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仏教の目的は何ですか? [Q&Aシリーズ]

(質問)仏教の目的は何ですか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日、仏教と聞くと何が思い浮かぶでしょうか。
葬式や法事で生き延びている葬式仏教、
おみくじやゴマをたいてゴ利益を振りまく祈祷仏教、
伽藍や大仏を売り物にする観光仏教・・・。
もちろんこれらは論外ですが
、中には、
仏教を道徳や倫理と兄弟のように考えて、
「仲良く生きていく方法を教えたもの」
と思っている人もあるでしょう。

だからケンカもせず、人の言うことは何でもハイハイと
聞く円満な人格者、角の取れた人間が
仏教信者だと信じています。
しかし、仏教はそんな修養の道具でもありません。
では、仏教を聞く目的は何でしょうか?
それは、後生の一大事の解決をするためです。

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(質問)後生の一大事とは何ですか?

・・・・・・・・・・・・・・・・
蓮如上人は、『御文章(お文)』の至るところに、
後生の一大事を思いとりて」とか、
「今度の一大事の後生」とおっしゃっています。
有名な「白骨の章」には、
「誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて」
とあります。
仏教は、後生の一大事に始まり、
その解決で終わる教えです。

釈尊一代の教え、八万の法蔵といわれる一切経も、
この一大事を私たちにいかに知らせるか、
この一大事をいかに解決するかを
教えられた以外の何ものでもありません。

ですから、後生の一大事ということが分からなければ、
仏教は分からない。
これが仏教の出発点なのです。

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(質問)後生とはどんな意味ですか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
後生とは、死後のことです。
後生と聞くと、カビの生えた古い言葉のように感じたり、
30年も50年も先のこと、
自分とは関係のないと思う人もありますが、
本当にそうでしょうか。
吸った息が吐き出せない時、
吐いた息が吸えなかった時が、
もうその人の後生です。

だから、一息一息が取り返しのつかない価値を持ち、
吸う息、吐く息が後生と密着している。

こんな差し迫った現実問題はないのです。

「後の世と 聞けば遠きに似たれども 
知らずや今日も その日なるらん」(古歌)
のとおりです。

されば、蓮如上人は、
仏法には、明日という日はない」とまで言われています。

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(質問)一大事とはどんなことですか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一大事とは、取り返しのつかないことをいいます。
自宅が火事や地震に見舞われると、
私たちは、「一大事!」と叫びます。
確かにそれも大変なことですが、
後生の一大事と比べたら皆、
小事だと仏教ではいわれます。

取り返しがつくからです。
家ならば、建て直すこともできるでしょう。

釈尊はズバリ、「必堕無間」と経典に説かれています。
(必堕無間とは、死ぬと大苦悩の世界に堕つること、
六道の一つである地獄界)

親鸞聖人は、
一たび人身を失いぬれば万劫にも復らず(かえらず)

             (教行信証)
とおっしゃり、“一息追(つ)がざれば次の生、
永久にもどらぬ人生となる”と、
警鐘乱打なされています。
この後生の一大事を解決することが、
仏教を聞く目的なのです。

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タグ:仏教の目的
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闡提とは何か [Q&Aシリーズ]

(質問)真剣に仏法を求めていくと、
      見えてくる闡提の機とはどんなことか。

闡提(せんだい)とは梵語で、断善根(だんぜんこん)
の衆生のことで、無信と訳されています。
微塵ほどの善根のない者をいいます。
信順を因と為し、疑謗を縁と為し、
信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕さん

        (教行信証)
と親鸞聖人の仰せのように、
謗法(ほうぼう)の者はまだ多少とも助かる
縁手掛かりがありますが、
闡提だけは全く助かる見込みがありませんから

『涅槃経』には「死骸のごとし」と説かれています。
親鸞聖人は「逆謗の屍」と仰っておられる心です。

これは己の死を真面目に凝視して真剣に求道しなければ、
見えてこない心です。

(※謗法とは、仏法を謗ることです。)

ある所に、よく喧嘩をする菓子屋の夫婦がいました。
今日もささいなことで口争いとなり、
ついには亭主は女房を殺すと言い、
女房は殺すなら殺せ、と叫喚怒号となりました。
たまたまそこへ通りかかった寺の和尚が、
また始まったかと思って、
「どうしたんだ、あまり大きな声を出すと、
人が寄ってきて笑うじゃないか、ほれほれ、
あんなに多くの子供が見ているじゃないか、
やめなさい、やめなさい」
と仲裁に入りますが、亭主は頑として聞かない。

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「和尚さん、今日という今日は我慢ならねえ、
今日こそ、かかあをたたき殺してやる、
捨てておいてください」
女房も女房で、
「和尚さんほうっといてください。
さあ!殺せるものなら殺してみろ」
とかみつかんばかりに逆上している。
思案に暮れた和尚は、
「これほど止めても聴き入れぬなら仕方がない、
殺すと殺されると勝手にするがよからう」
と言って、店先の菓子をつかんで、
「さあよいか、おまえたちにこの菓子全部くれてやるから、
好きなほど持っていけ」
と子供たちに、どんどんばらまいた。
菓子屋の夫婦は驚いた。
「和尚さん、何をされる、そんなことされては、
私たち、明日から商売できんじゃないですか」
と和尚のところへ飛んできた。
「何!明日から商売、殺すとか殺されるとか言っていたのは、
おまえさんらではないか、今殺される人と、
殺して牢屋へ行く人じゃないか、してみれば、
おまえさんらに用事のない菓子じゃないか」
と和尚が言うと、
「ああは言ったが、今晩また一緒に寝るつもりじゃ」
と言ったそうですが、
私たちには感情は激怒している時も、
その下に湖底のように静まり返っている心があります。

見えてくる
    腹底の心

特に真剣に仏法を聴聞していきますと、
ハッキリと2つの心があることが分かってきます。
死に直面すれば、一切のものが総崩れになり
真っ暗な後生に泣かねばならないのではないかと、
上の心は焦っても、天王寺の鐘を
蚊が刺したほどにも思わぬ心が、
腹底に横たわっていることに気がつきます。

地獄と聞いても驚かず、極楽と聞いても喜ばず、
仏法に明日という日はないのだと切り込まれても
急ぎもしなければ慌てもしない、
仏法に向かったら金輪際動かぬ心が闡提の機というのです。

上辺の心は罪悪の恐ろしさに縮み上がって、
今死んだら大変だと後生の一大事にジリジリしていても、
下の心は悪を悪とも思わず、
業を業とも感ぜず、キョロン、トロン、ボーと
知らん顔しているのです。

あの人が死んだのかと驚いて
同情の涙は流しても、その心の底には、
自分はまだ死なない、まだ死なないと、
後生とも菩提とも思わず、
平気でせせら笑っている心が闡提です。

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因果の道理を整然と聞かせていただければ、
教えには何一つ欠点はありませんから、
頭は分かりすぎるほど合点承知しているのですが、
どうしても承知しない納得しないやつが、
腹底にドタ牛が寝ているようにビリッとも動きません。

一念で
   生き返る

打ってもたたいても浴びるほど聞かせていただいても、
うんともすんとも言わない心です。
素直に聴聞しようとすればするほどひねくれてくる心、
はしにも棒にもかからぬ心、
三世の諸仏があきれて逃げた心は
この心であったのかと泣かずにはおれない心です。

この死骸のような闡提の機が、
若不生者の念力に貫かれた一念で生き返り、
聞き切らんやつが聞かされ、
金輪際なれぬやつが成らされ、
「謗法闡提(ほうぼうせんだい) 
廻心皆往(えしんかいおう)」を体験されるから、
不可称不可説不可思議のご本願よと、
感泣せずにおれないのです。
(※若不生者の念力に貫かれるとは、阿弥陀仏に救われること)


タグ:謗法 闡提
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死んだら誰でも極楽に往けるのか [Q&Aシリーズ]

どんな人でもただ念仏していると、
死んだら簡単に極楽浄土へ往けて仏になれるのが、
浄土真宗のように教えられています。
そのために世間の人たちは死んだ人をみんな仏といって、
何の不信も抱きません。
しかし、これは浄土真宗でもなければ仏教でもありません。

●浄土へは
    往き易くして人なし

仏教を説かれたお釈迦さまは、唯一の真実経『大無量寿経』の中に、
易往而無人」と教えられているだけでも、
それは明らかです。
「易往而無人」ということは、
「往き易くして人無し」と読みます。
お釈迦さまは出世本懐として
阿弥陀仏の浄土往生を説かれてから、
「弥陀の浄土へは往き易いけれども、往っている人が無い」
と、おかしなことを仰っておられます。
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なぜおかしいかと言いますと、
弥陀の浄土へ往くことが本当に易しいのならば、
往っている人が無いというのはおかしいし、
浄土へ往っている人が無いというのが真実なら、
往き易い浄土だと言われるのは適当ではないことになります。
この点について親鸞聖人は『尊号真像銘文』の中に、
「『易往而無人』というは、『易往』はゆきやすしとなり、
本願力に乗ずれば本願の実報土に生るること
疑いなければ往き易きなり、
『無人』というは、ひとなしという、ひとなしというは、
真実信心の人はありがたき故に実報土に生るる人稀なりとなり
と仏意を開顕なされています。

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蓮如上人は、これを、
安心(あんじん)を取りて
弥陀を一向にたのめば浄土へは参り易けれども、
信心をとる人稀なれば
浄土へは往き易くして人なしと言えるはこの経文の意なり
               (御文章二帖七通)
と教えられています。
親鸞聖人も蓮如上人も、
阿弥陀仏の浄土へ往き易いのは
真実の信心を獲ている人だけなのだ、
その真実の信心を獲ている人(現在、阿弥陀仏に救われている人)は
甚だ稀だから、誰でも彼でも死にさえすれば、
極楽へ往けるのではないのだ、これが釈迦の御意だ、
と教えておられます。
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●教える人も
    求め抜く人もいない

また、存覚上人は次のように教えられておられます。
「人なしというは、よくおしうる人もなくよくきく人もなきなり」
             (浄土見聞書)
真実の信心を教え切る知識もいないし、
真剣に求め抜く同行もいないから、
真実の信心を獲る人がいない、
だから浄土へ往く人は雨夜の星になるのだ
と喝破なされています。
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●観念の遊戯では助からぬ

浄土真宗は平生業成、現生不退、報土往生、
弥陀同体と現当二益の大幸福をうる無二の勝法でありますが、
その真実が開顕されず他力が無力になり、
やりっぱなしが他力のように教えられています。
そのまま、そのままと教えられてわがままになり、
放縦になって有り難いお言葉や例え話をきいて合点して
観念の遊戯をしている者ばかりです。
何十年聞いても晴れたも曇ったも分からず、
分からぬままのお助けと疑心往生を決め込んでいます。
だから順境の時は
「これこれ」
と喜べますが、逆境に煩悩が噴き上がる時は、
「こんなことではなあ」
「どうも・・・」
と、底の知れない不安が湧き上がるのは、
一応の合点をしただけで真実の信心でない証拠です。
火に触れれば火傷すると、
幾ら合点し信じていても火傷はいたしません。
ご飯を食べれば腹が膨れると合点して信じていても、
食べなければ腹は満足しません。
世の中のことでさえ合点や言葉では通れないのです。
ましていわんや後生の一大事という大問題。
色もなければ形もない無限無辺の仏智不思議を全領することは
難中之難無過斯(なんちゅうなんむかし)のことです。
平生にこの難中之難を弥陀のご念力によって突破させられて、
地獄一定が極楽一定に転じ、
生死の苦海が光明の広海に転じた人でなければ、
弥陀の浄土へ往くこともできなければ成仏することもできません。
その身そのままその機のなりで、
三悪道へだだ走りしている人ばかりであることを
よくよく承知していなければなりません。


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仏教でいわれる5つの不思議とは!? [Q&Aシリーズ]

(真実の仏法を説かれている先生の書かれた「とどろき」より載せています。)

●仏教に5つの不思議が説かれていると聞きましたが、
どこにどんなことが不思議と説かれているでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

5つの不思議は、特に弥陀の本願力不思議をたたえて
龍樹菩薩が説かれたもの。

「衆生多少不可思議」

多くの生き物が生まれ続いて尽きない不思議をいったもの。
少は意味のない助字。

「業力不可思議」

善悪の業力によって、引き起こされる果報に、
寸分の狂いもないことの不思議。

「龍力不可思議」

気象の変化の不思議なこと。

「禅定力不可思議」

聖者が修行によって永い寿命を保ったり、
現す神通の不思議をいったもの。

「仏法力不可思議」

これこそ弥陀願力の不思議で、
道理理屈を離れた摩訶不思議の境地は、
仰げばいよいよ高く広く、
虚空のごとく、心は十方世界に遍満する。

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●親鸞聖人が懐かしい

絶対の悪が絶対の善に救済されてみれば、
生死の苦海のままが光明の広海と転じます。
「不可称・不可説・不可思議の信楽」と、
叫ばれた親鸞聖人が懐かしい。
富も地位も、名誉も権勢も、しばしの間の装飾です。
払い落とせば自性の妄念しかありません。
悪に向かえば光る目も、善に向かえば眠ってしまう。
世間話は夜を徹するが、仏法の話はイヤになる。
夢の世といいながら、執着は微塵も離れず、
ツユの命と知りながら、真剣に報謝する気もない。

三悪道はい出しのやつは、
極楽を嫌って地獄を慕っています。

●底なしの慈悲

正定聚不退の現在も、蛇蠍かん詐、
我執我慢、放逸無慚の曲者で、
どこどこまでも地獄一定すみかぞかし。
こんなやつを大好きだとは、弥陀の慈悲には底がない。
堕つる私が弥陀の正客、聖者そこのけ善人後回し。
うれしい思いを頼りにもせず、悲しい心が心配にもならぬ。
称えた念仏を当てにもせず、忘れた失敗が障りにもならぬ。
信に信功なく、行に行功なし。
仏前で称えた念仏も、トイレで称えた念仏も、
無碍の世界に上下なく、円満である。
カラの念仏は、なお有り難い。
忘れがちの称名を、常念仏の行者とは、
身の置きどころもなく恥ずかしい。
泣いている。苦しいからではない。悲しいからでもない。
悪鬼羅刹が恵まれて、生かされるご恩に感じて泣くのが不思議。
楽して楽知らず、恩を恩と感じない逆謗の屍が、
横超の直道を猛進する時、善も欲しからず悪を恐れず、
苦しても苦知らずとは、不思議の中の不思議です。
まことに業海深きがゆえに願海深し。
われらの業海に名利の大山を映すがごとく、
弥陀の大願海に浄土の荘厳を映す。
月は降らずして水に浮かび、水は昇らずして月を宿す。
月は月にして水に宿り、水は水にして月を宿す。
求めたのやら求められたのやら、捨てたのやら捨てられたのやら、
取ったのやら取られたのやら、
信じたのやら信じられたのやら、
あるといえばある、ないといえばない。
何ともないが何とかある。
何とかあるが何ともない。

「餓鬼は、水を火と見候が、あわれに候。
自力執心の人が他力を知らぬが、悲しく候」
         (法然上人)
同じ事件の当事者でも、悲しむ者と踊る者、怒る人、泣く人、
喜ぶ人、立場によって見方が変わる。
世間は無料の人生劇場です。

他力不思議の世界へ出さえすれば、
「渋柿の シブこそよけれ
 そのままに かわらで変わる 味の甘さよ」
と逆境に微笑し、涙の中に輝く世界が拝めるのです。
「いつつの不思議をとくなかに
仏法不思議にしくぞなき
仏法不思議ということは
弥陀の弘誓になづけたり」
      (高僧和讃)
親鸞聖人の驚嘆です。

「仏が仏にお成りになるのが何が不思議ぞ。
極悪人が弥陀タノム一念にて、無碍の一道に生かされ、
仏に成ることこそ不思議というものだ」
不可思議の仏智に生かされたうれしさには、
法雷の下、法剣をかざし、法鼓をたたいて武士の戦場に臨むがごとく、
真実開顕に、獅子吼せずにはおれないのです。

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弥陀の救いは2度ある [Q&Aシリーズ]

(質問)二益法門とはどんなことですか?

(答え)二益とは、「現益(げんやく)」と「当益(とうやく)」の
2つの利益(救い)をいいます。

現益とは、本師本仏の阿弥陀仏のお力によって、
現在ただいま無碍の一道(絶対の幸福)に
救われること。
いつ死んでも浄土往生間違いなしという
大安心・大満足の幸せな身になります。


当益とは、死ぬと同時に弥陀の浄土へ往き、
弥陀同体の仏に成れるということです。


このように阿弥陀仏は、
この世と死後の2回救うと誓われていますから、
これを現当二益の教え、「二益法門」といわれます。
しかし、当益を得られるのは飽くまで
現益を頂いている人のみですから、
親鸞聖人は、“現在の救いを急げ”と
教えられています。

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(質問)えっ!?「この世はどうにもなれない、
死んだらお助け」ではないのですか?

(答え)この世さえどうにもなれない人が、
死んでどうなれましょうか。

「そこは阿弥陀さまのお力で・・・」
と言う人がありますが、
死後の地獄を助けることのできる阿弥陀さまなら、
なおさら、この世のジゴクを
助けられないはずがありません。

人間でさえ、今、おぼれて苦しんでいる人に、
「土左衛門になったら助ける」と言う人はいません。
今、腹痛で苦しんでいる人に、
「死んだら治す」と言う医者もいなしでしょう。

いわんや大慈大悲の阿弥陀仏が、
「この世は助けられないから我慢せよ。
死んだら助ける」とおっしゃるはずがないのです。

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(質問)「この世で救われる」という根拠は?

(答え)その根拠は、「弥陀の本願」にあると
聖人は教えられています。

本願とは、誓願ともいわれ、約束ということ。
弥陀の本願とは、本師本仏の阿弥陀仏が
なされているお約束です。
その中に弥陀は、
「若不生者 不取正覚」
“もし、生まれさせることができなければ、
正覚(仏のさとり)を取らない”

と誓われています。
ここで、「生まれる」といわれているのは
肉体のことだけではありません。
仏法では肉体よりも心を重んじます。
弥陀は、私たちの後生暗い心を、
現在ただいま、大安心の明るい心に生まれさせる、
と命(正覚)を懸けて誓われているのです。

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(質問)本当に、この世で助かるのですか?

(答え)そうです。
親鸞聖人は『教行信証』に、
「誠なるかなや、摂取不捨の真言」
“まことだった、本当だった、
弥陀の誓いにうそはなかった”
と、弥陀の誓願どおり、
この世で助かったとおっしゃっています。
救われたら、ハッキリするのです。

原因なくして結果なし。
平生の救い(因)にあわずして、
死後の救い(果)は望めません。

足元の小川が渡れぬ人に、
その先の大河がどうして渡れましょう。
今生救われた人だけが浄土往生できるのです。

ですから、「この世はどうにもなれない、
助かるのは死んでから」
などと思っている人は、
死んでもどうにもなれません。

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阿弥陀仏の救いはハッキリするのか!? [Q&Aシリーズ]

(真実の仏教を我々に叫んでくださっている先生の書物「とどろき」から載せています。 ) 

(問い)
弥陀の救いはハッキリするのか
信心獲得するとハッキリすると言う人と
迷いの人間にハッキリすることなんかないと
言う人とがありますが、
どちらが本当なのでしょうか。

(信心獲得とは、阿弥陀仏に救われたことです)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(答え)
ハッキリするのは当然のことですが、
意外に多い質問です。

信心獲得するとは、
阿弥陀仏の救いに値(あ)
ったことをいうのです。
弥陀の願力によって往生一定、現生不退、
絶対の幸福に救われたことをいいます。
この世も苦しみの連続であり、
未来も必堕無間の一大事を抱え、
十方の諸仏にも見放され
苦より苦に流転してゆく私たちを
憐れに思われて
「我をたのめ
必ず絶対の幸福に救う」
と誓っていられるのが阿弥陀仏です。
もちろん、死後のことではありません。
だから弥陀の本願を平生業成というのです。

平生に苦悩渦巻く人生を、
光明輝く人生に救うというお約束です。

こんな素晴らしい本願は世にありませんから
親鸞聖人は『正信偈』に、

「無上殊勝の願を建立し、
希有の大弘誓を超発せり」(正信偈)
(阿弥陀仏は、無上最高、
希有の誓いを建てられている)
とおっしゃっているのです。

その弥陀のお約束通りに、
往生一定、現生不退、絶対の幸福に助かったことを
信心獲得とか、信心決定というのです。
これは全く弥陀のお力(他力)によってであることが
ハッキリ知らされますから、
明信仏智といい他力の信心というのです。

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●一念のハッキリした救い

しかも、この弥陀の救いは一念で
完成するのです。
それは、弥陀が命一刹那に迫っている人をも
救うために、
「ひとおもい」(一念)で
救うという約束をなされているからです。

親鸞聖人はこれを
「一念往生」
とか
「一念の信心」
とおっしゃっています。
一念という時剋の極促で私たちの苦悩を抜き、
無上の幸福を与えてくだされるのです。

これを抜苦与楽とも破闇満願とも説かれています。
阿弥陀仏の救いは、
このようにハッキリしていますから、
「これで、助かったのだろうか」
とか
「信心獲得できたのだろうか」
などと思案したり、
他人に尋ねることではないのです。

親鸞聖人の『教行信証』その他に
書かれていることは、
この弥陀の不思議な救いの驚嘆と、
広大な慶心ばかりです。

覚如上人も
「救われたことを喜んでいる」
と『執持鈔』におっしゃっています。
蓮如上人も
「他力の信心を今獲たり、
弥陀より賜った大信心ということ、
今こそ明らかに知られたり」
と『御文章』に記されています。

ハッキリしなければ、往生の一大事、
安心できません。

救われた喜びはなければ
「真宗宗歌」も歌われません。
「真宗宗歌」には、
「永久の闇より救われし、
身の幸なにに比ぶべき」とか、
「深きみ法にあいまつる、
身の幸なににたとうべき」
と歌われているからです。

ただのただもいらん、ただだったと
ハッキリするまで聞き抜きましょう。


タグ:弥陀の救い

地獄・極楽はおとぎ話では? [Q&Aシリーズ]

 (真実の仏教を説かれている先生の書物「とどろき」から載せています。 )

(質問)
死後に地獄や極楽があるのないのというのは、
昔ならいざ知らず、
今日ではおとぎ話ではありませんか。
そんなことが、どうして信じられるでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(答え)
ウナギが生簀の中で話をしている。
「なぜ今日は、有象無象が沢山集まっているのだろう。」
「今日は、丑の日とかいって、
我々が人間どもに食われる日だそうな」
「そんな勝手な、そんな人間という者がいるのか。
信じられんなぁ」
「そんなこと言ったって、我々は、
人間に食われる運命になっているのだそうな」
「だが、誰も戻ってきて、
そんなこと言った者がないではないか」
「そら、また捕らえられて、連れてゆかれたではないか」
「あれは、散歩にでも行ったのではないか。
そのうちに帰ってくるさ」
「引き上げられると、頭に錐(きり)を立てられ、
背中を断ち割られ、三つに切られて串に刺されて
火あぶりそうだ。
恨み呪っても言葉が通じない。
料理している者も鬼なら、食べている奴も鬼。
八つ裂きにして食うそうな。
帰れるはずがないではないか」
あなたの質問は、こんな情景を思い出させます。

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人間にも、物知り顔の者がいて、
「死んだら地獄で鬼に責めたてられる。
そんなバカなことがあるものか。
鬼でも蛇でも連れてこい。
オレがひねりつぶしてやる。
地獄とか、鬼とか、誰か見てきた者がいるのか。
地獄から戻ってきた者もいないじゃないか。
体は焼けば灰になり、魂も同時に消えてしまうだけだ。
バカげたことにクヨクヨせず、
飲んで騒いで楽しんだら、それでよいのだ」
と、冗談言っている者。

「死んだら死んだときさ。
極楽には、滅多に往く者がいないそうだから、
道中には草が生えている。
地獄には、道連れが多いから、
踏みにじられて草が生えていないそうだから、
草が多く生えている方に行ったら極楽へ往けるそうな」
と茶化す者。

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「地獄へいっても、オレ一人が苦しむのではない。
たくさんの連れと一緒だから、賑やかではないか」
と嗤う人もいます。

ですが船が沈没したとき、オレ一人ではない、
溺れている者は大勢いるのだから、
苦しいことではないと言っておれましょうか。
津波にさらわれる人、火災で焼け出される人、
大事な主人を失った人、独り子を亡くした人、
破産した人、行方不明になった人・・・。
世の中には、色々な苦難がありますが、
そんなことは世間にあることだから、
何ともないと言えるでしょうか。
自分が、その場に立ったら、
苦しむのは自身ではありませんか。

●人はどこから来て、
   どこへ行くのか

先のようなことを放言していた者が、
一緒に暮らしていた連れが、
突然死んで次の世界に運ばれると、
“一体、あいつどこへ行ったのだろう。
あいつに会うことは、二度とないのか”
人間は、どこから来て、どこへ行くのだろう、

と、人生の根本的疑問はわいてくるのです。


来た道も分からなければ、行く先も知らない。

アーで生まれて、ウンで死ぬ。
ヒョロリ生まれて、キュウと死んでゆく。
その間、便所と台所の往復だけで、
勝った負けた、取った盗られた、増えた減った、
得した損したと、目の色変えて、
息が止まるまで走り続けるのです。
押し合い揉み合い先陣争いをして、
何に向かって走っているのでしょうか。
他人が走っているから、
自分もジッとしておれないからといった調子では、
走り倒れあるのみです。

仏法を求め、
この道一筋、わが行(ぎょう)精進(しょうじん)にして
忍びて悔いじ(くいじ)、
弥陀の無量光明土に向かって進みましょう。

(※無量光明土(むりょうこうみょうど)・・・無限に明るい世界。
阿弥陀仏の極楽浄土)

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明白な地獄の実在


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