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再会は弥陀の浄土で! [死後に再会するためには]

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亡くなったあの人は、どこへ行ったのだろう。
もう一度会いたい。
愛する人との突然の死別は、
人を涙の谷底に突き落とします。
幾ら泣いても、今生で再び会うことはできません。
しかし死は、嘆き悲しんでいる私自身にも、
確実に訪れるのです。
親しい人の無常は、自らの生と死を見つめる勝縁。
どうすれば、愛する人とまた再会できるのでしょうか。



以前、本屋大賞に選ばれたことのある小説『東京タワー』は、
テレビドラマ化に続いて映画化、舞台化され、
大変な反響を呼びました。
著者リリー・フランキーさんの自伝的小説で、
故郷・九州での少年期と、東京での学生時代、
上京した母・栄子さんとの生活と闘病、
そして死別が描かれています。

「ボクの一番大切な人。たったひとりの家族。
ボクのために自分の人生を生きてくれた人。
ボクのオカン。
オカンが死んだ。」
「ボクが子供の頃から一番恐れていたこと。
宇宙人の襲来よりも、地球最後の日よりも恐れていたこの日」
最愛の母を亡くした悲しみが赤裸々に、切々とつづられます。


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「人が母親から生まれる限り、この悲しみから逃れることはできない。
人の命に終わりがある限り、
この恐怖と向かい合わずにはおれないのだから」
どんなに離れたくない人であっても、
別れの時が必ず来る。
お互いどんなに必要としていても、お構いなしに死は訪れる。
考えたくない現実だからこそ、いつ来ても、
突然と感じるのかもしれません。
両親だけでなく、夫や妻、子供との死別など、
愛する人との突然の別れに、
多くの人が生木裂かれる思いを味わっています。

それまでの日常生活が一変し、
うつ状態になる人も少なくありません。
一緒にいた時間が幸せであればあるほど、
失った痛嘆は深さを増すものです。

●私にもやってくる

死別は、いつも私が見送る側とは限りません。
私が見送られる時が必ずやってきます。
大事な人の死を無駄にしたくない。
だからこそ、肉親や友人の無常を縁に、
我が身に迫る一大事を見つめることが肝心だと、
仏教では教えられています。

お釈迦さまの時代に、次のような女性がありました。

キサー・ゴータミーといわれる麗しい女性が、
玉のような男の子を産んだ。
命より大切に育てていたその子が、
突然の病で急死した。
彼女は狂わんばかりに愛児の亡骸を抱きしめ、
この子を生き返らせる人はないかと村中を尋ね回った。
会う人見る人、その哀れさに涙を流したが、
死者を生き返らせる人などあろうはずがない。
だが今の彼女に、何を言っても無駄だと思う人たちは、
「舎衛城にましますお釈迦さまに聞かれるとよい」
と教える。

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早速、キサー・ゴータミーは、お釈迦さまを訪ね、
泣く泣く事情を訴え、子供の生き返る法を求めた。
哀れむべきこの母親にお釈迦さまは、
優しくこう言われている。
「あなたの気持ちはよく分かる。
いとしい子を生き返らせたいのなら、
私の言うとおりにしなさい。
これから町へ行って、今まで死人を出したことのない家から、
ケシの実を一掴みもらってくるのです。
すぐにも子供を生き返らせてあげよう」

それを聞くなりキサー・ゴータミーは、町に向かって一心に走った。
どの家に訪ねても、
「昨年、父が死んだ」
「夫が今年、亡くなった」
「先日、子供に死別した」
という家ばかり。
ケシの実はどの家でも持ってはいたが、
死人を出さない家はどこにもなかった。
しかし彼女は、なおも死人の出ない家を求めて駆けずり回る。
やがて、日も暮れ夕闇が町を包むころ、
もはや歩く力も尽き果てた彼女は、
トボトボとお釈迦さまの元へ戻っていた。

「ゴータミーよ、ケシの実は得られたか」
「世尊、死人のない家は、どこにもありませんでした。
私の子供も死んだことがようやく知らされました」
「そうだよキサーゴータミー。人は皆死ぬのだ。
明らかなことだが、分からない愚か者なのだよ」
「本当に馬鹿でした。こうまでしてくださらないと、
分からない私でございました。

こんな愚かな私でも、救われる道を聞かせてください」

キサーゴータミーは、わが子の無常を縁に己に迫る一大事を知らされて、
仏法を求めるようになったのです。


四歳でお父様に、八歳でお母様に死別されたといわれる親鸞聖人も、
「次は自分の番だ」
と死の影に驚き、九歳で仏門に入られました。

「散る桜 残る桜も 散る桜」
と詠んだ人もあります。
満開の桜も、風に吹かれて、ひらひらと、やがて散っていく。
先に散るか、後に散るか、最後は一枚残らず散ってしまいます。
同じように私たちも、一人、また一人と、この世を去っていく。
他人の葬式に参列して見送る人も、
自分の葬儀で他人に見送られる日が必ず来るのです。
死は、百パーセント確実な未来であり、
無関係でいられる人は一人としてありません。


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●それは突然訪れる

しかも、死はいつやってくるか分かりません。
だれもが「いずれ死ぬ」と知っていますが、
「今日が死ぬ日」と思う人は一人もないでしょう。
有名な『徒然草』には、「死期はついでを待たず、
死は前よりしも来たらず、かねて後ろに迫れり。
人皆死あることを知りて、待つこと、しかも急ならざるに、
覚えずして来る」
“死に順序などない。それは前からだけ来るのではなく、
いつの間にか背後に迫っている。
百パーセント死ぬのを知りながら人は、
今死ぬ、の差し迫った思いを持たぬまま、
思いがけず死んでいくものなのだ”

ゴールデンウィークに、大阪エキスポランドのジェットコースターで、
十九歳の女性が犠牲になりました。
楽しい連休の遊園地で、まさか奈落が待っていようとは
夢にも思わなかったでしょう。
今年の大型連休中だけでも、交通事故で亡くなった人は百十九人。
(平成19年のことです。)
それらの人たちの中で、当日の朝、死を覚悟して洗面し、
朝食を取った人があったでしょうか。

日頃とは打って変わったルンルン気分で、玄関を出たことでしょう。
それは、私たちが死のことなど考えもしないで、
旅行や遊びの計画を立て、出かけていくのと同じです。

お釈迦さまは、
出息入息 不待命終
(出る息は入る息を待たず、命終わる)
と説かれています。
吸った息が吐き出せなければ、吐いた息が吸えなければ、
その時から後生です。
後生と聞けば何十年も先のことのように思いますが、
吸う息吐く息と触れあっているのが後生なのです。

老後という未来は次第に訪れる。
しかし死は、突如としてやってくる。
そして、すべてを奪い去る無法者なのです。

●独りぼっちで去っていく

ふだん、「死は怖くない。むしろ美しい」
と思っていても、実際、死に臨めば、演技する余裕も意地もありません。

今まで頼りにしてきた金や財産、名誉や地位、家族、恋人、友人、
そして、最も大切にしてきたこの肉体とさえも、別れねばなりません。
蓮如上人は次のようにおっしゃっています。

「まことに死せんときは、予(かね)てたのみおきつる妻子も財宝も、
わが身には一つも相添うことあるべからず。
されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ」
                  (御文章)

いよいよ死ねばならぬとなったら、どうでしょう。
「予てたのみおきつる妻子も財宝も」とは、
「今まで頼りにし、あて力にしてきたすべてのもの」
ということです。
私たちは何かを頼りにし、あて力にしなければ、生きてはいけません。
夫は妻を、妻は夫をあて力にし、親は子供を、
子供は親を頼りにしています。
恋人や友人を心の支えにしている人もあります。
また、「これだけ預金があるから大丈夫」
「不動産があるから安心だ」
と、金や財産をあて力にしています。
昇進した、教授だ、閣僚だ、難しい試験に合格したと、
地位や名誉を力にしている人もあるでしょう。
これら一切、私たちがあて力にして生きているものすべては、
死に直面したとき、
「わが身には一つも相添うことあるべからず」
積み上げた学問も思想も哲学も何一つ、明かりにはなりません。
死の巖頭に立たされたときには、ニーチェもキルケゴールも、
一切役に立たない。
何もかもが力にならぬことに、初めてガク然とするのです。


「されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、
唯一人こそ行きなんずれ」
“人間は最後、たった一人で真っ暗な後生へと旅立っていくのだよ”
咲き誇った花も必ず散る時が来る。
すべての光を失って、暗黒の後生に入っていかなければなりません。
ところが、そんな自覚もなく、のほほんと日々、生きている人ばかりです。
すべての人にとって、これ以上の大事はありませんから、
これを「生死の一大事」とも、「後生の一大事」ともいわれます。

●生の瞬間を輝かせる第一歩

この後生の一大事の解決一つを教えられたのが仏教なのです。
それにはまず、死を真面目に見つめなければなりません。

“今死ぬと 思うにすぎし 宝なし
    心にしめて 常に忘るな”

死を見つめることは、いたずらに沈むことではない。
生の瞬間を日輪よりも明るくする第一歩なのです。
蓮如上人は、
「誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏を深くたのみまいらせて」
           (御文章)

とおっしゃっています。
後生の一大事を常に心にかけよ。
そして、この一大事の解決は、大宇宙の仏方の本師本仏である
阿弥陀仏のお力によらなければ、絶対にできませんから、
「阿弥陀仏を深くたのめ」と言われるのです。
「たのめ」とは、うちまかせよ、信じよ、ということです。
阿弥陀如来だけが後生の一大事を解決できるのだよと
『御文章』には、このようにも教えられています。

「阿弥陀如来を一筋にたのみたてまつらずば、
末代の凡夫、極楽に往生する道、二つも三つもあるべからざるものなり」
           (二帖目八通)

「その外(ほか)には何れの法を信ずといえども、
後生の助かるということ、ゆめゆめあるべからず」
           (五帖目十九通)

●皆々信心決定あれかし

弥陀に救われたことを、信心決定ともいいます。
親鸞聖人が一生涯、教え勧められたことは、
「聖人一流の御勧化(ごかんけ)の趣は、信心をもって本とせられ候」
と言われているように、「早く信心決定せよ」
ということ以外にありませんでした。
蓮如上人の願いもまた、一日も早く一人でも多く信心決定してもらいたい、
の熱望一つであったことは、
「あわれあわれ、存命の中に皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり」
のご遺言で明らかです。
“命のあるうちに、すべての人が信心決定してもらいたい”
と朝夕、願い続けていかれたのです。


なぜ、これほどまでに「信心決定せよ」と手に汗握って、
お勧めになっているのか。
それは、死んで極楽往生できるのは、
生きている今、信心決定した人だけだからです。


「真実の信心をえたる人のみ本願の実報土によく入ると知るべし」
               (尊号真像銘文)
と、親鸞聖人が名言されているように、
本願の実報土(弥陀の浄土)へ往けるのは、真実信心を獲ている人、
すなわち信心決定している人のみであることを
よく心得ていなければなりません。
だれでも彼でも死んだら極楽、死んだら仏、ではないのです。

蓮如上人も、
「この信心を獲得せずば、極楽には往生せず」
            (御文章二帖目二通)
と断言されています。
信心獲得とは、信心決定と同じです。
それまで持っていなかったものを獲るから、
「獲得」と言われてるのです。
初めから持っていたものを「獲得」とは言いません。

●また遇う国の 
      ありと思えば

信心決定(信心獲得)すれば、
“必ず弥陀の浄土(無量光明土)に往生できる”
と心が一つに定まるので、「往生一定」と言われます。
往生の本決まりです。


親鸞聖人は二十九歳の時、法然上人に遇われ、
阿弥陀仏の本願を聞き抜かれ、往生一定の身になられました。
その六年後、三十五歳の御時に、
権力者の無法な弾圧により流刑に遭われました。
恩師・法然上人は南国・土佐へ、親鸞聖人は越後へ。
この世で生き別れになられたのです。
法然上人と過ごされた時間は、わずか六年。
生涯、おそばにあってご教導を受けたいと願っておられた聖人にとって、
あまりにも急な別離でした。
会うのは別れの始めなり。
いかに親しくとも、会った者は必ず別れねばならない時が来ます。
これを仏教では、「会者定離」といいます。
親鸞聖人が、法然上人との別離の悲しみを詠まれたお歌は、
読む者すべて、心が締めつけられるでしょう。

「会者定離 ありとはかねて 聞きしかど
       昨日今日とは 思わざりけり」

“この世は諸行無常、会者定離のならいとは
かねて聞かせていただいておりましたが、
お師匠さまとのお別れが、これほど早く来ようとは。
あまりにも・・・、あまりにも早すぎます・・・”
悲泣される親鸞聖人に、法然上人は、またお歌をもって
優しく慰められました。

「別れ路の さのみ嘆くな 法の友
     また遇う国の ありと思えば」

法の友・親鸞よ、一時の別れをそのように嘆いてくれるな。
この世で弥陀に救い摂られた者は、
やがて浄土に往生して再会できるのだから”
『阿弥陀経』には、「倶会一処」と説かれています。
弥陀の浄土は、倶に(ともに)一処(いっしょ)に会うことができる世界。
信心決定したならば、「また遇う国」浄土で再び面会できるのです。


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●光明輝く浄土に
     必ず来なさいよ

親鸞聖人もお亡くなりになられる時、
次のようにおっしゃっています。

「この身な今は歳極まりて候えば、
定めて先立ちて往生し候わんずれば、
浄土にて必ず待ちまいらせ候べし」
         (末灯鈔)

“親鸞、いよいよ今生の終わりに近づいた。
必ず浄土に往って待っていようぞ。
間違いなく来なさいよ”
浄土往生間違いなし、と往く先のハッキリしておられた聖人は、
「あなたも信心決定して、必ず浄土に来なさいよ」
と私たちに呼びかけてくださっているのです。


真宗の盛んなある村に、仏法熱心な夫婦がありました。
平生から弥陀の本願を喜ぶ身になっていた夫は、
いよいよ臨終が近づいた時、人生の苦楽をともに乗り越えてきた妻に、
こう告げました。
「おまえと一緒になれて、本当によかった。
おれは先に往く。極楽の蓮台で、半座空けて待っているからな」
縁あって同じ家で暮らす家族。
この世だけでなく、光明輝く弥陀の浄土で再会できる、
永遠の家族となれるよう、ともに仏法を聞き求め、
弥陀の本願を聞き開かせていただきましょう。



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