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居場所のない人たち 真の安らぎは親鸞聖人の教えから [孤独な魂]

(真実の仏教を説かれている先生の書かれた『とどろき』より載せています)


居場所のない人たち

  真の安らぎは

    親鸞聖人の教えから

 

〝ああ日本のどこかに

私を待ってる人がいる

いい日旅立ち 幸せをさがしに〟

   (『いい日旅立ち』歌・山口百恵 詩・谷村新司)

だれもが、ほっと安らぎ、

生きている自分を、確かめられる場所を探しています。

家庭にも、職場にも、

どこにもそんな「居場所」がないと感じた時、

〝ここではないどこかへ〟

と、人は「居場所探し」の旅に出るのかもしれません。

真の幸福は、果たしてどこに。

親鸞聖人の教えから聞かせていただきましょう。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「居場所がない」とだれもが感じている

 

〝居場所がなかった 見つからなかった

未来には期待できるのか分からずに〟

      (A Song for XX)

これは、年度末、史上初めて3年連続で

レコード大賞を受賞した浜崎あゆみさんの自作の歌詞です。
(2004年のとどろきより載せています)

若者から絶大な支持を得ている理由の一つは、

その歌詞の世界が、共感を呼ぶからといわれています。

中でも、華やかなステージでファンを魅了しているスターの

〝居場所がなかった〟という素顔の告白に、

「私と一緒だ」「自分のことを歌ってくれている」

と多くの若者が、「涙があふれてきた」と語っています。

 

「ここが私が唯一生きている場所です。

存在が許されている居場所なんです」

家庭にも、職場にも、学校にも、居場所がないと

感じたある女性は、インターネットの掲示板に

こんな書き込みをしました。

 

このようなつぶやきは若者だけではありません。

60代男性のこんな例もあります。

「『先生、私には居場所がないのです。

どうしたらいいでしょう』と、

研修の場で相談を持ちかけられることが多くなっています。

定年になって、会社を辞めてから一ヶ月もすると、

家にいても身の置き場がない、

誠に哀れな状況になっているというのです」

        (佐藤英朗『気づく人、気づかぬ人』)


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時として「場所」を表す言葉には、

精神的な意味合いが込められます。

例えば、砂漠でわき水が出る場所を意味する言葉「オアシス」が、

人の気持ちを和らげ、いやしてくれる場所とともに、

心地よさを表します。

「窓際」といえば、会社で一応の立場にありながら、

実際は、仕事が与えられぬ中高年サラリーマンの

立場を揶揄する意味でも使われ、悲哀を漂わせます。

同様に「居場所」も、最近、心の問題を表す言葉として、

世代を問わず広く聞かれるようになりました。

果たして「居場所がない」とは、どんなことなのでしょう。

 

「居場所」とは、自分の存在意義を感じられるところ。

心から安心満足できるところ

 

ここで「居場所」とは、自分の存在意義や

生きている意味を感じ、心から安心、満足できるところ、

といった意味で使われています。

私たちは生きるために生きているのではありません。

だれもが皆、幸福を求めて生きているのです。

「これで安心」「これで満足」と喜びたつ瞬間を

求めて生きているのです。

例えば、好きな人から、

「そばにいてほしい」

と言われたらどうでしょう。

躍り上がるようにうれしいのではないでしょうか。

「君がいなかったら会社が回らない」

と自分が必要とされた時、

だれでも満たされた気持ちになります。

「スゴイ!」

「カワイイ!」

「カッコイイ!」

と自分の才能や能力、容貌などが認められ、

多くの人の注目を一身に集めた時、

人生の晴れ舞台に立った喜びで、

大いに満足するものです。

あるいは、親や子供、恋人や友人が、

親身になって自分の話を聞いてくれたり、

相談に乗ってくれたり、ただそばにいてくれるだけで、

安らぎや安堵を感じることもあるでしょう。

 

だれもが存在意義を求めている

 

反対にだれからも必要とされず、認められもしない、

また関心も示されなければ、

「私なんていてもいなくても同じ」

「だれからも必要とされていない」

「自分は要らない存在だ」

「オレは、存在価値がない」

と愕然とします。

こんな時、自分には「居場所がない」と

感じるのではないでしょうか。

植物が根っこがなければ生きられないように、

人は居場所なしに生きていくことはできません。

つまり、だれからも必要とされず、認められもしない、

また心配も頼りにもされないほど、

つらいことはないのです。

 

だから皆必死に、自分の存在意義を求めています。

子供は親を頼りとし、親は子供を心の支えとして、

それぞれ家庭に安らぎの場所を求めて生きています。

一流大学に入ればきっと幸せになれると、

一生懸命勉強している学生は、

大学生活に明かりを求めているのでしょう。

お金を稼ぎ、大きな家を建て高級車を乗り回すことを

夢みている人は、豊かな暮らしに生きがいを

求めているといえるでしょう。

仕事や、ボランティアで世のため、人のために

汗を流すことを喜びとしている人は、

多くの人に感謝され、喜ばれる中に居場所を

見いだしているのです。

 

どこに居場所を感ずるかは一人一人違いますが、

勉強するのも、働くのも、結婚するのも、皆、

居場所を求めてのことといえるでしょう。

「生きる」とは、まさしく「居場所探し」にほかなりません。

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壊れやすく、変化する居場所では、安心できない

 

ところが、切望しながら、

「居場所が見つからなかった」

「居場所がないんです」

と訴える人が、少なくないのです。

これはどうしたわけでしょうか。

人から必要とされれば、その時は一時、

生きている意味があったと安心できます。

しかし、それがいつまでも続くとは限らないからです。

どんなに今、輝いていても、その輝きはしばらくの間と、

だれもが薄々気づいています。

やがてその輝きもなくなる時が必ず来るから、

不安なのでしょう。

高校を中退したある16歳の少女はメル友と

2人でホームページを開きました。

そこには自作のこんな詩が掲載されています。

 

「居場所

 

高校を辞める前は学校を休んだことがなかった

それはなぜか?

行かなきゃ自分の居場所がなくなると思ったから

(中略)

人を信じれば信じるほど裏切られたときの

ショックは大きくて

それを繰り返し受けてきたあたしはもう誰も信じられない

信じたらまた裏切られるから

裏切られるのはもうヤダ

だから誰も信じない

信じられない

安心していられる居場所が欲しい

安らげる居場所が欲しい

誰かあたしの居場所知っていますか?」

  (浅井哲也『アノニマスーーネットを匿名で漂う人々』)

 

仲のいい友達同士は気心知れた、心地よい居場所です。

ところがそのきずなは、ちょっとした誤解や

わがままで壊れるかもしれぬもろさがあります。

恋人同士は、ほかのだれよりも心を許せ、

落ち着ける居場所でしょう。

ですが文字通り、愛が永遠であった例は、

寡聞にして聞いたことがありません。

終身雇用、年功序列が崩れ、会社に尽くせば報われると

信じられた時代は過ぎ去りました。

かつて運命共同体として、サービス残業、

休日出勤は当たり前、ここがおれの死に場所と

人生懸けた職場をリストラで追われ、

もはや居場所がない中高年であふれています。

汗とあぶらで建てたわが家も、

やっとローンの返済が終わったころには、

あちこち傾きかけています。

永年連れ添った妻から、ある日突然、

三行半を突きつけられる、寝耳に水の熟年離婚も相変わらずです。

やがて面倒見てくれると頼りにしていた当てが外れ、

出ていったきりの子供たちからは何の音沙汰もありません。

人生懸けた「職場」、一家和楽を夢みた「家庭」が、

幻のように消え、実はどこにも居場所はなかったのだと

落胆している人が周囲にあふれています。

 

人は、山の頂点に登ることはできても、

そこに長くとどまることはできません。

「やれやれ、これで安心だ」とたどり着いた

この世のどんな心のすみかも、次の瞬間、

どうなるか分からぬ不安が伴い、

安住の地となりえないのです。

 

本当の居場所が見つからないのは、なぜ?

 

しかもそれには例外がありません。

〝生ある者は必ず死に帰す〟といわれますように、

死は百パーセント確実な未来、

どんな人も免れることはできないからです。

では、いよいよ死なねばならぬとなったらどうなるのでしょう。

蓮如上人の遺訓を聞いてみましょう。

 

「まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、

わが身には一つも相添うことあるべからず。

されば死出の山路のすえ・三途の大河をば、

唯一人こそ行きなんずれ」

         (御文章)

「今まで頼りにし、力にしてきた妻子や金や物も、

いよいよ死んでいく時には、何一つ頼りになるものはない。

すべてから見放されて、ただ一人この世を去らねばならない。

丸裸で一体、どこへ行くのだろうか」

 

あの豊臣秀吉でさえ、臨終には「難波のことも夢のまた夢」

と泣いて死んでいます。

天下統一を成し遂げ、大阪城や聚楽第を築き、

栄耀栄華を極めたものの、それも一時の仮の宿りで、

いつまでも安住できる居場所ではなかったのです。

それは秀吉だけではありません。

人間は最後、丸裸になって、たった一人で暗黒の後生へと

旅立っていかなければならないのです。

したがって、どこに居場所を求めても、

刻一刻と死に向かっている私たちの人生は、

噴火山上の舞踏であり、砂上の楼閣とならざるをえないのです。

だから、どれだけ科学技術が進歩し、経済が発展し、

物が豊かになり、世の中変わっても、心から安心、

満足できる、真の居場所は見つからないでしょう。

 

「自分の存在意義に、

   正面から答えてくれたのは

      教祖麻原だけだった」

           ・・・オウム事件の本質

 

今年2月末、オウムの松本智津夫(麻原)被告に

判決が下されます。
(2004年のとどろきから載せています)

平成7年、5000人以上の被害者を出した地下鉄サリン事件から

9年越しのことです。

あのオウム事件とは何だったのでしょうか。

一言でいえば、必死に求めても「居場所」が得られず、

「生きる意味」を知りえぬいらだちが生み出した悲劇の

一つと言えなくはないでしょうか。

オウム裁判に登場した数ある信者・元信者の中で、

「彼ほど熱っぽくオウムを語る者はいない」と

評された井上嘉浩被告の入信への動機を追ってみましょう。

 

「形にならない不安、不満、心のモヤモヤがあった」

15歳だった自分をこう語った井上被告は、

当時、「若者の代弁者」として強い指示を受けていた歌手、

尾崎豊の歌詞の世界に引かれていきました。

「自分の存在が何なのかさえ

解らず震えている 15の夜」

「退屈な授業が俺達の全てならば

なんてちっぽけで なんて意味のない

なんて無力な 15の夜」

       (『15の夜』尾崎豊)

漠然とした不満や不安、生きる意味が分からないむなしさ、

自らの存在意義を見つけられない焦り、

そんな気持ちを尾崎豊の歌詞に重ね合わせていた彼は、

やがて自ら「願望」という詩にそれをしたためます。

「(その内容は)煎じ詰めれば、要するに

これから高校に入りそして、あるいは大学に行き、

そして社会に出て、サラリーマンで毎日毎日満員電車に揺られて、

夢のないお金のためだけの生活をしていくんだろうかと、

人間に生まれてきたのは、そんなことのために

生まれて来たんだろうかということを、

尾崎豊にかなり影響された言葉で願望という詩に書くんですよね。

そういう願望という詩を書いた井上嘉浩が、

その直後にオウム真理教に出会う。・・・」

      (有田芳生「今若者は宗教に何を、求めているか」)

 

「自分の存在意義に、正面から答えてくれたのは

教祖麻原だけだった」と、ある元オウム信者の青年が

漏らしたことがありました。

 

求めても求めても得られず、居場所がない。

渇き切った心は、オウムの泥水でも

すすらずにいられなかったのでしょう。

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親鸞聖人のメッセージ

〝人々よ、心を弘誓の仏地に樹(た)てよ〟

       ーーー崩れることなき無碍の一道

 

21世紀を迎え、科学技術はますます進歩し、

繁栄を謳歌していますが、人々は皆、

居場所が分からず、いまだに深い闇の中にいます。

そんな人類の迷闇を破るのが親鸞聖人のみ教えであります。

主著『教行信証』の最後に記された次のお言葉から、

聞かせていただきましょう。

 

慶ばしきかな。心を弘誓の仏地に樹て、

念を難思の法海に流す。

深く如来の矜哀(こうあい)を知りて、

良(まこと)に師教の恩厚を仰ぐ。

慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し

 

「弘誓」とは「弥陀の誓願」のことです。

その弥陀の誓願を大地に例えて弘誓の仏地と言われ、

親鸞は弥陀の本願という絶対に崩れない大地に心を樹てた、

と叫び上げられているお言葉です。

「心を樹てる」とはどんなことでしょうか。

先に述べたように、私たちは居場所なしには

生きてはいけませんから、常にどこかに居場所を求めています。

「居場所を求める」ということは、

常に何かを心の支えとし、頼りとし、明かりとして

安心しようとしているということです。

つまり何かに「心を樹てて」いるのです。

 

心を不倒の仏地に

 

しかし、どこにでも心を樹ててさえおればよいのではありません。

例えば、建築物は基礎が最も大事です。

どんな立派な御殿を建てても、基礎が崩れれば、

同時にその建物も崩壊してしまうからです。

基盤が建物の命です。

同様に、私たちの心という建物をどこに樹てるかによって、

私たちは不幸にも幸福にもなるのです。

崩れるものに心を樹てていると、

必ず裏切られ苦しまなければなりません。

 

金や財を力にしている者は、

金や財を失った時に転倒します。

名誉や地位を力にしている者は、

それらをなくした時に失墜します。

親や子供を力にしている人は親や子を亡くした時に

倒壊します。

信念を力にしている人も、

信念揺らいだ時にまた崩壊します。

 

「慶ばしきかな。親鸞の心は不倒の仏地に樹ったぞ!」

親鸞は絶対に裏切らない、崩れない、

弥陀の本願の大地に心が樹ったと言われています。

そして親鸞聖人は、90年のご生涯、

絶対に崩れぬ幸福、大安心の世界の厳存を、

明らかにしていかれました。

 

親鸞聖人の大歓喜

 

次に「念を難思の法海に流す」と言われてのは

「念」とは思い、「難思」とは不可称不可説不可思議ということで、

心が不思議としか言いようのない無碍の一道、

絶対の幸福の世界に出た、ということです。

一切の障りが、障りとならなくなったのが無碍の一道です。

とても想像の及ばないすごい世界ですから、

難思の法海と言われました。

万人共通の人生の目的を、鮮やかに達成させていただき、

「よくぞ人間に生まれたものぞ」の生命の歓喜を得た親鸞聖人は、

高らかに叫ばれずにおれなかったのです。

 

「深く如来の矜哀を知りて、

良(まこと)に師教の恩厚を仰ぐ」とは、

親鸞どうしてこの身にさせていただいたのか、

これは全く弥陀如来のお力であったと知らされると同時に、

弥陀の本願を教えてくだされた善知識・法然上人のご恩を

仰がずにおれないということです。

それは手の舞い足の踏む所を知らない大きな喜びですから

「慶喜いよいよ至り」と言われ、

この身にしてくだされた弥陀の大恩、そして、

この弥陀の本願不思議を伝えてくだされた善知識の高恩は、

身を粉にしても、骨を砕きても足らないから

「至孝いよいよ重し」と言われたのです。

崩れるものに樹てる人生は、

薄氷を踏むように不安ですが、

心を不倒の仏地に樹て、不思議の世界に生かされた親鸞は、

何と幸せ者なのか。

ますます阿弥陀如来の慈愛の深きを知らされ、

師教の高恩を仰がずにはおれない・・・。

燃えるようなよころびが、体一杯にみなぎっているのが、

ビンビン伝わってきます。

 

●大安心・大満足の人生行路

 

かくして親鸞聖人の主著『教行信証』は筆をおかれています。

52歳で一応の完成をみたといわれる『教行信証』も、

90歳でお亡くなりになるまで修正に修正を重ねておられます。

その御心はひとえに、「心を弘誓の仏地に樹てよ」

「すべての人よ。早くこの親鸞と同じ心になってもらいたい」

以外にありませんでした。

仏法を聞き抜いて親鸞聖人と同じく、

心が弘誓の仏地に樹った時、

「われ、生きるしるしあり」の踊躍歓喜がわき上がります。

今日の一息が尊い、今の一息はもっと尊い。

吸う息吐く息が不思議不思議と、生きてよし、

死んでよしの大安心・大満足の人生行路を歩ませていただけるのです。

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