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私一人を助けるための弥陀の本願 [阿弥陀仏]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

   私一人を助けるための弥陀の本願

 

弥陀の五劫思惟の願を

よくよく案ずれば、ひとえに

親鸞一人(いちにん)が為なりけり

           (歎異抄)

弥陀の五劫という永い間、熟慮に熟慮を重ねて

お誓いなされた本願を、よくよく思い知らされれば、

まったく親鸞一人を助けんがためだったのだ

 

今月は、阿弥陀仏の本願に救い摂られた歓喜を表された

親鸞聖人のお言葉についてお話ししましょう。

 

「弥陀の五劫思惟の願」とは、阿弥陀仏の本願のことです。

仏教は2600年前、ヒマラヤ山麓に誕生された

ゴータマ・シッダルタが、35歳で大宇宙最高のさとりを開いて

仏陀となられ、80歳でお亡くなりになるまでの

45年間、説かれた教えです。

その全ては、7千余巻の一切経となって今日、

書き残されています。

では、膨大な経典に説かれているお釈迦さまの教えとは何か。

親鸞聖人は「本師本仏の阿弥陀仏の本願一つである」と

『正信偈』に明言されています。

 

如来所以興出世 唯説弥陀本願海 (正信偈)

釈迦如来がこの世に生まれ出られた目的は、唯、

阿弥陀仏の本願一つを説くためであった

 

その弥陀の本願を、『歎異抄』で聖人は

〝阿弥陀仏が五劫の思惟をなされて誓われた

本願(弥陀の五劫思惟の願)〟といわれているのです。

これは、どういうことなのでしょうか。

 

●本願はどのように建立されたのか

 

それを知るには、阿弥陀仏が本願を建てられた経緯を

よく知らねばなりません。

これはお釈迦さまが『大無量寿経』に説かれていることですが、

『正信偈』の初めに親鸞聖人も、

 

法蔵菩薩因位時(法蔵菩薩、因位の時)

在世自在王仏所(世自在王仏の所に在して)

 

と書かれているところです。

大略を現代の表現で述べてみましょう。

 

久遠の昔、世自在王仏(せじざいおうぶつ)という仏さまが

ましました時、一人の国王が、世自在王仏の説法を聞いて、

非常に感動し、何とかしてすべての人(十方衆生)を救いたい、

と尊い願いを起こされた。

そして、国の王という地位も投げ打って、

世自在王仏の元で出家の身となり、

法蔵と名乗られたのである。

法蔵菩薩は、世自在王仏の前にひざまずき、

恭(うやうや)しく合掌礼拝して、

「師の仏よ、苦しみ悩むすべての人を見ていると、

私はとてもじっとしておれません。

どうか私に、助けさせてください」

と懇願された。

「法蔵よ。そなたの気持ちは尊いが、あの者たちが

どんなものか、知ってのことか。

大宇宙の諸仏方が助けようと試みたが、煩悩にまみれ、

罪悪は深重、とても助けることはできぬと、

悲しまれながらも見捨てるしかなかったのだ。

無駄な苦労をそなたにさせるわけにはいかぬ」

世自在王仏の返答に、法蔵菩薩は、

「それはよく存じております。だからこそ、

私に助けさせていただきたいのです。どうぞ、

私のために広く教えをお説きくださいませ。

私は、それによって修行して、最もすぐれた浄土を荘厳し、

迷いの衆生の悩みの元を除きたいのです」

と述べられると、世自在王仏は、法蔵の願いが実に尊く、

並々ならぬものであると見て取られ、

「法蔵よ。大海の水を升(ます)でくみ干し、

海底の宝を体を濡らさずに手に入れる以上に困難なことが、

煩悩熾盛のすべての人間を助けることなのだ。

そなたは、それでもやろうとするのか」

と念を押される。

「私があきらめたら、全人類はこの世も未来も、

苦しみから苦しみへ綱渡り、永劫の苦患に沈まねばなりません。

何としても助けさせていただきたいのです。

お願いいたします」

法蔵菩薩の盤石の決心に、世自在王仏はようやく、

「真心を込めて、一心不乱に道を求めてやまぬなら、

必ずその目的を果たし遂げ、いかなる願いでも

成就せぬことはないだろう」

と許された。

かくして法蔵菩薩は、五劫という長きにわたって

深く考えを巡らされ、十方衆生(すべての人)を未来永劫、

絶対の幸福に救うという我々の想像をはるかに超えた

大きな願いを発(おこ)されたのである。

 

このように、阿弥陀仏は、私たちを救わんがために、

法蔵菩薩となって、五劫の思惟の末に、大宇宙の諸仏方には

できなかった無上の本願を建立せられました。

おとぎ話のように思われるかもしれませんが、

決してそうではありません。

これを「弥陀の五劫思惟の願」と親鸞聖人は仰っているのです。

 

●弥陀が救おうとされている相手は?

 

では、阿弥陀仏が気の遠くなる長期間、

思案せられねばならなかったのは、

どんな人のためでしょうか。

 

これについて蓮如上人は、『御文章』に

次のように教えてくださっています。

 

それ、十悪・五逆の罪人も、(乃至)空しく皆十方・三世の

諸仏の悲願に洩れて、捨て果てられたる我等如きの凡夫なり。

然れば、ここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の

本師・本仏なれば、今の如きの諸仏に捨てられたる

末代不善の凡夫をば弥陀にかぎりて、「われひとり助けん」

という超世の大願を発(おこ)して

                 (御文章二帖目八通)

 

私たちは、大宇宙のすべての仏さま方(十方・三世の諸仏)

から見捨てられた者である、と教えられています。

仏さまは慈悲のかたまりです。

「慈悲」の「慈」とは、苦しんでいる人を放っておけない、

何とかして苦しみを抜いてやりたいという「抜苦」の心。

「悲」は、喜び、満足を与え、幸せにしてやりたいという

「与楽」の心です。

そんな抜苦与楽の慈悲いっぱいの仏さまが、

「かわいそうだが、我々の力では助けることができぬ」

とさじを投げられた「十悪・五逆の罪人」とは、

いかなる者なのか。

 

先ほどの『大無量寿経』の内容や、この蓮如上人のお言葉が

ピンとこないとすれば、私たちが、自分というものの実態を

全く分かっていないからでしょう。

「十悪・五逆の罪人」と言われているのは、

一体誰のことなのでしょうか。

 

日々、生き物を殺して貪り食べている殺生罪、

他人の悪口やウソを平気で言うなどは、

仏教で「十悪」と教えられます。

 

手にかけて殺さなくとも、心の中で大恩ある親を

「じゃまだなぁ」と思えば「五逆罪」と仏教では教えられます。

 

この五逆罪よりも恐ろしいのが「法謗罪」といわれる罪です。

仏法を「迷信だ」「聞く必要はない」と謗ったり、

ウトウト居眠り半分で聴聞するのはもちろんですが、

今日の話は長かった、短かった、分からなかったと

仏法を説かれる善知識の上に立って批評しているのも

法謗罪です。

親鸞聖人は、

「善知識をおろかに思い、師をそしる者をば、

法謗の者と申すなり。親をそしる者をば五逆の者と申すなり」

と『末灯鈔』に厳戒されています。

 

それだけではありません。

私たちの実態を仏教では「闡提(せんだい)」と

教えられています。

闡提とは、梵語で断善根(だんぜんごん)の衆生のことで、

無信と訳されます。

微塵の善根もない者をいうのですが、どんな心でしょうか。

地獄へ堕ちると聞いてもちっとも驚かず、

極楽へ往けると聞いても、千円もらったほどにも喜ばない。

今日とも明日とも知れぬ無常の命だぞと言われても、

急ぎもしなければ慌てもしない。

友人の訃報に、「えぇ、あの人が?」と一旦は驚き、

涙してもその時だけで、自分はまだまだ大丈夫、

とあとはケロッとしている心があるでしょう。

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どれだけ真実を聞かされても、カエルの面に小便で、

本心は無常を無常とも思わず、悪を悪とも感じない。

それがどうした、皆もそうじゃないかと、テレー、

キョロン、キョトン、ボーとしている心が闡提です。

慈悲深い大宇宙の諸仏たちでさえも「助ける縁なき者」

とあきれて逃げるしかなかったこの心を、

親鸞聖人は「逆謗の屍」と仰っています。

五逆罪の〝逆〟と法謗罪の〝謗〟、そして真実を

はねつけて箸にも棒にもかからぬ闡提の心を

〝屍〟と言われているのです。

 

●「逆謗の屍」の私がお目当て

 

阿弥陀仏が五劫もの間、思惟されねばならなかったのは、

この「逆謗の屍」がお目当てだったからです。

「逆謗も 闡提もみな 大悲の子」

大慈大悲の阿弥陀仏は、十方諸仏に見捨てられた

逆謗・闡提の私たちに、「かわいいわが子よ」と仰せです。

「こんな心、どうにもなりません」と泣いている人こそが、

「見捨てはしないぞ。私が助けよう」と命懸けで

誓われている弥陀の本願の正客なのです。

(正客・・・お目当ての人)

その本願は、〝平生の一念に、絶対の幸福に救い摂り、

必ず極楽浄土まで渡す〟と誓われている

大宇宙に2つとないお約束。

平生に明らかになる、この弥陀の救いを

「平生業成」といわれるのです。

 

親鸞聖人が、

 

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、

ひとえに親鸞一人(いちにん)が為なりけり 

             (歎異抄)

 

と仰っているのは、逆謗の屍の親鸞を助けてくださる仏は

大宇宙に弥陀よりほかになかった、と明らかに知らされ、

そんな逆謗の親鸞が、弥陀の独り子とは、

なんともったいないことか、と感泣されているのです。

 

これは決して「お慈悲な阿弥陀さまだから、

死ねば極楽に連れていってもらえるだろう」と

死後の花降る浄土を夢見ておられるのではありません。

弥陀の救いはこの世で「往生一定」とハッキリいたします。

続けて聖人は、

 

されば若干(そくばく)の業をもちける身にてありけるを、

助けんと思召したちける本願のかたじけなさよ 

                 (歎異抄)

と仰り、こんな計り知れぬ悪業を持った親鸞を、

五劫の思惟で骨の髄まで見抜かれ、「必ず救う」と

奮い立ってくだされた本願の、なんと有り難く

かたじけないことなのか、と感激されています。

 

見聞知(けんもんち)の阿弥陀仏は、

私も知らない真実の私までも、一切お見通し。

「逆謗の屍」の私を目当てに、

「我にまかせよ、必ず救う」

と誓っておられるのです。

本師本仏の阿弥陀仏の真言にウソはありません。

〝罪悪深重の私を、そのまま絶対の幸福に

救い摂ってくださる方は、天にも地にも、

弥陀よりほかになかった〟と明らかに知らされるまで

仏法を真剣に聞かせていただきましょう。

 

「四つとせ

よくよくお慈悲を聞いてみりゃ

助くる弥陀が手を下げて

任せてくれよの仰せとは

ほんに今まで知らなんだ」(信心数え歌)

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本当の幸福になれる「宝」  南無阿弥陀仏とは! [南無阿弥陀仏]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』から載せています)

        本当の幸福になれる「宝」

             〝南無阿弥陀仏とは

                       何でしょう?〟

 

あなたの宝物は何ですか?

こう聞かれて皆さんは何と答えるでしょう。

宝とは、幸せになるための金や財、

名誉や地位、家族や健康、信念など。

どんな宝を得れば人生が素晴らしくなるか、

皆、探し求めています。

 

親鸞聖人は、すべての人が

必ず絶対の幸福になれる「宝」があり、

生きている今、それは獲られるのだと

教えられています。

今月は、その聖人ご生誕を祝し、

「人生最高の宝」についてお聞きしましょう。

(2016年5月のとどろきです)

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

名声や家族

    ・・・世の「宝」の現実は?

 

世はグルメブーム。世界中、どこへ行っても、

観光の中心に「食」があります。

特に有名な美食指南の権威「ミシュラン」発行のガイドブックで、

三ツ星の最高評価を受けたスイス人シェフ、

ブノワ・ヴィオリエさんが、今年初め、自ら命を絶ちました。

昨年、フランス政府公認のランキングで、

彼の店は「世界一」になったばかり。

そんな絶頂にある料理人がなぜ?と誰もが思うでしょう。

彼は死の4日前に行われた最後のインタビューで、

〝自分の成功は長続きしないかもしれない〟と語り、

レストランの経営維持に頭を悩ませていたといいます。

〝最高評価に恥じぬ料理を〟。

一皿一皿にかかるプレッシャーは、

他人には分からぬ苦悩だったに違いありません。


「ただ見れば

何の苦もなき 水鳥の

足にひまなき わが思いかな」

水面を軽やかに滑っていく水鳥も、

水面下ではせわしく足を掻き続けているのです。

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「とんでもない過ちを犯してしまいました。

こんな形でテニスのキャリアを終えたくない。

もう一度、試合の場に戻ってきたい」

女子テニスのマリア・シャラポア選手がドーピング検査で

禁止薬物に反応し、自ら会見したのは今年3月。

(2016年5月のとどろきです)

四大大会すべてを制覇し、「生涯グランドスラム」を

成し遂げた一流選手の告白に、世界中が驚きました。

男子世界ランキング6位の錦織圭選手も

〝トップテンに入ってからドーピング検査の量はすごく増えた〟

と述べているように、プロテニスのドーピング検査は

大変厳しいといいます。

抜き打ち検査官は、どこにでもやってくるため、

選手には毎日の予定や滞在先を報告する義務があります。

困るのはトイレを済ませたあとに検査官が来ることで、

クルム伊達公子選手は、就寝直後の午後10時過ぎに訪問を受け、

なかなか規定の量が取れず、

尿検査が午前2時まで続いたといいます。

睡眠不足で、次の日は十分な練習ができなかったと

ブログで憤慨していました。

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身近な宝といえば、何といっても「子宝」でしょう。

〝世界一とか日本一とか、そんな大きな幸せは、

私には必要ないよ。ささやかでも家族が宝〟と皆、

大切にしています。

ところが昨今、その子供が持てない夫婦が多くあり、

不妊を心配するカップルは、

初婚同士の夫婦の約3割ともいわれます。

幸いわが子に恵まれても、今度は育て方に思い煩い、

蝶よ花よと育てた子も、〝嫁をもらうと息子はあなたに

尻を向ける〟。

やがて親離れして巣立っていってしまいます。

「大きな希望の子育てが終わり、子供が疎遠になりつつあります。

子供にとって必要な対象は親ではなくなってきました。

私がさらに年を取って介護が必要になると

迷惑な存在になります。

お金があれば近寄ってきますが、お金だけが必要であって、

だんだんと用事はなくなります」

とは、ある女性の述懐です。

考えてみると人生は、あれも欲しい、これも欲しいと

努力して手に入れ、心の支えにしていた宝が

年を取るごとに一つ、また一つと、私から離れていく。

やがて死ぬ時には全部置いて、独りぼっちで後生に

旅立たねばなりません。

「夢の中

集めた宝 みな置いて

業を荷なうて 独り出て行く」

この世の宝はよりよく生きるのに必要で、

大切なものですが、あくまでもそれは生き甲斐。

真の生きる目的は、死に直面しても変わらぬ無上の宝を得て、

永遠の幸福になることだと、仏教では教示されているのです。

 

 生きる目的は「絶対の幸福」

 

「永遠の幸福」とはどんな幸福なのでしょう。

親鸞聖人は、

「摂取不捨の利益(りやく)」(歎異抄1章)

と教えられています。

「摂取不捨」とは、〝摂(おさ)め取って捨てない〟こと。

「利益(りやく)」とは幸福ですから、〝ガチッと一念で

摂め取って、永遠に捨てられぬ絶対の幸福〟をいわれます。

必死にかき集めた宝を全て手離す死が来ても、

大安心、大満足の命を全うし、

光明の浄土に往くことができるのです。

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そんな身に救われるのは、「どんな人も絶対の幸福に救う」と

誓われた大宇宙最高の仏さま・阿弥陀仏の本願があるからです。

阿弥陀仏とは、2600年前、インドに登場された釈迦が、

「私の本師・師匠である」

と紹介された仏さま。

その阿弥陀仏の本願とは、本師本仏の阿弥陀如来の本当の願い、

本心からの熱い願いのことで、

「すべての人に

無上宝珠の名号を与えて

必ず絶対の幸福に救ってみせる」

という誓願です。

阿弥陀仏はどんな決意でこの本願を建て、

南無阿弥陀仏の「名号」を創られたのか。

経典にはこう説かれています。

 

たとい身を、諸(もろもろ)の苦毒の中に止(おわ)るとも、

我が行は精進にして、忍びて終に悔いじ」 (大無量寿経

たとえどんな苦難にあおうとも、

決して後悔はしないであろう

 

たとい身を諸の苦毒の中に止るとも

とは、阿弥陀仏は、苦しみ悩める群生海(すべての人)を

救うためならば、たとえご自身がどんな苦難にあっても

構わない。

いかなる苦毒も耐え抜いて、必ずわが願いを果たす力のある名号、

南無阿弥陀仏を創り、与えて助けてみせると仰っています。

我が行は精進して」とは、

万人を絶対の幸福にする力のある南無阿弥陀仏を

完成するために、全身全霊、目的に向かってまっしぐらに

精進するぞ、ということ。

忍びて終に悔いじ」とは、

どんなにつらくとも耐えて南無阿弥陀仏を成就し、

すべての人を助け切るまでは努力を怠らぬ、

決して後悔はしないということです。

こんな崇高な願いによって創られた名号だから、

「南無阿弥陀仏」には万人を救う絶大な力、功徳、

働きがあるのです。

名号六字が、どんな病気も治す万能薬に例えられるゆえんです。

この南無阿弥陀仏の宝は、遠い昔すでに弥陀のお手元に

完成しています。

そして今、現に私に与えようと、

阿弥陀仏は力尽くされているのです。

 

わずか100年ほどの人生しか知らぬ者に、

未来永劫変わらぬ最高の幸せに生かす大宝は

想像も及ばない。

しかしそんなすごい宝を阿弥陀仏は、

「おまえのために創ったのだ。どうか、

そのまま受け取ってくれ、絶対の幸福になってくれ」

と惜しげもなく差し出していらっしゃるのです。

 

  名号によって救われる

 

では「南無阿弥陀仏」の宝はどうすれば頂けるのでしょう。

お釈迦さまは、

 

聞其名号 信心歓喜

(その名号を聞いて、信心歓喜する)

 

と阿弥陀仏の御心を解説なさっています。

「聞信」ともいいますが、名号は、

聞く一念に弥陀より賜るのです。

これを「信心獲得(しんじんぎゃくとく)」ともいいます。

弥陀の本願(第18願)に救われることであり、

その本願によって成就した南無阿弥陀仏を賜ることだと、

蓮如上人は『御文章』に教示なさっています。

 

信心獲得すというは、第18の願を心得るなり。

この願を心得るというは、南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり

                 (5帖目5通)

当流の安心(あんじん)の一義というは、

ただ南無阿弥陀仏の六字のこころなり

                 (5帖目9通)

色も形もない名号の大功徳を、私の心に頂くので、

これを「仏凡一体」(仏心〈名号〉と凡心〈私の心〉が

一体になったこと)ともいわれます。

 

弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主になるなり。

南無阿弥陀仏の主になるというは、信心をうることなり。

また当流の真実の宝と言うは南無阿弥陀仏、

これ一念の信心なり」    (御一代記聞書)

 

弥陀に救われれば、南無阿弥陀仏の主になるのだ。

南無阿弥陀仏の主になるとは、信心を獲ることである。

浄土真宗で真実の宝とは南無阿弥陀仏だ。

これは弥陀より賜る一念の信心である

 

真実の宝である南無阿弥陀仏の名号を賜って、

絶対の幸福に救われることこそが、

万人の生きる目的であります。

だから私たちが、日々、親近し礼拝する御本尊は

「名号」でなければならないと、親鸞、蓮如上人両聖人は

教えられています。

「本尊」とは字のごとく、根本に尊ぶべきもの。

蓮師(蓮如上人)はこう教えられています。

 

「他流には『名号より絵像、絵像よりは木像』というなり。

当流には『木像よりは絵像、絵像よりは名号』というなり」

                  (御一代記聞書)

(浄土真宗以外の教えでは、本尊は名号よりも絵像、

絵像よりは金ぴかの木像が有り難く拝めるから最もよいと言う。

しかし、浄土真宗の正しい御本尊は名号である、

と親鸞聖人はおしえられている)

 

しかし果たして現今の浄土真宗は、

この教導どおりでしょうか。

「名号」よりも「絵像」や「木像」が圧倒的に多いのが

現状ではありませんか。

「名号を与えて救いたもう」阿弥陀仏の御心を

正しく知らねばなりません。

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