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「なぜ生きる」その答えとは・・・ [親鸞聖人]

●なぜ生きる

私たち何のために生まれてきたの、
何のために生きているの、
どんなに苦しくても、
なぜ自殺してはいけないのでしょうか。
これが、「人生の目的」であり、
平易な言葉で「なぜ生きる」です。

富山県で、心臓を患う女の子をなんとか助けたいと、
“救う会”が結成され、募金活動がなされました。
目標額を達成し渡米が実現、
移植手術が報じられました。
政治も経済も、科学も医学も、
倫理も道徳も法律もスポーツも、
人間のあらゆる営みは、
「より快適に、少しでも長く生きる」為の
努力と言えるでしょう。


(平成22年の記事です)
鳩山首相は、来年度92.3兆円の予算を
「命を守る予算」と命名しました。
失業者支援に派遣村が設置されたのも、
孤独死の不安をかかえる高齢者をサポートするのも、
「命を守る」ために違いありません。
教育現場では、子供たちの“生きる力”を養おうと
必死に取り組みがなされています。
CO2の削減目標を高く設定し、
エコカー減税やエコポイントを導入したのは、
「地球環境を守り、生命を存続させるため」でしょう。

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ではどうして命を守らなければならないのか。
強く生きて何をするのか。
私たちは一体、なんのために生まれ、生きるのか。
この「生命の尊厳」「人生の目的」が
鮮明にされないかぎり、
どんな政策も技術の進歩も、
水面に描いた絵に
終わってしまうのではないでしょうか。

「人生に目的はあるのか、ないのか」
「生きる意味は何なのでしょう」

明答をどこからも聞けぬ中、
親鸞聖人ほど人生の目的を明示し、
その達成を勧められた方はありません。

『正信偈』にはズバリそれを、
『破闇明闇』(無明の闇を破ることだ)
と、断言されているのです。

「万人共通の生きる目的は、
苦悩の根元である『無明の闇』を破り、
“よくぞこの世に生まれたものぞ”
の生命の大歓喜を得て、
永遠の幸福に生かされることである。
どんなに苦しくても、
この目的果たすまでは生き抜きなさいよ」
聖人、90年のメッセージは一貫して、
これしかありませんでした。
すべての人の最も知りたい
「なぜ生きるのか」の答えを、
鮮明にされた方が親鸞聖人ですから、
世界の光と言われる
のもうなずけます。

では「無明の闇」とは、何か。
これを正しく知ることが、
生涯かけての最大事になってくるのです。

●苦しみの根元「無明の闇」とは

「無明の闇」とは、分かりやすく言えば、
「死後どうなるか分からない、後生暗い心」のこと。

「後生」とは死後のことで、
私たちの100パーセント確実な行き先です。

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禅僧・一休は、
「世の中の娘が嫁と花咲いて、
嬶(かかあ)としぼんで婆(ばば)と散りゆく」
と歌いました。
女性は、娘から嫁、嫁から嬶、嬶からお婆さんへと、
どんどん進んでいきます。
お婆さんが嫁になったり、かかあが娘になったり、
という逆行はない。
男も呼び方が違うだけで、すべて同じコースをたどります。
だんだんと体力は衰え、病気がちになり、
ケガもしやすくなり、物忘れが進み、
気力も衰えてくる。
どんなに美容整形を施してみても、
悲しいかな、避けられないのが「老い」です。

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だが、老後で終わりではない。
「散りゆく」と一休が言うように、必ず死んでいく。
では、死んだその先は、どうなっているのでしょうか。
「死ぬ」ことを、よく「他界」といわれます。
“この世とは違う、他の世界に行く”ことですが、
他の世界とはどこなのか、ハッキリしているでしょうか。

死んだら天国とか極楽とか言うけれど、本当だろうか。
楽しいところへ往けるような気もするけれど、
ひょっとして暗いところかも・・・。
いろいろ想像はしても、確証もない。
なんだかぼんやりしています。
科学はいろいろなこの世の謎を
解明してくれましたが、
肝心の人間の行き先については
何の説明もありません。

死んだらどこへ行くの?
これは“人類最大の謎”
と言っていいのではないでしょうか。
他のことなら冗舌(じょうぜつ)な政治家や
知識人といわれる人たちも、
こと後生の話になると、誰もが口ごもります。
哲学者も沈黙です。
どこへ行くかも分からないまま、一日一日、
着実に後生に向かって突き進んでいる。
これが、紛れもない私たちの現実なのです。

年金がちゃんと満額もらえるのか、
多くの人が制度に不安を感じていますが、
それは「受給年齢まで生きておれる」
ことを前提としてのことです。
その年になる前に、
事故や病気であっさり死ぬこともある。
早ければ今晩、この世とオサラバかも知れない。
元旦に「おめでとう」と言っていた人が、
もう何人亡くなられたことでしょう。
たとえ命永らえて20年、30年生きたとしても、
過ぎてしまえばアッという間。
一瞬で「後生」に入っていく。
その「後生」がどうなっているか、
ハッキリしない暗い心を「無明の闇」といわれ、
この闇こそが、人生を苦に染める元凶なのだと、
親鸞聖人は断定なされているのです。

どうして「後生暗い心」が苦悩の根元なのか。
疑問に思う人もあるでしょうが、
未来暗いとどうなるか。
墜落を知った飛行機の乗客を考えれば、
よく分かるでしょう。
小説や映画でたびたび描かれる「日航機墜落事故」は、
1985年8月12日、
羽田発大阪行きの日本航空123便が、
群馬県御巣鷹の尾根に墜落炎上し、
520名が亡くなる惨事でした。

発見された遺書には、
「恐い 恐い 恐い 助けて 
気持ちが悪い 死にたくない」(26歳女性)

「もう飛行機には乗りたくない」(52歳男性)

と、悲痛な心境がつづられていました。
墜死だけが恐怖なのではない、
悲劇に近づくフライトそのものが、
地獄なのです。

未来が暗いと、現在が暗くなる。
現在が暗いのは、未来が暗いからです。

死後の不安と現在の不安は、
切り離すことができないことが
お分かりになるでしょう。

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●無明の闇を破す、阿弥陀仏の本願

後生暗いままで、
明るい現在を築こうとしても、
できる道理はありません。

すべての人が苦しみから離れ切れないのは、
お金がないから」でも、
「病気だから」でもない、
「こんな人と結婚したから」でもなければ、
「隣にこんな人が住んでいるから」でもない、
後生暗い「無明の闇」こそが
苦しみの根元なのだ
と、
本師本仏の阿弥陀仏は見抜かれて、
こう約束なされています。

「すべての人の『無明の闇』を破り、
『往生一定』の大満足の身に救ってみせる」

このお誓いが、「阿弥陀仏の本願」です。
「本願」とは「誓願」ともいわれ、約束のこと。
あの有名な『歎異抄』の一章冒頭に、
「弥陀の本願不思議に助けられまいらせて」
と言われている「弥陀の誓願」とは、
この「阿弥陀仏の本願」のことです。
「往生一定」とは、
疑いもなく浄土に往く身となったことで、
蓮如上人は
「往生は治定せしめたまう」(聖人一流の章)とか、
「領解文」にも「往生は一定・おん助け治定」
と言われています。
「一定」も「治定」も、ハッキリしたこと。
一切が浄土往生のさわりにならないから
「無碍の一道」(歎異抄第七章)
とも聖人は言われています。
今日の言葉では、「絶対の幸福」といえるでしょう。

その絶対の幸福に、
平生の一念、必ず救い摂る、
という凄い約束を阿弥陀仏はなされている。

私たち人間の智慧では、
とても計り知れない阿弥陀仏のお誓いですから、
「弥陀の誓願不思議」と讃歎(さんだん)されるのです。

大宇宙広しといえども、
私たちの後生暗い心(無明の闇)
をぶち破ってくだされるのは、
本師本仏の阿弥陀仏だけ
なのだと、
親鸞聖人は、

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と仰っています。意味はこうです。
阿弥陀仏には、全人類の苦悩の元凶である
無明の闇(後生暗い心)を破り、
往生一定の大安心に救い摂るお力がある
から、
大宇宙のすべての仏や菩薩方が、
“智慧光仏”と弥陀を絶賛されているのである

ゆえに「阿弥陀仏一仏に向け、
阿弥陀仏だけを信じよ」と、
釈迦は仏教の結論として
「一向専念無量寿仏」と説かれ

この釈迦の金言を、
疑謗(ぎほう)破滅の嵐の中、
生涯叫び続けられていかれた方が
親鸞聖人でありました。


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ひでちゃん

これから死んでいく世界が極楽だと信じれることが無明の闇を破ると言うことでしょうか?それを確信するために今、生きているのでしょうか?
by ひでちゃん (2016-05-07 18:58) 

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