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死が恐ろしいとは思えない!? [なぜ生きる]

(問) 死が恐ろしいとは思えない

一度は死ななければならないことは分かっていますが、
僕は死ぬことがそんなに恐ろしいとは思えないのです。
だから後生の一大事ということが分かりません。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(答)

 かつて滅亡寸前の南ベトナムの指導者であったグエン・カオ・キが、
「最後の一兵まで、祖国を死守せよ」
と絶叫しながら、
燃えさかるサイゴンを尻目に米空母へ逃げ込んだとき、
「逃げた男を叱った男が、逃げて来たよ」
とアメリカ人に笑われました。
その後、彼はアメリカで酒屋のおやじをしていたそうです。
日本でも例外ではありません。
あの有名な特攻隊を送り出した将軍が、
自分で転任令を書いて逃げ帰った例もあります。
あるガンの専門医は、
「不治のガン患者には、ガンであることを本人にも家族にも
知らせずにおくと、5年以上生きられるが、
家族だけに知らせても生きる期間は2年は縮まる。
それが本人にも知らせると、一年も生きる人は少ない」
と報告しています。
戦場とか大ゲンカで極度に興奮している時は、
案外、平気で死ねるようにみえますが、
そんな感情は続きません。

●あの大石も死を恐れた!?

あの忠臣蔵の大石内蔵助が切腹の時、
腹を開き短刀は握ったが、
手がふるえて腹に突き刺すことができなかった。
介錯人が見るに見かねて、
彼の輝かしい名声を傷つけまいと、
大石の切腹の前に首をはねた、と伝えられています。
「手を一つ 打つにつけても 
討つという 敵のことは 忘れざりけり」
の執念が実って、吉良邸に討ち入った時の内蔵助には、
死は眼中になかったかもしれませんが、
そのような激情は永く続くものではありません。

●人間最大の悲劇

シェークスピアは『尺には尺を』の中で、
「死ぬのは、こわいことだ」
と、クローディオに叫ばせ、
ユーゴーは、『死刑囚最後の日』の中で、
「人間は、不定の執行猶予期間のついた死刑囚だ」
と言っていますが、
すべての人間の最大の悲劇は、
遅かれ早かれ死なねばならないところにあるということでしょう。
「今までは
他人のことぞと 思うたに
オレが死ぬとは こいつぁたまらぬ」
と言って亡くなった医者があったといいます。
自己の死は動物園で見ていた虎と、
ジャングルの中で出会った虎ほどの違いがあるのでしょう。

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「忘れていた、忘れていた、
やがて死ぬ身であることを・・・」
と呟き、死んだ文豪もあったと聞きます。
人間はみな死ぬ。
しかし、すぐに死ぬとは誰も思っていません。
それは本当に自分が死ぬとは思われないということでしょう。
だから、どれほど想像力をたくましくしても死の実態は、
死の直前まで目隠しをされているのです。

その目隠しをはずされた時は目隠しされていた時の、
それどころではないでしょう。
平生に弥陀の光明に照育されなければ、
後生の一大事は分からないことなのです。


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無常こそ阿弥陀仏に救われる縁となる! [なぜ生きる]

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読者の皆さんからのアンケートによると、
伴侶や肉親、友人知人の無常が本誌購読のきっかけ、
という方が大変多く見られます。

「年を重ねていく自分。
母、弟と死別した悲しみや、二人はどうしているかという心配、
自身が来世に旅立つ不安がありました」
           (愛知県 60代女性)
無常を観じ、人生の意義や自身の未来を思うのは、
まことに人間らしい心だと仏教では教えられます。

今回は、まず、わが子との痛切な別離を乗り越え、
人生の喜びを見いだした読者を紹介しましょう。

●「あの子が身をもって
       導いてくれた」
     愛息との突然の別れ

石川県かほく市の黒田まゆみ(仮名)さんは、
10年前、最愛の子息を15歳で亡くしました。
「今でも毎日、息子のことを思っています。」
と述懐する別れとは、どんなものだったのでしょうか。

異変は突然訪れた。
中学3年の秋、部活動を引退し、
受験を目前に控えた長男は、原因不明の熱が続いていた。
数日前の遠足の疲れでも残っているのか。
近所の医院を受診すると、すぐに金沢の大学病院を紹介された。
それほど重症とは思えないし、サッカーで鍛えていたから、
大したことはないはず。
だが検査後、すぐに入院を促す連絡が来る。
血液検査の数値が異常に高いと医師は、
難病とすぐ分かる病名を告げた。
それからは、アッという間の出来事だった。
入院して2日目まで意識があったが、
その後、昏睡状態に。
心臓の鼓動は徐々に弱まり、心の準備も最後の会話もできぬまま、
10日後、息を引き取った。
「なぜもっと早く気づいてやれなかったのか」
悔やみ切れず、自らを責める。
勉強もサッカーも、あんなに努力して、
頑張っていたのに、なぜこんなことに・・・
深い悲しみに暮れた。
せめてもの供養にと、毎日読み始めたのが親鸞聖人の『正信偈』だった。
仏縁深い家庭で、祖母の勤行の声を聞いて育ったからだろう。
息子を思い、そうせずにはおれなかった。


●『なぜ生きる』
  タイトルに引かれ


心の傷は癒えぬまま、数年後、
今度は自身が病に倒れた。
安静を余儀なくされ、病室で過ごす毎日、
心は優れず、“やがて散りゆく命、何のために生きていくのだろう”
の問いが胸につかえていた。
そんな黒田さんに年若い主治医が、
「本でも読まれませんか」
と持ってきた書物の中に、
なぜ生きる』のタイトルがあった。
心引かれ、“ぜひ読みたい”と手に取ると、
中には、幼少時から親しんだ親鸞聖人の教えが詳しく説かれていた。
続いて『歎異抄をひらく』を手にする。
『歎異抄』がどんな書物かも知らなかったが、
これも親鸞聖人の教えであり、
「生きる意味」が教えられていることに驚いた。
一層詳しく聞きたいと、退院後、勉強会に参加し、
どんな人も救われる弥陀の本願を知らされた。
「息子が身をもって仏法に導いてくれたと思います。
あの子のためにも真剣に求めたいと思っています」

●真の人生の意義とは

夢の世を
あだにはかなき 身と知れと
教えて還る 子は知識なり

(知識・・・弥陀の本願を伝える教師)
愛し子に先立たれた悲嘆を勝縁に、
人生の意味を問い、
仏法を求めて救われてみれば、
夭逝のわが子は善智識である
、と歌っています。
古来、逆縁に泣く親は数知れず、
日本を代表する哲学者・西田幾多郎もその一人でした。
『我が子の死』という随筆に、
愛娘との永久の別れが述べられています。
「今年の一月、余は漸く六つばかりになりたる己が
次女を死なせて(略)
この度生来未だかつて知らなかった沈痛な経験を得たのである。(略)
特に深く我心を動かしたのは、
今まで愛らしく話したり、歌ったり、遊んだりしていた者が、
忽ち消えて壺中(こちゅう)の白骨となるというのは、
如何なる訳であろうか。
もし人生はこれまでのものであるというならば、
人生ほどつまらぬものはない、
此処には深き意味がなくてはならぬ、

人間の霊的生命はかくも無意義のものではない。
死の問題を解決するというのが人生の一大事である、
死の事実の前には生は泡沫の如くである、
死の問題を解決し得て、始めて真に生の意義を悟ることができる

では、真の人生の意義とは何か。
その答え一つを説かれたのが、実に仏教なのです。

今回はそれを、室町時代の蓮如上人が書かれた
白骨の御文章(御文)』に学びましょう。
まずは全文を拝読します。

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冒頭の一文、
それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、
凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり

からお聞きしましょう。

●苦しみ漂う人生

まず“人間の浮生なる相をよくよく見てみると
と仰っています。
「浮生」とは「浮いた生」と書くように、
水面に漂う浮草のような一生のこと。
人間の実相をこう表現されているのです。
どこから来て、どこへ行くのか、
生きる意味も分からぬ根無し草。
何を手に入れても、どこかしら不安で、
私たちはひょうたんの川流れのように根拠のない生を、
フワフワと日々、過ごしているのではないでしょうか。


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気楽な人生はどこにもなく、皆、生きることに必死です。
果たしてどこへ行くのでしょう。
全国紙の人生相談には毎日、
さまざまな人生模様が描き出されています。
“50代のシングルマザー。
寄り道して仕事の帰りが遅くなると、
同居の母が嫌味を言う。母から自由になりたい。”
“40代主婦。幼少時から人見知りの激しい中3の次男が、
学校に行きたがらない。
高校受験も近いのにどうしたら・・・”
など、人の数だけ苦悩があることが知らされます。
50代の独身女性からはこんな相談も。
「母と弟を相次いで亡くし、一億円以上の遺産を相続した。
だが大金を得たと喜ぶより、
人生の指針を失ったように感じて戸惑っている。
どんな心持で暮らせばいいのですか」
“私なら諸手を挙げて歓迎するのに”
と思う人も多いでしょうが、大枚を手にすれば、
自身も周囲も平常心ではいられない。
好事魔多しで、思いもかけぬ事態に襲われることもある。
宝くじの高額当選で人生を誤る人が多いのも、
生きる目的が分からず、本当の金の使い道を知らないからでしょう。

続いて、
凡そはかなきものは、この世の始中終、
幻の如くなる一期なり
」。

「始中終」とは始め、中、終わりのこと。
人生まだ始まったばかり、と思っていたのが、
すぐに中程に差しかかり、あれよあれよと終盤へ。
人の一生は幻のようだ、と仰せです。


40代男性の、こんなつぶやきがありました。
「10代の頃、応援していた同い年の女性アイドルが、
久しぶりにCM出演していたので、
オッと思って見てみると、なんと<白髪染め>のCM。
そうだよな、彼女もデビュー30年。
気だけは若いけど、オレも・・・」



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●夢の如く過ぎ去る時間

「一生過ぎ易し」
人生の速さを、古今の人々はさまざまに表現しています。
有名な能の『邯鄲』は中国の古典に題をとった演目。
「一炊の夢」ともいわれる故事です。

田舎の青年・盧生が人生に迷い、
有名な僧侶を訪ねて教えを請おうと旅に出た。
途中、邯鄲という町の宿屋で休憩していると、
女主人が仙人からもらったという枕を出して、
粟の炊ける間に一休みするように勧めた。
やがて、眠りかけた盧生を楚国の役人が迎えに来る。
どうしたわけか、帝が彼に譲位したいという。
驚きつつも彼は王位に就く。
有為転変も味わいながら、栄耀栄華を極め、
気づけば50年の歳月。
波乱万丈の一生だったなあ、と思ったその時、
女主人に起こされた。
粟飯がようやく炊き上がったということだった。

●終幕・・・・・行く道

我や先、人や先、今日とも知らず、
明日とも知らず

5月下旬、俳優の今井雅之さんが54歳の若さで亡くなりました。
演劇に情熱を傾け、男気ある言動が人気でしたが、
死の一カ月前、ガン闘病を告白する記者会見には、
やせ衰えた彼の姿が。
かつての精悍な風貌は消え、人前もはばからず
「悔しい、悔しい」と涙を流すインタビューが胸を打ちました。
若い終幕に惜しむ声は絶えませんが、
遅かれ早かれ、皆行く道であります。
しかも人間は貪欲(欲)、瞋恚(怒り)、愚痴(ねたみ、そねみ)
の三毒の煩悩にまみれ、生きるためとは言いながら、
数限りない殺生を繰り返している。
誰もが抱え切れぬ悪業を背負って生きているのです。

人生、夢幻の如し。
「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」
と知らされれば、
「私の後生はどうなるのか?」
と問わずにおれなくなるのです。


●弥陀を一心にタノメ

この『御文』の最後に、
誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり

と、蓮如上人は、真の生きる目的を教えられています。
「誰の人も」とはすべての人のこと。
「はやく」は、明日なき命の私たちだから、
一日も片時も急げと言われています。
「後生の一大事」とは、生ある者、必ず死す。
死んでどこへ行くのか、ハッキリしないこと。
後生とは無関係な人は一人もありません。
万人共通の一大事であり、
これを生死の一大事ともいいます。

この生死の一大事を解決し、
「どんな人も、必ず極楽浄土に往生させてみせる」
と誓われているのは、大宇宙最高の仏さま、
無上仏ともいわれる阿弥陀仏だけなのです。


その阿弥陀仏の誓いを、蓮如上人はこう教えられています。

弥陀仏の誓いましますようは、
『一心一向にわれをたのまん衆生をば、
如何なる罪深き機なりとも救いたまわん』
といえる大願なり
」    (御文章二帖目九通)

「すべての人よ 一心に我をたのめ
どんな悪人も
必ず絶対の幸福(往生一定)に救い摂る」

との偉大な誓願であります。
蓮如上人が『白骨の章』の最後に
「阿弥陀仏を深くたのめ」
と言われているのは、私の生死の一大事は、
この阿弥陀仏の本願によらねば救われないからなのです。

弥陀たのむ一念に往生一定、絶対の幸福に救い摂られたならば、
来世は必ず極楽浄土に往って、
弥陀同体の仏に生まれることができる。

これこそ人界受生の本懐(人生の目的)なのだから、今、
真剣に仏教を聞けよ、と教導されているのです。


●タノム=あてにする 力にする

では肝心の「弥陀たのむ」とはどんなことか。
蓮如上人の『御文章』には、至る所に
「弥陀をタノメ」
「弥陀をタノム」
と仰っています。
これは大変重要な、しかも誤解されているお言葉です。
「弥陀をタノメ」
「弥陀をタノム」
「弥陀をタノミ」
をほとんどの人は、他人にお金を借りに行くときのように頭を下げて、
「阿弥陀さま、どうか助けてください」
とお願いすることだと思っています。
ところが蓮如上人の教えられる
「弥陀をタノメ」
は、全く意味が異なりますから注意しなければなりません。
古来、「タノム」という言葉に「お願いする」
という祈願請求の意味は全くありませんでした。
今日のような意味で、当時、
この言葉を使っている書物は見当たりません。

それが「お願いする」という言葉に使われるようになったのは
後世のことなのです。

「タノム」の本来の意味は、
「あてにする、憑(たの)みにする、力にするということ。

蓮如上人の仰る
「弥陀をタノム」
は、阿弥陀仏をあてにする、憑みにする、力にする、
という意味なのです。

もし蓮如上人が
「阿弥陀仏にお願いせよ」
と仰ったのなら、
「弥陀にタノム」
と書かれるはず。ところがそのような
『御文章』は一通もありません。
常に
「弥陀をタノメ」
「弥陀をタノム」
「弥陀を」と仰って、「弥陀に」とは
言われていません。これらでも明らかなように、
「弥陀をタノメ」
「弥陀をタノム」
は、祈願請求の意味ではないのです。

浄土真宗で「タノム」を漢字で表す時は、
「信」とか
「帰」で表します。
「信」はお釈迦さまの本願成就文の「信心歓喜」を表し、
「帰」は天親菩薩の『浄土論』の「一心帰命」を表したものです。
阿弥陀仏に信順帰命したということは、
弥陀の本願が「あてたより」になったことです。
ゆえに親鸞聖人は、

「本願他力をたのみて自力をはなれたる、
これを『唯心』という」    (唯信鈔文意)

(本願他力があてたよりになって、
自力の心のなくなったのを、唯心という)

と仰せになっています。蓮如上人も、
「一切の自力を捨てて、弥陀をタノメ」
と仰っています。
「弥陀をタノメ」
とは、自力の計らいを捨てよということです。
一切の計らいが自力無功と照破され、
「弥陀の五劫思惟は私一人のためだった」
と明知したのを、
「弥陀をタノム」
と言われているのです。


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蓮如上人の
「自力を捨てて、弥陀をタノム」
は、曠劫流転の迷いの打ち止めであり、
他力永遠の幸福に輝くときです。
だから他力になるまで他力を聞くのだと教えられています。
弥陀の救いは「聞く一つ」。
弥陀をタノム一念に本願を聞きひらいて、
往生一定の身にさせていただきましょう。

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やがて死ぬのになぜ生きる? [なぜ生きる]

 (真実の仏法を説かれている先生の書かれた「とどろき」より載せています)

人生の「最優先」は何か

愛読の皆さんに、本誌を手に取ったきっかけを聞くと、
大切な人との死別が多いことに気づかれます。
永年連れ添った伴侶や肉親の死に
触れた驚きと悲しみからでしょう。

誰人も「諸行無常」の実相と無縁ではないのだと
知らされます。
毎日飛び込んでくる種々の訃報(ふほう)は、
「人生は有限だ。今、何をなすべきか」
と私に問う警報に違いありません。

今回は、“無常を見つめて生きよ”
と勧められるご教示をお聞きしましょう。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「無常を観ずるは
      菩提心の一(はじめ)なり」
        死を見つめて大事を知る

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
明るい人生を望み願い、
「暗い死のことなんて考えたくない」
と思っている私たちに、
「無常を観じよ」と仏教は教えられています。

突然襲う
  大切な人との別れ

突然の伴侶の死を、北海道の70代男性は、
こう述懐しています。

その日、カラオケのレッスン中だった妻は、
課題曲を歌い終わった瞬間、
その場に倒れ、救急車で運ばれました。
クモ膜下出血で、意識が戻らぬまま、
数日後に亡くなったのです。
あまりに突然のことで、
何が何やら分からない。
何もしてやれなかった反省と
後悔の念ばかりが湧いてきました。
供養するにはどうすればいいのか、
と思い、『正信偈』を読むようになりました。
毎日拝読していると
“どんなことが書かれているのだろう”
と知りたくなりました。
しかし、どこで尋ねても分からず、
チンプンカンプン。
どうにか模索しながら新聞を見ていると、
一枚のチラシが目に留まったのです。
『とどろき』の勉強会の案内でした。」

数十年間、当たり前にそばにいる妻や夫は、
親兄弟よりも長く時を共有しています。
そんな大切な人を亡くした喪失感は、
味わった人にしか分からないものでしょう。
思い返せば、もっと何かしてやれたのでは、
の思いばかりがあふれます。
残された自分は何ができるか、
どうすればいいのか。

「勉強会で、なんと『正信偈』には
人間として生まれてきた目的が教えられていることを
知ったのです。
勤行(おつとめ)をするのは、
供養のためではなく、
生きている自分のためであった、
と知らされました。
亡き家内が身をもって無常を伝え、
残された私を正しい教えに
導いてくれたとしか思えません。
この道を進むことを
妻は喜んでくれていると思います」

『正信偈』の冒頭に親鸞聖人は、
帰命無量寿如来
南無不可思議光」
と、ご自身が阿弥陀如来に明らかに救われたことを
宣言されています。

弥陀に救われ、絶対の幸福になった表明であり、
これはすべての人の生まれてきた目的であるから、
あなたも早く達成しなさい、

と『正信偈』の最後に、

道俗時衆共同心
唯可信斯高僧説

すべての人よ、一刻も早くこの親鸞と
同じ心に救われてもらいたい。
それには正しく弥陀の本願を伝えられた
高僧方の教えを真剣に聞き信じなさいよ

と結んでいられます。

菩提心が
   人生を豊かにする

昨年、お姉さんと死別された広島県の50代女性は、
こうつづられています。

病気と縁のなかったような姉が入院したと電話があり、
その6時間後に危篤の知らせ。
病院に駆けつけた時は意識はないまま、
4時間後に亡くなりました。
蓮如上人の『白骨の章』の『朝(あした)に紅顔あって
夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり』さながらでした。
一年たちましたが、姉のいない寂しさ、
悲しさで苦しんでいます。
姉は、56歳でした。
3月号で藤づるの絵と釈迦の説かれた
人間の真実を知りました。
なぜ仏教を聞かねばならないか、
人間の問題がこの絵で理解できました。
姉が、仏さまのことを聞かせてもらえ、
と私に働きかけてくれている気がします。

蓮如上人は有名な『白骨の御文章』に
命のはかなさを切々と述べられ、

誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏を深くたのみまいらせて

真剣に阿弥陀仏の救いを求めなさいと
教えられています。

このように今晩とも知れない命だと
無常を見つめることを仏教で「無常観」といいます。

古来、
無常を観ずるは菩提心の一(はじめ)なり
といい、
諸行無常の現実をありのままに見よ。
はかない世と知らされ、必ず、
「この一瞬の人生、やがて死ぬのになぜ生きる?」
生まれてきた意味や、
永続する幸せを求めずにおれなくなる。
その心を「菩提心」といい、
これが人生を真に豊かにする
大切な心だと教えられています。

●人生観を揺さぶる大事

仏教を説かれたお釈迦さまでも、
親鸞聖人はじめ、歴代の善知識方も皆、
ご自身に起きた種々の無常か、
自己の罪悪を縁に菩提心を起こし、
仏門に入られている方ばかりです。

生老病死の逃れられぬ四苦に驚かれ、
どうすれば解決できるかと、
入山学道の身となられたのが
お釈迦さまでありましたし、
幼くしてご両親と死別され、
「次には自分が死ぬ番だ。死ねばどうなるのか」
と大きな疑問を抱かれ、九歳で出家されたのが
わが祖師・親鸞聖人でした。

肉親や大切な人の死という現実を目の当たりにした時、
誰もがそれまでの人生観を根底から崩されます。

心の傷を癒す時間や慰めが、
必要になることもあるでしょう。
しかし、いつまでもクヨクヨしてはおれません。
悲しみから立ち上がって、さあ、どちらに進むのか。
それが残された私たちにはさらに大事なことであり、
その方角を示しているのが仏教なのです。

死別の悲劇は、心地よくまどろんでいた我々の目を
豁然(かつぜん)と人生に開かせ、
真の幸福を教える仏教に向けさせる
勝縁であります。
また、そうすることが、
亡くなった人の最も喜ぶことなのです。

ですから、冒頭の読者のような心が
皆さんに起きたのは、大変尊い、
喜ぶべきことだと知っていただきたいと思います。

真剣に聞かんでも
     いいのが仏法か?

ところが、そのように仏法聞きたいと願っても、
なかなか聞けるチャンスはないようです。
せっかく教えを求めながら、
「他力だから、求めることは要らない。
どうせ死ぬば皆、極楽ですから」
「そんな真剣に聞かねばならんもんではありません」
などと、冷や水を浴びせられて
“ガッカリした”と口にする人も多いのです。

しかし、お釈迦さまは
「そんな考えは、とんでもない誤りだ」
と、こう仰っています。

世人薄俗(せじんはくぞく)にして共に
不急のことを諍い(あらそい)、(略)
尊と無く卑と無く、貧と無く富と無く、
少長・男女共に銭財を憂う。
有無同じく然り。
憂き思適(まさしく)等し。(略)
心の為に走せ使われて、安き時有ること無し。
田有れば田を憂え、宅有れば宅を憂う。
牛馬(ごめ)・六畜・奴婢(ぬび)・銭財・衣食(えじき)・
什物(じゅうもつ)、また共にこれを憂う

              (大無量寿経
世の人々は目先のことに心奪われ、
急がなくてもいいことに血道を上げている。
貴・賤・貧・富や老・若・男・女は関係なく、
みな金や財産で苦しんでいる。
田畑や家が無ければ、それらを求めて苦しみ、
有れば、管理や維持のためにまた苦しむ。
その他のものにしても、みな同じである

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すべての人を「世人」といい、皆、
真に急ぐべき人生の大事を知らない、
と仰っています。
私たちは毎日、目の前のことをこなすのに精一杯。
朝から晩まで忙しい忙しいと駆け回っていますが、
その相(すがた)はどんなものでしょう。


親鸞聖人とほぼ同時代に書かれている有名な
徒然草』にはこうあります。
一日のうちに、飲食(おんじき)・便利・睡眠・
言語(ごんご)・行歩(ぎょうぶ)、
やむ事をえずして、多くの時を失う。(略)
無益の事なし、無益の事を言い、
無益の事を思惟して
時を移すのみならず、日を消し、月を亘りて、
一生を送る、尤も(もっとも)愚かなり

             (徒然草)
まるで現代人のことを言っているようですが、
時代を問わず私たちは、生きるために食事や睡眠、
会話や移動に多くの時間を割いている。
しかもどれもこれも、やめるわけにはいきません。
一日中、家事や小用に追われ、
“ああ私、何やってんだろう?”
と思うことがあります。

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宅配弁当のコマーシャルで主婦が、
「朝作って、すぐ昼作って、
夜のメニュー考えて・・・」
と言っているのを聞いて、
「ホント、一日中食事の準備しているみたい」
と共感する人もあるでしょう。

永年の習慣とはいえ、
毎度の食事準備は手間がかかる。
ニンジン一つ細かく切るのも一苦労。
そうして作った料理も食べるのはアッという間。
食器や鍋を洗って、
すぐ次の食事の準備が始まります。
ある裕福な家の奥さんが、夕方、
いつものようにフロ掃除をしていた。
ふと顔を上げて、窓からいつもの夕日を見た時、
突然、止めどもなく涙が頬を伝って流れ落ちた。
このまま老いて、人生終わってしまうのかと思ったら、
居ても立ってもおれなくなり、
荷物まとめて家出したというのです。

食べるために働く、働くためにまた食べる。
しかし、おまえは何のために食べているのか、
と問われたら、何と答えましょう。

生きる目的が
    なければならぬ

   人生は
喰て寝て起きて 糞たれて
子は親となる
  子は親となる

禅僧・一休が歌うように、
同じ所をグルグル回りながら成長し、
やがて老いて死ぬ。
これが私たちの実態なら、今死ぬのも、
十年後に死ぬのも、同じことではないか、

と知れば、
普段の営みに一生懸命取り組む根底に、
「生きる目的」がなければなりません。

生きる目的を知り、達成して、生きてよし、
死んでよしの大満足を獲得することが
「最も急ぐべき大事である」
とお釈迦さまは仰っているのです。


ではその大事と何か。
コラムの次の章で学びましょう。

..................................
(ここでコラムをはさみます。)

●死とはいかなるものか

「死生学」が大学で講義されたり、
人生の終末への活動「終活」が流行語になるなど、
よりよい「生」のための「死」を考えよう、
と昨今は言われるようになりました。

しかし一方で、
「そんなの、死んでみないと分からない」
「死んだら死んだ時、死なんて考えていたら、
楽しく生きられないよ」
「オレだけじゃないよ。みんな死んでいくんだから、
怖くないさ」
と、真剣に考えようとしない人も依然多いようです。
考えたくないことだからでしょう。

仏教を学んだ哲学者・丸山圭三郎氏は、
死の恐れを、四とおり挙げています。


一つめはガンの末期や心臓発作の
耐えがたい「肉体的苦痛に対する恐れ」です。

二つには「親しい者との離別体験を典型とする精神的苦痛」

三番目は「地位、名誉、知識、特に財産への執着心から
生まれる喪失への恐怖」です。

第四に、
最大の死の恐怖として、
いわば(非ー知)に相対(あいたい)したときの戦慄である。

死がまったく人間の予測や
思考の枠を超えた存在であり、
死後の世界は不安と謎に満ちた
ブラックホールなのである。

死んだらどこへ行くのか、
死んだら自分はどうなるのか、
という問いは、現世の人間関係とか財産の喪失とは
まったく次元の異なる恐怖をよび起こす


と述べています。
死は未知の体験であるといわれても、
元気な時はそんな苦痛とは思えない。
冒頭の発言は、そういう人の言葉ですが、

いざ死ぬとなった時に私たちの心を占めるのは、
後生の不安以外にないのです。

問題は、『この自分』は、
死後どうなるのかという点に集中してくる。
これが人間にとっての大問題となる


仏教を説かれたお釈迦さまは、
臨終の心相を次のように仰っています。
大命まさに終わらんとして
悔懼(けく)こもごも至る

       (大無量寿経
臨終に過去の行為に対する後悔と、
後生の恐れが交互にやってくる

大宇宙の諸仏の本師本仏である阿弥陀仏は、
この私たちの
「死ねばどうなるか分からぬ、真っ暗な心」を、
「往生一定
(いつ死んでも無限に明るい
極楽浄土に必ず生まれられる)」
の大安心、大満足に救ってみせる、
と誓われています。
この弥陀の救いが、私にとって
いかに大事なことが分かるでしょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

浄土へ向かう大船に
       乗りかえよ

   「不急のこと」と「急ぐこと」

前章で、「世人薄俗にして
共に不急のことを諍う」という
お釈迦さまの警鐘をお聞きしました。
では、
人間にとって最も急ぐべき大事は何でしょうか。
4つのQ&Aで学びましょう。

Q1お釈迦さまの説かれた「真に急ぐべき大事」とは、
  どんなことですか。

A 
それを知るために、こんな例えで人生を考えてみましょう。
今、私たちは川を下る船に乗っています。
船の中で好きな人ができたり、
嫌いな人とケンカしたり、
酒を飲んだり歌ったり、円安になった、
株が上がった、
儲かった、損したと、
泣いたり笑ったりしながら過ごしています。
毎日毎日そんなことに一生懸命なのですが、
この船の行く先はどうなっているのか。
誰も深く考えていませんが、
滝つぼなのです。
すべての人は、死の滝つぼに
向かっている船に乗っているのです。
これでは、船中どんなものを
どれだけ手に入れたところで、
心からの安心も満足もあるはずがありません。

先日ある女性読者から
「私の人生でかなった願いは幾つかありますが、
喜んで当然なのに空虚な心しかなく、
それを人に言うこともできず、
いつも満足そうなフリをしていました。
秀吉とまではいかなくても、
ある程度わが物になったのに不満足に陥るのは、
行く先が真っ暗だからなのですね

まことに何を手に入れ、世の中がどう変わろうと、
我々の船は滝つぼへ一直線に近づいています。
最後は、集めた金も財も家族も力にならず、
船ごと滝つぼに落ちていかねばなりません。
これを「後生の一大事」といわれます。

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有名な蓮如上人の「領解文」にも
「われらが今度の一大事の後生」
と言われているのは、
この滝つぼに落ちる一大事のことです。

生きるためには食べねばなりませんが、
有り余る食べ物を残して滝つぼへ落ちる時が
私にも確実に来る。

こんな危ない船に乗っている
私の「急ぐべき大事」は一つ。

滝つぼに落ちる前にこの船から脱出することであり、
それ以外は「不急のこと」と言われても、
うなづけるのではないでしょうか。

Q2 確かに人間、最後は死の滝つぼへ
落ちねばなりませんが、
それはどうしようもないのではないでしょうか。

A 
いいえ、あきらめる必要はありません。
どうすればこの危機から逃れられるのか。
例えていえば、滝つぼに向かう船から
極楽往きの大船に乗り換えることです。

「えっ、大船に乗りかえる?そんな船があるの?」
と驚かれるでしょうが、親鸞聖人は、
「あるから早く乗りかえなさい」
と断言されています。
この大船一つ教えられたのが、
実に仏教であり、親鸞聖人のみ教えなのです。

大船を造られたお方は、阿弥陀如来という仏さまです。
「最尊第一」と仰がれる、
大宇宙で最も偉大な阿弥陀如来は、
悲劇の滝つぼに向かうすべての人を、
この世から未来永遠の幸福に
救ってみせるという崇高な願い(本願)をおこされ、

70億の人類が乗っても、
どこにいるか分からないほど大きな船を造られました。

弥陀の大慈悲の願いによって完成された船ですから
「大悲の願船」とも聖人は仰っています。
この大船に乗りかえれば後生の一大事は解決し、
いつ死んでも浄土往生間違いない身になれます。

弥陀の浄土を聖人は「無量光明土(限りなく明るい世界)」
と言われます。
『正信偈』に「必至無量光明土」と明言されていますように、
必ず無量光明土へ往けますから、
一息一息が、光明の広海を快走する愉快で楽しい船旅に
大転換するのです。

この大船に乗りかえる外に、
私たちの後生助かる道は二つとありません。


ゆえにお釈迦さまは仏教の結論として、
一向専念無量寿仏
(弥陀一仏に向き、信ずる身になれ)
と説かれ、「領解文」では、
一心に『阿弥陀如来われらが
今度の一大事の後生御たすけ候え』
とたのみ申して候。
たのむ一念のとき、往生一定・御たすけ治定

と教えられているのです。

Q3 「大船に乗りかえる」(弥陀をたのむ)とは
どんなことか、もう少し詳しく聞かせてください。

A 
ここで船を乗りかえる(弥陀をたのむ)とは、
「阿弥陀さま、助けてください」
とお願いすることではありません。

一切の自力の計らいを捨てて、
阿弥陀仏に後生の一大事をうちまかせることを
「たのむ」といいます。

「弥陀をたのむ一念」に「自力の心」が死に、
同時に「他力の心」が生まれると、
親鸞聖人は次のように教えられています。

信受本願 前念命終
即得往生 後念即生
」(愚禿鈔)
弥陀の本願に救われた一念に、
自力の心が死ぬ。
同時に他力の心が生まれるのである

弥陀の本願まことだったと知らされた一念に、
命(昿劫流転の迷いの心)が終わると仰っています。

この「終わる命」というのは、
昿劫より流転してきた自力の心のことであり、
弥陀の本願を疑う心(疑情・本願疑惑心)です。

「死んだらどうなるのだろうか」
「地獄へ堕ちるのではなかろうか」
という後生暗い心であり、
「絶対の幸福なんてあるはずがない」という心です。

その自力の迷心が、南無阿弥陀仏の利剣によって
一念に殺される。
まさに永の迷いの打ち止めがなされるのです。

同時に、「弥陀の本願まことだった」という心、
「いつ死んでも極楽往き間違いなし」
の往生一定の心、絶対の幸福、無碍の一道、
「大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かぶ」心が
誕生いたします。

死ぬとか生まれるというと、
私たちは肉体のことしか知りませんが、
肉体は滔々(とうとう)と流れる大河にポッとできて、
パッと消える泡のようなもの。
仏教で問題にされるのは果てしない過去から
流転し続けている私たちの永遠の生命です。

平生に、この迷いの命が死に、
絶対の幸福に生まれ変わったことを
「弥陀に救われた」といい、

親鸞聖人はそれを「正信偈」の冒頭に、
「帰命無量寿仏如来 南無不可思議光」
と言われています。
浄土真宗ではこのように、「肉体の臨終」だけでなく
「心の臨終」「魂の葬式」が教えられているのです。

Q4 どうすれば私たちは大船に
乗りかえることができるのですか

A 『正信偈』末尾に、
道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説
と記されているとおり、
それはただ善知識(高僧)の教えに遇い、
弥陀の本願を聞信する、聴聞の一本道です。

考えてみれば、人生なんて
アッという間ではありませんか。

ある115歳の女性が
「人生、短かった」と答えていましたが、
たとえ115年生きても
十分生きた気がしないのが本当でしょう。

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「一炊の夢」の故事のとおり、
夢のように一生が過ぎ、
皆、滝つぼに転落します。

しかしこの一瞬の人生には、
浄土へ向かう大船に乗り換え、
昿劫流転の魂の解決をするという、
限りなく大きな意味があるのです。

阿弥陀さまの救いは「死んだらお助け」ではありません。
川を下っている間に船を乗り換えねば手遅れです。
だからこそ善知識方は「一日も片時も急いで聞き開け」
と教えられています。

呼吸の頃(あいだ)すなわちこれ来生なり。
一たび人身を失いぬれば万劫にも復らず(かえらず)。
この時悟らざれば、仏、衆生を如何したまわん。
願わくは深く無常を念じて、
徒に後悔を胎す(のこす)ことなかれ

               (親鸞聖人)
命のうちに不審もとくとく晴れられ候わでは
定めて後悔のみにて候わんずるぞ、
御心得あるべく候

               (蓮如上人)

いずれもいずれも、「生きている時が勝負だぞ」
と汗握ってのご勧化です。

「仏法は聴聞に極まる」
聞法の場に足を運び、
「弥陀の本願に疑心あることなし」
とツユチリの疑いもなくなるまで、
ともに聞き開かせていただきましょう。

(聞き開くとは、弥陀に救われるということ)

 

親鸞聖人の教え=釈迦の教え=弥陀の本願


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今、心から言いたい「命をありがとう」 [なぜ生きる]

今、心から言いたい

   「命をありがとう」


「銀(しろがね)も 金も玉も 何せむに

    まされる宝  子に及(し)かめやも」

『万葉集』の歌人・山上憶良(やまのうえおくら)は、

親心をみずみずしく歌っています。

この世に生を受け、親となり子となれたのは、

よくよくの因縁があってのこと。

その出会いを喜び、親は子供の成長を楽しみに、

懸命に子供を育てます。

でも、その一方で、

「なぜ、親に感謝しなければならないの?」

という声も聞こえてきます。

子供が親に、心から「ありがとう」と言えるのは、

どんな時なのでしょうか。


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「おめでとうございます。元気な赤ちゃんですよ」

かわいい産声(うぶごえ)が聞こえた瞬間、

今まで陣痛で苦しんでいた母親も、

そばで見守っていた家族も、医者も助産師も、

皆が喜びに包まれ、新しい生命の誕生を祝福します。

とりわけわが子と初めて対面した親の喜びは、

どんな宝を手にした時よりも大きいものです。

また、そこからが、育児の苦労のスタートでもあります。

生まれたばかりの赤ん坊は、だれかの世話がなければ

一日たりとも生きてはいけません。

昼夜を問わず、授乳してオムツを替えてもらい、

成長に合わせて必要な衣食住を与えてもらって、

やっと大きくなっていきます。

親は、子供が病気になれば寝ずして看病し、

おいしいものや、よい衣類や道具など、

自分は我慢してでも子供に与え、

わが子の喜ぶ姿を喜びとする。

金銭や物品だけでなく、スキンシップや笑顔、

言葉、親のぬくもり、愛情によって、

人として大切なものを受け取りながら、

子供は大人へと成長していきます。

お釈迦さまは、

父母の恩重きこと天の極まり無きがごとし

と教えられています。

私たちは、生まれてから今日まで、

両親の大変なご恩の中で生かされてきました。


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どうして、あの子が・・・

 

ところが、ご恩に感謝するどころか、

当たり前に思い、親を恨んでいる人さえあります。

そして、恩に報いるのではなく、

親を苦しめようとする人もいる。

最近、耳をふさぎたくなるような事件が聞こえてきます。

昨年7月、埼玉県の中学3年生の長女が、

寝ている父親を刺殺。

最も安心できるはずの自宅の寝室で、

娘に刺された父の驚きと悲嘆は想像に余りあります。

こんな事件を起こした女子中学生は、

どんな子だったのでしょう。

小学時代の同級生は

「頭がよくて面白い子だった」と語り、

その母親も「礼儀正しい子」と言っています。

また、長女と同じ中学に通う生徒は

「まじめで優しく、部活動を通じて

先輩や後輩に好かれていた」と言い、

成績上位者として校内に名前を

張り出されたこともあったそうです。

問題のあった生徒ではなく、普通の、

むしろ模範的な生徒だったことが分かります。

ところが、その後の調べで、

長女は成績や友人関係に悩み、

すべてを終わらせたいと

一家心中を計画していたことを

告白しています。

まじめで人気のある優等生も、

内に深刻な生きづらさを抱え、

心は悲鳴を上げていたのでしょう。

11月には、千葉県で見ず知らずの男性を車で

はね飛ばした19歳の少年が、

「仕事のことで父親に怒られ、

直前にけんかをしてイライラしていた。

だれでもいいから人をひいて殺そうと思った」

と語りました。

父親の経営する会社で働き、人一倍、

親の恩を受けたであろう少年が、

親に対する怒りから、殺人に走ってしまったのです。

親子関係を引き金とする加害者は、

未熟な十代の子供たちだけではありません。

高齢者への虐待で最も多いのは

息子からだという統計があります。

年老いて身体が不自由になった時、

最も頼りたいはずのわが子から

暴力を受ける人が少なくないのです。

「こんなはずではなかった・・・」

「どうしてあの子が・・・」

必死に育てた子供に裏切られた親の無念は、

いかばかりでしょう。

なぜ親の苦労が報われないのか。

子供は親に感謝できないのでしょうか。


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「〝子を持って知る親の恩〟、感謝できないのは、

育児の苦労を知らないからだ」

と言う意見があります。

確かに、体験を通して、親にかけた苦労を

しのぶことは多々あります。

しかし、子供を育てている人が

必ずしも育ててくれた親を大切にしているとはいえません。

反対に、子供がいなくても、

親の恩を深く感じている人もいます。

ここで、読者から寄せられた両親への思いをつづった

お便りを読んでみましょう。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

仏教を学ぶまでは、どうしても両親に恩を

感じることができませんでした。

特に父に対して、全く尊敬することができず、

恩があるとはとても思えませんでした。

しかし、仏法を聞いてハッキリしたのは、

仏縁を与えていただいたということにおいて、

大変な恩があるのだということです。

先日、父とともに仏法を聞くことができました。

それは、本当の親の恩とは何かを教えていただき、

それを少しでもお返ししようと

思えた幸せな結果だと思います。

            東京都・男性(30)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

このように、〝仏法を聞いて、親の恩を知らされた〟

〝親子関係が好転した〟というお便りは、

全国から寄せられています。

両親に感謝できない読者の心を変えたものとは、

一体、何だったのでしょうか。

 

幸せ求めてきたけれど・・・

 

私たちは皆、幸せを求めて生きています。

金や財産があればなあ、地位や名誉、健康、

家族、恋人が得られたら幸福になれるのに、

とそれらを得ようと一生懸命、努力しています。

戦後、焦土から立ち上がった人々の苦労の末、

日本は経済的に豊かになり、電話は村に一台の時代から、

一家に一台どころか、一人一台の携帯電話を

持てる時代になりました。

今や小学生も携帯電話を使いこなしています。

どこにいても遠くの人と話せ、

ボタン一つで家事ができ、自宅にいながら、

テレビやパソコンで世界の情報を得たり、

買い物したりできる。

科学の進歩によって、まことに便利な生活を

送れるようになりましたが、果たして、

求める幸せは得られたのでしょうか。


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携帯電話を持ったばかりに、連絡がないと一層、

孤独に襲われる。

メールを返信する時、相手にどう思われるかを考え、

言葉の表現や送信のタイミングにも

神経をすり減らす子供たち。

学校の裏サイトなど、大人の目につきにくい、

新たないじめの問題も発生しています。

動かずに家事ができるようになった分、

おなかに贅肉がついてしまい、

今度は、家でダイエット・マシーンに乗って

汗を流す主婦たちの姿もあります。


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苦労して、欲しかったものをやっと手に入れたのに、

その喜びもほんのしばらくで、

いつの間にか色あせている。

新たな困難が発生すると、さっきまでの幸せはどこへやら、

目の前の苦しみを取り除こうと必死になります。

「越えなばと 思いし峰に きてみれば

  なお行く先は 山路なりけり」

病気、事故、家庭や職場での人間関係、出世競争、

突然の解雇、老後の不安・・・、

一つの苦しみを乗り越えて、ヤレヤレと思う間もなく、

別の苦しみが現れる。

どこまで行っても、生きてきて本当によかった、

という満足はありません。

また、手に入れたものは永遠に自分の元にあるのではなく、

いつかは離れていきます。

永年働いて得た退職金を投資し、

株価の暴落で失った人、企業の業績悪化で、

就職の内定を取り消された人など、

手にした喜びも、いとも簡単に去っていく。

まさに、一寸先は闇です。


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人間に生まれてよかった

 

私たちが真に求めるのは、

やがて色あせてしまう幸せではありません。

どんなことがあっても崩れない、

本当の幸せになりたい、と願って生きているのです。

これを「絶対の幸福」といいます。

この変わらぬ幸福こそ、すべての人の求めるものであり、

人生の目的ではないでしょうか。

その「絶対の幸福」のあることを教え、

その幸福になれる道を明らかにされたのが仏教なのです。

 

親鸞聖人は29歳の御時、阿弥陀仏の本願によって、

絶対の幸福に救い摂られました。その世界を、

念仏者は無碍の一道なり」(歎異抄

とおっしゃっています。

無碍の一道とは、一切の障りが障りとならぬ、

素晴らしい世界です。

生きる目的を達成し、

絶対に裏切られない幸福に生かされた時、

「生きてきて、本当によかった」

という生命の歓喜が起きるのです。

これをお釈迦さまは、

人身受け難し、今已(すで)に受く。

仏法聞き難し、今已に聞く

と言われています。

生まれ難い人間に生まれることができて、よかった。

聞き難い仏法を聞けて、本当によかった

真の人生の目的を知った時、

一切の悩みも苦しみも意味を持ち、

それに向かって生きる時、

すべての努力は報われるのです。


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この命、ありがとう

 

そんな素晴らしい目的を知り、

大きな喜びにあふれている人は、

生んで育ててくれた両親のご恩を知り、

心から感謝せずにおれなくなるでしょう。

自分が生きていることを喜べなければ、

周囲がどんなに苦労して生かしてくださっていても、

心からの感謝は起きてきません。

茨城県の19歳の女性は、

仏縁を結んだ喜びを次のように語っています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

私が仏法に遇(あ)わせていただけたのは、

両親がこの世に生んでくれたからであり、

その両親の親、そのまた親、さかのぼれば

日本の人口よりも多い先祖の存在があったからです。

仏法を聞かせていただくことができたという

最も重要な一点において、

私はこのご恩に感謝し、報いずにいられません。

私には真実を知らされた喜びがあります。

それが私の原動力です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

生きることの意味を知れば、

自分に命を与えてくれた両親や先祖のご恩を感じ、

そのご恩に報いようという心になれるのです。

ギクシャクしていた親子関係が、

仏教を聞くようになって好転した、

と語る読者もいます。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

両親のおかげで私が人間に生まれ、

今、仏法を聞かせていただけると思うと、

大変な恩を受けていることが知らされます。

私は小学校高学年のころから反抗期で、

両親に迷惑をかけ通しでした。

親子関係がギクシャクして、

悩むことが多々ありました。

しかし、仏法を知らされてから、

何とか両親にもこの教えを伝えたい、

と思いました。

仏縁を念じて手紙を出したり、帰省した時に、

家の手伝いをしたりしています。

すると、父は『とどろき』を会社の人に配るようになり、

母も私の話に耳を傾けてくれるようになりました。

両親の大恩に報いる道は、私が光に向かって

進ませていただく以外にないと、

ますます元気がわいてきます。  大阪府・女性(23)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

仏法で心が通い合う家族の様子が

髣髴(ほうふつ)とするようです。

生きるために必要なものは、たくさんあります。

それらを与えていただいたからこそ、

今日まで生きることができたのです。

人は決して、一人で生まれて成長することはできません。

では、そうやって生きている人にとって

最も大切なことは何か。

それは、どんなに苦しくとも生きねばならない、

全生命を投入して悔いなし、といえる人生の目的です。

その目的を知り、達成し、

「人間に生まれてよかった」

という喜びに満たされてこそ、

「生んでくれて、本当にありがとう」

と心から言えるのです。

大切な家族とともに、親鸞聖人の教えを聞き求め、

生命の歓喜にあふれる、真の家族とならせていただきましょう。

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

今なら言える 

    「ありがとう」

「仏法に出遇って人生が変わった」

読者の体験手記を紹介するコーナー。

大学院でモンゴル語を研究する宮本さん(25)は、

モンゴルへの留学経験もあります。

「なぜ生きるんだろう」と悩んだ高校時代を経て、

生きる目的を知った喜びを語ります。

 

私は会社員の父と小学校教諭の母の元に生まれました。

両親は、私が

「公文式をやりたい」

と言えばさせてくれ、

「塾に行きたい」と言えば行かせてくれました。

両親に褒められるのがうれしくて、

勉強もスポーツも頑張りました。

いい高校に入って、いい大学に行って、

いい会社に就職する。

エリート人生こそ、素晴らしい人生なんだ、

と思っていました。

しかし、その考えは高校に入って、

大きく揺らぎました。

「なぜ」ということをよく考えるようになったからです。

私は、なぜ勉強しているのか。

なぜ大学に行くのか。

結局死んでしまうのに、

何をそんなに頑張っているんだろう、

と疑問になったのです。

このころ、私は精神的にとても不安定で、

何より人に接するのが怖くてなりませんでした。

「学校をやめたい」と本気で思っていましたが、

だれにも相談できませんでした。

「こんなに苦しい人生なら、

生んでくれなければよかったのに」

高校のころ、ずっと思っていたことです。

〝ほかの人はなぜこんな人生、生きていられるんだろう〟

と思い、倫理の勉強に打ち込み、

テレビ番組『プロジェクトX』も欠かさず見ていました。

しかし、そこから分かるのは他人の答えであって、

私の答えではありませんでした。

疑問は晴れぬまま、3年生になりました。

正直なところ、大学を受験する気はありませんんでした。

母に、「大学に入れば楽しいから」

と説得されましたが、

「お母さんは楽しかったかもしれないけれど、

私とお母さんは違う」

と受験を拒みました。

〝人と接することができない私は、

皆と同じようには生きていけない。

かといって自殺する勇気もない。

ならば尼さんになろう!〟

と思いました。

しかし両親に言い出せずにいるうちに、

「受験校を決めなさい」

と先手を打たれました。

〝やっぱり普通に生きて欲しいだろうな〟

と思い、もし大学に行っても何も変わらなければ、

その時は尼さんになろう、と受験を決意しました。

無事に合格して4月、大学の門をくぐりました。

その学生時代に、親鸞聖人の教えに出遇うことができたのです。

人として生まれた意味、本当の幸せとは・・・、

聞く話、聞く話が、驚きの連続でした。

〝人生とは素晴らしいものだったんだ!〟

結局死ぬのに、なぜ頑張って生きなければならないのか、

という疑問はなくなりました。

それまで、人と仲良くする意味も分からず、

自分から話しかけることのなかった私ですが、

生きる意味を知ってもらいたい、

と思うようになり、いろいろな人と

コミュニケーションをとるようになりました。

何より、心から笑えるようになったのが、

信じられない変化でした。

学ぶ環境も、留学もすべて両親が与えてくれたもの。

苦労して稼いだお金を私のために使ってくれる。

そんな両親がいなければ、

生きる意味を知ることはできませんでした。

つらかったとはいえ、

「生まれてこなければよかった」

と思ってしまったこと、申し訳なく思います。

生きる目的が分からなければ、

両親から受けた恩に本当に感謝することはできないのですね。

特に逆境の時は、感謝どころか、恨んでしまいます。

でも、生きる意味を知ると、たとえ逆境であっても、

「生まれてこなければ」

という後ろ向きな気持ちはもう出てきません。

今、両親に、

「生んでくれてありがとう」

と心から言えます。

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聖道の慈悲と浄土の慈悲とは!? [なぜ生きる]

昨今の“”古典ブームで、仏教書が脚光を集めています。
中でも『歎異抄』は、右翼の活動家から左翼の思想家まで、
最も広範な読者を持つ仏教書の筆頭。
世界の光といわれる親鸞聖人の肉声が、
国宝と評される名文でつづられています。

しかし、それほど魅了してやまぬ名著に何が説かれているか、
肝心の内容を知る人は少ないようです。
今回はその『歎異抄』の言葉を通して学びましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
●慈悲といっても
       2つある

今春、朝日新聞に「親鸞思想よ もう一度」
という記事が掲載されました。
七百五十回忌を前に、
聖人の教えが再び注目されていると報じたもので、
記事に紹介された学者は、
「戦争や紛争などが大きな問題になるなか、
親鸞の思想はますます重要になる」
と聖人の教えの魅力を述べています。

(平成20年のとどろきより載せています)
その聖人の思想を知ろうとすれば、
一般にまず思い当たるのが『歎異抄』でしょう。

そこで大事なのは、珠玉のお言葉に込められた真意を
正しく知ることです。
最近でも『歎異抄』の一節を想起する
事故や事件が相次いで起きています。

五月、中国・四川地方を襲った大地震で、
深山に囲まれた村々は壊滅状態に陥りました。
崩壊した学校のガレキの下から子供たちが救い出される一方で、
多数の生き埋めのまま救助が打ち切られたと報じられ、
だれもが心痛めたことでしょう。

その少し前、サイクロンがミャンマーを襲い、
十万人余りが被害に遭ったのも記憶に新しいところです。
何とか立ち直ってもらいたいと、
いずれの被災地にも世界中からお金や物資が送られ、
現地へ赴いての救援活動もなされました。
苦しみにあえぐ人を何とか救いたい。
だれもが抱く思いです。

このような災害の報に接する時、
『歎異抄』第四章のお言葉が思い出されます。

慈悲に聖道・浄土のかわりめあり
「慈悲」に「聖道の慈悲」と「浄土の慈悲」の2つがある

ここで「聖道の慈悲」「浄土の慈悲」といわれる「慈悲」
とはどういうことでしょうか。

親鸞聖人は次のように仰せられています。
苦を抜くを『慈』と曰う、
楽を与うるを『悲』と曰う
」(教行信証

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苦を抜き、楽(幸せ)を与える。
慈悲には「抜苦与楽」の意味があり、
これが仏教の目的です。

「慈悲には2つある」と聖人がおっしゃっているのは、
その苦しみと幸せに2つあることを教えられているのです。

●せっかく
   助かったのに・・・

ではまず「聖道の慈悲」で教えられる苦しみ、
幸せとは何でしょう。

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生活の不便や困難(苦)を取り除き、
命を守り育む(楽)ことで、
一刻も早い復興を願って、被災地に義援金や物資を
送ったりするのはことに当たります。

被害を乗り越えるには、
とても大事な働きかけで、
人助けと聞けばほとんどの人がこれを実行します。
しかし生活物資や医療だけで、
私たちは変わらぬ本当の幸福になれるでしょうか。

平成7年の阪神大震災では、
国や自治体、多くの人に善意によって、
仮設住宅や最低限の生活が維持されてきましたが、
レスキュー隊などの活躍で命を救われたのに、
自ら命を絶つ人が数多くありました。

「せっかく助かったのに、どうして?」
「なんのための救助だったのか」
救援活動の意味を問う声が上がりました。

(平成20年のとどろきより載せています)
家族や財産を失い、打ちひしがれている人の、
心のケアはどうでしょう。
苦難を乗り越えて生きるのは何のためなのか。
「生きる意味」「命の価値」こそ
最も訴えねばならないことだと分かります。
そしてそれは、災害時に限らず、
万人に、絶えず問われていることではないでしょうか。

●でも、生きる意味が
       分からない

5月下旬、元TBSのアナウンサー、川田亜子さんが、
車内で練炭自殺を図りました。
「母の日に、私は悪魔になってしまいました」
「生んでくれた母に、生きている意味を聞いてしまいました」
自身のブログにこうつづった彼女は、
少し前から不調を訴え、周囲からは心配や励ましが
寄せられていました。
具体的に相談を受けた知人や医師もあり、
その中、“なぜ止められなかったのか”
と悔やむ人もあるようです。
私たちの日常には、
「なぜか満たされない」
「何となく不安だ」
と絶えず小さな不安や不満があります。
それを解消するため「金があればなぁ」
「家族さえいれば」「有名になりたい」「出世したい」
「家を持ちたらいい」「恋人が欲しい」など、
欲望の赴くままに、あくせく求めています。
もし金や物、名誉や地位のないのが苦しみの根元ならば、
それらに恵まれた人生は、喜びに輝いているに違いありません。
しかし、望み通りの仕事に恵まれ、
悩みながらも、それを支えてくれる人が周囲にあった川田さんが
「生きる意味」が分からないと命を絶っています。
表面上は恵まれていても、なぜか持て余し、
幸福感を持てずにいる人が、
世の中には実に多くあるようです。

 

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「功成り、名遂げた」は、古くは戦国武将、
今なら政治家や大企業の創業者に使う形容詞。
松下電器の松下幸之助さんは、
その筆頭に挙がる一人でしょう。
そんな幸之助さんが最晩年に人生を振り返り、
自分が最もやりたかったことを何もしなかったような気がする、
という意味のことを述懐したといわれます。
ある作家はこれを評して、
「彼はもう、働かなくてもよくなったのちも、
いつまでも埋まらない心の空洞を埋める作業を
やめられなかったのだろう」
と述べています。
若いころ、300人ほどの従業員とともに
働いていた時分が一番楽しかった、
という幸之助氏の言葉を聞くと、
人間の幸せとは何なのか、だれしも考えさせられます。

●有っても苦・・・
   無くても苦・・・!?

仏教を説かれたお釈迦さまは、
次のように教えられています。

田無ければ、また憂いて、田有らんことを欲し、
宅無ければ、また憂いて宅有らんことを欲す。
田有れば田を憂え、宅有れば宅を憂う。
牛馬・六畜・奴婢・銭財・衣食・什物、
また共にこれを憂う。
有無同じく然り

           (大無量寿経

田畑や家が無ければ、それらを求めて苦しみ、
有れば、管理や維持のためにまた苦しむ。
そのほかのものにしても、皆同じである

無ければないことを苦しみ、有ればあることで苦しむ。
有る者は“金の鎖”、無い者は“鉄の鎖”に
つながれているといってもいいでしょう。
材質が金であろうと鉄であろうと、
苦しんでいることに変わりはありません。
これをお釈迦さまは「有無同然」といわれました。

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どんなにお金を手に入れても、仕事で成功を収めても、
苦悩の根元を知り、取り除かない限り、
ポッカリした心の空洞は満たせない。

苦しみの原因を正しく知らねば、
本当に苦を抜くことはできません。

それがかなわなければ、
本当の幸福が与えられることもできないでしょう。
肉体の病気でも、病因を正しく知らなければ、
全快できません。

例えば「腹痛」といっても、胃か腸か。
腸にも大腸、小腸、十二指腸とさまざまな部位がある。
胃でも、軽い胃炎から潰瘍、末期ガンまで、
症状は幾通りもありましょう。
それらを的確に診断しなければ、
痛みも癒えず、苦しむばかりです。
病因を正しく突き止めることが、
治療の先決問題だと分かります。

人生も同じ。
苦しみの真因が分からねば、
人生苦悩の解決は決してありません。

●苦悩の真因を破り、
    無上の幸福に救う

親鸞聖人は、その苦悩の根元を、
生死輪転の家に還来することは、
決するに疑情を以て所止と為す
」(正信偈
と、ズバリ断言されているのです。
安心、満足というゴールのない円周を、
限りなく回って苦しんでいるさまを
「生死輪転」といい、家を離れて生きられないように、
離れ切れぬ苦しみを「家」と例えらています。
「人生の終わりなき苦しみ」のことです。

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その根本解決を、「疑情ひとつ」とおっしゃっています。
「疑情」とは、「無明の闇」ともいわれます。
「無明」も「闇」も暗いこと。
暗いとは、分からないことをいいます。
では何に暗い心か。
「後生」に暗いのです。
後生とは死後のこと。
だれもが百パーセント行き着く先です。
それが暗いから、魂の行く先が分からないのです。
自分の未来が分からない、底知れぬ不安を、
人は皆抱えて生きています。
この不安あるままで、何をどんなに手に入れても、
心底楽しむことはできません。

換言すれば、「なぜ生きているのか」が
サッパリ分からない心なのです。

この苦悩の根元・無明の闇を破ると誓われたのが、
大宇宙の仏方の本師本仏(指導者)である阿弥陀仏です。

阿弥陀仏のなされたお約束どおりの身に救い摂られた時、
「生きる本当の意味」がハッキリする。
必ずその身になれるから、
早くなりなさいよ、との親鸞聖人のお言葉が、
計り知れない重みを持って響いてきます。
浄土の慈悲」とは「無明の闇」(苦)をぶち破って、
無限に明るい、楽しい心に生まれ変わらせる(楽)こと。
この抜苦与楽を「破闇満願」ともいいます。

阿弥陀仏のお力によって「無明の闇」が破られ、
願いが満たされるから、

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「ああ、生まれてよかった」
の生命の歓喜が必ず起こります。
いつ死んでも浄土往生間違いない身に定まりますから、
無碍の一道に出られるのです。

そんな、とてつもない世界を、『歎異抄』に聞いてみましょう。

念仏者は無碍の一道なり。
そのいわれ如何とならば、
信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、
魔界・外道も障碍することなし。
罪悪も業報も感ずることあたわず、
諸善も及ぶことなきゆえに、
無碍の一道なり、と云々

         (第七章)

弥陀に救われ念仏する者は、
一切が碍にならぬ幸福者である。
なぜならば、弥陀より信心を賜った者には、
天地の神も敬って頭を下げ、
悪魔や外道の輩も妨げることができなくなる。
犯したどんな大罪も苦とはならず、
いかに優れた善行の結果も及ばないから、
絶対の幸福者である

聖人は仰せになりました。

名著『歎異抄』には、
阿弥陀仏の救いが説かれています。
第四章の浄土の慈悲」は、
阿弥陀仏の絶大な本願力によって自身が救い摂られ、
その教えを一人でも多く伝えること。
この仏教の目的を果たすには、
まず「命」が大事です。
衣食住も必要です。

それら生きる手段を与えるのが
聖道の慈悲」であることを明示されているのです。


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死を解決できれば限りなく明るい未来が開かれる! [なぜ生きる]

限りなく

  明るい未来が開かれる

 

絶対の幸福とは

往生が今ハッキリすること

 

すべての人は「絶対の幸福」になるために生まれてきた、

と親鸞聖人は教えられました。

それはどんな幸福なのでしょうか。

 

●生きる意味は「幸福」

 

「人は皆、幸せを求めて生きている。

人生の目的は幸福である」

とパスカルも言っていますが、

「幸福」と聞いて、どんなことが思い浮かぶでしょう。

おいしいケーキを食べて、〝うーん、幸せ〟

ということもあれば、温泉につかって、

〝ああ~、極楽ゴクラク〟といい気分に

鼻唄が飛び出すこともあるでしょう。

見たこともない絶景に、〝うわー、感動だぁ〟

と叫ぶこともありましょう。

確かに、皆いい気分であり、幸せには違いないのですが、

残念なことには、これらの幸せは皆、続きません。

一口で言うと、飽きてしまいます。

飽きてもさらに続くと、やがて苦痛に変わっていきます。

つまり、それらは、本質的な意味での幸福ではないのです。

もっと別なものなら、どうでしょう。

生活のクオリティー(質)の向上とか、仕事の成功とか、

自己実現とか、さまざまなことが挙げられます。

刹那的な快楽と比べれば、長続きしそうですが、

いずれもキリのないことばかりで、

どこまでいっても「これで達成、満足できた」

ということがありません。

また、崩れる不安は常に付きまとい、

やはり永続するものではないのです。

 

ところが、親鸞聖人は、

「死ぬまで変わらない絶対の幸福がある。

そんな幸せになりなさい」

と断言されています。

「ええ、絶対の幸福?そんな幸せ、本当にあるの?」

と誰でも驚かれるでしょう。

 

なぜ親鸞聖人は、このような断言ができたのでしょうか。

 

●苦しみの根本原因は「無明の闇」

 

仏教では、私たちの苦しみの根本原因を「無明の闇

と教えられます。

「無明の闇」とは「死んだらどうなるか分からない心」

のことで、「死後に暗い心」をいいます。

暗い、とはハッキリしない、よく分からないこと。

「機械に暗い」と言えば機械音痴のことだし、

「この辺りの地理に暗い」と言えば、

土地勘がないことを意味します。


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巻頭の「特集」で現在と未来の関係を、

台所とトイレの例えで学びました。

私たちが今、真に明るい心になれないのは、

この無明の闇という暗い心が覆っているからだと、

仏教は説くのです。

 

「十五 十六 十七と 私の人生 暗かった」

かつて、こんな歌が流行しました。

人生が暗い、とは、未来がボンヤリして明るい展望がない、

ということでしょう。

たとえ今が、どんなにつらくとも、未来に展望があれば、

人は明るく生きられます。

逆に、どんなにリッチで裕福な生活をしていても、

未来が暗ければ、心は暗いのです。

 

人生は、日々、不確実な事件の連続ですが、

たった一つの確実な未来は、すべての人に

必ず死が訪れるということです。

 

お釈迦さまが入山学道された動機は、

この生死を超越した世界を求めてのことであり、

親鸞聖人はわずか9歳で、

「死ねばどうなるか」の暗い心に悩まれ、

それ一つ明らかになりたいと仏門に入られました。

大統領だろうが、ホームレスだろうが、

死と無関係の人は一人もありません。

 

20世紀最大の哲学者といわれるハイデッガーは、

人間は、死に向かって生きている存在であり、

常に死んだらどうなるかの問題意識を持つことこそが、

本来の人間なのである。

だが多くの人は、死を忘れて堕落している

と説いています。

 

●宿のなき身はどんな心地か

 

いかに死の問題が、私たちの人生に大きな影響を与えているか。

その問題が解決できると、どう心が変わるのか。

2首の古歌では、こう表されています。

 

ふみ迷う

  知らぬ旅路の 夕暮れに

    宿のなき身の 心地こそすれ


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ある旅人が、山中で道に迷った。

方角も立たず、どこも見たような景色で

〝どうしたらよいか〟と途方に暮れる。

徐々に日も落ち、〝このまま日が暮れたら、

山賊や熊に襲われるかも・・・〟

と心は焦るばかり。

先の歌はそんな心細さを詠んでいます。

ところがその時、〝あっ、向こうに灯が!〟

と人家を見つけたら、〝早速、宿をお願いしよう〟

と希望が湧いてくる。

その家の主人が〝どうぞ、ゆっくりお泊まりください〟

と快諾した瞬間に、心は〝ああよかった。これで安心だ〟

とガラリと明るくなるでしょう。

 

ふみ迷う

  知らぬ旅路の 夕暮れに

    宿をとりたる  心地こそすれ

 

先の歌と後の歌は、「宿のなき身の心地」か、

「宿をとりたる心地」かで、心は大変わりしているのです。

 

今年2月の受験シーズンに、福岡県でこんなことがありました。

国公立大学の2次試験の行われる土日に、

福岡の大規模な会場で、2組の人気グループのコンサートが

予定されていた。

入場者は5万人を超え、県内の宿泊施設は予約で満杯。

しかも、同日に薬剤師の国家試験もあり、

受験生から「宿が取れない」と苦情が殺到した。

受験生の娘を持つ父親(広島県)は、

前日から隣の佐賀県に宿泊させるか、

新幹線で当日向かわせるか〝どちらも天気次第で心配〟

と悩んでいた。

一生を左右する大学受験、宿の事情で遅刻したり、

試験会場に着けなかったら大変だ、どうしよう、

と「宿のなき身」の心細さを味わったことでしょう。

ところが程なくして、行政やボランティアの活躍で、

隣県や県内企業、一般の人たちの善意で宿が提供され、

ヤレヤレ安心できたといいます。

 

人生の日没が迫っているのに、

宿(往生)の確保ができていない焦りや心細さはどうでしょう。

ところが宿(往生)が確定した瞬間から、

その焦りや不安は全て雲散霧消し、

大安心の後生明るい心となるのです。

 

●明るい未来がハッキリする

 

「無明の闇」後生暗い心が、平生の一念に照破され、

後生明るい心に生まれ変わったことを、

絶対の幸福といわれます。

いつ死んでも阿弥陀仏の極楽往生に往って、仏に生まれる身に

なったことで、これを「往生一定」といいます。

有名な蓮如上人の「領解文」に、

「たのむ一念のとき、往生一定・御たすけ治定とぞんじ」

と仰っているとおりです。

 

「往生」とは、浄土へ〝往〟き、仏に〝生〟まれること。

「一定」とはハッキリすること。

生きている今、無明の闇が破られた人は、

死後、浄土へ往って仏になることがハッキリいたします。

往生できるか否かは、平生に無明の闇が破られたか否かで決まる。

死後の往生が、生きている時に本決まりになるのです。

 

親鸞聖人が

「光明の広海に浮かんだ」

と仰ったのは、この絶対の幸福の表明です。

明日のことさえ分からない私たちが、

どうして後生明るい心になって、

絶対の幸福が獲られるのでしょう。

それは阿弥陀仏の光明(智慧)によってなれるのだ、

とお釈迦さまも、親鸞聖人も説かれています。

阿弥陀仏とはどんな仏さまでしょうか。

大宇宙には地球のような世界が数限りなく存在し、

それぞれに地球の釈迦仏のように、

仏さまがまします、と教えられています。

その宇宙の無数の仏方が口をそろえ、

褒めたたえる本師本仏(先生)が阿弥陀仏という仏さまです。

阿弥陀仏は、すべての人の苦悩の根元である

無明の闇を照破し、後生明るい、絶対の幸福に

必ず救い摂ってみせる、と誓っておられます。

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●弥陀の智慧光が心の闇を照破する

 

このことを親鸞聖人は『教行信証』に、

 

無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり

阿弥陀仏の光明は無明の闇を破り、

人生を明るくする智慧の太陽である

 

と仰り、また和讃には、

 

無明の闇を破するゆえ

智慧光仏となづけたり

一切諸仏三乗衆

ともに嘆誉(たんにょ)したまえり」(浄土和讃

阿弥陀仏には、すべての人の苦悩の元凶である

無明の闇〈後生暗い心〉を破り、

往生一定に救い摂る働きがあるから、

大宇宙のすべての仏や菩薩が〝智慧光仏〟と

弥陀を絶賛されているのである

 

とも仰っています。

阿弥陀仏は、無明の闇を照破する限りなき力「智慧光」を

持たれた唯一の仏さまだから、

大宇宙にすべての仏も菩薩も皆、

阿弥陀仏を「智慧光仏」と絶賛されるのだよと、

聖人は仰っています。

その阿弥陀仏の智慧の働きによって「往生間違いなし」と

私の未来がハッキリするのです。

知恵とは先を知る働き、ともいえましょう。

碁や将棋の強い人は何十手も先が見えるといいます。

その道の知恵があるからです。

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誰もが、先を読む知恵をもって安心して生きたいと願っています。

弥陀の智慧光によって心の闇の晴れた人は、

まさに人生の知恵者になれる、と蓮如上人は、

たとい一文不知の尼入道なりというとも後世を知るを智者とす

                    (御文章

最も大事なことを知る人こそ智者である。

たとえ文字が全く読めなくても、

いつ死んでも浄土往生間違いなしと、

未来の明るい人が本当の智者といえよう

 

と言われています。

 

人生苦の根元である無明の闇が破られ、

未来の幸せがハッキリすると、

この世から、明るく楽しい絶対の幸福(往生一定)に

生きることができるのです。

この絶対の幸福こそが、私たちがこの世に生まれてきた目的です。

その目的を果たすためには、阿弥陀仏の本願を聞く一つ。

真剣に、よくよく聞かせていただきましょう。

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極楽浄土とは、どんなところ? [なぜ生きる]



寺参りに熱心な祖母に、なぜ仏教を聞くのかと

尋ねたところ「死んだら極楽へ往きたい」と言っていましたが、

極楽とはどんな所なのでしょうか。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


仏教を聞く究極の目的は、

阿弥陀仏の浄土へ往き仏に成ることですから、

その極楽浄土のことを知りたいのは

至極ごもっともなことです。

仏教では、私たち人間の住む世界を「穢土(えど)」といい、

阿弥陀仏のまします世界を「浄土」といいます。

また「極楽浄土」ともいわれます。

親鸞聖人は、平生(へいぜい)に、弥陀に救われた人は、

死ねば、必ず極楽浄土へ往って弥陀同体の

仏に成れると教えられています。

その極楽浄土とは、どんな世界なのか、

釈尊は『仏説阿弥陀経』に、

こう説かれています。


その国の衆生は、もろもろの苦あることなく、

ただ諸(もろもろ)の楽のみを受く。

かるがゆえに極楽と名づく

         (阿弥陀経)


阿弥陀仏の極楽浄土に生まれた人には、

一切、苦しみはなく、ただ、色々の楽しみだけがある。

だから極楽というのである


続いて、その楽しさを、次のように言われています。

至る所に「七宝の池」がある。

池には八功徳水(はっくどくすい)が満々と湛えられ、

池の底には金の砂が敷き詰められている。

池の中には、車輪のような大きな蓮華が咲き、

華の色は、青・黄・赤・白、色々あって、

それぞれが、青光・黄光・赤光・白光を放って、

まことに絶妙で、香りも芳醇である。

周囲には、金・銀・財宝で飾られた階段があり、

登った上にそびえたつ宮殿楼閣は、金や銀、

水晶や瑪瑙(めのう)などの宝玉で荘厳され、

天空からは、常に心地よい音楽が流れ、

ときどき妙華が降ってくる。

絶えず涼しい風が、そよそよと吹いて、

宝石で彩られた並木や網飾りが揺れて、

それらが奏でる音色は、

幾千かの楽器を同時に演奏するようである。

また、オウムやカリョウビンガなどの色々な鳥がいて、

和やかな美しい声で尊い法を説き、

聞いたものはみな、心に歓喜が起きるのである。

日々、応法の妙服を着て、百味の飲食を食べて楽しむのであると、

言葉を尽くして極楽浄土の素晴らしさが表現されています。

これをそのまま鵜呑みにして、

「おとぎ話だ」と嘲ったり疑ったりするのは、

余りにも仏意に遠い愚かさを知らねばなりません。

大体、私たちの知っている楽しみは、

おいしい料理に舌鼓を打つとか、

儲かった、褒められた、恋人ができた、

結婚した、大学合格、マイホームを手に入れたというような、

一時的な喜びであり、やがては、

苦しみや悲しみに変質してしまうものです。

地震や津波、台風や火災に遭えば、

一夜のうちに失う、今日あって明日なき楽しみであり、

たとえ、しばらく続いても、臨終には100パーセント

消滅する幸福です。

こんな楽しみしか知らない私たちに、

極楽浄土の楽しみを分からせようとすることは、

ちょうど、私たちが、魚に火や煙があることを分からせたり、

犬や猫に、テレビや携帯電話のことを話すよりも

絶望的なことなのです。

あの釈尊の大雄弁をもってしても、

不可能だったので、時には「説くべからず」とおっしゃっています。

しかし話しても分からないのに、

絶望しているだけでは、十方衆生を弥陀の浄土へ導く、

釈尊の使命は果たされません。

そこで釈尊は、私たちが見たり聞いたり体験したり、

想像できる範囲の楽しみを挙げて、

極楽浄土の素晴らしさを知らせようとなされているのです。

「猫の参るお浄土は、宮殿楼閣みなカツオ、

ネコも呆れて、ニャムアミダブツ」と、

風刺されるように、猫には、適当な説き方といえましょう。

2600年前の釈尊が、暑いインドで説かれた教えですから、

その時代や地域にあわせた比喩で説かれているのも当然でしょう。

この釈尊の仏意を酌んで親鸞聖人は、

弥陀の「極楽浄土」を「無量光明土」とおっしゃっています。

限りなく明るい所ということです。

確実な未来が、限りなく明るい無量光明土となれば、

われ生きるしるしありと現在が輝き、

「無碍の一道」に生かされるのです。

これこそが、人生の目的なのです。

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崩れない幸せはあるのか? [なぜ生きる]

 (真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」より載せています)

だれもが、
 大切なものを失いたくない、
 苦労して手に入れたものを手離したくない
                 と願っています。
しかし、愛する人と別れ、
 突然の病に倒れ、災害で家や財産を失い、
  涙の谷に沈んでいる人は数知れません。
私たちが望む、
  絶対に裏切られない幸せは、
         どこにあるのでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

●築き上げてきたものが
       一瞬で崩れてしまう

今年の夏の集中豪雨は、
各地で多数の死傷者や家屋損壊の被害を出しました。
突然の土石流に襲われ、腰まで泥につかりながら、
身一つで避難所へたどり着いた人々。
雨がやみ、様子を見に帰れば、泥に埋もれたわが家の惨状。
思い出の品もすべて失い、悲嘆の中で、
今後の生活に不安を漏らす人もありました。
必死に築き上げてきた幸せが、いとも簡単に崩れてしまう。
これは、だれにでも、いつでも起こりうる現実ではないでしょうか。
一体、何を手に入れれば、
私たちは真に安心、満足できるのでしょう。

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●幸せのまっただ中で「怖い」のはなぜ?

恋人や夫婦など、必要とし必要とされる人との
出会いや生活は、人生に輝きを与えてくれます。
何気ない会話やささやかな食事も、
一緒にいるだけでハッピーな気分になります。
ともに喜び、悲しんでくれる人の存在に、
目の前の苦難を乗り越える勇気を得ます。
しかし、その幸福も、無事には終わらないようです。
退職したら、今まで苦労をかけてきた妻と
ゆっくり旅行でもして、
楽しい余生を過ごそうと思い描いていたのに、
突然、三行り半を突きつけられる。
「熟年離婚」がドラマの題名にまでなり、
離婚相談を受け付ける機関が増えています。
夫や妻から捨てられる悲劇を防ごうと、
テレビや雑誌などで、
熟年離婚の危機を乗り越える特集が組まれています。

お互いの気持ちが続き、
一緒に生活できれば幸せでしょうが、
必ず最後、死によって引き離される時が来ます。
愛情が深ければ深いほど、
死別の苦しみもまた、大きくなります。

気象キャスターの倉嶋厚さんは、
愛妻・泰子さんを亡くした喪失感からうつ病になり、
自宅マンションの屋上から飛び降りようとした経験を、
自著『やまない雨はない』につづっています。
40年以上連れ添った夫人との死別を受け入れられず、
「早く妻の元へ行きたい。
死ねばすべての苦しみから解放される」
と思ったともいいます。
倉嶋さんは、泰子さんの生前、
いつかは訪れる死別に備えようと、
家事の特訓を受けたり、2人で話し合い、
延命治療についての書類を書いたりもしました。
しかし実際は、
「ひとりになる心の準備は
ひとつもできていなかった」
と告白しています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

配偶者との死別は、誰もがいつかは体験することで、
第三者から見れば、「あの人もね・・・」と思うだけです。
しかし、それに直面した人の苦しみは計り知れず、
その内容もさまざまです。
どんなに深く理解したとしても、
当事者の心の痛みを
そのまま感じることは誰にもできませんし、
私の痛みは私が引き受けるしかありません。
悲しみというものはいつだって個別的です。
       (倉嶋厚『やまない雨はない』)

・・・・・・・・・・・・・・・・・

深く信じていればいるほど、つらく悲しい別離。
今の幸せが燃えれば燃えるほど、
裏切られた時の痛嘆は深さを増すからです。
大切な人と寄り添う幸せのまっただ中にも、
心の奥の不安が離れません。
結婚式のあと、夫の胸の中で、
「私、怖いほど幸せ」とつぶやく新妻は、
やがて崩れることを予感するからでしょう。

懸命に築いてきた名誉や地位を失う苦しみも大きいのです。
会社のために働けば、きっと報われる、
と信じて、
サービス残業や休日出勤までしてきた人たちが、
リストラや倒産で、ため息の毎日。
同僚としのぎを削って手に入れた役職も、
問題が起きれば、一夜にして交代。
何とか無事に定年を迎えても、
仕事一筋だった人ほど、何をしたらいいか分からず、
途方に暮れる。
暇を持て余し、前の職場に顔を出してみると、
自分がいなくても会社は変わりなく回っている。
「言いようのないむなしさに襲われたよ」
と吐露した人もありました。

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●すべて忘れても  
     生きる意味とは

年を取れば、思うように体が動かなくなり、
病気も増えていく。
健康から裏切られていくのです。

不自由なのは肉体だけではありません。
自分の脳や記憶にも、捨てられていきます。
認知症は、高齢者に多い、記憶を失う病気ですが、
最近は、65歳未満で発症する若年性認知症も
深刻な問題となっています。
働き盛りのサラリーマンが仕事を辞めねばならなくなり、
夫を介護しながら働く妻、
また、仕事をしながら妻の世話をする男性もあります。
周囲の理解が得られず孤立したり、
受け入れてくれる施設も少なく、
高齢者の介護以上に苦労は大きいようです。

若年性認知症をテーマにした小説
『明日の記憶』(萩原浩著)が映画化され、
話題になりました。
映画を見た多くの人が、
他人事ではないと感じたようです。

50歳になったばかりの佐伯は、
広告代理店の部長を務め、
一人娘の結婚式を控えるサラリーマン。
物忘れがひどくなり、
めまいや不眠に悩まされて受診した病院で、
若年性アルツハイマーと診断される。
取引先との約束を忘れたり、
よく知っていたはずの道に迷い、
待ち合わせに一人で行けなくなったり、
次第に仕事に支障を来すようになる。
部長の職を失い、ついには退社。
料理の味がしなくなり、
本や新聞の文字はアリの行列のように見える。
結婚した娘の顔が思い出せず、果ては、
献身的に自分を支えてくれる最愛の妻のことさえ、
分からなくなってしまう。

アルツハイマーになると、
記憶を損なうだけでなく、
妄想や幻覚、暴力的な衝動などの
二次的な異常も現れてくるといわれます。
記憶を失い、人格が崩壊してからの
自分は生きているといえるのか、
と佐伯は自問します。
一生かけて築いてきたものが、失われていく。
周りのすべてに捨てられるようなもの。
それでも生きねばならない、
人生の意味とは何なのか。

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●悲劇の滝壺に向かって
      生きている

たとえ災害に遭わず、病にかからなくても、
すべてに人は必ず最後、
死んでいかなければなりません。

死ぬときは、今まで得てきた一切を失い、
最も大事にしてきたこの肉体さえ
焼いていかねばなりません。

まことに死せんときは、
予てたのみおきつる妻子も財宝も、
我が身には一つも相添うことあるべからず。
されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、
唯一人こそ行きなんずれ

          (御文章一帖目十一通)

蓮如上人のお言葉です。
「まことに死せんときは」とは、
“いよいよ死んでいく時は、”ということです。
「生ある者は必ず死に帰す」といわれるように、
死は私たちの100パーセント確実な未来です。

しかし、いよいよ死なねばならぬとなったら、
どうでしょう。
「予てたのみおきつる妻子も財宝も」とは、
“今まで頼りにし、あて力にしてきたすべてのもの”
ということです。
私たちは何かを頼りにし、あて力にしなければ、
生きてはいけません。

夫は妻を、妻は夫をあて力にし、
親は子供を、子供は親を頼りに生きています。

「これだけ通帳に預金があるから大丈夫」
「土地があるから安心だ」と、
金や財産を支えに生きています。
会社で昇進した、教授になった、
ノーベル賞を取った、
などなど、
私たちがあて力にして生きているものすべてを、
「予てたのみおきつる妻子も財宝も」
と言われているのです。
「わが身には一つも相添うことあるべからず」とは、
病気の時は、妻や子供が介抱してくれると、
あて力にもなりましょうが、死ぬとなったら、
どんなに愛する家族もついてはきてくれません。
山積みの札束も、土地も株も証券も、
死んでいくときは、紙切れ一枚持っては行けず、
全部、この世に置いていかねばなりません。
肩書きもバッジも、
明かりになるものではありません。

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日本の歴史上、彼ほど成功した者はない、
といわれる豊臣秀吉も、臨終には、

「露と落ち 露と消えにし わが身かな
   難波のことも 夢のまた夢」

と告白して死んでいます。
草履取りから身を起こして太閤まで昇りつめた。
大阪城の天守閣から天下に号令をかけた。
庭には名木、奇石を並べ、
御殿には七宝をちりばめた聚楽第で、
数知れぬ美女たちと戯れた。
諸大名や側室、女房衆1300人を集めた盛大な醍醐の花見・・・、
「ああ、すべては、
ただ一朝(いっちょう)の夢でしかなかった」と、
寂しく息を引き取っています。

「されば死出の山路のすえ・三途の大河をば、
唯一人こそ行きなんずれ」

“人間、最後は丸裸。
たった一人で暗黒の後生へと
旅立っていかなければならない”
と蓮如上人は、おっしゃっているのです。

咲き誇った花も散る時が来る。
必死にかき集めた財産も、
名誉も地位も、愛する人も、
死ぬときには、すべてわが身から離れていく。
独りぼっちで地上を去らなければなりません。

これほどの不幸があるでしょうか。
すべての人は、こんな悲劇の滝壺に向かって
生きているのです。

これでは、私たちは何のために生まれてきたのか、
何のために生きているのか、
どんなに苦しくとも、
なぜ頑張って生きねばならないのか、
分かりません。

苦しみに耐えきれず、自殺していく人は、
日本だけでも年間3万人を越えています。
私たちは決して、
苦しむために生まれてきたのではありません。
生きているのでもありません。
本当の人生の目的を知り、達成し、
「人間に生まれてきてよかった。
この身になるための人生だったのか」
と生命の大歓喜を味わうために生きているのです。

●摂め取られて
     捨てられない幸せ

絶対に捨てられない幸福なんて、
本当にあるの?」
とだれしも、疑問に思うでしょう。

あるのです。
その「絶対の幸福」の厳存(げんぞん)を
明示されているのが、
世界の光・親鸞聖人なのです。

有名な『歎異抄』に、「摂取不捨の利益
とあるのが、それです。
「摂取不捨」とは文字通り、“摂め取って捨てぬ”こと。
例えば、こういうことです。

ある親子が寝ていると、川が氾濫して、
濁流が家の中まで押し寄せてきた。
電気は消え、親子ともども水に押し流されようとした。
その時、暗闇で父親が、
「しっかり、ワシの帯に捕まっていろよ。
岸まで泳ぐからな」
と子供を帯に捕まらせ、必死に泳いで、岸にたどり着いた。
ところが、帯に捕まっていたはずのわが子がいない。
途中で力尽き手を離して、濁流に流されてしまったのだ。
これでは、摂取不捨にはなりません。

そうではなく、父親が片方の手で子供をしっかり抱き抱え、
もう一方の手だけで岸まで泳ぎ切る。
これなら、子供が離れようとしても離さず、
子供に力がなくとも、すべて親の力で岸に着くことができます。
これが「摂取不捨」です。

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「利益」は、“幸福”をいいます。
“ガチッと摂め取られて、捨てられない幸福”を
「摂取不捨の利益」といわれているのです。
人生の目的は、
この摂取不捨の幸福を獲ることだと
親鸞聖人は断言されています。

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●どうすれば人生の目的を
       達成できるか

では、どうすれば、
その幸福を獲ることができるのでしょう。

それについて、
お釈迦さまは、
「一向専念 無量寿仏」(大無量寿経)
と教えられています。

「無量寿仏」とは、阿弥陀仏のこと。
大宇宙に数え切れないほどおられる
仏方の先生(本師本仏)です。
すべての人を絶対の幸福に
救う力のある仏は、
大宇宙広しといえども、
阿弥陀仏以外におられません。

大宇宙の諸仏方にも、その下の菩薩や諸神にも、
私たちを救う力はない、
とお釈迦さまは明言されています。

大宇宙のすべての仏や菩薩、神から見捨てられた私たちを
決して見捨てず、必ず未来永遠の幸福に
救ってくださるお方が、
本師本仏の阿弥陀仏なのだ
と、
蓮如上人は次のように仰っています。

「それ、十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、
空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我ら如きの凡夫なり。
然れば、ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、
久遠実成の古仏として、
今の如きの諸仏に捨てられたる
末代不善の凡夫・五障三従の女人をば弥陀に限りて、
『われひとり助けん』という超世の大願を発して、
われら一切衆生を平等に救わんと誓いたまいて、
無上の誓願を発して、
すでに阿弥陀仏と成りましましけり」
           (御文章二帖目八通)

阿弥陀仏が本願に、
「一心にわれを信じよ。
いかなる罪深い人でも平生に救い切る」
と約束されていますから、
弟子のお釈迦さまは、
「弥陀一仏に向かいなさい。
阿弥陀仏だけを信じなさい」
と一生涯、教え勧められています。
この「一向専念無量寿仏」が、
釈迦一代の教え・仏教の結論なのです。

弥陀のお力によって、
絶対に捨てられない身にガチッと摂め取られ、
「人身受け難し、今すでに受く」(釈尊)

“よくぞ人間に生まれたものぞ”と、
ピンピン輝く
摂取不捨の幸福こそ、
万人の求めてやまない
人生究極の目的なのです。

この不滅の真理を知るならば、
どんな苦しみも意味を持つ。
光に向かって進んでこそ、
真に素晴らしい人生となるのです。
一日も早く、一向専念無量寿仏の身となって、
永遠の幸福を味わってください。


・・・・・・・・・・・・・・・・・
(体験手記)

裏切ることのない幸福を求めて 
          鳥取県  山内和子さん(仮名)
「ご主人が海に落ちた模様です」
大恋愛の末の結婚で、
幸せの絶頂にあった昭和46年2月のこと、
漁に出かけた夫の帰りを待つ私に、
電話がありました。
必死の捜索にも遺体が上がらず、
26歳で私は夫を亡くしたのです。
その年の冬、漁船の網にかかった主人の遺体は、
冷凍状態できれいなままでした。
あふれる涙をこらえ切れず、
どれだけ泣いたか分かりません。
親戚の集まりでは、みんな夫婦そろっている中で、
いちばん若い私だけが独り。
その寂しさ、悲しみは言い表しようがありませんでした。
数年後、2人連れの夫と再婚。
無口でまじめな主人と、なさぬ仲の子供との間で、
気が休まらぬ日々でした。
子供たちも自立し、これからと思っていた平成10年6月、
元気に出かけた夫が、
その夕方、仕事場で10トンダンプに腰から下をひかれたのです。
「行ってくるぞ」
私の聞いた、夫の最後の声でした。
「朝に紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」の、
『白骨の御文章』そのままです。
アニメ『世界の光・親鸞聖人』によって、
本当の親鸞聖人の教えを知らされた今、
決して裏切ることのない幸福に救い摂られるまで、
弥陀の本願を聞き求めていきたいと思います。


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死を考えずに明るく生きたいという人生観は間違いか? [なぜ生きる]

●死を考えずに明るく生きたいという人生観は間違いか?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そのような人生観を持っている人がほとんどでないでしょうが、
真面目な人生観とはいわれません。
「今までは他人が死ぬぞと思いしに、
俺が死ぬとは、こいつたまらん」
と泣いて死んだ医者があったそうです。
人間一度は死なねばならない、
とはだれしも一応は合点しているのですが、
「自分の死」に直面した時は、動物園で見ていたトラと、
山中で突如出会ったトラほど違うのです。
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「一度は死なねばならぬことぐらいは、分かっている」
と言いますが、
それは「他人の死」であって「自分の死」という大問題については、
千里先の雷か百里先の馬が転んだほどにも、
考えてはいないのです。
もちろん、戦場とか大ゲンカで極度に興奮している時は、
平気で死ねるようにみえますし、
難病で死の宣告を受けた患者の中には、自殺する人もいますが、
あれは極度の興奮で一時気が狂っているか、
死を恐れるのあまり自分から死んでしまうのです。

四十七士の討ち入りで有名な大石内蔵助は、
腹を開き短刀は握ったが、
手が震えて腹に突き刺すことができなかった。
介錯人が見るに見かねて、彼の輝かしい名声を傷つけまいと、
大石の切腹の前に首をはねた、といわれています。
「手を一つ打つにつけても討つという、敵のことは忘れざりけり」
の執念が実って、吉良邸に討ち入った時の大石には、
死は眼中にはなかったでしょうが、
そのような激情は続くものではありません。
シェークスピアは『尺には尺を』の中で、
「死ぬのは怖いことだ」
と、クローディオに叫ばせ、
ユーゴーは『死刑囚最後の日』の中で、
「人間は不定の執行猶予期間のついた死刑囚だ」
と、言っていますが、すべての人間の悲劇は
遅かれ早かれ死なねばならないところにあります。
核戦争が怖い、公害が恐ろしい、食糧危機だ、
交通戦争だと騒いでいても、
所詮は死が怖いということではありませんか。
死という核心に触れることがあまりにも恐ろしすぎるので、
それに衣を着せ和らげたものと
対面しようとしているにすぎません。
しかしどんなに死を考えないように、
明るく生きようと努めてみても、
必ずやってくる「自分の死」から、
完全に目を背けることはできません。
麻酔薬は一時苦痛を和らげ、ごまかしてはくれますが、
麻酔がさめたら苦痛と対面しなければならないように、
やがて私たちはどんなことをしてもごまかすことのできない自分の死と、
自分だけで対面しなければならない時が、必ず来るのです。

ではなぜ死が恐ろしいのか。
それは、
「死んだらどうなるのか」
という未知の後生に入っていく不安があるから恐ろしいのです。
これを仏教では、「暗い後生」といい、
「一大事の後生」といいます。
親鸞聖人は、
「一たび人身を失いぬれば万劫にも復(かえ)らず。
徒に(いたずらに)後悔を胎す(のこす)ことなかれ」
            (教行信証)
と教え、それゆえに蓮如上人は、
「あわれあわれ、存命のうちに皆々信心決定あれかしと
朝夕思いはんべり」
と、この一大事の後生の解決(信心決定)を急げと
叫び続けておられます。
この魂の解決をして、
死んでよし生きてよしの無碍の大安心へ雄飛しない以上、
あなたの求めていられる光明の人生は開かれません。
一切の人生苦の根源である死の解決こそ
一生参学の大事であり、
全人類究極の目的なのです。
しかもそれは、真実の仏法、阿弥陀仏の本願力によらなければ
絶対に果たし得ない難中之難の大事です。
この一大事の後生の解決のできうる唯一の道を教える
真実の仏法を求めて、
真に明るい人生を心行くまで味わってください。


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100パーセントの未来に真の光明を! [なぜ生きる]

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まず三悪道を離れて人間に生(うま)るること、
大(おおき)なるよろこびなり。
身は賤しくとも畜生に劣らんや、
家は貧しくとも餓鬼に勝るべし、
心に思うことかなわずとも
地獄の苦に比ぶべからず。(中略)
このゆえに人間に生(うま)れたることを喜ぶべし

             (源信僧都)
人間に生まれたことは大いなる喜びである、
と仏教では教えられています。

ところがせっかく人間に生を受けながら、
私たちはどれほど喜んでいるでしょう。
それどころか“つまらない人生、
サッサと生きて、サッサと死にたい”
と思っている人も多いようです。

生まれたことを心から喜べないのは、
喜べなくさせているものがあるからです。
それは一体、何なのでしょうか。

老後より確実な未来

PPKってご存じですか。
ピンピンと元気に老いて、病まずにコロリと死ぬ、
略して“ピンピンコロリ”という、
こんな言葉が、はやっています。
少子高齢化に伴い、このように考える人が増え、
年を取っても健康でいるための食生活や運動に、
注目が集まっています。

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年金や医療制度については、
国会でも喧々囂々(けんけんごうごう)の議論がなされ、
制度に対する国民の不審が選挙結果を大きく左右します。
4月に始まった「後期高齢者医療制度」なるネーミングが不評で
「長寿医療制度」と名前を変えても、
国民の不安はなくならず、
「高齢者の切り捨てだ」
「年を取ったら死ねと言うことか」
と猛反発の声が上がりました。
(平成20年のとどろきです)

納めた年金が本当にもらえるのか、
現行の制度で将来に対応できるのか、
だれもが関心を持っています。
老後の生き方を論じる書も多く出版されました。
最近は、独身者だけでなく、既婚者も
伴侶と死別すれば最期は独り、
ということで、死を迎えるまでの独りの生活に
関心が高まっているようです。


ところで、その先はどうでしょう。
何も語られてはいません。
たまに死後に言及しているかと思えば、
遺品や遺骨の後始末のこと。

あたかも、電車を降りる時、
座っていた席をだれに譲るかを
論じているようなものです。

でも、電車を降りる人にとっての一番の問題は、
降りた自分がどこへ行くのか、
ということではないでしょうか。

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若死にすれば老後はないが、死は、
すべての人にやってくる100パーセントの未来です。

室町時代の禅僧・一休は、
“門松は 冥土の旅の 一里塚
     めでたくもあり めでたくもなし”
と言いました。

「冥土」とは死後の世界で、生きるということは、
冥土へ向かって旅をしているようなもの。
一日生きれば一日死に近づく。
万人共通の厳粛な事実。

人生の全体が、何か黒々とした闇の中に、
いや応なしに引きずり込まれていくような感覚を持っている人は
どれだけあるでしょうか。

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硫化水素の自殺者が後を絶ちません。
きっかけは、インターネットで、楽に死ねる方法として
紹介されたことでした。

しかし、硫化水素自殺を図り、
途中で外に飛び出した29歳の女性は、

ネットに書いてあったのとは全く逆で、
本当に苦しかった。死ぬことが急に怖くなった

と告白しています。

また、読者のMさんも、仏法に出遇う前の体験を
次のように記しています。

ネクタイで輪を作り、天井から下げました。
これでもう楽になれると、
輪の中に首を入れた時、急に「死んだらどうなる?」
と真っ暗な心が出てきたのです。
考えもしなかった恐怖心でした。
「これは死ねない!」と思った瞬間、
体の重さでネクタイがちぎれ、
床にドスンとたたきつけられました。

想像していた死と、眼前に迫った自己の死は、
動物園で見ているトラと、
山中で出くわしたトラほどの違いがあります。

「死んだら楽になれる」と言っている“死”は、
頭で想像している死であり、
襲われる恐れのない檻の中のトラを見ているにすぎません。
山中で突如バッタリ出会った猛虎ではないのです。

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死を遠くで眺めているときは「死は休息だ」「永眠だ」
「恐ろしくない」と気楽に考えていますが、
いざ直面すると、死後は有るのか、無いのか、
どうなっているのか全く分からない。
最も重要なことを、
実は最もおろそかにしていたことにがく然とし、
お先真っ暗な状態にうろたえます。

仏教では、この「死後どうなるか分からない心」
を無明の闇とか、後生暗い心といわれるのです。

今の私を暗くするもの

すべての人の苦しみの根元は、
この後生暗い心であると仏教では教えられています。

なぜでしょう。
未来が暗いと、どうなるか。
例えれば、こうもいえるでしょう。
3日後に大事な試験を控えている学生は、
今から心が暗くなります。
テレビでお笑いを見ていても、
“こんなことをしている場合じゃないのに・・・”
と落ち着かない気持ちになります。
5日後に生死にかかわる大手術を控えた患者に、
「今日だけでも、楽しくやろうや」
と言っても無理でしょう。

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逆に一週間後に楽しい旅行が待っているとなると、
今から心がウキウキします。

毎日の仕事や家事は変わらなくても、
楽しい気分でやっているうちに、
いつも以上のはかどった、という人もあるでしょう。

未来が暗いと現在が暗くなる。
現在が暗いのは、未来が暗いからです。
死後の不安と現在の不安は、
切り離せないものであることが分かります。
後生暗いままで、明るい現在を築こうとしても、
できる道理がありません。

明るい太陽の下、視界がハッキリ開けているときは、
安心して車を走らせることができますが、
前方が深い霧に包まれていると、
だれでも走るのが不安になります。
高速道路のカーブの手前で、スピードを上げる人はないでしょう。
曲がった先に何が待ち受けているか分からないからです。
後生暗い心とは、今が暗い心です。
確実な未来が分からぬ不安が、
現在の私を覆っているのです。

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『千の風になって』という歌が流行し、
「死別の悲しみが慰められた」
「死に対するイメージが変わった」
と言う人もあります。

しかし、私たちの感じ方で後生の実態が
変わるわけではないでしょう。

葬式でこの歌を流し、
一言の説法も無く終わった寺があったそうですが、
これでは仏教になりません。

たとえ一時、悲しみが薄らぎ、慰められたとしても、
必ず来る自己の大問題に対する解決にはなっていないのです。

現世でいいことをやれば魂のステージが上がって、
死後、今よりいい所へ行けると言う人もありますが、
本心から、そう思えるでしょうか。
だれかから言われて、そうかな、と信じているだけでは、
後生の不安はなくなりません。

あなたの心は本当にスッキリ晴れわたっていますか。
「死ねばどうなるのだろう」
「人生をリセットして、また人間に生まれ変わりたい」
「念仏称えているから、極楽へ往けるに間違いない」
「悪いことばかりしているオレは、どうも地獄へ行く気がする」
後生ハッキリしない心は皆、後生暗い心です。
晴れたかどうか分からないのは、
まだ晴れていないからです。

後生明るい心になる

この後生暗い心を破り、未来永遠の幸福にしてみせる、
と誓われているのが弥陀の本願であり、
その弥陀の本願一つを説かれたのが仏教なのです。

(弥陀の本願とは、本師本仏と仰がれる
阿弥陀仏のなされているお約束のこと。)

親鸞聖人は『教行信証』に、
無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり
とおっしゃっています。

「無碍の光明」とは阿弥陀仏のお力。
弥陀のお力は、私たちの苦悩の根元である無明の闇を破り、
後生明るくする、智慧の太陽なのです。
弥陀の光明によって無明の闇(後生暗い心)がブチ破られて、
“必ず弥陀の浄土に往生できる”
と心が一つに定まったことを、
「往生一定」
と蓮如上人は言われています。

いつ息が切れても浄土往生間違いなしと「後生明るい心」
が生まれるのです。

合格発表までの受験生は、大丈夫だろうか、
ダメだろうかと千々(ちぢ)に乱れて定まりませんが、
合格発表を見た瞬間、
「やった」と心が一つに定まり、安心するようなものです。

弥陀の救いは、決してぼんやりしたものではありません。
また、人の話を聞いて納得し、
「もう助かっているんだ」
「死んだら極楽に連れていってくださる」
と自分で信じることでもありません。
「今こそ明らかに知られたり」と躍り上がる明らかな体験です。

一念の信心定まらん輩(ともがら)は、
十人は十人ながら百人は百人ながら、
みな浄土に往生すべき事更に疑なし

          (蓮如上人)

仏法を聞き求め、一念の信を獲て、
現在も未来も真に明るい人生を歩ませていただきましょう。

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