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正しいご本尊は何か? [南無阿弥陀仏]

皆さんのお宅にお仏壇はありますか。
「うちはまだ葬式を出したことがないから、
仏壇はありません」
という方もあるでしょう。
多くの人が死人を「仏」といい、
亡くなった先祖を祭るのが仏壇だ、
と誤解しているようです。

仏壇は死んだ先祖のためではなく、
文字どおり仏さまを御安置するところ。

仏とは、仏教で教えられる
五十二のさとりの最高の仏覚を開いた方で、
先祖のことではありません。

私たちが人間に生まれ、
弥陀の本願に救われるために
仏前にて勤行はします。
そこで大事なのが仏壇に安置するご本尊。

根本に尊ぶべき、宗教で最も重要なものです。
浄土真宗の私たちは、
何をご本尊とすればいいのでしょう。
親鸞聖人にお聞きします。


     私たちの
        正しいご本尊は何か?

●「南無阿弥陀仏」って
  何かのおまじない?

親鸞聖人は、
浄土真宗の正しいご本尊は
南無阿弥陀仏の六字の御名号である

と明確に示されています。
「南無阿弥陀仏って何?」
「何かの呪文かおまじない?」
いいえ、そうではありません。
御名号とは分かりやすくいえば、
恐ろしい病で苦しむすべての人を救うために、
名医である阿弥陀仏が作られた、
すごい働きのある妙薬に例えられます。

「病なら
すてておいては なおるまじ
六字の薬 たてかけて飲め」
私たちの心の病はほっておいては治らない。
南無阿弥陀仏の六字の薬を飲めば治るのだ。
この名号の妙薬を飲むには、
仏法を重ねて聞かねばならない。
不断の聞法が大事である

古歌にもこう歌っているように、
私たちは重い心の病にかかっている。
その病気を、飲むと同時に治し、
無上の幸福に救う働きのある
すごい薬が南無阿弥陀仏なのです。

「恐ろしい病?」
「すごい薬?」
一体、何のことかと思うでしょう。
薬といっても、病気の自覚なき人には
無関係としか思えませんね。

まず、その病についてお聞きしましょう。

●私たちは皆、
   “心の難病”で
      苦しんでいる

私もあなたも、すべての人は、皆、
心の病で苦しんでいると、
仏教を説かれたお釈迦さまは教えられています。

「難治の三病(根治し難い重篤な病)」
といわれ、その病名を蓮如上人は、
無明業障の恐ろしき病」(御文章)
とおっしゃっています。
ここで「無明」とは「煩悩」のこと。
私たちを煩わせ、悩ませる。
各人に108ずつある、と説かれています。
年末に除夜の鐘を108鳴らすのは、
この数に由来します。
“煩悩に苦しんだ一年。
来年こそはそれを滅して幸せに”という願いから。
しかし実際は、鐘を打つだけで
煩悩を離れ切れるものではありません。
「煩悩具足(ぼんのうぐぞく)」
「煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)」
と聖人は、有名な『歎異抄』にいわれ、
「私は煩悩の塊である」
と告白されています。
「具足」とは、それでできている、ということ。
雪だるまは「雪具足」、雪を取ったら何も残らない。
「煩悩具足」の人間は、煩悩に目鼻をつけたような者です。
「熾盛」は盛んに燃えている様子。
煩悩は常に燃え盛って、
私たちを悩ませ、苦しめます。

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●離れきれない
    欲や怒りの心

その108ある煩悩の中で、最も恐ろしい貪欲、
瞋恚(しんい)、愚痴を三毒の煩悩といわれます。

貪欲とは欲の心。
飲みたい、食べたい、楽がしたい。
称賛を好み、嫌われるのを恐れ、少しでも得をしたい、
損したくない心です。
私たちの行動の源泉は、多くの場合、欲でしょう。
学生がつらい勉強に励むのは、
未来の楽を手に入れるため。
反対に怠けるのは、今の楽を求めてのこと。
仕事も同様で、働かねば思い通りの生活を送れないからです。
老いも若きも男女の別なく、我を通したいともがいている、
それらすべて、欲に違いありません。

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その欲が妨げられると、瞋恚(怒りの心)が
猛然と噴き上がってきます。

不況の寒風が心を波立たせ、
ギスギスした風潮が世間を覆っている。
都会では乗客の、駅員への暴行が
多発しているといいます。
不景気で財欲が妨げられ、
他人に八つ当たりせずにいられない
心情になるのでしょうか。
(平成22年のとどろきから載せています)
そんな怒りの連鎖が、時に凶悪事件へと
発展することもある。
いずれもだれかの怒りが、
ほんの少し表に顔を出したのでしょう。
怒れない相手にはネタミ、ソネミ、ウラミの愚痴が、
心底に生じます。

夫婦、親子、兄弟は仲良くしてこその間柄。
しかし、年を重ねてともに暮らしていくと、
人に言えぬ抜き差しならぬ感情が募ります。
「あの時、こんなこと言われた」
「20年も前のことだけど、一生忘れられん」
など、実際に顔突き合わせて生活する
当事者にしか分からないもの。
周囲からはとても推し量ることができないのです。
そんな思いの数々を、胸に納めて一生を終える人、
耐え切れずに感情を爆発させる人。
いろいろでしょう。
そのいずれもが、煩悩の毒によって苦悩の人生となる。
まさに「恐ろしき病」。

欲、怒り、愚痴と無関係な人はないのだと知らされます。
煩悩の障りが現れて苦しむのを「業障」といわれています。
煩悩で悪業を造り、それが原因となって苦しみの悪果が
自身に現れるのです。

●諸仏に
  見捨てられたのは
       だれ?

こんな恐ろしい病で苦しむ私たちを、
何とか救ってやりたいと立ち上がられたのが、
十方諸仏(大宇宙の仏方)でした。

それを蓮如上人は『御文章』に教えられています。
「十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、
空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我等如きの凡夫なり」
十悪・五逆の罪人、五障・三従の女人は、
いずれも私たち人間のこと。
欲や怒り、愚痴の心で悪を造り続ける罪悪深重の者を、
何とか救おうと諸仏方が願いを起こされたが、
私たちの罪があまりに重いため、
「とても我々の手に負えん」
と見捨てられたのです。

しかしこのままなら、私たちは何にために生まれ、
生きているか分からず、苦しみから苦しみへ、
冥から冥へと、現在も死後もジゴクに沈んでしまう。
そんな者をとても見捨てておけん、
何としても救いたいと、
ただ一人立ち上がられたのが、
十方諸仏の本師本仏・阿弥陀仏なのです。

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「然れば、ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、
久遠実成の古仏として、今の如きの諸仏に見捨てられたる
末代不善の凡夫・五障三従の女人をば弥陀にかぎりて、
『われひとり助けん』という超世の大願を発して」
と『御文章』には続きます。
比類なき名医である阿弥陀仏は、
そんな私たちを救わんと、

諸仏に見捨てられた極悪人なら、
なおかわいい。この私が必ず最高の幸せに救ってみせる

と誓願を起こされました。
このお約束を阿弥陀仏の本願といいます。

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●私ひとりのための
    お約束

本師・阿弥陀仏が、ご自身で建てられた
この「五劫の思惟」の誓いを果たすために
兆載永劫の修行」という気の遠くなるような長期間、
ご苦労なされて成就されたのが
南無阿弥陀仏」の六字の御名号です。

ここで五劫、兆載永劫の「劫」とは、
4億3千200万年のこと。
無限数とも教えられ、古来、その長さをこう例えられます。

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四十里四方の大盤石(だいばんじゃく)を、
天人が百年ごとに羽衣で触れて磨し、
これによって消滅してもいまだ尽きないほどの長期間。
           (盤石劫ともいう)
四十里四方の大倉庫に芥子(けし)を満たし、
百年に一粒ずつ取り出して、尽きないほどの長期。
           (芥子劫ともいう)
いずれも想像を絶する長期間であり、
その長きにわたる弥陀のご苦労
は、
ひとえに、この私一人を救わんがためであったなあと聖人は、
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人が為なりけり」
            (歎異抄)
と感泣なされています。
南無阿弥陀仏の大功徳を頂けば、往生一定、
命終われば阿弥陀仏の極楽浄土に往って
弥陀同体の仏に生まれる身となります。

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真っ暗な後生が、限りなく光明輝く未来に転じ変わる。
煩悩具足のままで、大安心、大満足の身に大変わりする。
南無阿弥陀仏には、私たちをそんな幸せにする働きが
封じ込められています。

大宇宙に二つとない至宝なのです。
この南無阿弥陀仏は、弥陀がお手元に置いて
喜ぶためのものではありません。
私たちに一刻も早く飲ませ、
心の重病を完治させる。
そのために阿弥陀仏は、今もお立ちづくめで
働いてくださっているのです。

では、この名号の薬はどのようにして頂けるのでしょう。
お釈迦さまは、
聞其名号
といわれ、南無阿弥陀仏を「聞」と聞いた一念に、
耳から頂くのだと教えられています。

そこまで進むには、仏法を重ねて
聴かせていただく以外にありません。
仏法は聴聞に極まる
と、これを教えられています。
「聞其名号信心歓喜」、南無阿弥陀仏を弥陀から賜った一念に、
絶対の幸福に救い摂られるのです。

だからこそ親鸞聖人は、このすごい力のある御名号を、
生涯、ご本尊とされました。

親鸞聖人と同じご本尊を御安置し、
聖人と同じ往生一定の身に一日も早く救われるよう、
光に向かわせていただきましょう。

 


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南無阿弥陀仏にどんな力があるのか [南無阿弥陀仏]

 

本願の名号は正定の業なり(正信偈)

 

(阿弥陀仏の本願によって創られた名号には、

すべての人を絶対の幸福に救うお働きがある)

 

「本願」とは、「阿弥陀仏の本願」のことで、

十方諸仏の本師本仏、阿弥陀仏がなされているお約束のことです。

阿弥陀仏は、

「どんな人をも、

平生に絶対の幸福に救い、

必ず極楽浄土に生まれさせる」

と命を懸けて誓われています。

その誓いを果たされるために、弥陀が不可思議兆載永劫の長い間、

ご修行をなされて、完成されたのが「名号(南無阿弥陀仏)」です。

阿弥陀仏のお約束(本願)どおり、絶対の幸福に助ける力のある名号だから、

親鸞聖人は「本願の名号」といわれているのです。

 

この南無阿弥陀仏の絶大なるお働きを、

『正定業』と親鸞聖人は仰っています。

「正定」は「正定聚」の略で、今日の言葉でいえば「絶対の幸福」。

「業」とは「働き」という意味ですから、

名号には、すべての人を絶対の幸福(正定)にする働き(業)がある、

と聖人は明らかにされています。

 

では、「正定聚」とは、どんなことなのでしょうか。

大切なことなので、詳しくお話ししたいと思います。

 

●「正定聚」・・・何があっても変わらぬ絶対の幸福

 

「正定聚」とは、さとりの位の一つです。

一口に「さとり」といっても、低いさとりから高いさとりまで

全部で五十二の位があり、これを仏教で

「さとりの五十二位」といわれます。

ちょうど“力士”といっても、下は序の口から、

上は大関、横綱まで、いろいろの位があるようなものです。

五十二のさとりの位にも、それぞれ名前がついており、

最も高い位を「仏覚」(仏のさとり)といわれます。

これより高いさとりはありませんから「無上覚」ともいわれます。

その最高無上の仏覚まで到達された方だけを、

「仏」とか「仏さま」といわれるのです。

IMG_20161114_0001.jpg-1.jpg 

 

「さとり」の位が一段違うと、人間と虫けらほど違うといわれます。

ハチやカエルに、テレビやパソコンの仕組みを説明しようとしても

不可能なのは、人間とは全く境界が違うからです。

同様に、凡夫(人間)と、五十二段の仏さまでは、

全く境界が異なります。

経典には、この五十二のさとりの階梯(かいてい)をのぼって、

仏のさとりを得るには、三大阿僧祇劫という気の遠くなるような

長期の修行が必要と説かれています。

その道を求める難しさは、“面壁九年”といって、

九年間壁に向かって座禅を続け、手足をなくした達磨大師が

三十段前後しかさとれなかったといわれることからも分かります。

 

長野県の善光寺の住職で、天台宗大勧進のトップである貫主は、

“生き仏”といわれてきました。

ところが今年6月、その82歳の“生き仏”様にセクハラ疑惑が

持ち上がり、テレビや新聞で大きく報じられました。

天台宗といえば、『法華経』に説かれる修行を実践し、

煩悩と闘ってさとりを得ようとする教え。

今日も残る「千日回峯行」という難行は、

12年間、山に籠もり、うち7年間は明けても暮れても、

峰から峰を歩き続ける苦行です。

修行者がまとう白装束は、行半ばで挫折すれば

自害する覚悟を示す死装束ともいわれ、

合計1000日間歩く距離は実に4万キロ、地球を一周するほどです。

この貫主も“100日間の苦行を成し遂げた”そうですが、

欲望むき出しのセクハラ行為は、“生き仏”どころではありません。

欲や怒り、ねたみそねみの煩悩に身を焼く人間の実態は

死ぬまで変わりはない、と親鸞聖人が仰るとおりです。

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「正定聚」は、「正定聚不退転」ともいわれ、

さとりの五十一段に相当する位をいいます。

いつ死んでも間違いなく(正しく)仏になれることに

定まった人たち(聚〈じゅ〉)ですから「正定聚」といわれるのです。

五十二段のさとりの中で、四十段までは油断すると

退転する(さとりが退く)「退転位」、

四十一段から上は、何があっても退転しない「不退転位」です。

 

ゆえに「正定聚」の身に救われた人は、

いつ死んでも浄土へ往って仏になれることがハッキリし、

何があっても変わらぬ絶対の幸福になれるのです。

 

蓮如上人はこのことを「聖人一流の章」の中で、

次のように教えられています。

 

不可思議の願力として、仏の方より往生は治定せしめたまう。

その位を「一念発起・入正定之聚」とも釈し

             (御文章五帖目十通)

 

阿弥陀仏の不可思議の本願力によって、

いつ死んでも浄土往生間違いなし(往生一定)とハッキリさせてくだされる。

平生の一念に「正定聚不退転」になれるのである。

 

このような平生明らかになる弥陀の救いを親鸞聖人は

「平生業成」と教えられ、『末灯鈔』に、次のように仰っています。

 

真実信心の行人は、摂取不捨の故に正定聚の位に住す。

(乃至)信心の定まるとき往生また定まるなり  (末灯鈔)

 

平生、阿弥陀仏に救われ、真実信心を獲得した人は、

いつ死んでも極楽参り間違いない正定聚の身となる。

信心決定したその時、往生浄土が定まるのだ。

 

このように私たちが正定聚の身となり、

絶対の幸福(往生一定)に救われるのは、

すべて南無阿弥陀仏の名号のお働きによることを明らかになされたのが、

『正信偈』の「本願の名号は正定の業なり」のお言葉なのです。

 

●弥勒菩薩より幸せになれる

 

ところが私たちは、「生きている今、正定聚不退転(絶対の幸福)になれる」

と聞いても、あまりにもすごい救いなので、ピンときません。

そんな私たちに、親鸞聖人は、あの弥勒様より幸せになれるのだよ、

と次のように教えてくださっています。

 

真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心を窮むるが故に、

龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。

念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、

臨終一念の夕、大般涅槃を超証す     (教行信証信巻)

 

(本当にそうだったなあ!あの弥勒菩薩と、今、同格になれたのだ。

全く弥陀の誓願不思議としかいいようがない。

しかも、弥勒は五十六億七千万年後でなければ、

仏のさとりが得られぬというのに、親鸞は、

今生終わると同時に浄土へ往って仏のさとりが得られるのだ)

 

「真に知んぬ」とは、「明らかに知らされた」聖人の驚嘆です。

「私はそう思う」「そんな感じがする」「間違いなかろう」

というような、曖昧な憶測や想像ではありません。

では、何がハッキリ知らされたと聖人は仰っているのでしょうか。

 

「弥勒大士」とは、あと一段で仏覚という

五十一段のさとり(等覚)を得ている弥勒菩薩のことです。

「菩薩」とは、「仏のさとりを得ようと努力している人」のこと。

菩薩の中の最高位は五十一段の等覚です。

弥勒菩薩は、その等覚のさとりを開いていることを、

「弥勒大士は、等覚の金剛心を窮むるが故に」

と言われています。

弥勒は、大変優れた菩薩として有名で、

世間には「弥勒様に助けてもらおう」と、

手を合わせている“弥勒信仰”も少なくありません。

ところが、その弥勒菩薩でさえ、あと一段のぼって

「仏覚」を開くまでには五十六億七千万年かかると、

お釈迦さまは説かれています。

そのことを聖人は、

「龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし」

と言われているのです。

「龍華三会の暁」とは、五十六億七千万年後のこと。

「無上覚位」とは、仏覚のことです。

 

菩薩の最高位である弥勒でも仏覚を開くまでには、

気の遠くなる長期間かかることを示されたうえで、

親鸞聖人は、

「しかし、弥陀に救われた人は、こうだ」

と驚くべきことを断言されています。

 

「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、

臨終の一念の夕、大般涅槃を超証す」

 

「念仏の衆生」とは、「弥陀に救い摂られた人」であり、

聖人ご自身も「念仏の衆生」です。

「横超の金剛心を窮むる」とは、

「弥陀と同格の正定聚の菩薩に救われた」ことをいいます。

弥勒と肩を並べる身になったことだけでも驚きですが、

聖人はさらに、五十六億七千万年後でなければ

仏覚に到達できぬ弥勒を尻目に、念仏者は、

この世の命終わると同時に無上覚(仏のさとり)を超証するのだ、

と宣言なされています。

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このことをご和讃で次のように仰っています。

 

真実信心うるゆえに

すなわち定聚にいりぬれば

補処の弥勒におなじくて

無上覚をさとるなり

       (正像末和讃)

(弥陀に救われ、真実信心を頂いた一念に正定聚の位に入って、

弥勒菩薩と同格になる。そのうえ、死ねば必ず浄土へ往って、

弥勒より先に仏のさとり(無上覚)を開くのだ。

これほどの幸せがあろうか。)

 

聖人は、等覚の弥勒と比較されて、

「弥陀の救い」がいかにすごいか訴えられ、

「早くこの親鸞と、同じ幸せな身になってくれよ」

と念じておられるのです。

 

●誰でも“死んだら極楽”か?

 

さて、ここでこんな疑問に答えておかねばなりません。

 

「阿弥陀仏が南無阿弥陀仏を完成してくだされたのだから、

すでに誰でも死ねば極楽に往けるのですか」

 

いいえ。そうではありません。

南無阿弥陀仏には、私たちを往生一定の絶対の幸福に救い摂り、

死ねば極楽に生まれさせる働きがありますが、

そのような南無阿弥陀仏が完成されているからといって、

「誰でも死んだら極楽」と思うのは大間違いです。

それはちょうど、いくら難病を治す特効薬ができていても、

のまねば病に苦しむ患者は治らないのと同じです。

患者がその薬をのんで初めて病気は治るのです。

どんなに優れた薬も、患者がのまねば効き目は表れず、

病は完治しません。

同様に、南無阿弥陀仏の名号を私たちが阿弥陀仏から

頂いて初めて、絶対の幸福(往生一定)に救われるのです。

 

先のご和讃でも、

「真実信心うるゆえに」

と親鸞聖人は仰っています。“真実の信心を獲る”とは

南無阿弥陀仏の名号を獲たことです。

死んで極楽に往けるのは、生きている今、

六字の名号を獲得した人だけですよ、

と釘を刺しておられることを見逃してはなりません。


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