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人間の臨終には三段階ある! [後生の一大事]

 


(真実の仏法を説かれている先生の書物『とどろき』より載せています)


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●三位の臨終


釈尊は我々に八つの心があると教えられた。
八識と言う。
眼識・・眼の心
耳識・・耳の心
鼻識・・鼻の心
舌識・・舌の心
身識・・身の心。体が触れたものを判断する。
意識・・思考、記憶等の心
末那識・・悪の根源の心
阿頼耶識・・我々の本心。後生へ流転していく

ここから、仏教では、人間の臨終には三段階あると教えられている。
これを三位(さんみ)の臨終と言う。


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●(第一段階)心明了位の臨終
   目、耳、鼻、舌、身の心が死ぬ


第一段階を、心明了位(しんみょうりょうい)の臨終と言う。
眼、耳、鼻、舌、身識、これらの前五識が、
まず、死を迎える。

しかし、意識はまだ、生きている。
母親の臨終で例えれば「ハハキトク」の電報を受けた、
東京に嫁いでいる娘が、懸命に実家に駆けつけ、
枕元で、「おかあさん」と大声で呼ぶ。
だが心明了位の臨終にある母親は、
耳識が臨終を迎えているから、
耳元で叫ぶ娘の声も、遠くで誰かが、
かすかに叫んでいるようにしか聞こえない。
「誰の声だったかな、聞いた覚えのある声だが・・・」
と思うが、ハッキリしないのだ。
眼識も臨終だからカーッと目を見開いても、
娘の顔はボーッとカスミがかかったようでハッキリしない。
目が死ぬ。耳が死ぬ。
鼻が、舌が、身が死んでゆく。
もう見ることも発声も、体も動かせない。
このように前五識がまず死んでゆく。


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●(第2段階)身体愛法位の臨終
          意識が死ぬ時


次が、第2段階、身体愛法位の臨終である。
これは、意識の臨終だ。
それまで、ハッキリしていた意識が死ぬ時である。
この時、3つの執着により、苦しむ。
これを三愛という。
いろいろなものに対する執着心から、
大変な3つの苦しみが生ずるのだ。


では、三愛とは。
①境界愛
自分の愛し続けてきた、妻子や家財等に対する執着である。
それらと別れることは大変つらい。

蓮如上人は仰る。
「まことに死せん時は、かねてたのみおきつる妻子も財宝も
わが身には一つも相添うことあるべからず。
されば死出の山路のすえ、三途の大河をば、
ただ一人こそ、ゆきなんずれ」
           (御文章一帖十一通)
人間、死に際しては、それまで命がけに求めてきた財も
宝も何一つ持っていけない。
守り続けてきた妻子も、誰一人、連れてはいけない。
全く独生独死、独去独来、独り死んで行かねばならないのだ。
突然の火事で家屋や家財道具を失えば、
悲嘆に暮れるであろう。
しかし、土地はまだ残っている。
銀行に預金があり、家族も無事となれば、
再起も可能だ。
臨終は、それら一切を一時に失ってしまうのだ。
生木を引き裂かれる苦しみになるのは当然だ。


②自体愛
自分の身体ともいよいよ別れていかねばならない苦しみ。


③当生愛
死後どうなるか分からず、暗黒の世界に堕ちてゆく不安、
後生に対する恐れ。

身体愛法位の臨終では、これらの苦痛に攻められ、
七転八倒する思いなのだが、
心明了位の臨終が過ぎてしまっているから手足を動かせず、
声も出せない。

だから、本人は塗炭の苦にあっても、
外見から見れば、安らかな臨終にみえる。
表面上、あくまで静かに息を引きとったように見えるので
「うちのお婆さんは眠るが如く死んでいかれたから、
きっと極楽往生間違いないですよ」
などと言う。
外見だけから判断して、そう言う人が多いが、
実に無責任極まる発言で、
本人はキリキリ舞いをして苦しんでいても、
それが表現できないだけと知るべきだ。


●火の車、臨終に現れる
    自分の業が産み出したもの


仏教では、人間の臨終に、「火車来現」があると教えている。
火の車が、現れ来たる、というのだが、
この火の車とは、自己の業が産み出したものだ。
故に「火の車、造る大工はなけれども、
おのが造りておのが乗りゆく」
と詠まれている。
火の車を造る大工が地獄にいるのではない。
自分の業、が産み出したものに、
自分が乗ってゆくのだ。
ところが、火車来現も外部に伝える手段がない。
しかし例外的に、心明了位の臨終の終わり切らないうちに、
火車来現に出会う人がいる。

体が動き、声を発することができる時に、
火の車を体験するとなると、臨終の様相は一層、
悲惨になる。


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●M氏の体験


平成の現代にも火車来現を叫んで死んだ叔父の姿を通し
仏法を求めるようになった人がいる。

岐阜県在住のM氏である。
M氏の家庭は、熱心な真宗門徒で、
M氏が幼少の頃から父親、祖父が真剣に聞法していた。
M氏は成長するにつけ、仏法よりも、
立身出世、金儲けを生き甲斐とし、
働きバチのような日々を送っていた。
M氏の叔父に大の仏法嫌いがいた。
その人は、M氏の家族を誹謗し続けた。
「仏や、阿弥陀仏など、いない。
地獄や火の車など、おとぎ話だ。
この忙しい時に、M一家は、富山、滋賀まで仏法を聞きに行く。
何のために行くのだ。
仏法など聞いていても生きてゆけんぞ。
仏法など、クソ喰らえだ」
口汚く謗法罪を作り続けたその叔父が、
ガンで病床につき、急速に悪化した。
夜中に電話を受け、もう命が危ないと言う。
M氏と父親、祖父が病院に駆けつけた。


●断末魔の叫び


病室に入るなり、M氏の目は、
ベッドの上の叔父の異様な姿に釘付けになった。
叔父は、やせ細った両足を交互にふり上げ、
目は振子のように、何か恐ろしい物を見ている必死の形相で
「火が来た。熱い。熱い。
オレを隠してくれ。オレを隠してくれ」
と絶叫していたのである。
M氏は30分以上もそのような断末魔の叔父を
為す術もなく見つめるだけだった。
手で虚空をつかみながら、
あらん限りの声で「火が来た」と叫び続ける叔父の姿に、
「仏語に虚妄なし」仏説まことを知らされたと、M氏は言う。

声が枯れ、何とも言えない恐怖の形相で息をひきとった叔父の姿は、
余りにも強烈であった。
それ以来、仏法を求めずにおれなくなったと言う。
臨終の心相を釈尊は『大無量寿経』に説いておられる。
「大命、将に終わらんとして、悔懼(けく)交至る」
人生の最後には、生涯への後悔と、
未来への恐れが、交互に迫り苦しむ。

しかし、必死に叫ぼうとしても、叫ぶ力のないのが、
身体愛法位の臨終だ。


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●(第3段階)心不明了位の臨終
         阿頼耶識が次の世界へ


身体愛法位の臨終で意識が死に、
次に心不明了位の臨終に進む。

これは、阿頼耶識が次の世界に転生する。
これがまさに死の瞬間だ。

阿頼耶識の転生する迷いの世界は六つあり、
六道という。

地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界である。
源信僧都の『往生要集』に詳述されている。


●上の心と下の心
     聞法により知らされる


さて、仏教学者は、学問の積み重ねで、
我々の心の解明を目指すが、
仏法者は、聞法により、自己の本心を知らされる。
八識は、大別すれば、意識と阿頼耶識の2つの心に分けられる。
前五識は意識に従属し、
末那識は、阿頼耶識に支配されるからである。

仏法をきくことを聴聞というが、
聴聞を重ねていくと、
我々には二つの心があることが感じられてくる。
上の心と下の心、である。

上の心は、我々が、普通、「心」と言っているものであり、
仏教語で言えば「意識」である。
下の心とは、意識のはるか底に潜む心であり、
意識をもコントロールしている我々の本心、
「阿頼耶識」である。

そんな心の存在を現代人は知らない。
今日の心理学は、意識の下に潜在意識があり、
その更に下に深層心理があると教えている。
潜在意識すら、なかなか分からないので、
深層心理となれば、一層、難しい。
釈尊が2600年昔に説かれた我々の本心「阿頼耶識」を、
現代の心理学者はようやくつきとめ「深層心理」と名付けて
必死の研究を重ねているのだ。

ここでも仏智の深遠さが知らされる。


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「聴聞」の「聴」とは、
上の心、意識が、善知識の法話を聞くことをいう。
いわば人間の声を「聴く」のである。
真宗は「きくひとつで助かる教え」と言われるが、
この「聴く」ではない。
上の心でいくら仏法を聴いていても、
いよいよ臨終となれば、意識は肉体と共に亡んでしまうのだ。
本心、阿頼耶識が聞かなければ救われないのだ。

下の心が聞くことを「聞」と言う。
「聴」は千座、万座、何回でもできるが、
「聞」はただ一度。
「聞」とは阿弥陀仏の直のお呼び声を心のどん底に聞くことだが、
その時、心が大転換するから「廻心」という。
廻心の体験は、ある人で、一生涯にただ一度だ。
「一向専修の人においては、
廻心ということは、ただ一度あるべし」
        (親鸞聖人)
心のどん底の本心に聞かせるためには、まず、
その存在自体を知らねばならない。
それには、上の心で「聴」を重ねていくことだ。
下の心は、丁度、毛布を何百枚もかぶって昼寝しているような状態。
「聴」を重ねることによって毛布は一枚、また一枚とはがされていく。


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●我々の本心
    下の心の素顔


やがて、下の心がみえてくる。
みえてくる顔を表現すれば、テレーッ、キョロン、キョトン、
ポカン、ボーッと言う状態で、
上の心が真剣に聴いている時でも、
朝寝坊が目を覚ましたようなボーッとした顔だ。


「お前、そのまま今晩死んだら地獄へ堕ちるぞ」
と言われても、皿一枚割った程の驚きもない。
「救われたら極楽だぞ」と言っても、
千円札一枚もらったほどにも喜ばない。

「無常の世の中ではないか。今晩死んだらどうするのだ」
と無常観に迫られても、
「まだまだ死なん」とはねつける。

「生き物を殺して食べ、心中眺めれば、美しい女性を思い浮かべ、
浅ましいことを思い続けいるではないか。
憎む相手を心で切り殺しているではないか。
罪悪のかたまりが、お前の正体だ」と言われても
「殺して食べて何が悪い」と反発する。
地獄ときいても驚かず、極楽ときいても喜ばない。
仏法に向かえば、何の反応もなく、
死体にお灸をする如くである。
ウンともスンとも言わない。
親鸞聖人は「逆謗の屍」と仰有った。
逆は親殺しを意味する五逆罪、謗は、仏法を誹謗する謗法罪。
我々の本心は、自分に都合は悪ければ、
大恩ある親でも「死んでくれたらよい」と心で殺してしまう。
五逆罪を造る。
仏法に向かえば、「地獄も極楽もあるか、火の車など、お伽噺だ」
と謗法の大罪を犯す。
まさに逆謗の屍である。
仏法に向かえば屍だが、世間事なら徹夜も厭わない。
飲みたい、食いたい、寝たい、楽したい、金儲けの話なら、
一晩中でも起きている。
そんな本心が、腹底にあるのだ。
仏法が有り難い、というのは上の心が感情的に喜んでいるのだ。
下の心は少しも有り難いと思っていない。


寺は照る照る
 道々曇る
  家に帰れば雨風だ


寺で有り難い話を聴いて、
涙を流して喜んでいる。
ところが、家路へ向かえば、そんな喜びはだんだん薄れ、
到着して、憎い嫁の顔見たら「あいつめ、こいつめ」
と怒りの煩悩一杯で、喜ぶ心など、
どこかへ飛んでいってしまう。
それを「家に帰れば雨風」という。
そんな繰り返しで、漠然と寺参りしているうちに、
たちまち老齢、たちまち棺桶だ。
聴とはきけても「聞」が難しい。


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○遇い難き法とは知れど
     この法を
 極難信と知るはまれなり
○善知識に遇うことも
教うることもまたかたし
よくきくこともかたければ
信ずることもなおかたし
       (親鸞聖人)
よく「聞く」ことが難しいのだ。
しかし、必ず、「聞く」ことはあるのだ。


●雨だれの説法


蓮如上人御一代記聞書』に
石に水で穴をあける教訓が語られている。
いたりて堅きは石なり、
いたりて軟なるは水なり。
水よく石をうがつ。
『心源もし徹しなば、菩提の覚道、
何事か成ぜざらん』
といえる古き詞あり。いかに不信なりとも、
聴聞を心に入れて申さば、
お慈悲にて候あいだ信を獲べきなり。
只仏法は聴聞にきわまることなり

昔、音羽の明詮という僧がいた。
ある師について仏道修行に打ち込んだが、
どうしても、目的が達成されない。
悲観して師に暇乞いを申し出た。
ひきとめようにも決心は固い。
やむなく師は了解し、明詮は長年、修行した寺を辞した。
ところがその時、にわか雨に襲われ、やむなく、
山門の下に雨宿りをした。
その時である。
屋根から滴り落ちる水滴が、庭石の一点に続けて落ち、
見事に固い石に穴をあけていたのだ。
あのやわらかい水が、石に穴をあけるとは、
ああ、自分は間違っていた。
たとえ自分のような非才な者でも、
たゆまず修行を重ねれば、石に穴があくように、
目的達成できるのだ

雨だれから受けた説法を胸に師のもとに帰った明詮は、
一切を打ち明け、再び、精進し、
遂に音羽の明詮といわれる大徳になった。


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●屍を生まれさせる
     阿弥陀如来の本願力


我々の本心は、確かに「屍」。
この世もジゴク、未来も地獄の罪悪の固まりだ。

しかし必ず救われる。
なぜならば、阿弥陀仏の、
「若不生者 不取正覚」のお約束があるから。
「もし生まれずは、正覚を取らじ」と、
仏の命である正覚を担保に、阿弥陀仏が、
屍を生まれさせる、と誓っておられる。

その本願がまことだから、屍の心が、
大安心、大満足の絶対の幸福に生まれる時があるのだ。

阿弥陀仏の「そのまま助けるぞーっ」のお呼び声に
「ハイ」と返事をする時が「聞」と聞いた時である。
「こうにも聞こえにゃ、聞かぬがましか」と聞かん心に泣いて求めた、
山口県六連島のおかる同行も、
「たった一声聞いたのが
その一声が千人力
四の五の言ったは昔のことよ、
そのまま来いの勅命に
いかなるおかるも
    頭が下がる」
と、本心に弥陀の勅命が届いた喜びを述べている。
心のどん底、阿頼耶識が救われた体験を
信心決定といい
いつ死んでも浄土往生間違いない身となれるのだ。
ここに、全人類の救われるただ一筋の道がある。


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