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仏教とは、どういうものか? [釈迦]


仏教は難しいと言う人がいます。
それは仏教の本末を聞かないからです。
今から2600年前、インドに出現された釈尊が、
35歳、大宇宙で最高の仏の悟りを開かれ、
80歳でお亡くなりになられるまで、
説き続けられた教えが仏教です。

仏教の本末は
病人と医者の関係に譬えられます。
まず苦痛を訴える病人がいます。
このまま放置すれば死んでしまう。
次に病人を何とか助けてやろうという
医者が現れます。
医者は素手では病気は治せないので、
薬を作ります。
その薬を病人に与えると、
病気が全快する。
苦痛と死の恐怖から救われた病人は、
医者に心から全快のお礼を言います。

つまりどういうことかといいますと、
我々、衆生という病人がいたから、
阿弥陀仏という医師が現れられました。
阿弥陀仏は素手では病気は治せないので、
六字の名号という妙薬を完成されました。
その薬を我々がいただくと病気が全快します。
それを信心決定(しんじんけつじょう)といいます。
信心決定したら、阿弥陀仏にお礼を
言わずにはおれなくなります。
それが称名念仏です。

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仏教の「本」である、
我々衆生が病人であるということですが、

その病名は、「無明業障のおそろしき病
と言います。
オバマ大統領からホームレスに至るまで、
「無明業障のおそろしき病」にかかっています。

恐ろしいのは自覚症状がないということです。
病気であるという証拠は、
人類がみな苦しんでいるということです。

お金や財産に恵まれない人ばかりではなく、
富豪や王侯貴族といわれる人たちも、
苦悩しています。

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徳川家康といえば、
誰もが知るこの世の大成功者でありましたが、
所詮は苦悩の人生でした。
「人の一生は重荷を背負うて
遠き道を行くがごとし」
死ぬまで重荷をおろせず、
苦悩の連続であったと自戒された言葉です。

女流作家の林芙美子の
「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」
は多くの人の共感を呼んでいます。

ダイアナ妃といえば、
英国王室の華でしたが、
王室での生活はこの世の地獄、
夫の不倫、拒食症、過食症、
愛人の裏切り、自殺未遂など、
苦の連続でした。

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誰もが苦しんでいます。
日本国内の自殺者は、年間三万人もいるのです。
病人でなければ、何でしょうか。


この心の病気を「無明業障」といいますが、
無明とはここでは煩悩のことです。
無明の闇の無明とは意味が違います。
我々には百八の煩悩があると釈尊は教えられています。
その代表が、欲、怒り、愚痴の、三毒の煩悩です。

業障とは、これら欲、怒り、愚痴などの煩悩で、
造り続ける悪業、罪悪が、
悪因悪果、自因自果の因果の法則により、
必ず自己の上に
「障り」=不幸、災難となって返ってきます。

それによって、この世も苦しみ、
未来も大苦悩の世界に堕ちてゆかなければなりません。

これを業障と言われるのです。
三毒の煩悩で、どれほど日々、
罪悪を重ねるか、知らねばなりません。
親鸞聖人は照らし抜かれたご自身の姿を
「罪悪深重」「一生造悪」「地獄一定」と懺悔しています。
我々もまた同じ極重の悪人なのです。


それでは検証してみましょう。


●欲の心で罪悪の造りどおし

①殺生罪の悪逆非道

まず欲の心で造る悪ですが、
食欲でどれほど殺生罪を造っているでしょうか。
殺生罪とは、衆生を殺す罪であり、
衆生の中には人間以外の動物も入ります。
人を殺すのも、牛、豚、鶏を殺すのも、
同じ殺生罪です。
人間が平和を願うように、動物とて、
健康で長生きしたいのです。
生命は同根と、仏教は教えています。
生き物を殺すのは罪なのです。

逆になって考えてみれば分かります。
譬えば、人間以上の知能を持つ動物がいたとして、
その者が我々の妻子や兄弟を
次々と捕まえて五体をバラバラにし、
焼いて食べたなら、
我々はその連中の悪逆非道を
どれほど怨むでしょうか。
殺生罪にも、自分で殺す自殺、
他人に頼んで殺させる他殺などがあり、

牛肉、魚などを買って食べるのは、
仏教でいう他殺にあたります。

アメリカでは、年間四千万頭もの牛が殺されます。
一日に換算すれば十万頭です。
有無を言わさず、
牧場から食肉処理場へ連行して殺し、
その牛肉が日本にも輸入されます。
我々は日々、どれだけの生き物を
無惨に殺して食べているでしょうか。
生まれてから今日まで何千、何万もの命を
犠牲にしているのです。

そんな殺生罪の報いが今、現れたならば、
この体、何万回、バラバラにされても
少しの文句も言えないのです。

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②財欲による親殺し

財欲でも恐ろしい罪を造ります。
親殺しは仏教では、五逆罪という重罪ですが、
体で殺さずとも、心中で親の死を願えば
心で親を殺す五逆罪です。

親が中風で寝たきりになり半年にもなると、
看病疲れで、ひそかに親の死を願います。

子供の病気ならば、
どれほど大金をかけても治そうとするが、
年老いた親の病気に
それだけの気持ちは生じません。

近所の医師を呼び、
その医者が帰りがけ、若夫婦に、
「今晩辺りがヤマですよ、よく注意していてくださいよ。」
などと耳打ちしてゆこうものなら、
ひそかに葬儀の準備を考えます。
子供がそうなったときと比較してみれば、
いかに親をおろそかにして、
心の中で邪魔者扱いしているかが分かります。

③色欲や名誉欲(女の決闘)

色欲や名誉欲でも悪の造りどうしです。
フランスの哲学者、ポール・ヴァレリーに、
次のような名言があります。
「もし人間がまなざしで
女性を犯すことができたら、
街は妊婦でいっぱいになってしまうだろう。
もし人間がまなざしで
人間を殺すことができたなら、
街は死体でいっぱいになってしまうだろう。」
色情を抱いて女性を見る男性は心中で、
その女性を犯しているのです。

同年配の女性同士がすれ違う時など、
互いに頭の先からつま先までの値踏みをし、
自分の服装、持ち物などと比較し、
勝負を決めようとします。
自分が負けたと思ったとき、
相手を心で切り刻みます。

あたかも巌流島の決闘の如きすさまじさです。

まさに「愛欲の広海に沈没(ちんもつ)し、
名利の大山に迷惑して」
と親鸞聖人が言われるとおり、
名誉欲、財欲、愛欲、食欲などで、
一生造悪の我々なのです。

その結果、
この世は自業苦(ジゴク・自分の業の障りで苦しむ)、
未来も地獄。
自分の業が生み出す大苦悩の世界で
八万劫中、のたうち回る後生の一大事が、
必ず起きるのです。

これを「無明業障の恐ろしき病」に
かかっているというのです。


●諸仏方も見捨てられた私たちの死んだ心

この病人を何とか助けようと
出現された名医が阿弥陀仏です。

実は、大宇宙の諸仏方も一度は、
苦悩の衆生を助けようとしてくだされたが、
我々の罪が余りにも重く、
とても救済は不可能と
見捨てられてしまいました。

その我々とは、どれだけ周囲に
無常の風が吹いていても、
少しも自分が死ぬとは思わず、
悪を悪と思いません。

地獄と聞いても皿一枚割ったほどにも驚かず、
極楽と聞いても喜びません。

後生の一大事を少しも一大事と思わず、
あわてる心もありません。
金が心配で寝られないことはあっても、
後生の一大事が心配で
寝られないことはありません。
仏法に向かっては、
キュトン、ポカン、ボーとした心しかないのです。

まさに「屍」の心です。

我々の本心は死んだ心、
屍と仏教は教えます。

諸仏では、屍は生き返らせることは
できませんでした。

こんな衆生の心を救うことは、
「太平洋のような大海の水を貝殻で汲み干し、
海底の宝物を手をぬらさずに
取ってくるより難しい。」
と『大無量寿経』には説かれています。

だから諸仏の手では到底及ばなかったのです。

この間の消息が、蓮如上人
『御文章』二帖八通に書かれています。
それ十悪五逆の罪人も、
五障三従の女人も、空しく皆、
十方諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我等ごときの凡夫なり


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●救済の試行錯誤

諸仏が見捨てた病人を、唯一人、
救おうと立ち上がってくださった方が
阿弥陀如来です。

蓮如上人は続けて仰っています。
然ればここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師本仏なれば、
久遠実成の古仏として、
今の如きの諸仏に見捨てられたる末代不善の凡夫、
五障三従の女人をば、
弥陀に限りて『われひとり助けん』
という超世の大願を発して、
われら一切衆生を
平等に救わんと誓いたまいて
無上の誓願を発してすでに南無阿弥陀仏と
成りましましけり

              (御文章二帖八通)

阿弥陀仏は諸仏の王であり、
師匠であり、最尊第一の仏です。

弟子の諸仏の手に負えない我々衆生を、
命にかけても助けてみせる、
屍を生まれさせてみせるとの大願を
起こしてくださいました。
何しろ、大海の水を貝殻で汲み干し、
海底の宝物を得るという難中の難事であります。
医師がエイズのような難病に取り組んで、
原因と救済の方法を求めて試行錯誤するように、
阿弥陀仏は、思惟に思惟を重ねられ、
その間、実に五劫に及びました。
一劫とは、四億三千二百万年です。

かくて大海の水を汲み干し宝物を得るには、
どうすればよいか、

という壮大な阿弥陀如来の本願が建立されました。
これを弥陀五劫思惟の願といいます。
薬で言えば処方箋、製造方法が確立したのです。


●特効薬の完成

次に阿弥陀仏は、医師が世界各地から
必要な材料を集めて

精製し、調合し、実験を重ねて、副作用なく、
病原を取り除く薬を完成するように、
修業に次ぐ修業を重ねられました。

その期間は兆載永劫という長年月です。

十劫の昔に、我々の恐ろしき病の治る特効薬、
南無阿弥陀仏の六字の名号大功徳を
完成なされたのであります。


●病気全快した大歓喜

このような、阿弥陀仏の五劫思惟、
兆載永劫のご修業の仏説が真実であった、
と知らされるのは、

自身が、この特効薬をいただいて、
無明業障が全快した時です。

親鸞聖人は二十九歳の御時、
法然上人に導かれて、
阿弥陀仏に救い摂られた時、
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人がためなりけり。
されば若干(そくばく)の業をもちける身にてありけるを
助けんと思召したちける本願のかたじけなさよ

              (歎異抄)
と泣いて喜んでおられます。

法然上人が救われたのは
四十三歳の御時でありました。

それから八十歳でお亡くなりになるまで、
いつも『大無量寿経』の、
五劫思惟・兆載永劫の御文を念誦される時、

涙を流しておられました。
ある時、お弟子がそれをいぶかしく思って
尋ねてみると、

「この愚痴の法然坊、
十悪の法然坊を助けんがために、
五劫の間、思惟して下され、兆載永劫の間、
ご修業をしてくだされたことを思えば、
お慈悲のほどが身にしみて、涙がこぼれる」
と仰せられたと記録に残されています。

若い娘が悲恋の物語を読んで
涙を流したというなら、誰も驚きません。
女性は感情的であり、特に若いときは感受性が強く、
よくあることでしょう。

しかし、五十代、六十代の男性である法然上人が、
難化な経典を念誦されては
涙を流されたことは一般には驚きでしょう。

それほどに深く、
弥陀如来の五劫思惟・兆載永劫の
ご修業の大恩を知らされておられたのです。

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