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未来永遠に続く幸せの厳存!! [なぜ生きる]

 

(真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」から載せています)

誠なるかなや、
摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ
        (親鸞聖人)
まことだった!本当だった。
弥陀の誓いにウソはなかった。
みなみな、聞いてもらいたい、
この親鸞が生き証人だ。
早く、弥陀の誓願まことを知ってもらいたい

ここで聖人が「摂取不捨の真言」と言われているのは、
「阿弥陀仏の本願」のことです。

すべての仏の師匠である阿弥陀仏が
誓われたお約束のことで、
『歎異抄』の冒頭には「弥陀の誓願」と著されています。

弥陀の誓願は、
“すべての人を、摂取不捨の利益(絶対の幸福)に救う”
という真実の誓いです。

この弥陀の本願を親鸞聖人は「摂取不捨の真言」
と言われているのです。

絶対に捨てられぬ幸福

「摂取不捨」とは文字どおり“摂め取って捨てぬ”ことであり、
「利益」は“幸福”のことです。
“ガチッと摂め取られて、捨てられない幸福”
を「摂取不捨の利益」と言われます。


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私たちは、健康を失わないか、
妻や子供が自分から離れていかないか、
友人の裏切り、会社のリストラ、金や財、名誉や地位から、
見捨てられはしないかと日々不安を抱え、

薄氷を踏むような日暮らしをしているのではないでしょうか。
とらえたと思った楽しみも一夜の夢、
握ったと信じた幸福もシャボン玉、
まるで線香花火のようにはかないものだと
知っているからです。

どんな壮大な栄華も、やがて夢幻と消えていきます。

400万票以上という、最多得票記録で当選した
猪瀬・前東京知事
「東京五輪招致」を実現させた得意の絶頂から
わずか百日余りで辞任とは誰が想像したで
しょう。
辞意表明の前夜に発売された
猪瀬氏の著書『勝ち抜く力』が書店に並ぶ光景は、
まさに盛者必滅を地でいくものでした。
南米エクアドルで新婚旅行中の夫婦が強盗に襲われ、
夫(30歳)が亡くなりました。
目撃者によると、黄色いタクシーと黒い車が走り去った後、
27歳の新妻は、倒れた夫の名を呼びながら
泣き叫んでいたといいます。
挙式の一週間後のことでした。
世界制覇をもくろんだアレキサンダー大王
世界の三大征服者に数えられる彼の死因は諸説ありますが、
その一つが「蚊に刺されマラリアにかかったから」です。
それが本当ならば、広大な地域を支配した男も、
蚊一匹によって、すべてを奪われたことになる。
ある人は、彼を評して、こう言いました。
「全世界で足りなかった人も、一つの墓で十分」

たとえ幸せが続いたとしても

アニメ『世界の光・親鸞聖人』第4巻に
次のような場面があります。

親鸞聖人 「いいですか皆さん。考えてみてください。
      もし皆さんがお金もあり、子宝にも恵まれ、
      健康に暮らせたとしても、それで本当に、安心できますか

参詣者A 「そうなれば、安心できると思うが・・・
参詣者B 「しかしなぁ。金持ちになったら盗まれはせんかと、
       また心配じゃな

親鸞聖人「たとえ、どんなにお金が儲かっても、
      死んで持っていけるわけじゃない。
      病気
が治っても、一時の安心ではありませんか。
      死なんようになったわけじゃない。
      少し死ぬのが延びただけ。
      やがては死なねばなりません

参詣者A 「そんなこと考えんようにするしかないわ
親鸞聖人 「こんな一大事が、外にあるでしょうか。
       考えないで済むことではありません。
        これを後生の一大事といいます。
        この一大事の解決こそが、仏法の目的なのです。
        なぜ苦しくとも生きねばならぬのか。
        この、一大事の解決のためです!


たとえ、事故や事件に巻き込まれず、
幸せが続いたとしても、
人は皆死んでいかねばなりません。

蓮如上人のお言葉に耳を傾けてみましょう。

それ、つらつら、人間のあだなる体を案ずるに、
生ある者は必ず死に帰し、
盛なる者は終(つい)に衰うるならいなり。
されば、ただいたずらに明し、いたずらに暮して、
年月を送るばかりなり。
これまことに歎きてもなお悲しむべし
           (御文章三帖目四通)

(意訳)人間のはかなさをよくよく見るに、
生まれたからには死は免れず、
栄華を誇る者もやがて衰える。
むなしく月日を送るすがたは
まことに嘆かわしいではないか

咲き誇った花も、やがて散る。
死の巌頭に立てば、死に物狂いでかき集めた財宝も、
名誉も地位も、すべてわが身から離散し、
一人でこの世を去らねばなりません。
こんな大悲劇に向かっている人類に、
絶対の幸福の厳存を明示された方が、
親鸞聖人です。

絶対捨てられない身にガチッと摂め取られて、
「人身受け難し、今已に受く」(釈尊)
“よくぞ人間に生まれたものぞ”と、
生命(いのち)輝く摂取不捨の幸福こそ、
万人の求める幸せであり、人生の目的なのです。

疑心を打ち砕かれた聖人の歓喜

“どんな人も必ず、
摂取不捨の幸福(絶対の幸福)に救い摂る”
と誓われた弥陀の本願。
しかし、そんなすごいお約束を素直に
信じられる人など一人もありません。
「本当に絶対の幸福など、あるのだろうか」
「どんな人もと仰るが、私も救われるのだろうか」
という疑いが、必ず起きてきます。

その疑心を粉砕された聖人の歓喜が、
「誠なるかなや、摂取不捨の真言」
なのです。

摂取とは、逃げ回っているものを追いかけて、
もう逃げ場のないところまで追い詰めて救う、
という意味です。
私たちは皆、阿弥陀さまに背を向けて
逃げ回っているのです。
そんな私をどこまでも追いかけ、追いこんで、
「逃しはせぬぞ。必ず救う」と摂取不捨。

「弥陀の本願まことだった、
摂取不捨の真言本当だった。

この親鸞が生き証人だ。
どうか皆さん、早く絶対の幸福になってくれよ


この聖人の断言に、
私たちはどれだけ励まされることでしょう。

仏法は聴聞に極まる

では、どうすれば聖人と同じ、
摂取不捨の幸福に生かされるのか。

聞思して遅慮することなかれ
と教えられています。
「聞思」とは「聴聞」のこと。

蓮如上人は、
仏法は聴聞に極まる
と仰せです。
弥陀の救いは聞く一つなのです。
ちょっと聞いて合点したのが救いではありません。

いつも信心の一通りをば、われ心得顔の由にて、
何事も聴聞するにも、その事とばかり思いて、
耳へも確々(しかじか)とも入らず、(乃至)
かくの如きの心中にては、
今度の報土往生も不可なり
              (御文章二帖目五通)

(意訳)ひととおり聞いて分かったつもりになり、
同じ話を「またあの話か」と馬鹿にして耳にフタをする。
それでは仏法は聞けない、報土往生はできないのである。


ただ珍しきことを聞きたく思うなり。
一つことを幾度も聴聞申すとも、
珍しく、はじめたるようにあるべきなり

             (蓮如上人御一代記聞書)

珍しい話、変わった話を聞きたがるが、何度、
同じことを聴聞しても、初事、初事と聞かなければならない
珍しい体験談や、知識を増やすための聞法では、
ダメです。

阿弥陀如来の救いを、
自分の具体的な体験(いつ、どこで、どうなった)
で語る人がありますが、それは、
万人に通ずる教えではありません。

各人各様の体験談を聞いて救われるのではないのです。
「泣いた」「笑った」「跳び上がった」「念仏が噴き上がった」
のが弥陀の救いではありません。

蓮如上人の金言を胸に、阿弥陀如来の御心(弥陀の本願)
をよくよくしっかりと、聞かせていただくことが肝心です。

 

 


タグ:摂取不捨
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なぜ生命は尊いのか [なぜ生きる]


テストの成績を知られたくなくて、
保護者面談の日に自宅に火を放ち、
母と幼い兄弟を死なせた16歳少年がありました。
女性との交際をめぐって人を生き埋めにしたり、
隣近所の子供を狙ったり、
生命の尊厳を踏みにじる犯罪が相次いでいます。
悲劇が起きるたび、
「尊い命を守りましょう」
「命の大切さを実感させる」
「人命は地球より重い」
という言葉が多く掲げられます。
しかし、これは本当に、説得力のある言葉として
人々の心に響いているのでしょうか。
大人も子供も、「命は尊い」と本心から思っているのでしょうか


呼吸器取り外し問題と仏法

無理やり生かされるのはかわいそう?

「日本人の8割は、病院で死ぬ」
といわれます。
大多数の人が、そう遠くない将来、
かかわるであろう医療現場で、
末期患者の人工呼吸器が取り外され、
全国に議論を巻き起こしました。
(平成18年のことです)
奇しくも本誌編集部のすぐ近くの病院で
起きた出来事を通して、
仏教から“命の尊厳”を学びましょう。

今年の3月下旬、
富山県の射水市民病院の外科部長(当時)が、
ガン患者など7人の人工呼吸器を取り外していたことが
明らかになりました。

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病院長と外科部長の意見の相違から、
発覚したといわれますが、
両者の主張を整理すると、
まず病院長が指摘する外科部長の問題点は2つ。

1つは患者の意志がハッキリせず、
得られた家族の同意も口頭のみであったこと、
2つに、病院や他の医師に相談していないことです。
「明確な本人の意思が分からぬうえに、独断であった」
ことを問題視しています。

対して、外科部長は、
「快復の見込みもないのに、
人工的に無理やり生かされているのはかわいそう。
家族の同意も得たし、
患者のためにも死なせたほうがいい」
という考えです。

すべての人の100パーセント確実な未来である
死にかかわる問題に、大きな関心が寄せられました。
双方の見解に対して、新聞、雑誌などで論争が広がり、
さまざまな立場から、真摯に問う声が上がりました。
「医師が、『生命』のチャンスを断ってしまうのは
いかがなものかと疑問に思う」
「いかなる病院であっても人の生命を、
何の取り決めもなしに軽んじてはならない」

一方で、このような意見も多く見られました。
「意識もないのに生かされる延命治療は必要ないと思う」
「死に際しては、自然体が尊重されるべきだ」
「寝たきりの母を見ていると、
つい、楽にしてあげられたらと思う」
「意味のない延命は、医療費の無駄遣いでは?
家族の負担も心配だ」
その後、この病院では、「人工呼吸器は、
つけたら外さないことを基本方針として確認し
た」
と発表しました。

問われる大前提
     「延命の意味」と「命の尊厳」

それぞれの主張を突き詰めていくと、
このような論点が浮き彫りになります。
「延命に意味はあるのか」
「なぜ生命は尊厳なのか」

これはどういうことでしょうか。

例えば、「延命は是」という意見は、
「生きる=よいこと」という方程式が
正しいことを大前提にしています。
それが覆れば、延命は意味を失います。

逆に、「延命は患者に苦痛を与えるのみ」
と主張する人は、「延命は無意味、無目的」
と思っているのでしょう。
延命に重大な意味があれば、
苦痛があっても死なせてはならないからです。

いずれも、「延命に意味はあるのか」に
明解な答えがなくては、語れないことです。

ただ、多くの人は、この延命について、
「本人の意思を尊重せよ」
と結論づけています。
一見、もっともらしい回答ですが、この結論も、
「万人が命の尊厳を十分に知っている」
ことを大前提にしないと言えないことではないで
しょうか。

生死に無知なのは誰?

ところで私たちは、
「死」というものの実態をどれだけ知っているでしょう。
そもそも人が「死」を考える、という場合の「死」とは、
多くは「他人の死」であって、「自分の死」ではありません。

例えば肉親や知人が亡くなるのを見て、
「自分もいつか死んでいくんだな。
でもあんなふうに体中に管を巻かれて死にたくない」
と思ったり、
「できれば自分の意志で、
皆に送られながら自然に死にたいものだ」
と思っていますが、
これは、自分で見聞きした「他人の死」を
基準にして考えているだけで、
本当に「自分が体験する死」ではありません。
生きている私たちが、
「死」を体験するのは、すでに死んでしまった時で、
生きている人間には想像できないことなのです。

「死」があいまいなのですから、
生命の実態や、死後のこともだれも分かりません。

解剖学の権威という東大名誉教授も、
このようにサジを投げています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
死について考えるといっても、
自分の死について延々と悩んでも仕方がないのです。
そんなのは考えても答えがあるものではない。(略)
死んだらどうなるかは、死んでいないから分かりません。
誰もがそうでしょう。
しかし意識が無くなる状態というのは
毎晩経験しているはずです。
眠るようなものだと思うしかない。
そんなわけで私自身は、
自分の死で悩んだことはありません。
            (養老孟司「死の壁」)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「自分の死」ほどの大問題はないのに、
「仕方がない」とか、「悩んだことがない」で、
本当に納得できるでしょうか。

「死んだらどうなるか」が分からないから
「延ばした命で何をするのか」も
「なぜ命は尊いのか」も分からないのです。

だれしもが「生きる意味」「生命の尊厳」という
人生の根本問題に、
全く無知だということはないでしょうか。


仏陀・釈尊の教え
    「天上天下 唯我独尊」

ではそれを知るにはどうすればよいのか。
それは、人智を超えた仏さまの教えによって
知る以外にありません。

世界の三大聖人の筆頭に挙げられるお釈迦さまは、
35歳で大宇宙最高の仏のさとりを開かれ、
80歳でお亡くなりになるまでの45年間、
教えを説かれました。
では、生命の尊厳を、
仏教ではどのように教えられるのでしょうか。
釈尊は、
「天上天下 唯我独尊」
とおっしゃっています。

お釈迦さまが誕生された時、
天と地を指さされておっしゃったといわれるお言葉です。
多くの人は、これを
「この世でいちばん偉くて尊いものは、
自分一人である」
と、釈尊が威張り、
うぬぼれて言われたことのように扱っています。
しかし、このお言葉は、
決してそのような思い上がった御心で
おっしゃったものではありません。
なぜなら、この「我」というのは、
決して釈尊だけのことではないからです。
この「我」は、人間一人一人のことなのです。
「独尊」とは、たった一つの尊い使命ということで、
自分一人が偉いのだということではありません。

このお言葉は、我々人間は、天上天下、広しといえども、
たった一つしかない聖なる使命を果たすべく、
この世に生まれてきた、という意味なのです。

ですから、人間だれしも釈尊と同じように、
「天上天下 唯我独尊」
なのであり、またそういえるのです。
「私たちは、過去無量劫の永い間、
生まれ変わり、死に変わり、流転を重ねてきたが、
人間に生まれなければ絶対に完成できない
尊い目的があるのだ」
ということです。

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よくぞ人間に
     生まれたものぞ
  
      盲亀浮木(もうきふぼく)のたとえ

この尊い使命を果たした喜びを、
お釈迦さまはこうおっしゃっています。

「人身受け難し、今已(すで)に受く。
仏法聞き難し 今已に聞く。
この身今生に向かって度せずんば、
さらにいずれの生に向かってか、
この身を度せん」

「人身受け難し、今已に受く」
とは、
「生まれ難い人間に、生まれることができてよかった」
という喜びの言葉です。
「よくぞ人間に生まれたものぞ」
という生命の大歓喜です。
仏教では、
「人間に生まれたことは大変ありがたいことだから、
喜ばねばならないよ」
と説かれています。

『雑阿含経』の中には、
有名な盲木浮木の譬えがあります。

ある時、お釈迦さまが阿難というお弟子に、
「そなたは人間に生まれてきたことを
どのように思っているか」
と尋ねられました。
「大変喜んでおります」
と阿難尊者が答えられると、
お釈迦さまは次のような話をされています。
「果てしもなく広がる海の底に、
目の見えない亀がいる。
その盲亀が、100年に一度、海面に顔を出すのだ。
広い海には一本の丸太ん棒が浮いている。
丸太ん棒の真ん中には小さな穴がある。
その丸太ん棒は風のまにまに、西へ東へ、
南へ北へ漂っているのだ。
阿難よ。100年に一度、浮かび上がるこの亀が、
浮かび上がった拍子に、丸太ん棒の穴にひょいと
頭を入れることがあると思うか」
聞かれた阿難は驚いて、
「お釈迦さま、そんなことはとても考えられません」
と答えると、
「絶対にないと言い切れるか」
お釈迦さまが念を押されると、
「何億年かける何億年、何兆年かける何兆年の間には、
ひょっと頭を入れることがあるかもしれませんが、
無いと言ってもよいくらい難しいことです」
と阿難が答えると、
「ところが阿難よ、私たちが人間に生まれることは、
この亀が、丸太ん棒の穴に首を入れることが有るよりも、
難しいことなんだ。有り難いことなんだよ」
とお釈迦さまは教えられています。

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「有り難い」とは「有ることは難しい」ということで、
めったにないことをいいます。
『涅槃経』には、
「地獄に堕つる者は十方世界の土の如く、
人間に生まれる者は爪の上の土の如し」

とも説かれています。
人間に生まれることは、それほど喜ばねばならないことだと、
お釈迦さまは教えられている
のですが、
喜んでいるどころか、何で生まれてきたのだろう。
人間に生まれさえしなければ、
こんなに苦しまなくてよかったのに、
と恨んでいる人さえあります。

それは、何のために人間に生まれてきたのか。
何のために生きているのか。
なぜ苦しくても生きねばならないのか。
人生の目的が分からないからです。

受け難い人身を受けたということは、
人間に生まれなければ果たせない大切な聖使命があり、
それを達成するための命なのだということです。

唯一無二の聖使命

ではその聖使命とは何でしょう。
それこそがお釈迦さまがこの世へ生まれられた、
たった一つの目的です。
その釈尊の出世本懐を、
一切経を何度も読破せられた親鸞聖人は、
『正信偈』に次のように仰せられています。

「如来、世に興出したもう所以は
唯、弥陀の本願海を説かんがためなり」
「釈迦如来が、この世に生まれ出られ、
仏教を説かれた目的はただ一つ。
弥陀の本願を説くためであったのだ」


「すべての人々を、
必ず絶対の幸福にしてみせる」
と誓われた、大宇宙の仏方の本師本仏である
阿弥陀仏のなされたお約束のことです。
「この世界広しといえども、
唯一無二の弥陀の本願を説くという、
たった一つの尊い使命を担って、
この釈迦は生まれてきたのだ」

という、釈尊の使命感が、
「天上天下 唯我独尊」
という格調高き宣言となったのです。

お釈迦さまはこのように、
弥陀の本願を説くという、たった一つの聖使命を、
「唯我独尊」とおっしゃいました。
同時に、
一切の人々は、
その仏陀・釈尊が唯説なされた
弥陀の本願を聞くことが、
人間に生まれた、
たった一つの使命なのだと示されています。


釈尊と私たちとは、「弥陀の本願」という一点において、
共通の人生の目的を持っているのです。

ところが、それを知らぬ人々は
人生の目的を何と心得ているでしょうか。
人生の喜びを金儲けと見定め、
マネーゲームに興ずる者たち、
地位を追い、名誉に明け暮れて、
むなしく一生を過ごす人。
スポーツや芸術に醍醐味を見出し、
花鳥風月をめでる人。
人の数だけ人生はあっても、
「わが人生こそ『独尊』なり」
と、心から叫べる人はどれだけあるでしょうか。

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「人の一生は
重荷を負うて
遠き道を行くがごとし」
と、徳川家康は天下を取ってもなくならぬ
人生の苦しみを告白し、
「花のいのちはみじかくて
苦しきことのみ 多かりき」
と、作家の林芙美子は振り返っています。
いずれも涙とともに、
はかなく一生を閉じているではありませんか。
仏教に説かれた本当の人生の目的が
明らかに自覚されていない人は、
決して、
「天上天下 唯我独尊」
と叫ぶことはできないのです。

そこで釈尊は次に、
「仏法聞き難し 今已(すで)に聞く」
と仰せられています。
「聞き難い仏法、よくぞ聞かせていただいたものぞ。
仏教の真髄、弥陀の本願を聞くことができてよかった」
の法悦です。

しかも、このように
弥陀の本願を聞かせていただくことは、
何億年に一度しか巡ってこない
絶好のチャンスなのだ
と、
「この身今生に向かって度せずんば、
さらにいずれの生に向かってか、
この身を度せん」
と仰せられ、真剣な聞法求道を勧めておられます。

弥陀の救いは
    ハッキリする
     臨終 息の切れ際でも

弥陀の救いは「一念」で完成します。
「一念とは時尅(じこく)の極促」と
親鸞聖人はおっしゃっています。
何億分の一秒より短い、時間の極まりをいいます」
阿弥陀仏は「ひとおもい」で
絶対の幸福にしてみせると誓っていられるのです。

これを聖人は、
「一念往生」とか、
「一念の信心」
ともおっしゃっています。
いずれも、アッという間もない時尅の極促に、
無上の幸福を与えてくださるのです。
この身今生、ただ今の一念で、
迷いの世界から出離できる。
かくて、仏法を聞き、
未来永遠の絶対の幸福を獲得(ぎゃくとく)した時にこそ、
人間に生まれた本当の有り難さ、
輝く生命の尊厳が知らされるのです。

仏法を聞き開かぬ限り、
人界受生(じんかいじゅしょう)の本当の喜びなど
絶対に分かるものではありません。

弥陀の救いに値う(あう)ことこそ、
人生の目的であり、
それは臨終、息の切れ際でも達成できます。
だからこそ、一分一秒でも命を延ばすことが、
極めて大切になるのです。

人間に生まれてきた唯一の聖使命を知り、
その使命に向かって全力を挙げ、
この使命を成就した時にこそ、
すべての人々が、天と地に向かって、
「天上天下 唯我独尊」
と、絶叫せずにいられなくなるのです。

これを機縁に我々の生きる聖なる目的について、
深く考えてみようではありませんか。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
読者の声

人間に生まれた意味をしらせていただいたことが、
何よりの喜びであります。
私の命の尊さも知らされた。
       (石川県・70代男性)

一刻も早く生命の歓喜する身となり、
家族や周りの人たちにも
伝えられる人になりたいと思います。
       (栃木県・30代女性)

生まれ難い人間に生を受けた喜びに手を合わせ、
日々仏法を心にかけて暮らします。
       (富山県・70代女性)

正しい生命の実相を知らねば、
大人も子供も救われません。
       (石川県・80代女性)

有り難く尊い生命を頂いたことを、教えていただきました。
        (滋賀県・80代男性)

 


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お金を使う人使われる人 [なぜ生きる]

お金を使う人
  使われる人
    「生かすかどうかは腕次第」

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食品の値上げが相次いでいます。
牛乳、パン、うどん、しょうゆ等々。
家計を預かる主婦のため息が聞こえてきそうです。
(平成20年のとどろきです。)
お金はしかし、有るところには有るもの。
大阪で、自宅に59億円もの現金を
隠し持っていた姉妹が逮捕されました。
脱税額は過去最高の29億円といわれます。
「脱税姉妹」と嘲笑しつつ、
“100万でいいから譲って欲しい”と、
何ともうらやましく思っている方も多いでしょう。

無いから幸せになれないのか、有れば満足できるのか。
今回はそんな“お金”にちなんだ話です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●ああ、もっとお金が欲しい

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4月に日本中の関心を集めたのが、
暫定期限切れに伴う、ガソリン代の値下げでした。
スタンドには続々と車が押し寄せ、
一円でも安いところを求めて、車を走らせた人もあるでしょう。
(平成20年のとどろきより載せています)
スーパーの特売チラシを見比べて、
二軒、三軒とはしごする。
どうしたらガスや電気料金を抑えられるか。
一円でも安くと、私たちは日々頭を悩ませています。
ですから、社会保険庁のずさんな管理のために、
もらえるはずの年金を受け取れなくなった時の怒りは無理からぬこと。
75歳以上の人たちは、4月から始まった新しい医療制度により、
介護保険に加えて医療保険料も年金から天引きされるようになりました。
制度の周知不足も重なって、
“出すべきもんは出さずに、保険料だけはしっかり取るのか”
“役所に都合がいいだけの制度だ”
と反発の声が次々と上がりました。
このように朝から晩まで私たちは、
お金のことで一喜一憂。
漏らすのは、
“もっとお金が有れば・・・”
のつぶやきばかりという人も多いのではないでしょうか?

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ビジネスマンを対象にしたアンケート調査を見ると、
「現在の生活にどの程度満足していますか」
の問いに、
「不満」「やや不満」と答えた人が半数を超えています。
中でも、資産や将来の収入に悩みや不安を抱えている人が
多いと分かりました。
その不安を解消しようと、毎日並々ならぬ努力をしています。
他人と同じことをしていては、
より多く稼ぐことはできないからです。
“年収が何倍もアップする”
“株で常勝するには・・・”
“少ない時間で最大の成果”
書店にはこんなタイトルのビジネス書がズラリと並び、
競争心をあおっています。
戦う術を少しでも早い時期から身につけさせようと、
株式の仕組みや取引の仕方を教えている中学校もあるといいます。
昨年相次いだ食品の偽装にしても、
政治家や官僚による汚職事件にしても、
つまるところは、金のため。
では、なぜそこまでして求めるのか。
お金が有れば衣食住が満たされ、欲しいものが手に入る。
今より豊かな生活を送れて、幸福になれる。
そう信じているからでしょう。

ならば、たくさんの金を手にできたならば、
本当に幸せになれるのでしょうか。

●手にして始まる
    苦悩がある

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ある弁護士の話によると、
全国の裁判所で審理される事件のうち、
最も多いのが金銭絡みのものだといわれます。

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「日本司法支援センター」に寄せられる、
年間約22万件の相談の中でも、
多重債務などの金銭のお借り入れや遺産相続、
金銭の貸し付けなどが、上位に顔を出しています。
これは、お金や遺産があるがゆえに
争っている人があることを示しています。
借金に首が回らず泣く人もありますが、
貸して苦しんでいる人もあるのです。

貸す金が無ければ、“返してくれない”
と涙を流す必要がありません。
“おれにもよこせ”“いや、おまえには渡さぬ”
と兄弟間で取り合いが起きるのは、
莫大な親の遺産があるから。
つまり“有るがゆえの苦しみ”なのです。
金は人を変える、とはよく聞く言葉ですが、
どんなに仲のよかった家族や親戚、
友人・知人同士であっても、ひとたび金銭が絡めば、
骨肉相はむ争いを繰り広げかねないのです。

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法廷で争っている人ばかりが苦しんでいるのではありません。
現代を見渡せば、自殺者は毎年3万人を超え、
精神的な病を抱える人も増えています。
DVや児童虐待の問題の深刻化。
“人を殺してみたかった”“むしゃくしゃしたから”
と身勝手な理由で、見ず知らずの人を殺す事件が
後を絶ちません。
4、50年前と比べると、金や物に驚異的に恵まれ、
生活は豊かになったはずなのに、
今日の日本は幸福どころか殺伐として、
皆、心がイライラしています。

金や物が無ければ苦しいですが、有れば有ったでまた苦しい。
有っても無くても苦しんでいることに変わりがないことを、
2600年前、インドで仏教を説かれたお釈迦さまは、
「有無同然」と教えられました。

金をたくさん手にしたから、
それで幸福になれるわけではないのです。

かつて競争社会のまっただ中で、
家庭も健康も犠牲にしながらモーレツに働き、
高度経済成長を支えてきた「団塊」の世代。
次々と定年を迎えるに当たって、
“今までは、物質的な繁栄を求めて死ぬほど頑張ってきたが、
今になって「心」の問題がいちばん大切だと分かった”
と気づく人が少なくありません。
古人の知恵に学ぼうという昨今の古典ブームも、
その流れの一つといえましょう。

●なぜ金に
   “使われて”しまうのか

必死の思いで金を手にし、
欲しいものが手には入ったはずなのに、
幸せになれないのはなぜでしょう。
考えさせるこんな小話があります。

あるところに、愚かな金持ちがいた。
有名な画家を訪問した時のこと。
見事な作品の数々に感動し、
自分もあのような絵を描いてみたい、
と思うようになった。

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彼はまず、金にまかせて素晴らしいアトリエを建てた。
そして高価なフランス製の絵の具など、
必要な一切のものを買い集めると、
そこへこもって一歩も外へ出ずに
絵を描き続けるようになった。
こうして数年がたったある日、
彼は突然、近所の人にアトリエの参観を許した。
珍しがって集まってきた人々は一様に驚く。
どの絵も、小学生が描いたような
稚拙(ちせつ)なものばかりだったからである。
聞けば彼は、アトリエや絵の具など、
高級なものさえ集めれば、よい絵が描けるものだと
固く信じ切っていた。
ために、肝心の腕を磨くことを
忘れていたというのだ。

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生け花や料理でもそうです。
どんなにきれいな花をそろえても、
生け方を知らねば美しく飾れない。
高級な食材も、調理方法を知らねば
おいしい料理は作れない。
たとえ有り合わせでも、華の先生は美しく生けるし、
名シェフはおいしい料理を作ります。
材料に活殺(かっさつ)は、
それを使用する人の腕一つにかかっているのです。
金は私たちを幸福にする材料ですが、
その金を得ることがイコール幸福ではありません。
「脱税姉妹」と話題の方たちは、
銀行口座から数十回にわたって現金を引き出し、
4,5年ほど前から自宅車庫にため込むようになったといいます。
しかし、ダンボール50箱に詰められた札束は、
使われることもなく無造作に積み上げられ、
カビが生えていたものまで見つかった。
姉妹は着物に少し金をかけるくらいで、
あとは一般の人と何ら変わらぬ
質素な生活を送っていたというのです。
彼女たちにとって、あの大金は何だったのでしょうか。
“金は使うためにある”という平凡な真理に盲目で、
いつの間にか金の番人になっているのは、
かの人ばかりではありません。
「幸福」と「幸福の材料」を混同したまま、
幾らよい材料ばかりを集めても、
本当の幸福になれないのは、当然でしょう。

●一生懸命手に入れた
  “材料”が生かされる

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では、本当の幸福とは何か。
その厳存を教え、人間の真に生きる道を教えられたのが、
お釈迦さまという方です。

このお釈迦さまの教えを、
正確に伝えられた800年前の親鸞聖人は、
念仏者は無碍の一道なり」(歎異抄)
弥陀に救われ念仏する者は、
一切が碍りにならぬ、絶対の幸福者である
とおっしゃっています。
金が有るから、無いからということが、
全く障りにならない真の幸福があるぞ、
という明言です。

今日の言葉で、「絶対の幸福」ともいえましょう。
仏法を真剣に聞き求め、無碍の一道の身になったならば、
だれと比べるまでもなく、
心底からの安心、満足を謳歌できます。

500年前、親鸞聖人のみ教えを
日本全国に広められた蓮如上人はこれを、
「信の上は一人居て喜ぶ法なり」
        (御一代記聞書)
と言われました。
これこそが私たちの生きる目的です。
真の幸福、無碍の一道に向かって生きてこそ、
今まで懸命に手に入れてきた“材料”も
真に生かされることになるのです。

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大安心に生きる [なぜ生きる]

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誰もが皆、安心して生きたい、
満足した人生を送りたいと望んでいます。
しかし現実は、不安を感じている人が
少なくありません。
日本は昨年、明治以降続いてきた人口の自然増加が
初めて減少に転じ、
本格的に少子高齢化社会に突入、
起こりうるさまざまな問題の対策が
論じられています。(平成18年の記事です)
「不安の時代」といわれる現代、
真に安心した人生を送るに必要なのは、
一体、何でしょうか。

●平均寿命世界一
    でも、年を取るのは不安

今年四月に発表された平均寿命世界一の国は、
日本、モナコ、サンマリノの三国で、
82歳だったそうです。(2004年時点の寿命)
前の年に続いて、日本は、
“長寿世界一”を維持したことになります。
ところが、この長寿を日本の私たちは
喜んでいるのでしょうか。
国立長寿医療センターが一昨年、
全国の20~70代の男女約2000人を対象にした
アンケートによると、
8割以上の人が、
「高齢者になることは不安」
と答えています。
年代別では、75歳以上の69パーセントに比べて、
20~39歳は87パーセント、40~54歳で88パーセントと、
若い人ほど不安に感じていることが
分かります。
寝たきりや認知症で介護が必要になることが
理由の一位、
自分が病気になることが2位と、
健康に関する悩みがトップを占めています。

●アンチエイジングで
      安心できる?

そんな未来への不安を打ち消そうと、
今、アンチエイジングがブームになっています。
「アンチエイジング」とは、
直訳すれば「抗加齢」。
老化を遅らせようとするものです。
もともとは、しわなど美容に関するものが
多かったのですが、
最近は、健康維持を目的として、
運動、脳のトレーニング、食生活やサプリメントなど、
さまざまな分野での研究がなされています。
書店には、『脳を鍛える大人の計算ドリル』、
『ボケない脳をつくる』など、
脳を活性化させるための本が数多く並んでいます。
あるパソコン教室は今年四月、
六十歳以上の人を対象に、
パソコンゲームを解きながら脳を鍛える講座を開設しました。
テレビをつけると、老化予防によい食品を紹介した番組や、
現在の食生活を続ければ五年後、
十年後にどんな病気になるかを
予測する番組が放映され、
人気を呼んでいます。
みんな、将来への不安をなくそうと必死ですが、
老化を遅らせることで本当に不安はなくなるのでしょうか。

●「生きてよかった」
     と言える“目的”は?

最近、老後の人生を考える書籍が相次いで
出版されていますが、
その中の一冊『60歳からの「生きる意味」(森村誠一・堀田力著)』には、
定年後に大きな問題となってくるのが、
「なぜ生きるか」だと述べられています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「生きる意味」(森村誠一・堀田力著)

60歳を迎えると会社を定年退職し、
突然に自由な時間が有り余るほどできる「余生」を手にして、
そこではじめて「自己の存在証明」について
考えるようになります。
「自分は何のために生きてきたのか」と。(中略)
「あなたは何のために生きているのですか?」
と聞かれて、
「私は社会に役立つために生きています」
とはなかなか言えません。
現実にだんだんと役立たなくなるのですから、
それでは答えにならない。
社会に役立たなくなっていながら、
なおかつ存在しているのはなぜか。
この存在理由を証明するのは、
実は歴史上にかつて存在しなかった大変な難問なのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

仕事をしている時は、
「これが、私の生きる目的だ」と思っていたものが、
実は人生の通過駅であり、
目標と呼ばれるもので、
「生まれてきたのはこれ一つ」
と言える人生の目的ではなかったことが、
定年後になって知らされるのです。
退職して、たとえ体が不自由になっても、
生きねばならない理由は何か。
人生の終わりに近づいて、
自らの生きる目的がハッキリしていなかったことに
愕然とするのです。
「人間に生まれてよかった」
「生きてきてよかった」
と大満足する「人生の目的」が分からなければ、
長生きすればするほど老いや病の苦しみは深くなり、
苦しむための一生に終わってしまうのではないでしょうか。

●百パーセント
    確実な未来

そうやって、なぜ生きるかが分からないまま日を送り、
やがて人生の終わりを予感した時、
大問題になってくるのが、
「死んだらどうなるか」
だと著者はいいます。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「生きる意味」(森村誠一・堀田力著)

だんだんと老化が進んで体が不自由になってくると、
そうやって自分の力で寂しさを解消することが
できなくなってきます。
そのときに、思うことは二つです。
一つは、「自分は生きてきてよかったのか」
という過去からの自己の存在証明、
もう一つは「自分が死んだら将来どこへ行くのか」。
死と向かい合っている人と話しをしていると、
必ずと言ってよいほど、
この二つのことが出てきます。(中略)
私の父がそうでした。
けっして神仏を信じてる人ではなかったけれども、
最期には私の手を握って「エマーソン」と
小さく呟いたのです。
私の耳には確かにそう聞こえました。
さらに父は、「エマーソンは、
日本の言葉で言えば輪廻転生、
死んでからの魂の再生のことを言っているけれども、
どう思う?」
と私に聞いてきたのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この死の問題を無視して、
人生の不安を根本的に解決することはできません。
年を取るのが不安、病気にはなりたくない、
と言うのも、結局は、死が怖いということにほかなりません。
風邪だと言われても驚きませんが、
「ガンだ」「エイズだ」となると大騒ぎするのは、
それが死に至る病気だからでしょう。

作家、ヴィクトール・ユゴーは
『死刑囚最後の日』の中で、
人間は不定の執行猶予期間のついた死刑囚だ
と言っていました。
すべての人の悲劇は、
遅かれ早かれ、死なねばならないところにあります。
どれだけ健康に気を遣っても、
死ななくなることはできません。
死は、確実な未来ですから、まさに死刑囚です。

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●突然やってくる暴力

死刑を宣告された死刑囚は、
明日にも執行されるか、今日にも執行されるか、
と毎日を戦々恐々と過ごすといいます。
私たちも、必ず死なねばなりませんが、
いつ死がやってくるか分からないから、
不定の執行猶予期間をもった死刑囚です。

ところが、それほど死が問題になっていないのは、
なぜでしょう。
それは、「自分が死ぬのは、
まだまだ遠い先のことだ」
と思っているからではないでしょうか。

ガンを宣告された岸本英夫氏(東大・宗教学教授)は、
死はまさに、突然襲ってくる暴力だと闘病記に残しています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
死は、突然にしかやって来ないといってもよい。
いつ来ても、その当事者は、
突然に来たとしか感じないのである。
生きることに安心しきっている心には、
死に対する用意が、なにもできていないからである。
        (岸本英夫『死を見つめる心』)

・・・・・・・・・・・・・・・・・

交通事故で今日亡くなった人の中で、
「今日が最後の日」と思って、
朝、出かけた人があったでしょうか。
私たちと同じように、洗顔し、
食事を済ませ、「行ってきます」
と出て行った人が、今日、
突然の事故や病気で帰らぬ人となっているのです。
突然の死の到来は、
今日かもしれないのです。

●先はどうなっているのか?

死の問題と聞くと、
財産の分配や葬式について遺言状を書いたり、
墓を造ったりすることが大事だと
考える人もあります。
それは例えて言えば、
電車から降りる時、それまで座っていた席を誰に譲ろうかと、
辺りを見回しているようなものです。
しかし大事なのは、降りた後、どこへ行くのかということでしょう。
財産や葬式、墓などは電車の席のようなもの。
死を目前にして問題となるのは、
後生、どこへ行くかということだけなのです。

“まだまだ死なない”と死を遠くに眺めている時は、
「死んだら死んだ時さ」「死は永眠だ」
「恐ろしくないよ」と気軽に考えている人も、
いざ死が近づくと、先はどうなっているかだけが
大問題となります。

死後は有るのか無いのか、
どうなっているのかさっぱり分からない、
お先真っ暗な状態なのです。
この死んだらどうなるか分からない心を
「無明の闇」といい、「後生暗い心」ともいわれます。

「後生」とは死後のこと。
「暗い」とは分からないということです。
すべての人の苦しみの根元は、
この後生暗い心だと仏教では教えられています。
この暗い心を解決しないかぎり、
何を手に入れても、心からの安心は得られないのです。

なぜか。
未来が暗いと現在が暗くなるからです。
自分の乗っている飛行機が墜落する、
と知った乗客の心境を考えれば、
よく分かるでしょう。
どんな食事もおいしくないし、
コメディ映画もおもしろくなくなる。
不安におびえ、狼狽し、泣き叫ぶ人も出てくる。
乗客の苦悩の元はこの場合、
やがて起きる墜落ですが、
墜死だけが恐怖なのではありません。
悲劇に近づいている今が、地獄なのです。
未来が暗いと、現在が暗くなる。
死後の不安と現在の不安は、切り離せないもの。
後生暗いままで明るい現在を築こうとしても、
できる道理がありません。

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●言い尽くせぬ 
     大きな喜び

この後生暗い心が断ち切られ、
「人間に生まれてよかった!」
という生命の大歓喜を獲ることこそが、
人生の大目的なのです。

その目的を達成した喜びを、
親鸞聖人は『正信偈』の冒頭に、

「帰命無量寿如来
南無不可思議光」

と叫んでおられます。
「無量寿如来」も「不可思議光」も
阿弥陀仏の別名です。
「帰命」とは中国の昔の言葉、
「南無」はインドの昔の言葉で、
ともに「助けられた、救われた」
という意味ですから、
「阿弥陀如来に、親鸞、救われたぞ!
阿弥陀如来に、親鸞、助けられたぞ!」
とおっしゃっているお言葉です。

・・・・・・・・・・・・・・
【阿弥陀如来とは】
「阿弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なれば」(御文章)
と教えられている。
「三世十方の諸仏」とは、
大宇宙のすべての仏、「本師本仏」とは先生のことだから、
「阿弥陀如来は、大宇宙のあらゆる仏の先生である」
ということ。

・・・・・・・・・・・・・・

なぜ、同じことを2回も?
これは、言っても言っても言い尽くせぬ、
書いても書いても書かずにおれぬ、
大慶喜を表されているのです。
例えば、ある死刑囚に、いよいよ執行の日がやってきた。
絞首台の階段を上り、首にロープをかけられ、
今まさにボタンを押されて
足下の板が外れたら死ぬ、という時、
「その死刑待った!無罪放免、
そしてその者に百億円与えよ!」
と言われたら、どうでしょうか。
「あー!」と言葉にならぬ驚き、
感嘆のあとは、
「助かったぁ、救われたぁ」
と叫ばずにおれません。
親鸞聖人が『正信偈』に、
「親鸞は阿弥陀如来に救われたぞ、
親鸞は阿弥陀如来に助けられたぞ」
と繰り返しおっしゃってるのは、
それ以上のことなのです。
苦悩の根元(後生暗い心)が破られ、
大宇宙の宝を丸もらいするのですから、
天に踊り、地に踊る歓喜がわき起こります。
どれだけ喜んでも喜びすぎることはありません。

●自分自身に
    ハッキリする

このハッキリした体験を、
蓮如上人は次のように書かれています。

「三世の業障、一時に罪消えて」(御文章)

「三世」とは、過去、現在、未来のことで、
今まで私たちが迷い苦しんで来たのも、
現に苦悩渦巻いているのも、
未来また無限の苦患(くげん)を受けなければならないのも、
その原因は三世の業障ただ一つ。
後生暗い心のことです。
その迷いの元凶が、
一念でなくなると断言されています。
そんな苦しみが抜き取られたのに、
助かったのか助かっていないのか、
他人に聞かねば分からない、
というようなものではありません。

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背中についた糸くず程度なら、
他人に取ってもらっても、
取られたのかどうか分かりません。
軽いからです。
しかし、重荷を背負って苦しんでいた時、
その荷物を取られたら分からないはずがない。
だれに言われなくても、
自分自身がハッキリします。

分からないのは、まだ救われていないからです。
三世の業障という重荷を負うて、
その重さに泣いたことがない人に、
その重荷を阿弥陀仏に一念で
奪い取られて躍り上がった
体験がないのは当たり前です。

●大安心、大満足の
    世界に生かされる

この後生暗い心がなくなった一念で、
“必ず弥陀の浄土に往生できる”
と心が一つに定まるので、
蓮如上人は、「往生一定」と言われています。
往生の本決まり(ほんぎまり)です。
合格発表までの受験生は大丈夫だろうか、
ダメだろうかと心は千々(ちぢ)に乱れて
定まりませんが、合格発表を見た瞬間、
「やった」と心が一つに定まり、
安心するようなものです。
阿弥陀仏のお力によって、
“死んだらどうなるか分からない”
後生不安な心が破られ、
“いつ死んでも必ず極楽往生へ往ける”
大安心・大満足の世界に生かされるのです。
親鸞聖人は、ご著書の至るところに、
その世界に救われた大歓喜を書き記されています。
そして、この身になることこそが
人生究極の目的であり、
「なぜ生きる」の答えだと明らかに教えられています。

それなのに、
「なぜ生きるの答えは見つからない」などと言うのは、
そんな聖人のお言葉を全くご存じない人の言うことだと、
お分かりになるでしょう。

聖人と同じ世界に出させていただくところまで、
真実の仏法を真剣に聞き求めましょう。


・・・・・・・・・・・・・
【読者の声】

人生を歩ませていただく道の、
いかに険しくとも、「往生一定」の世界に向かって
一歩一歩、踏みしめて歩いていきたい。
そして、素晴らしい日を送りたいと思います。
          (兵庫県・60代女性)

現在暗い心が救われなければ、
一生涯不安な暮らしです。
私たちの苦悩を救い、
未来永遠に生かし切ってくださる弥陀の本願。
その弥陀の本願に救い摂られた世界を
「往生一定」と言われました。
本当にありがたいお言葉です。
私もこの心になれるよう光に向かいます。
        (北海道・50代男性)


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間違った信心では不幸になる、正しい崩れない信心を持てよ! [なぜ生きる]

(真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」から載せています) 

浄土真宗の勤行で拝読する『正信偈』は、
親鸞聖人が一字一涙の御心で書き遺されたものです。
『正信偈』とはどんなお聖教なのか、学びたいと思います。

漢字ばかりで書かれているためか、
『正信偈』を「お経」だと思っている人があります。
あるテレビ番組でも、100歳のおばあちゃんが
『正信偈』を元気に拝誦するシーンで、
字幕には「お経を読む、○○さん」
と紹介されていました。
「正信偈はお経」が常識になっているからでしょう。
しかし、それは誤りです。
『正信偈』はお経ではありません。
まずその違いから、お話する必要がありそうです。

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「お経」は、お釈迦さまのご説法を、
弟子が書き残したものです。

正式には「仏説○○経」と命名されています。
「仏説」とは「仏さまが説かれた」の意で、
「仏さま」とは、お釈迦さまのこと。

約2600年前、インドに現れたお釈迦さまが、
35歳で最高無上の「仏」というさとりを開かれてから、
80歳でお亡くなりになるまでの45年間、
仏として説いていかれた教えを今日、
「仏教」といわれます。
その教えのすべては、「一切経」に書き残されており、
これがいわゆる「お経」といわれるものです。

その数は七千冊余りという膨大なものですが、
どのお経にも、「仏説大無量寿経」「仏説阿弥陀経」など、
「仏説」と冠されているのは、
「お釈迦さまが説かれた」ことを表しています。

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それに対して『正信偈』は、
親鸞聖人の書かれたものです。
「帰命無量寿如来 南無不可思議光」
で始まり、
「道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説」
で終わる『正信偈』は、
一行七文字、百二十行で八百四十字。
「なんとか伝えたい。知ってもらいたいことがある」
と、親鸞聖人が泣く泣く筆を執られた、
一字一涙の『正信偈』には、
聖人90年の教えのすべてがおさまっています。

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その『正信偈』を、多くの人が「お経」だと思っているのは、
漢字ばかりで、しかも棒読みのように聞こえるからでしょう。
しかし『正信偈』の「偈」とは、「うた」ということで、
読経とは異なり抑揚がつけられているのです。

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このように、お釈迦さまの説かれた「お経」と、
親鸞聖人のお書きになられた『正信偈』とは、
違うことがお分かりでしょう。


では『正信偈』には、何が書かれているのでしょうか。
親鸞聖人が私たちに、なんとしても知ってもらいたいこと、
とは何だったのか。

名前に「正信」とあるように、
それは「正しい信心」ひとつでした。

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●「オレは何も信じていないよ」は、ありえない

「信心」と聞くと、自分とは何の関係もないことだと
思われている人もあるかもしれません。
しかし、私たちは何かを信じなければ、
一日たりとも生きてはいけないのです。

例えば、明日も生きていられると、
命を信じて生きています。
だからこそ、明日は彼女と会う、
ディズニーランドに行くと、
予定を決めているのです。

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また、いつまでも元気でいられると、
健康を信じています。

「人間ドックでも、異常は見つからなかったから」
と、診断結果を見て安心しています。
夫は妻を、妻は夫を信じ、
子供は親を、親は子供を信じて生きております。
「不幸の全ては金で解決できる」という金の信心もあれば、
名誉や地位の信心もあります。
才能が学歴を自負したり、資格を当てにする人もいます。
「宗教はアヘンだ」と否定するマルキストも、
共産社会こそ理想と「信じて」いる人たちです。
ある文化人類学者が指摘しているように、
「経済成長が私たちの幸せをもたらす」
と思っているのは「経済成長教」という宗教の信徒であり、
テストの点数のみで人間の優劣を決め、
GDPや年収などの数値こそが「豊かさ」の指標だ、
と信じているのは「数字信仰」でしょう。

このように、神や仏を信ずるだけが、
信心ではありません。

「オレは何も信じない」「だれも信用していない」という人も、
そんな「信念」で生きている人です。

“イワシの頭も信心から”といわれるように、
何かを信じておれば、それはその人の信心なのです。

何を命として信ずるかは一人一人違いましょうが、
すべての人は何かの信心を持って生きている。
「生きる」ということは、イコール「信ずる」ことだ、
ということです。

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苦しみ、悩み、怒り、悲しみの原因は

ところが私たちは、信じていたものに裏切られたときに、
苦しみ悩みます。

失恋の苦しみは、恋人に裏切られたからです。
その怨恨で相手を殺害したり、
自殺するほど深刻なケースもあります。
子供に老人ホームに入れられ、
「一度も会いに来てくれない」と泣くのは、
命と信じて育てた子供に裏切られたからでしょう。

バブルが崩壊し、何億という資産が
借金に変わった人の懊悩は、
「経済成長教」の信仰が絶望に転化した結果、といえます。
悪徳商法やリフォーム詐欺に引っかかり、
「老後の蓄えを取られた」
と途方に暮れる人も後を絶ちません。
「うまい儲け話なんかあるものか」
と警戒していたはずなのに、
きれいなパンフレットを見せられ
言葉巧みに説得されると、
もとより人間は儲けたい欲一杯、
「この人なら大丈夫」「チャンスだ」
と思ってしまうのでしょう。
「だまされた!」と気がついた時は後の祭り、
やり場のない怒りや後悔も、
「信じた」のが原因とはいえないでしょうか。

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病気になると、健康に裏切られたことで苦しみます。
肉体的苦痛も酷いですが、検査で「ガンの疑いがある」
と医者から言われただけでも、
足元が崩れるようなショックを受けるといわれます。
まさか、節制しているオレが」の健康信心、
「いつまでも生きていられる」という命の信心は、
自覚はなくても、実に根深いものがあるのです。

しかも深く信じていればいるほど、
それらに裏切られた時の悲しみや怒りは大きくなります。


私たちは決して苦しんだり悲しんだりするために
生まれてきたのではありません。
生きているのでもありません。
幸福を求めて生きているのです。


では、裏切らないものを信じて、
私たちは生きているでしょうか。
たとえ70年、80年信じられるものがあったとしても、
私たちは最後、死なねばなりません。
いよいよ死んでいかねばならない時には、
信じていた家族や、お金や財産、名誉にも裏切られ、
最も大事なこの肉体さえも
焼いていかなければなりません。

お釈迦さまの『雑阿含経』に説かれている、
「3人の妻」という喩え話は有名です。
 
  ■    ■    ■    ■

昔、ある金持ちの男が3人の妻を持って楽しんでいた。
第一夫人を最も可愛がって、
寒いと言っては労わり(いたわり)
暑いと言っては心配し、
ゼイタクの限りを尽くさせ
一度も機嫌を損なうことはなかった。

第二夫人は、それほどではなかったが、
種々苦労して、他人と争ってまで手に入れたので、
いつも自分のそばに置いて楽しんでいた。

第三夫人は、何か寂しい時や、悲しい時、
困った時だけ会って楽しむ程度であった。
ところがやがて、その男が不治の病床に伏すようになった。

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刻々と迫りくる死の影に恐れおののいた彼は、
第一夫人を呼んで心中の寂しさを訴え、
ぜひ死出の旅路の同道を頼んだ。
ところが、
「ほかのことと違って、
死の道連れだけはお受けすることはできません」と、
すげない返事に男は絶望のふちに突き落とされた。

しかし、寂しさに耐えられぬ男は、
恥を忍んで第二夫人に頼んでみようと思った。
「貴方があれほど、かわいがっていた第一夫人さんでさえ、
イヤとおっしゃったじゃありませんか。
私もまっぴらごめんでございます。
貴方が私を求められたのは、貴方の勝手です。
私から頼んだのではありません」。
案の定、第二夫人の返事も冷たいものであった。

男は、恐る恐る第三夫人にすがってみた。
「日ごろのご恩は、決して忘れてはいませんから、
村外れまで同道させていただきましょう。
しかし、そのあとはどうか、堪忍してください」
と突き放されてしまった。

男というのは、すべての人間のことである。
第一夫人は肉体、
第二夫人は金銀財宝、
第三夫人は父母妻子兄弟朋友
などを喩えたのだ。


今まで命にかえて大事に愛し求めてきた、
それら一切のものから見放され、
何一つあて力になるものがなかったことに驚き悲しむ、
これが人間の実相なのである。

■   ■    ■    ■

やがて必ず裏切るものを信じているから、
苦しみ悩みが絶えないのだ、
本当の幸福になりたければ、
絶対に裏切ることのない正しい信心を持ちなさいよと、
親鸞聖人は教えられているのです。

●「正しい信心」は、たった一つ

『正信偈』の「正」という字は、
「一に止まる」と書きます。
正しいものは一つしかないということです。
二つも三つもあるものではありません。
そのただ一つの正しい信心を、
親鸞聖人が明らかになされたのが『正信偈』です。

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ですから親鸞聖人は、
「なんでもかんでも、その人がいいと思っていたものを
信じて生きていけばいいのだ」
などとは、決しておっしゃっていません。

「正しい」信心があるということは、
そうでない信心がある、ということ。

すなわち、迷信、邪信、偽信といわれるものです。
それら間違った信心は、
必ず裏切られて苦しまねばなりません。

皆さん、一日も早く
「正しい信心」「真実の信心」を獲得して、
死の巌頭(がんとう)にも崩れない
「絶対の幸福」に救い摂られてくれよ、
と念じ、叫び続けていかれた方が親鸞聖人なのです。

その「正しい信心」一つを明示されたのが
『正信偈』であり、

冒頭の、
帰命無量寿仏如来
南無不可思議光」
の二行は、聖人ご自身が、その「正信心」を獲得された
生々しい感動、喜びの体験を告白されたお言葉なのです。



 


タグ:信心
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すべての命が“金メダル” [なぜ生きる]

9月にブラジル・リオデジャネイロで
開催されたパラリンピックでは、
多くのアスリートが自らのハンデをも力に変え、
熱戦を繰り広げました。
パラリンピックの金メダルを獲得できるのは、
ほんの一握りの選手だけですが、
お釈迦さまは、
「生まれ難い人間に生まれてきた、
そのすべての命に金メダルとは
比較にならぬ価値があるのだよ」
と仰せです。
どういうことでしょうか。
お聞きしましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●「唯我独尊」
    全人類へのメッセージ

仏教を説かれたお釈迦さまは、
今から2600年前、インドで活躍なされました。
そのお釈迦さまが誕生された時、
天と地を指さされて
天上天下 唯我独尊
と宣言されたといわれています。
これはどんな意味なのでしょう。

まず「天上天下」とは、天の上にも、
天の下にも、この大宇宙広しといえども、
ということです。
次に「唯我独尊」。
これは一般に大変誤解されている言葉で、
「この世でいちばん偉くて尊いのは、
ただ私一人である」
とお釈迦さまが威張られているお言葉だと
思っている人が多いようです。
だから他人を見下げてうぬぼれている人を、
「あいつは、唯我独尊的なヤツだ」
などと言います。
しかし、お釈迦さまのような方が
そんな思い上がったことを仰るはずがありません。
「我」とは、お釈迦さまだけのことではなく、
私たちすべての人間のことをいわれているのです。
「独尊」とは、たった一つの尊い使命、という意味です。

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ですから「天上天下 唯我独尊」とは、
私たちすべての人は、人間に生まれなければ決して果たせない、
たった一つの聖なる目的があって生まれてきたのだ

と教えられているお言葉なのです。
老いも若きも、男も女も、貧しい人・富める人、
健常者・障害者、賢愚を問わず、
この世に生まれた目的は、万人に共通してただ一つである。
その尊い使命を果たすべく生まれた人命はすべて
「地球より重い、尊厳な命なのだ」と明らかにされたのが
仏教なのです。

●役に立たない命は
      意味がないの!?

ところが「唯我独尊」の誤解からも分かるように、
お釈迦さまの教えを正しく知る人はなく、
人命軽視の痛ましい事件が相次いでいます。
中でも人々に大きな衝撃を与えたのが、
今年7月、神奈川県相模原市の障害者施設で起きた殺傷事件でしょう。
重度の障害を抱える19名の命を奪った元職員の男は、
「障害者は社会を不幸にする。いなくなればいいと思った」
と犯行の動機を語っています。
こんな彼の考えには、当然、メディアも有識者も、
世間中が反発しました。
「すべての命に意味がある」
「いらない命などない」
私たちの社会は、この前提で一応、成立しているからです。
ところが、正面切って
「では私たちの命にどんな意味があるの?」
「なぜすべての命が尊いと言えるのか?」
と問われると、説得力のある答えを示すことはできるでしょうか。
たちまち窮してしまうのではないでしょうか。
男の暴論をきっかけに議論が煮詰まることもなく、
間もなく始まったリオ五輪のニュースで
事件はかき消されてしまった感があります。

それどころか、インターネット上では、
男の主張に賛同する声が少なからず上がっていました。
それらの意見に共通するのは、命の価値を
「社会の役に立つか、立たないか」の尺度だけで見ている点です。
寝たきりや重度の障害でどんな生活活動にも従事できない
“社会の役に立たない人”は、他人の手を煩わせてまで生きる意味があるのか?
いなくなったほうがいい、と考えているのでしょう。
「皆、精一杯生きているのだから、
その命を奪ってはならない」
と反論してみても、
心から納得させることはできないのではないでしょうか。

●自分自身に突きつけられる大問題

男の主張に「何とひどい!」と憤慨している人も、
同じ心が全くないと言い切れるでしょうか?
現在、ロングラン上映中の映画『なぜ生きるー蓮如上人と吉崎炎上』で、
主人公の青年・了顕が、そんな私たちの姿を見せてくれています。

了顕は、寝たきりの母・キヌと、
身重の体で義母を介護する妻・千代との3人暮らし。
やがて生まれる子供を生きがいとしていましたが、
不幸な事故で突然、妻子を失ってしまいます。
薄暗い部屋で、母親を横目にため息をつく了顕。
「かわいそうにね。千代も、おなかの子も・・・」
息子を心配して優しく声をかける母に、
「おっかぁなら、よかったのにな」。
吐き捨てるように言い残し、外へ出ていった。

“なぜ寝たきりの母親ではなく、
未来ある妻子が死なねばならなかったのか・・・”
彼の胸に去来したであろう思いを、
私たちは他人事として流せるでしょうか。
了顕も私たちも、重大な事実を見落としがちです。
それは、今は「若い、健康だ」と言っていても、
いつ事故や病で不自由な体になるか分からない、
ということです。
朝、元気でハツラツだった人が、
夕方には寝たきりの病人や障害者になって他人の世話になる。
たとえ寝たきりや重い障害を抱えるまでにはならずとも、
「年寄笑うな、行く道じゃ」。
“明日はわが身”で、誰しも年を重ねれば、
肉体は若い頃のようには動かなくなり、
社会の第一線から退くことにもなります。
本誌読者からも、こんな声が寄せられています。


「70歳でリタイアして、これからの人生をどう生きるかと
真剣に考えた時、全くお先真っ暗で、
何を目的にしたらよいか分からず、
悶々としていました。
情けなく、苦痛でなりません。
そんな状態が何ヶ月も続きました。」
          (72歳男性)


「年を取り、体力も衰え、少し農作業しても疲れ、
病院も内科、眼科、歯科、泌尿器科等々、
定期的に受診していますが、
健康や家庭など将来のことを考えると不安ばかり」
            (84歳男性)


「若いときから看護師として一生懸命働き、
人様のお世話をすることが大好きで、
それを生きがいとしてきました。
でも今は体力もなくなり、体も不自由になり、
皆さんのお世話になっています。
何もできなくなった自分のふがいなさが悲しく、
寂しい思いをしています」
            (86歳女性)


「老人介護の仕事をしています。
お年寄りが『生きていても仕方がない』『生きる意味がない』
などと寂しくなるようなことを時々言われるのですが、
よい励ましの言葉が見つからず悩んでいます」
             (57歳女性)

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社会に貢献できなくなり、年金や医療費をもらうばかりの立場になった時、
「私の生きる意味とは何なのか?」
そう問う内なる声に驚かされる。
そんな時、「役立たず、早く死ね」と言われて承服できるでしょうか。
この無慈悲なヤリは、必ず自分自身にも突きつけられるのです。

ある人は、事件をこう指摘しています。
「容疑者は障害者施設に入ったことで
『人間とは何か』『生きる意味とは何か』という根本的な問いを
突きつけられたのではないか。
そして、その問いを乗り越える説明を
手に入れることができなかったのではないか」
たとえ他人の手を借りねば生きられなくなったとしても、
私たちの生きる意味とは何なのでしょうか。

●私たちの「独尊」とは?

冒頭で示した、
「天上天下 唯我独尊」
というお釈迦さまのお言葉は、老若男女、
賢愚美醜、貧富、健常者・障害者の差別なく、
万人に共通な目的のあることを教えられています。
ではお釈迦さまが「独尊」と言われる、
たった一つの目的、「なぜ生きる」の答えとは何か?

それを親鸞聖人は『正信偈』に、

如来所為興出世 唯説弥陀本願海
(如来世に興出したまう所以は、
唯弥陀の本願海を説かんとなり)

釈迦がこの世に生まれられた目的は、
唯、阿弥陀仏の本願一つを説くためであった。

と断言なされています。
釈迦は阿弥陀仏の本願一つを説くために生まれられた。
そして、私たちすべての人は、この弥陀の本願一つを聞くために
生まれてきたのです。

弥陀の本願において、釈迦と私たちの出世本懐(人生の目的)は
一致しています。
では阿弥陀仏とはどんな仏さまなのでしょうか。
映画『なぜ生きる』で、蓮如上人のお弟子になった主人公・本光房了顕が
法友とこんなやり取りをしています。

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女性A「本光房さま。阿弥陀さまとお釈迦さまは、
    同じ仏さまさまなんでしょう?」
了顕 「いやいや、全く違う仏さまなんですよ」
男性A 「ありゃ、そうか?わしゃ今まで、てっきり同じ仏さまと
    ばかり思っておったが・・・」
了顕 「蓮如上人が今日、懇ろに教えてくださったじゃありません  か。大宇宙には大日如来とか薬師如来とか、たくさんの仏さまがおられるが、それらの本師本仏が阿弥陀如来さまなんだと」
女性B 「ということは、本光房さま、お釈迦さまも阿弥陀さまのお弟子さんというわけですね」
了顕 「そのとおりです」

“ありゃ、私も今まで阿弥陀さまとお釈迦さまは
同じ仏だと思っていた”という方もあるかもしれません。
地球上に出現された仏さまは、お釈迦さまお一人ですが、
大宇宙には地球のようなものが数え切れないほどあり、
それぞれの世界に仏さまがおられる。
その諸仏方の先生が阿弥陀如来であり、
大日如来や薬師如来、釈迦如来は皆、
阿弥陀仏のお弟子だと教えられています。

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その本師本仏の弥陀如来が、十方衆生(すべての人)を
相手に誓われたお約束が「阿弥陀如来の本願」です。


それは、

「どんな人も 必ず絶対の幸福に救う」

との内容で、十方衆生(すべての人)を、
どんなことがあっても変わらぬ絶対の幸福に救い摂り、
来世は必ず弥陀の浄土へ生まれさせる、
という命を懸けたお約束です。

この阿弥陀仏の救いについて、親鸞聖人は『正信偈』に
こう仰っています。

凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味
(凡・聖・逆・謗斉しく〈ひとしく〉廻入すれば、
衆水〈しゅうすい〉の海に入りて一味なるがごとし)
 
阿弥陀仏の本願に救い摂られ、人生の目的を完成した人は、
才能の有無、健常者・障害者、人種や職業、貧富の違いなど関係なく、
万川の水が海に入って一味になるように、
すべての人が、同じよろこびの世界に共生できるのだよ。

「凡聖逆謗」とは、凡夫(凡)も聖者(聖)も、
五逆(逆)の罪人も法謗(謗)の極悪人も、
の意味で、「すべての人」のこと。
「斉しく廻入すれば」とは、阿弥陀仏の本願に救われたならば、
ということで、
「衆水」は、あらゆる河川の水です。
万川には、大小、清濁、いろいろあるが、
ひとたび大海へ流れ込めば、
海水の一味に溶け込むように、
一切の分け隔てなく弥陀は万人を救い摂ってくださるのだよ、
と仰っているのです。
このことを室町時代の蓮如上人は『御文章』に次のように仰せです。

抑、その信心をとらんずるには、
更に智慧もいらず、才学もいらず、富貴も貧窮もいらず、
男子も女人もいらず、(略)されば安心という2字をば、
『やすきこころ』と訓めるはこの意なり。
更に何の造作もなく、一心一向に如来をたのみ参らする信心一にて、
極楽に往生すべし。
あら、心得やすの安心や。
又、あら、ゆきやすの浄土や
」(御文章2帖目7通)

ここで「安心」や「信心」」と言われているのは
弥陀より賜る「他力の信心」のことです。
他力の信心を獲るには、全く何の条件もなし。
この他力の信心を獲て、本願のとおりに絶対の幸福に救われ、
永久の迷いを断ち切っていただくことが、
私たちが人間に生まれてきたたった一つの目的(独尊)なのだと
教えられています。

●同じものを頂くから、同じ幸せになれる

知恵や才能、学問や体力などは十人十色、
一人として同じ人はありません。
そんな千差万別、億差丁別の人のすべてが、
一味平等の世界に救い摂られるのはなぜなのでしょう。
それは、弥陀より賜る「信心」が同じだからです。
例えていえば、財布と紙幣のような関係です。
西陣織の金襴の財布と100円で売っている木綿の財布があり、
それぞれ一万円札が入っているとします。
金襴の財布は高級感にあふれ、木綿の財布は粗末なものですが、
中身の一万円札の価値は少しも変わりません。
同じ日銀発行の紙幣だからです。
財布は、人それぞれ異なる知恵や学問などを例えたもの。
親鸞聖人や蓮如上人は金襴の財布、
そんな知恵や才能もない私は木綿の財布です。
しかし阿弥陀仏より賜る他力の信心(南無阿弥陀仏)は、
どんなに受け取った人の知恵や学問に相異があっても、
全く変わりはありません。

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阿弥陀仏は、
「すべての人を平等に絶対の幸福に救い摂り、
極楽浄土へ生まれさせる」
という本願を果たすために、
「南無阿弥陀仏」の名号を創られました。
だから、この南無阿弥陀仏の六字の中には、
万人を救う偉大なお力があります。
私たちには、弥陀よりこの南無阿弥陀仏を賜って、
絶対の幸福(往生一定)に救い摂られるのです。
ですから、親鸞聖人も蓮如上人も、
浄土真宗の正しい御本尊は南無阿弥陀仏の名号だと教えられ、
生涯、御名号しか本尊となさいませんでした。
根本に尊ぶべきは、名号・南無阿弥陀仏なのです。

●最後の一瞬まで、
     全員にチャンスあり

阿弥陀仏の救済の対象は十方衆生(すべての人)ですから、
差別は一切ありません。
それだけでなく、臨終の迫った寝たきり状態の人をも救うために、
「聞く一念に救う」と誓われている。
これを、「一念往生」といいます。
「一念」とは1秒より短い時間の極まりです。
覚如上人(親鸞聖人の曾孫)は、こう教示されています。

如来の大悲、短命の根機を本としたまえり。
もし多念をもって本願とせば、
いのちの一刹那につづまる無常迅速の機、
いかでか本願に乗ずべきや。
されば真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす

             (口伝鈔)

阿弥陀如来の本願は、今、臨終という最も短命の人を
救うことに焦点を当てられている。
もし3秒かかるような救いでっは、1秒しか命のない人は助からない。
一念の救いこそが、弥陀の本願の最も大事な特徴なのだ。

こんな一念の救い(一念往生)は、
大宇宙で弥陀の本願にしかありません。
この一念往生こそが、弥陀の救いの「肝要」であり
「淵源(えんげん)」だと覚如上人は言われています。
「肝要」も「淵源」も、仏教で最も大事なことを表す言葉です。
このように阿弥陀如来の救いは極速の一念ですから、
手遅れということは絶対にないのです。
“私は物覚えが悪いから、足が不自由だから、
耳が聞こえないから、年を取ってしまったから、
こんなに重病だから、阿弥陀様に救っていただけないだろう”
と思っている人もあるかもしれませんが、
とんでもない。
どんな難聴者も、最後の一息まで永久の幸福に
救い摂られるチャンスは尽きませんから、
決してあきらめてはなりません。
弥陀の不可思議の願力によって、
聞即信の一念に南無阿弥陀仏を賜れば誰もが、
「よくぞ人間に生まれたものぞ」
「地球より重い“尊厳なる生命”を今、獲得せり」
と生命の大歓喜を味わうことができるのです。
弥陀の救いは「聞く一つ」。
一切の計らいを捨てて、弥陀の本願を聞信いたしましょう。


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この命には意味がある [なぜ生きる]

(平成22年6月号のとどろきより載せています) 

 今、日本で介護を必要としている人は、
500万に上り、年々、増加の一途をたどっています。
避けられぬ老いや病、突然の事故などで、
だれもがいつ直面するか分からないのが「介護」です。

ちょうど一年前、本誌で特集したところ、
たくさんの反響を頂きました。
読者の中にも、
今まさに介護に携わっている方が少なくありません。

今回は、親鸞聖人の教えを心の明かりとし、
苦難を乗り越えている皆さんを紹介します。


・・・・・・・・・・・・
最近、全国紙の人生相談に、
60代の主婦が介護の悩みを率直につづっていました。

“10年前から夫は寝たきり。
初めは気丈に介護していたが、
先が見えず、気弱になって大声で泣きたくなる。
この先、どんな気持ちで介護し、
何を支えに生きればいいのか?”

同様の思いを抱く方も多いのではないでしょうか。
昨年6月号の特集では、仕事をしながら、
アルツハイマー病のご主人を介護する
岐阜県のカズコさん(仮名・63)
を紹介しました。
日常の悲喜こもごもをしたために、
「うちんひと(うちの人)」で始まる40もの句に、
“両親を看ていたころを思い出して涙した”
“今、私も同じ気持ちです”
と多くの共感が寄せられました。
作品の一部を紹介しましょう。

うちんひと じぶんだれだか わからない
うちんひと こどもみたいに だだこねる
うちんひと みはなされたわ むかんしん
うちんひと よそみばかりで わたしみて
うちんひと たまにはにっこり にくめない
うちんひと わたしがいれば いいわよね

懸命に世話をしているのに、当の夫は自分に「無関心」。
病のためとは知りつつも、やるせない思いになります。
それでも「私がいればいいわよね」と
気丈に介護されていました。
カズコさんがこの句を投稿して間もなく、
ご主人は入院。
昨年8月に届いたお便りには、

「もっと優しく、いろいろしてあげればよかったと、
一人になって悔やんでいます。
一人になってうれしかったのは最初の一ヶ月くらいでした。
今は毎日が寂しいです」。

肉体的にも精神的にも負担の大きい介護生活ですが、
介護する人もされる人も、
互いに支え合うかけがえのない存在なのです。

そのご主人が昨秋亡くなられ、
悲しみの中、カズコさんは続けて本誌で
仏縁を深めていかれました。

「なぜ生きるか。弥陀の救いにあわせていただくために、
私たちは生まれてきたと分かり、本当にうれしいです。
今までいろいろなことがあったけれど、
『とどろき』に巡り会い、いちばん大事なことが分かって、
ああ、やっと本当の幸せになれた、
そんな気持ちになれてよかったなーと思います」

本誌を知人に贈ったり、アニメ『世界の光・親鸞聖人』シリーズを
毎日のように見たりと、光に向かうカズコさんです。

●「心の休まる時がない」・・・在宅介護の現実

親鸞聖人の教えを心の支えとし、
介護に向き合う読者が石川県におられます。
川田郁恵さんは、20年来の本誌読者。
寝たきりの息子・浩さん(28)の介助に、
日々追われています。
3年前、交通事故で脳に大きな損傷を負った浩さんは、
手足も顔の筋肉も動かせず、
人の世話がなければ生きられません。
朝6時、郁恵さんの一日は、おむつ替えから始まります。
声を失った息子さんに語りかけながら、
体をふき、姿勢を変え、栄養食を胃に流し込む。
午前中の3時間、ヘルパーが来ているうちに、
買い物や家事を済ませます。
週4日は、訪問看護師や作業療法士が来て、
浩さんのリハビリを行います。
「手足を曲げたり伸ばしたり、
リハビリは相当痛いみたいです。
息子はいつもつらそうな息遣いになります」
夕食を取り、夜の10時半にオムツを替えると、
浩さんはやがて眠りに就きます。
しかし夜中も、呼吸器をつけたのどに痰がたまれば、
郁恵さんが機械を使って吸引しなければなりません。
24時間、郁恵さんの心が休まる時間はないのです。

●その日、母子の人生は一変した

事故に遭うまでの浩さんは、
司法書士を目指して勉学に励む真面目な青年でした。
趣味は音楽。
大学時代は軽音楽部でパーカッション(打楽器)を担当し、
仲間にも恵まれ、充実した日々を送っていました。
「盆や正月に帰省してきたと思ったら、
一日でとんぼ返り。
私が聞法を勧めても、『僕には音楽があるからいい』
と反発するんです」
転機が訪れたのは卒業後、実家に戻ってからでした。
家に置いてあった本誌を読み、
“音楽には完成がない。完成のある道を求めたい”
と自ら聞法に足を運んだのです。
それからは、離れた場所へも、自転車で通うようになりました。

平成18年11月。
その日、浩さんはひどく慌てて自転車を走らせていました。
やがて道の向かいに目的地が見えてくる。
車道を横断しようとしたその時、
スピードを出したトラックがすぐそこまで迫ってきた。

事故の知らせを聞いた時、何であの子が?
って思いました。
仏教では「まかぬタネは生えない」と教えられます。
どんな結果にも、必ず原因がある。
それは自分のまいたタネだと。
お釈迦さまがウソを仰るはずはないけれど、
“おっとりした性格で皆から好かれている息子。
何も悪いことなんかしていないのに、
なぜこんな目に・・・・”。
息子の運命を受け入れられませんでした。
いや、正直に言えば、今もそうです。

幾度の難手術に耐え、
一命を取り留めた浩さんでしたが、
脳に大きな損傷を負い、歩くことも話すことも、
音楽を奏でることも二度とできなくなってしまいました。
「でも幸いなことに、仏法を聞く耳は、残してもらったんです」
しかし病院では、他の患者に気兼ねして、
朝晩の勤行も仏法の話も落ち着いてできない。
聞法もできなければ、
ただ空しいだけの時が過ぎるばかり。
「こんなの耐えられない」
事故から1年4ヶ月、郁恵さんはついに決断しました。
在宅介護の道を選んだのです。

自宅なら勤行も仏法の話も心置きなくできます。
私は以前に介護の仕事をして、
ヘルパーの資格を持っているんです。
世話なら私にできる、って家族に啖呵を切りました。
ところがいざ引き取ってみると、
一日のやるべきことをこなすのに精一杯で、
仏法の話をする余裕はない。
ちょっと時間ができると、
自分の体を休めるのが優先になるんです。
“わが子にもう時間がないというのに、
自分がいちばんかわいくて、
息子のことは二の次、三の次。
世話ができるとうぬぼれていた・・・・”
そんな心が見えてきました。

間もなく浩さんのために、
自宅で仏教勉強会を開くことにしました。
日中は『朗読版とどろき』を流しています。
「仏法を聞いた後は、とても穏やかな表情をしています。
目がキラキラ輝いていて、法悦にひたっているみたいなんです」
在宅介護を始めて約2年。
浩さんの顔色も徐々によくなり、
「病院から来たばかりの時は、瞳が小さかった。
今は目から生きようとする意志を感じる。
病人の目じゃないですね」
と看護師やヘルパーが口をそろえて驚いているといいます。
中には、本誌を読み聞かせているうちに、
自分が読みふけってしまう看護師がいるそうです。

体は動かないけれど、
浩は看護師やヘルパーさんに仏縁を与えているんですね。
私も、息子から教えられることばかりです。
今まで、仕事で聞法の時間に間に合わないと
参詣をあきためていました。
しかし、どんなに聞法したくても、
自分では行けない息子の姿に、
健康など種々の縁がそろわなければ、
一度の聴聞のご縁には遇えないのだと分かったんです。
時間の長短じゃない。
気持ちが問題なんだ、と残り10分でも駆けつけるようになりました。
人間はもろいものです。
元気だといっても、いつどうなるか分からない。
今しか仏法は聞けませんね。

●最後の一息まであきらめない

今年3月、郁恵さんがとても驚いた出来事がありました。
事故以来初めて、浩さんが「号泣」したのです。
顔の筋肉を動かせない浩さんは、目を潤ませる程度。
ところがこの日、郁恵さんがベッドの傍らで
本誌を読み聞かせていると、
突然、浩さんの目から大粒の涙があふれてきたのです。
ふいてもふいても止めどなく流れ、
服やシーツを濡らしていきました。
郁恵さんが読んでいたのは、
18年8月号の巻頭特集。
富山の病院で起きた「呼吸器取り外し問題」をテーマに、
命の意味を問う内容でした。

18年の夏といえば、事故の前、
いちばん熱心に聞法に励んでいたころです。
当時もこの号を読んだと思います。
「延命に意味はあるのか」
いざ自分が寝たきりになって、
この問いが、初めてわが身の問題となったのかもしれません。
その特集の終わりのほうに、
「弥陀の救いはハッキリする。臨終息の切れ際でも」
と書かれてある。
命が他人の手にゆだねられている浩にとって、
これが唯一の希望です。

大宇宙の仏方の先生である阿弥陀仏は、
「すべての人を、必ず摂取不捨の幸せにしてみせる」
と誓われています。

「摂取不捨」とは、ガチッと摂め取って決して捨てない、
浄土往生間違いない幸せの身にすること。
それはあっという間もない「一念」で完成します。

この身になるために私たちは生まれてきた、
と教えられているのが仏教であり、親鸞聖人なのです。


覚如上人(聖人の曾孫)は、

「如来の大悲、短命の根機を本としたまえり。
もし多念をもって本願とせば、
いのち一刹那につづまる無常迅速の機、
いかでか本願に乗ずべきや。
されば真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす」。
              (口伝鈔)

弥陀の大きな慈悲は臨終の迫っている人でも救い摂れるように、
最悪の人を主眼とされている。
救いは一念で完成する、
だから最後の一息まで絶対にあきらめてはならないよ、
と仰っています。

●人生には目的がある

介護の苦労も、明るい笑顔で語る郁恵さん。
最後に語気を強めてこう言われました。

息子が事故に遭った時、私は絶望しました。
親身に世話をするほど、
最愛のわが子なのに本心は分かってやれない、
心に寄り添うことができない寂しさ、
無力を痛感しました。
私も息子も孤独なんですね。
けれども、阿弥陀仏は絶望しておられません。
私たちの心を分かってくださり、
命がけで必ず助けると誓われています。
すべてに見捨てられても、阿弥陀さまだけは、
この子を最後まで見捨てられない。
そのことがありがたくて・・・。
“なのに、親の私が何を嘆いているんだ、
常に立ち上がっている親でなければ、
こんな体になった息子が浮かばれない”
とまた前向きな気持ちになれるのです。
人生には目的がある、この命には意味がある。
弥陀のご本願あればこそ、
浩も私も生きておれるんです。


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生きる意味(2) [なぜ生きる]

我々は、生きがいを生きる目的だと勘違いしてしまいがちです。
政治も経済も科学も医学も、
個人的なものであれば、妻子、財宝、お金、 趣味など
すべて生きがいであり、生きる手段です。
それを人生をかけてやる、人生の目的だと勘違いしてしまうから、
あっという間に人生は終わり、
こんなはずではなかった、求めるのが間違っていたと
泣いて死ななければならないのだと、
親鸞聖人は警告しています。
前回より、長南 瑞生著『生きる意味109』より載せていますが、
お釈迦さまの生涯教えていかれたことを、
親鸞聖人のご教導なされたことを、
分かりやすく解説してくださっていますので、
それを読んでいただきたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

生きる意味について、よくある7つの間違い
①生きるために生きる
②成長するために生きる
③他の誰かのために生きる
④愛のために生きる
⑤自己実現のために生きる
⑥生きたあかしを残すために生きる
⑦生きること自体が大事

このような、完成のない趣味や生きがい(生きる手段)を、
「生きる目的」と思って求め続けているから、
人間に生まれてよかったという生命の歓喜がないのだと
仏教で説かれています。

仏教の教えを一言で表すと「平生業成」。
生きている「平生」に人生の大事業が完成できると、
完成のある生きる目的が説かれています。

今回は7つの間違いのうち、③と④を載せています。

よくある間違い③
「他の誰かのために生きる」
       という考え

次の「生きるのは他の誰かのため」というのは、
「人の役に立つため」などともいわれます。
ほとんどの人が自分のことばかり考えている中、
他の誰かのために生きようということですから、
「生きるのは成長するため」より
さらに素晴らしい考え方といえるかもしれません。

他の誰かというのは、具体的には、家族や子供のためとか、
まずは身近な人が思い浮かびます。
それがさらに、能力や徳がある人ほど、
身内以外の人のことも考え始め、
友人のため、会社のため、日本のため、
世界人類に貢献するためと、スケールが大きくなります。
一人の人の人生でも、
子供の時には自分のことしか考えていなかったのが、
成長して社会人となれば、その社会の一員として家庭を築き、
仕事や地域の集まりなどで、努力に応じて
社会に貢献する割合も大きくなっていきます。
素晴らしいことです。

ところが現実問題としては、60歳にもなれば、
子供も社会人として独り立ちし、
自分の主たる仕事も終わることがほとんどです。
さらに年齢を重ねていくと、だんだんと衰え、
やがてどちらかというと貢献というより、
社会や家族に世話になるようになっていきます。
それはとりもなおさず、「他人のために生きている」
とはいえなくなってくるということです。
『60歳からの「生きる意味」』という本には、
こう書かれています。

子孫を残すという生物本来の役割が終わっている以上、
「あなたは何のために生きているのですか?」と聞かれて、
「私は社会に役立つために生きています」
とはなかなか言えません。

現実にだんだんと役立たなくなるのですから、
それでは答えにならない。

「社会に役立たない人は生きる意味はない」とはいえません。
どんなすごい人でも、
やがて死ぬまでには周りの世話になるでしょうから、
「生きるのは他の誰かのため」というのは、
「何のために生きるのか」の答えにならないことが分かります。
では百歩譲って、優れた人の中には、
それでも何らかのすごい力で、
家族や社会に貢献できる人もあるかもしれません。

では、そのあなたが貢献した相手は
何のために生きているでしょうか?
もし特に意味を持たない人のために生きてしまうと、
自分の意味もなくなってしまいます。

子供であれば、子供は何のためにいきているのか。
子供はそのまた子供のために生きているとすれば、
そのまた子供は何のために生きているのか・・・、
そのまたまたまた子供は何のために生きているのか?
分からないまま、子々孫々までずっと続いていってしまいます。
社会に貢献するなら、社会というのは人間のあつまりですから、
その人たちは、何のために生きているのか。
社会は、そこに生きている人が、
よりよく生きるためにあるのですから、
そうやってみんなで協力し、
助け合って生きていくのは何のためかが問題なのです。
このように、誰か他の人のために生きるとか、
社会に貢献することは、大変素晴らしい「生き方」ではありますが、
「生きる目的」ではない、ということです。

ここまでの3つは、最初の「①生きるため」よりは
「②成長するため」のほうが克己心が必要となり、
さらに「③誰か他の人のため」は利他心も必要になりますから、
だんだん立派な考え方になってきたのですが、
それでもいずれも「生き方」の問題であって
「何のために生きるのか」という問いの答えにはなっていませんでした。
次からは、一応、答えているものを見てみましょう。

よくある間違い④
「愛のために生きる」
      という考え

(最後は自分か相手のどちらかが死んで、
別れていかなければならない)

まず、「愛のために生きる」というのはどうでしょうか。
誰しも人生で一度は大恋愛を夢みますから、
「人を愛するため」といえば、子供から大人まで、
いちばん人気がありそうです。
これはかなり「生きる意味」の答えになる可能性が
高いのではないでしょうか。
自分だけではあまり意味が感じられない場合でも、
好きな相手から愛されれば、
自分の存在に大きな意味を感じることができます。
そんな心情をドイツの文豪ゲーテは、
このように描いています。

ロッテは愛している!私を愛している!
あのひとが私を愛してから、
自分が自分にとってどれほど価値あるものとなったことだろう。
             (『若きウェルテルムの悩み』ゲーテ)

あの人に愛されたい!
そのためなら献身的な努力も惜しみません。
そうして自分のすべてを捧げて愛する人と一心同体になれれば、
夢のような陶酔感にひたれます。
その幸福感は、哲学者・伊藤健太郎氏の著書『男のための自分探し』に、

誤解を恐れずに言えば、「結婚」は人生の唯一にして最大の幸福です。
              (『男のための自分探し』伊藤健太郎)
とあるほどです。

ところがそんな幸せも、長くは続きません。
1970年、アーサー・ヒラー監督の名作『ある愛の詩』は、
不滅のロマンス映画として歴史にその名をとどめています。
大富豪の一人息子で、勉強もスポーツも万能のオリバーは、
ハーバード大学時代、図書館で知り合った貧しいお菓子屋さんの娘、
ジェニーと恋に落ちます。
あまりの身分の違いに、
卒業したら音楽を学びにパリへ行くというジェニーを、
オリバーは引き留め、父親の反対を押し切って、卒業と同時に結婚。
仕送りは打ち切られますが、音楽の夢をあきらめたジェニーが
小学校の先生をして学費を稼ぎ、
オリバーはハーバードの法科大学院に進学します。
食うや食わずの毎日で、時には大げんかをしてジェニーが
出て行ったこともありますが、最後には戻ってきて、
「愛とは決して後悔しないこと」と夫にほほえみかけます。
2年間の苦学の末、ついにはオリバーは3位の優秀な成績で卒業、
ニューヨークの法律事務所に高給で迎えられました。
喜んだ2人は、子供の名前を話し合うなどして、
これから始まる新生活を思い描きます。
ところがニューヨークへ来てすぐ、
ジェニーは白血病で、余命幾ばくもないと分かったのです。
オリバーは次々入るやりがいのある仕事を断って、
必死に看病しますが、ジェニーはみるみる弱っていきます。
その年の冬の、ある寒い日、ジェニーが病気だと知り、
オリバーの父親がかけつけた時には、
ジェニーは息を引き取った後でした。
「なぜ言わなかった!私が力になったのに」
父親の言葉を、うつろな目をしたオリバーがさえぎり、
「・・・愛とは決して後悔しないこと」
とつぶやくと、一人、ジェニーとの思い出の場所に行き、
じっと座り込みます。
家を捨て、家族を捨て、莫大な財産をも捨てて、
ただ愛のために大変な苦労をしてきたのに、
思いがけず、その愛する妻を失ってしまいました。
今までの苦労は何だったのでしょうか・・・。

「結婚」が人生最大の幸福であればあるほど、
それが崩れてしまった人に、
「続かないからこそ美しいんだよ」と言ってみても、
全く慰めになりません。

世界的な文豪・シェイクスピアは、
その厳しい現実を、実に美しく言い表しています。

やっと想いをとげたとなると、戦争とか、
死とか、病気とか、きっとそんな邪魔がはいる。
そして、恋はたちまち消えてしまうのだ、
音のようにはかなく、影のようにすばやく・・・
そうなのだ、夢より短く・・・
あの闇夜の稲妻よろしく、
一瞬、かっと天地の全貌を描き出したかと思うと、
「見よ!」と言う間もあらばこそ、
ふたたび暗黒の腭(あぎと)に呑み込まれてしまう、
それと同じだ、すばらしいものは、すべてつかのまの命、
たちまち滅び去る。
             (シェイクスピア)

このことを、仏教では、「会者定離」と教えられます。
出会った者は、必ず別れなければならないということです。
好きであればあるほど、ずっと一緒にいたいのですが、
必ず別れの日がやってきます。
別れの日は、事前に分かるときもありますし、
突然やってくる時もあります。
その時、愛する気持ちが強ければ強いほど、
別れの時の悲しみも大きくなります。

それは男女の間に限りません。子供でも同じです。
母親の子供を思う心は、この世で最も誠実で崇高だといわれます。
そんな子供も、やがて成長し、
20年もすれば必ず巣立つ時がやってきます。
今まで命のように育ててきた子供が自分の元を離れると、
心にぽっかり大きな穴が開いてしまいます。
空の巣症候群とまではいかなくとも、
すっかりがっかりしてしまうのです。
フロイトとともに、初期の精神分析に貢献した心理学者シュケテールは、
このように言います。

子供を挫折した人生の目的に置き換えることはできない。
われわれの人生の空虚を満たすための材料ではない。
             (シュケーテル)

たとえどんなに一緒にいることができたとしても、
最後は自分か子供のどちらかが必ず死んで、
別れていかなければなりません。
たいていは自分のほうが先ですが、
子供に先立たれる親もたくさんあります。
愛する子供に死なれた悲しみはどれほど大きなものでしょうか。

江戸時代・化政文化を代表する俳人・小林一茶は、
晩年になって、ようやく待ちこがれた子供が生まれました。
「さと」と名づけたその長女は、
生まれて一年も経つと、他の子供が持っている風車を欲しがったり、
夜空に浮かぶ満月を、「あれとって」とせがんだり、
たき火を見てきゃらきゃらと笑います。
そのかわいいかわいい一人娘の、
あどけないしぐさをいとおしむ情景が、
一茶の代表作「おらが春」に描かれています。
ところがそんな時、突如、さとは当時の難病、
天然痘にかかってしまいます。
びっくりした一茶、必死に看病しますが、
さとはどんどん衰弱し、あっという間にこの世を去ってしまいます。
茫然自失、深い悲しみが胸にこみ上げ、
一茶はこう詠んでいます。

露の世は つゆの世ながら さりながら
            (小林一茶)
露の世は、露のようなはかないものと聞いてはいたけれど・・・。
かわいい娘を失った悲しみは胸をうちふるわせ、
あふれる涙に、もはや言葉が継げません。
一茶の決してあきらめることのできない
むせび泣きが聞こえてくるようです。

このように、会者定離ということからすれば、
相手が子供であれ男女間であれ、
とても愛が生きる目的とは言ってはいられないのです。
「会者定離 ありとはかねて 聞きしかど
昨日今日とは 思わざりけり」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

次回は内容を変更します。
続きを読まれたい方は、
書店にて長南 瑞生著『生きる意味109』をお求めください。
出版社名は、一万年堂出版です。


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生きる意味(1) [なぜ生きる]

(『生きる意味109 長南 瑞生著』より載せています) 

●生きる意味とは、生まれてから死ぬまでに、
これ一つ果たせば人間に生まれてよかったと
大満足できる「生きる目的」といっても同じです。

●すべての人に共通する人生のプロセスは、
一休が「門松は冥土の旅の一里塚」と詠んでいるように、
冥土への旅であり、死へ向かう行進です。
もし生きる意味や目的がなければ、
苦しんで死ぬだけの報われない人生になってしまいます。

●ところが仏教では
「生まれ難い人間に生まれたことを喜びなさい」
と教えられています。
それは、人間に生まれた時にしか果たせない、
尊い目的が存在するからです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(主な内容)

生きる意味について、よくある7つの間違い

「生きる目的が分からない人」よりも、
「間違った目的を信じ込んだ人」のほうが、
幸せから遠ざかってしまう。

①生きるために生きる
(アニマルな生き方では、
あっという間に人生は終わってしまう。)

②成長するために生きる
(頑張って苦しみを乗り越え、
どこへ向かって成長するのか)

③他の誰かのために生きる
(子供が独立し、定年を過ぎても、そういえるのか。)

④愛のために生きる
(愛する気持ちが強いほど、
別れの時の悲しみは大きい)

⑤自己実現のために生きる
(やりたいことには限りがないが、
命には限りがある。)

⑥生きたあかしを残すために生きる
(人生かけて何かを残しても、やがて必ず消えてしまう。)

⑦生きること自体が大事
(人生マラソンを走っていくと、やがて見えてくるのは崖っぷち)

今回は序章と①と②について打ちたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「生きる目的が分からない人」よりも、
「間違った目的を信じ込んだ人」のほうが、
幸せから遠ざかってしまう

では、人間に生まれてよかったと大満足できる、
本当の生きる目的とはどんなものなのでしょうか?
人生を真面目に考えている人は、
誰に言われるともなしに、
生きる目的の大切さに気づく場合がほとんどです。
あなたもすでに、
自分なりに考えたことがあるのではないでしょうか。
ところが人生の目的を考える時、
そこには間違いやすい落とし穴がたくさん待ち受けています。
それらの落とし穴は、一度落ちると、
間違った生きる目的を信じ込んでしまい、
なかなか抜け出すことができません。
そうなると「目的地がわからない」より、
名古屋から京都に行きたい時に、
「東京」を京都だと思いこんでしまったら、
どうなるでしょうか?

EPSON166.jpg-1.jpg


逆方向ですから、今より目的地から遠ざかってしまいます。
車なら、下道ではなく高速に乗ったほうが、
より速く遠のいていきます。
ローマの政治家であり哲学者であるセネカが、

道が反対の方向に進みでもすれば、
急ぐことすらその間の距離をいよいよ大きくすることの原因になる。

と言っているとおりです。
名古屋から京都へ向かう場合には、
たまたま同じ方向の「大阪」を京都と思いこんだ場合でも、
京都の近くを素通りして大阪に行ってしまいますので、
やはり本当のゴールにたどりつくことはできません。
いかに正しい目的地の把握が大切かが分かります。
同じように、正しい「人生の目的」を見つけることが
難しい人の特徴として、
すでに自分で誤った結論に達し、信じ込んでいるため、
他人のアドバイスを聞けないことが多くあります。
自惚れ強い私たちは、東京を京都だと思っているのに、
それを間違いだとは言われたくありません。
もしそれが大間違いだと分かると大混乱しますし、
場合によっては「もう東京が京都なんだ!
名前だって似ているじゃないか!」
などと押し通したくなりますが、
それでは単なる愚か者で、自爆するだけです。
その間違った方向性は数え切れないほどあるのですが、
特に危険なものは、大きく分けると次の7パターンとなります。

あなたも、このうちのどれか、
もしくは複数を考えたことがあるのではないでしょうか?
これらはどれも、突き詰めていくと「どうもおかしいな」
と分かりますので、まず何を言わんとされているのか、
それが自分の人生では何を意味するのか、
よくご理解いただきたいと思います。
では、一般的に、「生きる目的」について
どんな間違いが多いのでしょうか?

よくある間違い①
●「生きるために生きる」
        という考え
  (アニマルな生き方では、あっという間に人生は終わってしまう)

「何のために生きていますか?」
と聞いてまず簡単に出てくる1つ目は、
「生きるために生きる」
というものです。
それは例えば、
「生きるのは何のため?
そんなことは考える必要ないんじゃないかな。
生きること自体が大事なんだよ。
人は生きるために生きているんだ」
といった具合に出てきます。
このように「生きるために生きる」というと、
何か深いような響きがありますが、
実際には何も考えていなかった人が急に聞かれて、
焦って出てきた答えにありがちです。
これに似た考え方としては、
「生きるためには、お金を稼がなければならない。
そのためには、仕事をしなけれなならない」
と、生きるために仕方なく働いて生きている人、
食べるために生きている人も、
結局は生きるために生きているということになります。
ところが、この「生きるために生きる」では、
実は、生きる目的に答えたことになりません。
それは、「受験勉強は何のため」と聞かれて、
「受験勉強のため」
と言ったり、
「科学の目的は?」と聞かれて
「科学の進歩のため」と言ったりしても、

答えにならないのと同じです。
それに気づいた人は、
「生きる目的なんか、考えなくても生きていけるよ」
と言うこともあります。
確かにそのとおり、
生きる目的なんか考えなくても生きていけます。
現に、生きる意味を考えている人も、
考えていない人も、みな生きています。
何も考えず働いて、お金を稼ぎ、子供を生んで育てます。
そんな人生のすがたを一休は、

人生は 食て寝て起きて クソたれて
子は親となる 子は親となる
            (一休)
と詠いました。
毎日、食べては出し 食べて出し、起きて寝て、
台所と便所の往復、布団の上げ下ろし、
毎日が同じことの繰り返しです。
その間、人それぞれいろいろな仕事をして、
趣味やスポーツ、旅行などで楽しみますが、
本質的には食べては出し、起きては寝ての同じことを
繰り返しているだけです。
その間に、子供があっという間に成長して親となり、
その子供もまたあっという間に親となり、
その間に自分は年を取って死んでしまいます。

ところが、そんな食べては出し、
子供を育てるだけの人生なら、動物でもやっています。

動物というのは、本能的に生きています。
本能的というのはつまり、
欲を満たすためだけに生きているということです。
欲の心は人間にもありますので、
仏教では、食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲の
5つの代表的な欲を五欲といいいます。

EPSON167.jpg-1.jpg
人間も、何も考えず、五欲を満たして喜んでいるだけの
本能的な生き方なら、生きる意味も目的も、
特に必要ありません。
それでも生きていけますし、現代は、
そんな人が増えているともいわれます。
ところがそんな刹那的な快楽を満たすだけの
アニマルな生き方では、心からの安心も満足もないまま、
あっという間に人生は終わってしまいます。

それでは生まれ難い人間に生まれたかいがありません。
このように「生きるために生きる」というのは、
生きる目的を考えていないということですので、
さすがにこの本を読まれる方に、
そんな方はめったにいないと思いますが、
このような人生のすがたをありのままに見つめて、
初めて生きる意味、目的が問題になってくるのです。


よくある間違い②
●「成長するために生きる」という考え
  (頑張って苦しみを乗り越え、どこへ向かって成長するのか)

人生論を読んでいくと、「生きるのは成長するため」
というものに出会います。
例えば「人生は苦しみや悩みを通して
成長するための学校のようなものだから、
苦しみ悩みにも意味がある」
というものです。
この「成長」というのは、大体において、
肉体よりも、内面的な成長、人格形成といったものです。
ところが、少し考えると、何だかおかしいことに気づきます。
せっかく成長しても、やはりだんだん衰えて、
最後は死んでしまいますので、
「肉体の成長のために生きている」とか
「健康のために生きている」のと同じで、
その目的は達成できません。
最後は完全に崩れ去ってしまいます。
そこで、この問題を解決するためか、
スピリチュアルなどでよくあるのは、
死んでも何か魂のようなものが続くとして、
生きるのは「魂を磨くため」「魂の成長のため」
という考え方に行き着きます。
それが肉体であれ、精神であれ、
放っておいて成長するものではありません。
やはり、頑張ったり、努力したりする必要がありますから、
「生きるのは成長するため」というのは
「何も考えずに生きるために生きる」よりは、
ずっと立派なことです。
それは、「一生懸命生きる」とか、「ひたむきに生きる」
「前向きに生きる」「プラス思考で生きる」
「道を切り開いて進む」など、いろいろな表現でいわれます。

では、そうやって、頑張って苦しみを乗り越え、成長するのは、
どこへ向かってなのでしょうか。
確かに、一生懸命、何か目的に向かってひたむきに走っている人の方が、
のろのろ走っている人よりも魅力的です。
ところがそのひたむきに走っている人は、
何のために走っているのかが問題です。
野球やサッカーなら、確かに素敵でしょう。
しかし、あなたの鞄をひったくって、
捕まらないように前向きに一生懸命ダッシュしているとしたら、
素敵でしょうか?最悪です。
できる限り、のろのろ走ってほしくなります。
一生懸命ひたむきに走っている姿だけ見たら、
素敵だと思いますが、一体どこへ向かって、
どういう意味があって走っているのかが大事だということです。
同じように、弁護士としての成長と聞くと、
かっこいい感じがしますが、
悪の軍団のお抱え弁護士として成長されても、
一般庶民には困ります。
科学者としての向上も、普通は期待したいところですが、
目標が、安くて効果的な凶悪兵器の開発のためでは、困ります。
人に迷惑な、変な物は作らないでほしいのです。
ですから、ただプラス思考で、頑張ればいいのではありません。
頑張って何をするのかという目的が、
いちばんの問題なのです。

究極的には、それが生きる目的なのですが、
これまでのところ、ほとんど論じられていないのが現状です。

目的地が存在しないのは、スピリチュアル系でも同じです。
例えば「魂の成長」を唱える、飯田史彦氏の説を聞いてみると、
魂が成長していくと、どんどん苦しい試練がやってきて、
最後は学校の卒業試験のような、
最も苦しい試練がやってくると言います。
それを卒業すれば、また宇宙の別の場所で
成長のための試練を受け続けます。
一体どこに、そんな根拠があるのかと思ったら、
よりどころは催眠状態の人の証言でした。
なぜそれが根拠になるのか分からないので、
ある程度教養のある人には一蹴されそうです。
ですがここでは目をつぶって、
なぜ宇宙のいろいろな所で試練を受け続けなければならないのか
耳を傾けてみましょう。
するとかろうじて「宇宙自体が自らを成長させるため」
と説明します。
では最終的に、宇宙はなぜ成長したいのでしょうか?
飯田氏はこう言います。

なぜ、宇宙が「成長した」と願うのかといえば、
そこに理由などありません。
        (『生きがいの創造』飯田史彦)

これにはさすがの催眠状態の人も、答えられなかったようです。
このように「魂の成長」説を、誠実に聞いてみたとしても、
苦しい目に遭っても成長を求める理由や目的は、出てこないのです。
これでは結局、意味も分からず苦しみ続けなければなりません。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
まとめ

生きる意味について、よくある7つの間違い
①生きるために生きる
②成長するために生きる
③他の誰かのために生きる
④愛のために生きる
⑤自己実現のために生きる
⑥生きたあかしを残すために生きる
⑦生きること自体が大事

このような、完成のない趣味や生きがい(生きる手段)を、
「生きる目的」と思って求め続けているから、
人間に生まれてよかったという生命の歓喜がないのだと
仏教で説かれています。

仏教の教えを一言で表すと「平生業成」。
生きている「平生」に人生の大事業が完成できると、
完成のある生きる目的が説かれています。

今回は7つの間違いのうち、②まで打ちました。
次回は③から読んでいただこうと思います。


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家族って素晴らしい [なぜ生きる]

生きる喜びで結ばれる絆

日本人の多くが思い描く“理想の家族”の代名詞として、
だれからも愛され、親しまれている“サザエさん”。
日曜夕方のゴールデンタイムに現在も、
平均視聴率25パーセントという人気番組です。
同じ屋根の下に三世代が仲良く暮らし、
ともに喜び、励まし合っていく。
温かい一家団欒を求める心情が、
高視聴率の理由の一つではないでしょうか。

ところが今日、そんな家族の絆が失われているのではないか、
と感じる事件が続発しています。
虐待や親殺し、子殺しなど、
耳をふさぎたくなる悲痛なニュースが毎日のように
報道されています。

「母親を殺してくれたら金を払う」
昨年8月初旬、高校一年生の少年は、
友人にこう持ちかけ、27日、
稚内市の自宅で実母(46)を殺害させました。
(平成19年のとどろきより載せています)
約30万円の報酬で、“親殺し”の依頼とは。
殺害前日まで打ち合わせを行い、
計画的に犯行が進められていたといいます。
両親の離婚後、母に引き取られた少年は、
動機について、「自分を捨てた父が憎く、
それをかばう母も憎かった」と語っています。
病院パート職員を続けながら、
苦労して子供を育てていた母親が、なぜ、
我が子によって殺されねばならなかったのか。
親の願いや愛情、苦労が、
どうして子供に届かなかったのでしょうか。

母の頬を伝う涙には
  科学では分からぬ
    愛情がある

生まれてから今日まで、私たちは両親から
どのような恩恵を受けてきたのでしょうか。
生まれたばかりのころは、
お乳を飲ませてもらったり、おむつを取り替えてもらったりして、
母の手がなければ一日たりとも生きていけません。
夜中に泣き出せば、親は眠い中でも起きて、
わが子が眠るまであやし続ける。
病気になれば寝ずに看病し、遠くへ行けば、
帰ってくるまで心配します。
時には子供を喜ばせようと、
遊園地や動物園に連れて行ったり、
服や靴など必要なもの、欲しがるおもちゃなどは、
自分の物を我慢してでも買い与えます。
常に親は、子の成長や幸せを喜び、
未来を念じて苦労を惜しみません。

EPSON009.jpg-1.jpg

世界的に著名な科学者ファラデーは、
貧しい家庭に生まれ、母の苦労を見て育ちました。
後に、学者として成功を収めた彼は、
学生たちにこう語っています。
涙を科学的に分析すれば、
少量の塩分と水分に過ぎない。
しかし、母親の涙の中には、科学も分析しえない、
深い愛情がこもっていることを知らねばならぬ

EPSON010.jpg-1.jpg

「子をもって知る親の恩」といわれます。
慣れない育児に戸惑いながらも、
一生懸命世話をする。
実際にやって初めて、その大変さに驚き、
「自分がここまで成長するのに、
どれほどの愛情や苦労をかけてもらったことか知らされた」
というお便りが、毎月、編集部にも届きます。
それまで、当たり前のように感じていたことが、
“親なればこそ、このような苦労をしてくださったのだ”
と身にしみて知らされるからでしょう。

お釈迦さまは、「父母の恩重きこと天の極まり無きがごとし」
と教えられていますが、
その恩を本当に知らされるのはいつのことでしょうか。

オレがオレがの
    「が」を捨てて、
 おかげおかげの
    「げ」で暮らしましょう

プロ野球・千葉ロッテマリーンズにドラフト1位で
入団した大嶺裕太投手(八重山商工高校)の座右の銘は、
「オレがオレがの我の字を捨てて、お陰様での下で生きろ」
であるといいます。
家族の間では、特に大切な心がけでしょう。

「オレがこんなに苦しんでいるのに少しも案じてくれない。
薄情な人だ」
「私がこれほど尽くしているのに」
「オレがこれだけ親切にしているのに」
日々の生活で、こんな気持ちになることも
あるかもしれません。
その怒り、苦しみの元は、
“オレがこれだけやっている”
のうぬぼれ心にあるようです。

そんな時、
「世話しているのではなく、世話になっているのだ」
「堪忍しているのではなく、堪忍してもらっているのだ」
と心を反転してはどうでしょうか。

お互いに、「○○して当たり前」を相手につけず、
自分がやって当たり前と思えるようになれば、
相手がしてくださった時には感謝の気持ちが起きて、
どんなに幸せなことでしょう。

“恵まれていることが当たり前、親は何でもしてくれて当然”
と思っていては、感謝の心は起きないし、
“自分は親だから、子供が孝行するのは当たり前ではないか”
と思っていては、「ありがとう」の言葉は出てきません。

EPSON011.jpg-1.jpg
そんな不満が積もりに積もると、
圧がかかったボイラーのように、
最後は大爆発につながります。
大変なご恩を受けて大きくなったはずなのに、
その親を手にかける。
また、かわいいはずのわが子を殺めるような事件に
発展することもあります。
悲劇が報道されるたびに、
世をあげて対策を議論していますが、
すぐに、また同様の事件が聞こえてくる。
やりきれない思いになる人も少なくないでしょう。


なぜこのような悲劇が起こるのか。
先のような心がけの軽視や、しつけ、
教育の問題など、さまざまな要因はあるでしょうが、
根本は、自分が生まれてきた意味、
生命の尊さが分からないからに違いありません。

子供にも、私にも、
   最も大事な「生きる目的」

「生んで育ててくれた親に感謝しなければならない」
といわれます。

しかし、生まれてきた目的も分からず、
生命の歓喜がなければ、
親に対する心底からの感謝は出てこないでしょう。

物質は豊かになり、貧しかった時代よりも格段に、
子供に必要なもの、欲しがる物を
与えることはできるようになりました。
しかし、「ボクは生まれてきてよかったんだ」
「私が生きていることには意味があるんだ」
と心の底から納得できる最も大切な人生の目的は、
子供たちに伝えられているでしょうか。
知識やお金や物じゃない。
自分の人生を全面的に肯定して生きる自信を持つには、
それこそが、すべての子供たちにとって、今、
最も必要なことなのです。

子供だけの問題ではありません。
大人も、果たして、自身の生きる目的が、
ハッキリしているでしょうか?

“自分は、この世に生まれてよかったのか。
人間に生まれ、生きていることが、
そんなに有り難いことなのか”
親も子も、その理由が分からないままでは、
真に幸せな人生は開かれません。

この問いに、明らかな解答を示されたのが、
お釈迦さまであり、親鸞聖人なのです。

 
お釈迦さま在世中の悲劇
   「産んだ子に、
      こんな虐待されるなんて」

家庭内の惨事と聞けば、
現代特有の問題と思うかも知れませんが、
そうではありません。
お釈迦さま在世中の約2600年前のインドにも、
「王舎城の悲劇」といわれる
歴史的に有名な出来事がありました。

時代を超えて繰り返される悲劇を、お釈迦さまは、
どのようにハッピーエンドに転じられたのでしょうか。

  ※     ※     ※
「親が何だ。二言目には、苦労したとか、
かわいがったとか恩着せがましく言いやがる。
それじゃあ初めから生まねばよかったんだ。
勝手に生んでおきながら!」
暴言を吐く太子アジャセに、
ビンバシャラ王と、その妃・イダイケは、
なす術もなく、困り果てていた。
彼らは当時、インドで最強を誇ったマガダ国の
王舎城に住まいする王夫妻である。
アジャセは生まれつき凶暴性が強かった。
親や周囲への暴力は茶飯事で、
気に食わぬ家臣などは虫けらのように殺害する。
悪口雑言、うそ、偽りは平然と言い、
日々、欲楽にふける。

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そんなアジャセによって、母・イダイケは牢に閉じこめられ、
ズダズダに身がさいなまれるような
苦悶におちて苦しむことになる。
ウス暗い牢壁をこぶしでたたきながら、
狂わんばかりに泣き叫ぶ。
「どうして、私、おまえのような子を
生まなければならなかったの。
あんなに一生懸命愛したのに、
苦労に苦労して育てたのに、なぜ、
こんな仕打ちをされねばならないの。
どうして私だけ、こんな目に・・・」
「ああーっ。アジャセ。
母さんおまえのためにどんなに苦労したか知ってるの?
寝ないで看病してやったわ。
欲しい物は何でも与えたじゃないの。
アジャセ、その恩を忘れて。アジャセ!」
牢獄でのたうち回って苦しむイダイケの、
悲痛な叫びを察知なされたお釈迦さまは、
イダイケ救済のために、七重の牢へと赴かれた。
ところがあろうことかイダイケは、
アジャセに対する恨み、怒り、憎しみのすべてを、
思い切り釈尊にぶつけるのだった。
お釈迦さま。私は何という不幸な女でしょう。
産んだ子に、こんな虐待されるなんて。
お釈迦さま。私何をしたというのでしょう。
悪いのはみんなアジャセじゃないの。
どうして私、あんな親不孝な子を持たなければならなかったの?
お釈迦さま!」

気づかぬ
   自己のタネまき

獄中で苦しむイダイケの心には、
どんな思いが満ちていたのでしょうか。
“アジャセのような親不孝者をなぜ、
私が持たねばならなかったの”
というアジャセに対する愚痴。
そのアジャセを悪の道へ唆したダイバという男への憎しみ。
本当は、アジャセは素直ないい子だったんです。
それをあのダイバの悪党が、唆したのよ。
一番悪いのはあのダイバ。
あいつさえいなければ、こんなことにはならなかったのに”
さらに、とんでもないところにウラミを飛ばす。
“それにしてもお釈迦さま。
どうしてあんなダイバといとこなの。
あなたがあまりに偉大だから、ねたんだダイバが仕組んだこと。
そのために私たちまでが”


人間は、現実の結果には驚きますが、
過去の己のタネまきには、
全くといっていいほど気づきません。

実はイダイケは、占い師の言葉に迷い、
わが子欲しさに修行者殺害の罪を犯したことがあったのです。
さらに宿った子供が自身に恨みを抱いていると聞かされると、
わが子でさえ、産むと同時に殺させようとしました。

望まれぬ子であった事実を知ってアジャセは、
一層心が荒廃したでしょう。
ところがイダイケは、そんな恐ろしい自己の罪悪には、
一向に気づかない。

ついに精も根も尽き果て、
なりふり構わずお釈迦さまに懇願します。
「私は何のために生まれてきたのでしょうか。
こんな苦しい、おぞましい人生、
この世ながら地獄です。
どうか私を、苦しみのない世界へ行かせてください」

苦悩を除く法
   「弥陀の本願」

ようやく口を開かれた釈尊は、
『観無量寿経』の説法をされます。

釈尊の教えのままにしたがったイダイケ夫人は、
どうにもなれない自己の姿を知らされて、
底の知れない苦悶に堕ちました。
釈尊は、弥陀の本願を説く時節到来を感知なされ、
こう言われるのです。
「イダイケ、今よりその苦しみを除く教えを説こう」
同時に釈尊の姿が忽然と消え、
金色輝く阿弥陀仏が現れました。

その仏身を拝見したと同時に、
イダイケの暗黒の苦悩は晴れわたり、
歓喜胸に満ち、光明の広海に浮かんだのです。

釈尊の「苦悩を除く法」とは、生きる目的が分からず、
人間に生まれた喜びのない苦悩の根元・無明の闇を一念で破り、
歓喜の生命を与える「弥陀の本願」でありました。

ようこそ、ようこそアジャセよ、ダイバさま、
こうまでしてくだされなければ、
とても仏法を聞く私ではなかった。
他人を恨み、憎み、のろい苦しんできた私は、
とんでもないわが身知らずでありました。
私ほどの極悪人はなかったのです」
イダイケは、アジャセやダイバにも
合掌せずにおれなくなっていました。

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弥陀の本願力によって、
人生の目的を達成したイダイケ夫人は、
たちまち、恨みと呪いの暗黒の人生が、
懺悔と感謝の光明の人生と新生したのです。

アジャセもまた、母のあまりの変貌に驚き、
次第に仏法へと、引かれていきます。
やがて深くお釈迦さまに帰依し、
過去の大罪を懺悔し、母とともに仏法を聞いて、
幸せな生涯を送ったのです。

●「家族って
     いいものだ」

家族崩壊が叫ばれている今、世の親は、
大切な子供に生きる意味を教え、
かけがえのない命の尊厳を伝えていきたいものです。
人生の目的を知らされた時、
「このための人生だったのか。大事な命なんだ。
苦しくとも自殺なんかしちゃいけない。
頑張って生きていこう」
と生きる力がわいてくるでしょう。

「お父さん、お母さん、生んでくれてありがとう。
大変な苦労をしてよくぞ育ててくださいました」
と心から感謝せずにいられなくなります。

ともに生きる喜びをかみしめ、「家族って素晴らしい」
と、真の幸福に生かされる人生を、
歩ませていただきましょう。


 


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