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人生の無常を切々と・・・(蓮如上人・白骨の御文章) [蓮如上人]

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(蓮如上人)

古今に稀な名文であり、仮名交じり文の文章の模範とすべきもの
蓮如上人の「白骨の章」を読み、
福沢諭吉は、こう感嘆したという。

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「白骨の章」は、浄土真宗の葬儀・法事の折りに拝読され、
『御文章』五帖八十通の中でも、特に有名である。

あまりに優れているため、他宗派でもこれになぞられた文章が
作られているほどだ。
蓮如上人は、ここで、何を教えているのだろうか。

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それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、
おおよそはかなきものは、
この世の始中終、まぼろしの如くなる一期なり

大意 浮き草のように不安な人生をよくよく眺めてみれば、
人の一生ほどはかないものはない。
生まれて、成長し、やがて年老いて死ぬ。
幻のごとく過ぎ去ってゆく。

人の一生を、まず、「浮いた生」と仰っている。
浮き草の根が池の地に届かず、風のまにまに漂っているような
不安な状態を表されたのだ。

●火宅無常の世界

親鸞聖人は、『歎異抄』に仰っている。
「煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、
萬(よろず)のこと皆もって空事・たわごと・真実あること無し」
「煩悩具足の凡夫」とは、欲や怒り、ねたみやそねみの止まぬ人間、
「火宅」とは、火のついた家のように不安な様をいう。
隣家から出火し、バチバチと音を立て、
猛火がまさに自宅の庇(ひさし)にまで燃え移ったとき、
ビールで一杯やりながらプロ野球を見ていられるだろうか。
電話でおしゃべりしていられるか。
家財道具を一つでも運び出そうと必死になっているか、
ただ慌てふためいているかのどちらかであろう。

人生を「火宅」と言われるのは、この世が「無常」だからである。
健康、金や財産、地位や名誉、家族や恋人など、
何もかも、今日あって、明日はなき幸せではないか。

和歌山でのヒ素入りカレー事件以来、缶ジュースや健康飲料、
ソースなどへの毒物混入事件が相次いでいる。
(平成十年のことです。)
いつ、どこで、どんなものを食べさせられて、
死ねばならぬか分かったものではない。
十月には、兵庫県の19歳が6歳の子供をビルの6階から
突き落とすというショッキングな事件もあった。
「ここから飛び降りたら、人間は死ぬかどうか試してみた」
と供述しているそうだが、
ある日、突然、こんな事件に巻き込まれて、
我が子を失うかもしれぬ世相である。
そうなれば、昨日までの一家団欒が、
一夜にして悲しみの生活へと変わってしまう。

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大学合格の歓喜も1、2ヶ月もすれば5月病が襲い、
結婚の喜びも成田離婚と崩壊する。
株価は暴落、金融機関は信用を失墜させ、
職場にはリストラの嵐が吹いている。
何一つあてにならぬ、火宅無常な世界に、
煩悩具足の人間が生きているのだから、
不安のたえぬ、苦しみの人生になるのである。

この世の始中終」とは、人生の始まりと中と終わり。
女性の一生を、禅僧・一休は、
「世の中の娘が嫁と花咲いて
嬶(かかあ)としぼんで婆(ばば)と散りゆく」と歌った。
何をしても楽しいときだから、
女偏に良いと書く「娘」時代。
結婚すると、家から離れられなくなるから
女偏に家で「嫁」。
子供ができると、亭主を尻に敷いて、
家庭の実権を握り、カカア天下で鼻息荒くなるから、
女偏に鼻と書いて「嬶(かかあ)」。
そのころは、容色も衰えるから「かかあとしぼんで」。
最後は「婆(ばば)と散りゆく」。
よる年波で、女の顔に波のようにしわができるので、
女の上に波と書くという。
男性とて、同じである。

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●夢・幻の人生
    7、80年も瞬く間

日本の平均寿命は、男性が77.19歳、女性は83.82歳と発表されたが、
80年と言っても瞬く間。
これからの50年は長いように思うが、
過ぎ去った50年はあっと言う間ではなかったか。
70年、80年と言っても、一瞬のことなのだ。
アルバムを開いてみれば、あんなこともあった、
こんなこともあったと思い出すが、
霞がかかったような感じがする。
夢の世に夢見て
      くらす夢人が
 夢ものがたり
      するも夢かな

金じゃ、地位じゃ、名誉じゃと、
これこそ真実だと命がけで求めているが、
夢の中で夢を見ているようなものなのだ。
「私はこのためにこそ生きてきた」と、
何か一つでも満足できるものがあるだろうか。

「人間50年、下天(げてん)の中をくらぶれば夢まぼろしの如くなり」
人生を夢まぼろしと感ずるのは、
数え年49歳にて、天下統一の夢破れ、
本能寺の猛火のうちに自刃した信長だけではない。

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されば未だ万歳(まんざい)の人身を受けたりという事を聞かず。
一生過ぎやすし。
今に至りて、誰か百年の形体を保つべきや

大意 どんなに長生きできても、
一万歳も生きた人は聞いてことがない。
一生は、たちまちに過ぎ去ってしまう。
誰か百年、この肉体を保つ人がいるだろうか。

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今でこそ、百歳以上の長寿者が日本国内で一万人を超えたが、
現在の最長寿でも114歳。(平成10年のことです。)
200歳、300歳と生きた人はついぞ聞かない。
セミの命は、地上に出て一週間と言われるが、
人生80年とすると、セミの一日は、人間の10年に当たる。
「何と短い一生か。哀れなものよ」
と思うかもしれないが、
無量寿の仏さまの眼からご覧になれば、
100年といっても、セミと変わらぬ、はかないものなのだ。

●明日をも知れぬ命   
     次は、自分の番だ!!

我や先、人や先、今日とも知らず、
明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫(しずく)、
末の露(つゆ)よりも繁しといえり

大意 後生へ旅立つのは我が先か、他人が先か。
今日とも、明日とも知れぬのが私たちの命である。
日毎に死ぬ人は、大雨のとき、木の枝先から滴る雨水、
枝をつたって下る雫よりも多いのだ。

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ここで、「我や先、人や先
と、まず、私が先に死んでゆくのだと仰っている。
ところが、「死」と聞くと、「他人の死」を連想し、
自分が死ぬとは思えない。
蓮如上人は、そうではないぞ、自分が先に死ぬんだぞ、
と私たちの迷った考えを打ち砕いておられるのである。

「鳥辺山
   昨日の煙 今日もたつ
      眺めて通る人も何時まで」
鳥辺山は、京都にあり、今日、
火葬場の代名詞となっている山である。
麓を通った人が、中腹から煙が上がっているのを見て、
「ああ、誰か死んで焼かれているんだなぁ」
と通り過ぎる。
翌日も、また煙が上がってる。
「今日も誰か死んだのか」
そのように見ていた人も、
いつまでも眺めてばかりはいられない。
やがて自分も焼かれ、他人に眺められるときがくるのである。

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今年も多くの有名人が死亡している。
30年連続「紅白」出場した島倉千代子さん、
桜塚やっくんが交通事故死、
歌手の藤圭子さん自殺なのか、マンションから転落死した。
坂口良子さんは昨夏再婚したばかりで、57歳の若さで急逝した。
「あの人も死んだか。この人も若いのに・・・」
と思ううちにも、墓場へ墓場へと行進している。
やがて自分も後生へと突っ込んでゆかねばならぬときがくるのだ。

釈尊にあるとき、お弟子が尋ねた。
「世尊、一切智人、みなことごとく知りわきまえておられます。
何事でもご苦労に思し召すことはないでしょう」
すると、釈尊は、
我が身には外に苦労はないが、
今も雨が降るほど人が死んで地獄に堕ちているのが、
さとりの眼に映っている。
それがこの釈迦の、唯一の苦しみじゃ

とお答えになっている。

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地球上に今日、70億人の人が生きているが、
1秒間に4、5人が死んでいるという。
1日に43万人、まさにドシャブリの雨のように
人が死んでいるのである。
カッチン5人、カッチン5人と、秒針が進む毎に、
自分の死ぬ順番が、迫っているのだ。
「いってくるぞ」と、朝、元気よく家を出て行った人が、
交通事故などで、見るも無惨な姿で帰宅することがある。
「行って」から帰って「来る」つもりで、
「いってくるぞ」と言うのだが、
もう「来る」ことはないのだ。

●無常からは逃れられぬ
      全人類は死刑囚

既に無常の風来たりぬれば、
即ち二つの眼たちまちに閉じ、
一の息ながく絶えぬれば、
紅顔むなしく変じて桃李(とうり)の装を失いぬるときは、
六親・眷属(けんぞく)集まりて歎き悲しめども、
更にその甲斐あるべからず

大意 一度無常の風に誘われれば、
どんな人も二度と眼を開かなくなる。
一息切れたら、顔面は血の気を失い、
桃李の肌色はなくなってしまう。
肉親や親戚が集まって、どんなに泣き悲しんでも、
二度と生き返ってはこない。
無常の風とは、死のことだ。
冷たくなった人に取りすがって、
「死なないで。もう一度笑って。元気になって」
といくら叫んでみても、空しいだけである。

フランスの哲学者パスカルは言っている。
幾人かの人が鎖につながれているのを想像しよう。
みな死刑を宣告されている。
何人かが、毎日、他の人たちの目の前で殺されてゆく。
残った者は、自分たちの運命も同じであることを悟り、
悲しみと絶望で互いに顔を見合わせながら、
自分の番を待っている。
これが人間の状態なのだ

すべての人間は、不定の執行猶予期間のついた死刑囚なのである。
「上は大聖世尊より始めて、下は悪逆の提婆に至るまで、
逃れ難きは無常なり」
釈尊も、釈尊を殺そうとした提婆達多(だいばだった)も、
ともに死からは逃れられない、
と『御文章』に警告しておられる。

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●目的なき人生の悲劇
      何のために生きるのか

さてしもあるべき事ならねばとて、
野外に送りて夜半の煙と為し(なし)果てぬれば、
ただ白骨のみぞ残れり

大意 泣いてばかりもいられないので、
火葬場に送って荼毘(だび)に付せば、
ひとつまみの白骨が残るのみである。

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今日までこの地球上に、おびただしい数の人間が生まれてきたが、
死なぬ人は一人もない。
みな、生死を繰り返しているのだ。
川面に泡ができ、しばらく流れて消えてゆく。
また、ポツンとできては消える。
人の一生は、その泡のようなもの。
泡が消えたからといって、誰が問題にするだろうか。
私一人いなくなっても、地球は何もなかったように、
回っている。

あわれというも中々(なかなか)おろかなり

大意 全人類は、哀れというも哀れ、
おろかというも愚かな人生の結末を迎えねばならないのだ。

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何のために苦しい人生を生きてきたのか。
金を集め、財を築き、他人の顔色を見て、気をつかい、
「これは俺が働いて獲たものだ」
と執着しているが、臨終には、みな夢と化してしまう。
「まことに死せんときは、
予てたのみおきつる妻子も財宝も、
わが身には一つも相添うことあるべからず。
されば死出の山路のすえ、
三塗の大河をば唯一人こそ行きなんずれ」
     (御文章一帖目十一通)

死に直面すれば、生涯かけて築いた財産も愛した妻子も
何の喜びにもならない。
集めたものをみな置いて、
独り後生へと旅立ってゆくときが必ずくるのだ。
残された者が、ケンカしてまで形見を獲ても、
その者もまた、獲得したものをすべて置いて、
消えていく。
何のために生きてゆくのか、生きてきたのか。
人間に生まれた目的は何なのか。

目的なき人生は、なんと悲劇的なのだろうか。

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●老少不定の境界

されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば・・・」

大意 老いも若きも関係なく、いつ死ぬか分からぬ。
はかないのが人間の世界だから。

誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて・・・」

大意 すべての人に必ず死は訪れる。
だから、誰もが、はやく後生の一大事あることを知り、
それを心にかけて仏法を聞き求めねばならない。

仏法を求める目的は、実に、
この「後生の一大事」の解決にある。
釈尊は、「必堕無間」と説かれ、
人間は死ねば必ず無間地獄に堕ちて、
八万劫という長年月、苦しみ続けねばならぬのだと
警鐘乱打なされた。

この一大事を知らぬから、安易に自殺するのだ。
死んだら楽になるのではない。
大変な苦しみの世界が待ち受けているのである。

●自殺者は大馬鹿者

釈尊ご在世中にも自殺者があったと見えて、
次のような話が残っている。
ある日、釈尊が托鉢の道中、
大きな橋の上で、あたりをはばかりながら
一人の娘が袂(たもと)へ石を入れていた。
自殺の準備である。

近寄られた釈尊は、優しくその事情を尋ねられた。
娘は外ならぬ釈尊なので、
一部始終を告白した。
「実は、お恥ずかしいことでございますが、
ある男と親しくなり妊娠しましたが、
その後、見捨てられました。
世間の眼は冷たく、おなかの子供の将来なども考えますと
死んだ方がどんなによかろうと思います。
どうかこのまま見逃してくださいませ」
と泣き崩れた。

釈尊は、哀れに思われながらも、厳しく仰せられた。
「お前は何という馬鹿者なのか。
お前にはたとえをもって教えよう。
ある処に、毎日荷物を満載した車を引かねばならぬ牛がいた。
牛はなぜ自分はこんなに苦しまねばならぬのか、
自分を苦しめるものは一体何なのかと考えた。
そのとき、牛はこの車さえなければ苦しまなくてもよいのだ
と思い当たった。
ある日、猛然と走って、大きな石に車を打ち当て、
壊してしまったのだ。
ところが、牛の使用人は、やがて、鋼鉄製の車を造ってきた。
今までの車の何百倍、何千倍の重さであった。
今となっては、どうすることもできない牛は、
軽い車を壊したことを深く後悔したが、
後のまつりであった。
お前は、その肉体さえ壊せば後は楽になると思っているが、
死ねば地獄へ飛び込むだけだ。
お前には分からないだろうが、
地獄の苦しみは、この世の苦しみくらいではないのだ

釈尊は、それから地獄の苦しみを諄々(じゅんじゅん)と説かれた。
娘は、初めて知る後生の一大事に驚き、
仏門に入って救われたとある。

「飛んで火に入る夏の虫」
虫はきれいな花と思って火に近づき、焼かれて死ぬ。
自殺者は、そんな虫と変わらぬ大馬鹿者なのだ。
限りないものを求めて苦しみ、
求まってもやがて裏切られて苦しんでいる。
現在の延長が未来だから、今、苦しんでいる者は、
また苦しみの世界に行かねばならぬのだ。
苦悩の者が、死んだ途端に極楽に生まれて、
楽になるのではない。

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お経には、
「従苦入苦 従冥入冥」
(苦より苦に入り、冥より冥に入る)
と説かれている。
現在の苦悩から、後生の無間地獄の苦しみへ入り、
今、暗い心で生活しているから、死ねば暗い世界へと
堕ちてゆかねばならぬのだ。

●十方諸仏の本師本仏
     阿弥陀仏を深くたのめ

阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、
念仏申すべきものなり

大意 阿弥陀仏に救い摂られて、
ご恩報謝の念仏を称える身になってもらいたい。

・・・・・・・・・・・・・・・・

後生の一大事の救われる道は、
阿弥陀仏の本願を信ずる以外にない。
釈尊は、仏教の結論として、
「一向専念無量寿仏」
と説かれた。
阿弥陀仏一仏を信じよ、
と勧められたのである。

蓮如上人は、これを分かりやすく『御文章』二帖目八通に教えておられる。
「それ、十悪、五逆の罪人も、五障、三従の女人も、
空しく皆十方、三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我ら如きの凡夫なり」
          (御文章二帖目八通)

大宇宙には、地球のような星があまた存在する。
地球上に釈迦如来が出現された如く、
仏が在す(まします)星が無数にある。
仏土といい、それらの仏方を十方諸仏という。
が、私たちが、あまりに罪悪深重なので、
それら十方諸仏は、とても助けることはできないと、
見捨てられたのだ。

「然れば、ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師本仏なれば、
久遠実成(くおんじつじょう)の古仏として、
今の如きの諸仏に捨てられたる末代不善の凡夫、
五障三従の女人をば弥陀に限りて、
『われひとり助けん』という超世の大願を発して」
           (御文章二帖目八通)

助ける力をもたれているのは、それら十方諸仏の本師本仏、
先生の仏である阿弥陀仏一仏だけなのだ。

だから、ここで、蓮如上人は、
「阿弥陀仏を深くたのみまいらせて」
と仰ったのである。

●お礼の念仏を称える身に

今日、「たのむ」は、「お願いする」の意味で使われるが、
ここでは、「頼む」ではなく「慿む(たのむ)」。
「あて力にする」「たよりにする」「うちまかせる」
の意である。
自力の計らいがすべてすたったとき、
他力に帰する。
後生の一大事が解決できて、いつ死んでも弥陀の浄土間違いない、
大安心、大満足の身となれるのだ。
死も障りとならない幸福だから、
絶対の幸福という。
これこそ、人生究極の目的なのである。
真剣な聴聞により、必ず後生の一大事は解決できる。
一日も片時も急いで、一大事を解決し、
お礼の念仏を称えられる身に早くなってもらいたい、
というのが、
「白骨の章」にこめられた蓮如上人の願いなのである。


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