人」、
「どんな人も」ということであり、
この中に入らぬ人は一人もないことが、お分かりになるでしょう。

●弥陀に救われたら、どうなるのか。

次に「斉しく(ひとしく)廻入すれば」の「廻入」とは、
「廻心帰入(えしんききゅう)」を略した言葉です。
「廻心」とは「心が廻る(まわる)」と書くように、
心がガラーッと百八十度変わってしまうこと、
「帰入」は、阿弥陀仏の誓願に救われたことをいわれます。
阿弥陀仏は、「すべての人を、必ず極楽浄土に生まれられる身に救う」
という超世の大願をおこされています。
この「弥陀の誓願不思議」に助けられたならば、
「死んだらどうなるのか後生不安な心」が、
「いつ死んでも必ず浄土に往ける大安心」に、
「何のために生きているのか分からない」暗い心が、
「人間に生まれたのはこれ一つのためだった」と明るい心に、
生まれ変わる。
永久の闇より救われて、苦悩渦巻く人生が、
そのまま絶対の幸福に転じ変わってしまう。
弥陀に救われる前と、救われた後とでは、
このように心がガラーッと変わり果てますから、
弥陀に救い摂られたことを「廻心」といい、
『正信偈』には「廻入」といわれているのです。

しかもその「弥陀の救い」は、「一念」であることを親鸞聖人は、
「一念とは、これ信楽開発の時尅(じこく)の極促(ごくそく)を顕す」
(教行信証)
と説示されています。
「信楽開発」とは、“後生不安な心”が晴れ渡り、
“必ず浄土へ往ける”大満足がおきたこと。
その「弥陀の救い」の速さを「一念」という、
と言われているお言葉です。

凡夫も、聖人も、五逆の罪人も、謗法の者も、
一念で阿弥陀仏に救い摂られたならば
(凡・聖・逆・謗、ひとしく廻入すれば)、
どうなるのか。
一味になる。それはちょうど、世界中の川の水が、
海に流れ込むと、同じ塩辛い一つの味になるようなものだ

と、例えで教えられているのが、次の
「衆水の海に入りて一味なるが如し」です。
「衆水」とは、色々の川の水のこと。
日本にも、世界にも、沢山の河がありますが、
どの川の水も、海へ、海へと向かって流れています。
大河も小川も、綺麗な川の水も汚い川の水も、
万川の水がやがて必ず海にたどりつくことを、
「衆水が、海に入る」と言われ、
海に流れ込んだならば、同じ塩辛い味になることを、
「一味になる」と表現されていまする
海は、圧倒的に広くて大きいですから、
どんな川の水も受け入れて、海には入れば一つの味になる。
そのように、
「阿弥陀仏に救い摂られたならば、ノーベル賞をもらった人も、
凶悪殺人犯も、才能の有無、健常者・障害者、
人種や職業・貧富の違いなどとは関係なく、
すべての人が、同じよろこびの世界に共生できるのだよ」
と、驚くべき世界を喝破されているのが、
「凡聖逆謗斉廻入
如衆水入海一味」
の二行なのです。
「えー、殺人犯も同じよろこびに共生するって、
おかしいんじゃないの」と思われるでしょう。
このお言葉の真意を知るのは、
実は大変なことで、ちょっとやそっとで分かるものではありません。
例えば、こう言われて、ピンとくるでしょうか。
「ヒトラーも、オバマ大統領も、酒井法子さんも、あなたも、
弥陀に救われたならば、全く同じ心の世界に生かされるのですよ」
あまりに常識からかけ離れていて、
「なるほどそうですか」と、簡単に納得できることではありませんね。
そこで聖人は、この不可思議な弥陀の救いを
何とかみんなに知ってもらいたい、早く弥陀の救いに遇ってもらいたいと、
同じ法然門下の法友と、大ゲンカまでなされたのが、
今日「信心同異の諍論」といわれている論争です。
「阿弥陀仏の救いは、一味平等か、差別はあるのか」
で、激しく闘われた親鸞聖人の大喧嘩について、
また別の機会に詳説したいと思います。


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