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日蓮は仏教を謗りまくった人! [日蓮]

       

         関東に日蓮現る

鎌倉で布教を始めた日蓮は、
「念仏を称えたら地獄へ堕ちるぞ」
と、激しく浄土教を批判した。

●鎌倉で日蓮が布教を始める

親鸞のいなくなった関東では、
同行たちの信仰を惑乱する、
種々の事件や問題が起きた。
その一つが、日蓮の登場である。
日蓮は、建長6年(1154)ころから鎌倉で布教を始めている。
『法華経』こそ最高の経典だと主張する一方、
浄土教を激しく非難した。
やがて正嘉元年(1157)から文応元年(1260)にかけて、
地震、暴風、洪水、疫病、飢饉が頻発し、死者が続出した。

その原因を日蓮は『守護国家論』や『立正安国論』で、
法然の浄土教に人々が帰依して、
『法華経』を捨てたからだと論じた。
日蓮はこれらの書を権力者に差し出し、
浄土経の支援を禁止し、『法華経』を信じなければ
内乱が起き、他国の侵略を受けることは間違いないと迫った。
幕府は、これを幕府の政治に対する批判と見て、
日蓮を伊豆に流刑にしている。

●仏教をそしり散らした日蓮

日蓮は生涯に2回、流刑に遭っているが、
主張はますます過激になり、
「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」という
「四箇格言」を叫んだ。

これは
「念仏称えるやつは無間地獄に堕ちるぞ、
禅宗の者たちは天魔じゃ、
真言宗のやつらは国を亡ぼすぞ、
律宗は国賊じゃ」
と、当時盛んだった仏教の諸宗をそしり散らしたのである。

「無間地獄」とは、経典に説かれるさまざまな地獄の中でも、
最も苦しみの激しい世界をいう。
間断なく大苦悩を受け、苦しみに休まる間がないので
「無間地獄」といわれる。
「念仏は地獄往きの業(行い)である」と、
各地を熱烈に触れ回る日蓮を、
最初は誰も相手にしなかったが、
人々の間に、次第に動揺が広がっていった。

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浄土教をそしり続けた日蓮

「念仏無間」という日蓮の主張は、
一切経に根拠のないものである。
親鸞は、関東の同行に手紙を出して、
釈迦の教えを明らかにした。

●一切経に根拠のない日蓮の教え

日蓮は『法華経』が最高の経典だと主張したが、
『法華経』には、どうすれば仏に成れるかは説かれていない。
そこで日蓮は、題目(南無妙法蓮華経)を唱えることだけが、
仏になる唯一の道だという「唱題成仏」を説いた。
だが「南無阿弥陀仏」は経典にははっきり説かれているが、
「南無妙法蓮華経」という言葉は、
一切経のどこにも出てこない。
これは日蓮の作り出した造語である。
「念仏無間」もまた、日蓮の考え出した説であり、
釈迦の教えではない。
『観仏三昧経』には、釈迦が臨終の父・浄飯王に、
念仏を勧めたことが説かれている。
念仏が地獄行きの業(行い)ならば、
父王に勧めるはずがない。

釈迦は、念仏をそしる者は無間地獄に堕ちて、
八万劫(一劫は4億3千200万年)という長い期間、
苦しみ続けなければならないと、
『観仏三昧経』その他の経典に説いている。

親鸞は、「哀れな日蓮よ。
念仏誹謗する者こそ無間地獄に堕在して、
八万劫の間、大苦悩をまぬがれることはなかろう」
と悲しみ、何度も関東へ便りを出して、
弥陀の本願の徹底に心を尽くした。

●仏教を聞く目的は何か

仏教の目的は、「後生の一大事」の解決といわれる。
後生(死んだ後)が無いのか、有るのか、
有るとすればどんな世界か、
これが分からずに後生へと飛び込んでいくほどの大問題はない。
これを後生の一大事という。

もし日蓮のいうことが本当であれば、
取り返しのつかないことになる。
関東の同行は、ここ一つはっきりさせたいと、
一層真剣に仏法を聞き求めた。

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タグ:日蓮

二度の臨終、二度の葬式とはどんなことか [信心決定]

 

 二度の臨終といいますのは、
心の臨終と肉体の臨終のことです。
ゆえに、二度の葬式というのも
同じく心と肉体の葬式をいいます。
親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願を信じ切れた時に、
私たちは一度死ぬのだと仰っています。
同時に生き返るのですが、
その時が阿弥陀仏に救われた時であると
仰っておられます。
(信じ切れるとは、弥陀に救われるということ)


『愚禿鈔』に「信受本願、前念命終。即得往生、後念即生。」
とあるのは、このことを言われたものです。
すなわち、弥陀の本願を信受する前念に一度、
命が終わると仰っています。

この命というのは、昿劫より流転を重ねてきた
自力の心のことであり、
不安な魂のことなのです。

その自力の迷心が、阿弥陀仏の名号利剣によって、
一念で殺されてしまうのです。

まさに迷いの打ち止めがなされるのです。
(※利剣とは、切れ味が鋭いことをたとえて言われている。)
覚如上人は、これを、
「平生のとき善知識の言葉の下に帰命の一念を発得せば、
そのときをもって娑婆のおわり臨終とおもうべし

              (執持鈔)
と喝破なされています。

これによっても分かりますように、
心の臨終とか、魂の葬式といわれるのは
信心決定することをいうのです。

(信心決定とは、弥陀に救われること)

肉体の臨終や葬式は、世間周知のことですから省きます。
この中でも、浄土真宗では特に、
心の臨終、魂の葬式の有無をやかましく申します。

すなわち、信心決定したか、否かということです。
親鸞閉眼せば賀茂河にいれて魚に与うべし」
の聖人のご持言(じごん)も、
建仁元年、29歳の時に魂の葬式が済んでいるので、
肉体の葬式などは眼中になかったからのお言葉です。

昔から、死ぬほど苦しいことはない、
と言われますように、
信心決定する前念には本当に死ぬ苦悶を
一度体験させられます。
聞法求道に精も根も尽き果てて、
悲泣悶絶した体験を善導大師は三定死と名づけられ、

「ゆくも死、かえるも死、とどまるも死、
一種として死を免れず」
と、絶体絶命、じだんだ踏んだ体験を述べています。


親鸞聖人の
「いずれの行も及び難き身なれば、
とても地獄は一定すみかぞかし」
の悲痛の叫びも、
この魂の臨終の体験を告白なされたものです。

大死一番(だいしいちばん)、如来の願力によって、
この関門を突破させられた時に、

初めて「即得往生、後念即生」と、
身も心も南無阿弥陀仏の絶対の幸福を獲得して
生まれ変わるのです。

死んでよし、生きてよし、心は浄土にすみ遊ぶ心境は、
かかる体験を通して初めて味わわれる風光なのであります。


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阿弥陀仏に救われるのは、生きている今! [親鸞聖人]

お釈迦さまの仏教を説かれた目的はただ一つ。
それは、
我々の後生の一大事(死後、大苦悩の世界へ堕つること)の解決でした。
その解決の方法は、阿弥陀仏に救われる以外ないと教えられたのです。(一向専念無量寿仏)
救われるのは、生きている今か、死んでからなのか、
親鸞聖人はより鮮明に我々に教えられています。
 

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(アニメ『世界の光・親鸞聖人』今回の記事の内容そのままなので、
見ていただければ分かりますよ)

(ここからは真実の仏教を我々に叫んでくださっている先生の書物「とどろき」から載せています。 )  

慈悲の権化(ごんけ)のような親鸞聖人に、
激しい大諍論が3回もあったということは、
信じられないことかもしれませんが、
事実なのです。

これを聖人の三大諍論といわれています。

第一の諍論は、体失不体失(たいしつふたいしつ)の諍論と
いわれているものです。

●救いは死後か現在か

聖人がまだ法然上人のお弟子であった時のことです。
法然門下三百八十余人の中でも、
上足(じょうそく)と目されていた
小坂の善慧房証空(ぜんえぼうしょうくう)が
「念仏のお徳によって、
死んだ後には極楽往生させていただけるのが、
阿弥陀仏のご本願のありがたさであります」
と、大衆を前に、得意満面で説法していました。

みんな感心して聴いていましたが、
親鸞聖人は思わず立ち上がり、
「しばらく待ってください」
と、善慧房の説法に待ったをかけられました。

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一同、何事だろうと聖人を凝視したのも
無理はありません。
「親鸞殿、私の説法に何か異議でもござるのか」
ムッとした善慧房は詰問いたしました。

ただいま、あなたは弥陀の本願は
死後(体失)でなければ
助けて(往生)くださらぬとおっしゃいましたが、
この親鸞はただ今救われた(往生)ことを
喜ばずにおれません。
弥陀の本願は生きているただ今、
助けてくださる不体失往生でございます。
一匹の馬が狂うと千匹の馬が狂います。
あなたのような方が本願を誤られては、
大衆ともに無間の火城(かじょう)へ
転落しなければなりません

聖人はきっぱりとおっしゃいました。
あまりにも鮮明な阿弥陀仏の救いを
体験なされていた聖人にとっては、
弥陀五兆の願行を水泡にし、
釈迦の一切教をホゴにする、
このような悪魔の説法は
到底聞き流すわけにはいかなかったのです。


「何を親鸞殿はおっしゃる。
聖道仏教は此土入証(しどにゅうしょう)だが、
わが浄土仏教は彼土得証(ひどとくしょう)、
死んだ後で極楽参りさせていただくからこそ、
往生浄土というのではありませんか。
どうして私たち凡夫が、
この世で助かることができましょうぞ」
当然ながら善慧房の反撃がなされました。

「そのことは親鸞もよく承知していますが、
あなたのおっしゃるのは結果でありましょう。
だれでもが浄土往生できるのではありますまい。
現在信心決定(しんじんけつじょう)して、
魂の解決、心の往生のできた人のみ
のことではありませんか。
ただ今救われないものが、
どうして死後助かるでしょうか。
前の小川さえ渡り切らない者が、
どうして後の大河が渡れましょうか

憤激した善慧房は、
「それでは、あなたがそれほどまでに
自信を持っておっしゃるのならば、
この世で助けるという本願の
ご文を挙げてもらいたい。
それができなければ、あなたの独断と言われても
仕方がありますまい。

さぁ、その根拠を示してください

と迫りました。


時に聖人、いよいよ弥陀の本願の真意を
開顕する勝縁きたりと微笑なされて、
「善慧房殿、それは、
若不生者 不取正覚
(にゃくふしょうじゃ ふしゅしょうがく)のご文で
明らかでございます」

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何を申される。親鸞殿、
あなたは何か勘違いなされてはおられぬか。
あなたの示されたご文は、
若し生まれずば正覚を取らじ、
と弥陀が誓われたお言葉ではありませんか。

一度死なねば生まれることはできませんから、
私の正しいことを証明するご文にこそなれ、
あなたの説のあかしにはなりません

勝ち誇ったように叫ぶ善慧房。

しかしその時、すかさず聖人のお言葉が四方を圧しました。
善慧房殿、あなたの誤りは実にそこにあるのです。
若不生者の生まれさせると誓われたのは、
この肉体のことではないのです。
魂のことなのです。
心のことなのです。
暗い心を明るい心に、
不安な心を大安心に、
苦悩渦巻く心を歓喜の泉に
生まれさせるとのお誓いなのです。
人間の医者でさえ、
あなたの腹痛はこの世では
止められないから辛抱しなさい。
死んだら何とかしてあげよう、
という医者はありません。

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今、濁流におぼれて苦しんでいる者に、
今は救うてやれないが
土左衛門になったら助けてやるから、
それまで待っていろ、
という人がありましょうか。
ましていわんや、大慈大悲の阿弥陀仏が、
この世の苦悩はどうにもできぬ、
苦しくても我慢しなさい。
死んだら助けてあげるから、
と誓われる道理がないじゃありませんか


鋭い聖人の追及に善慧房すでに顔色なく、
一言の返答もできませんでした。
明らかな仏智を体得し、
絶対の幸福を獲得した者は、
あいまいな妥協はできず、
真実を発揮するために大胆不敵な信念を、
傍若無人に叫ばずにおれないのです。


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阿弥陀仏の救いはハッキリするのか!? [Q&Aシリーズ]

(真実の仏教を我々に叫んでくださっている先生の書物「とどろき」から載せています。 ) 

(問い)
弥陀の救いはハッキリするのか
信心獲得するとハッキリすると言う人と
迷いの人間にハッキリすることなんかないと
言う人とがありますが、
どちらが本当なのでしょうか。

(信心獲得とは、阿弥陀仏に救われたことです)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(答え)
ハッキリするのは当然のことですが、
意外に多い質問です。

信心獲得するとは、
阿弥陀仏の救いに値(あ)
ったことをいうのです。
弥陀の願力によって往生一定、現生不退、
絶対の幸福に救われたことをいいます。
この世も苦しみの連続であり、
未来も必堕無間の一大事を抱え、
十方の諸仏にも見放され
苦より苦に流転してゆく私たちを
憐れに思われて
「我をたのめ
必ず絶対の幸福に救う」
と誓っていられるのが阿弥陀仏です。
もちろん、死後のことではありません。
だから弥陀の本願を平生業成というのです。

平生に苦悩渦巻く人生を、
光明輝く人生に救うというお約束です。

こんな素晴らしい本願は世にありませんから
親鸞聖人は『正信偈』に、

「無上殊勝の願を建立し、
希有の大弘誓を超発せり」(正信偈)
(阿弥陀仏は、無上最高、
希有の誓いを建てられている)
とおっしゃっているのです。

その弥陀のお約束通りに、
往生一定、現生不退、絶対の幸福に助かったことを
信心獲得とか、信心決定というのです。
これは全く弥陀のお力(他力)によってであることが
ハッキリ知らされますから、
明信仏智といい他力の信心というのです。

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●一念のハッキリした救い

しかも、この弥陀の救いは一念で
完成するのです。
それは、弥陀が命一刹那に迫っている人をも
救うために、
「ひとおもい」(一念)で
救うという約束をなされているからです。

親鸞聖人はこれを
「一念往生」
とか
「一念の信心」
とおっしゃっています。
一念という時剋の極促で私たちの苦悩を抜き、
無上の幸福を与えてくだされるのです。

これを抜苦与楽とも破闇満願とも説かれています。
阿弥陀仏の救いは、
このようにハッキリしていますから、
「これで、助かったのだろうか」
とか
「信心獲得できたのだろうか」
などと思案したり、
他人に尋ねることではないのです。

親鸞聖人の『教行信証』その他に
書かれていることは、
この弥陀の不思議な救いの驚嘆と、
広大な慶心ばかりです。

覚如上人も
「救われたことを喜んでいる」
と『執持鈔』におっしゃっています。
蓮如上人も
「他力の信心を今獲たり、
弥陀より賜った大信心ということ、
今こそ明らかに知られたり」
と『御文章』に記されています。

ハッキリしなければ、往生の一大事、
安心できません。

救われた喜びはなければ
「真宗宗歌」も歌われません。
「真宗宗歌」には、
「永久の闇より救われし、
身の幸なにに比ぶべき」とか、
「深きみ法にあいまつる、
身の幸なににたとうべき」
と歌われているからです。

ただのただもいらん、ただだったと
ハッキリするまで聞き抜きましょう。


タグ:弥陀の救い

地獄・極楽はおとぎ話では? [Q&Aシリーズ]

 (真実の仏教を説かれている先生の書物「とどろき」から載せています。 )

(質問)
死後に地獄や極楽があるのないのというのは、
昔ならいざ知らず、
今日ではおとぎ話ではありませんか。
そんなことが、どうして信じられるでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(答え)
ウナギが生簀の中で話をしている。
「なぜ今日は、有象無象が沢山集まっているのだろう。」
「今日は、丑の日とかいって、
我々が人間どもに食われる日だそうな」
「そんな勝手な、そんな人間という者がいるのか。
信じられんなぁ」
「そんなこと言ったって、我々は、
人間に食われる運命になっているのだそうな」
「だが、誰も戻ってきて、
そんなこと言った者がないではないか」
「そら、また捕らえられて、連れてゆかれたではないか」
「あれは、散歩にでも行ったのではないか。
そのうちに帰ってくるさ」
「引き上げられると、頭に錐(きり)を立てられ、
背中を断ち割られ、三つに切られて串に刺されて
火あぶりそうだ。
恨み呪っても言葉が通じない。
料理している者も鬼なら、食べている奴も鬼。
八つ裂きにして食うそうな。
帰れるはずがないではないか」
あなたの質問は、こんな情景を思い出させます。

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人間にも、物知り顔の者がいて、
「死んだら地獄で鬼に責めたてられる。
そんなバカなことがあるものか。
鬼でも蛇でも連れてこい。
オレがひねりつぶしてやる。
地獄とか、鬼とか、誰か見てきた者がいるのか。
地獄から戻ってきた者もいないじゃないか。
体は焼けば灰になり、魂も同時に消えてしまうだけだ。
バカげたことにクヨクヨせず、
飲んで騒いで楽しんだら、それでよいのだ」
と、冗談言っている者。

「死んだら死んだときさ。
極楽には、滅多に往く者がいないそうだから、
道中には草が生えている。
地獄には、道連れが多いから、
踏みにじられて草が生えていないそうだから、
草が多く生えている方に行ったら極楽へ往けるそうな」
と茶化す者。

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「地獄へいっても、オレ一人が苦しむのではない。
たくさんの連れと一緒だから、賑やかではないか」
と嗤う人もいます。

ですが船が沈没したとき、オレ一人ではない、
溺れている者は大勢いるのだから、
苦しいことではないと言っておれましょうか。
津波にさらわれる人、火災で焼け出される人、
大事な主人を失った人、独り子を亡くした人、
破産した人、行方不明になった人・・・。
世の中には、色々な苦難がありますが、
そんなことは世間にあることだから、
何ともないと言えるでしょうか。
自分が、その場に立ったら、
苦しむのは自身ではありませんか。

●人はどこから来て、
   どこへ行くのか

先のようなことを放言していた者が、
一緒に暮らしていた連れが、
突然死んで次の世界に運ばれると、
“一体、あいつどこへ行ったのだろう。
あいつに会うことは、二度とないのか”
人間は、どこから来て、どこへ行くのだろう、

と、人生の根本的疑問はわいてくるのです。


来た道も分からなければ、行く先も知らない。

アーで生まれて、ウンで死ぬ。
ヒョロリ生まれて、キュウと死んでゆく。
その間、便所と台所の往復だけで、
勝った負けた、取った盗られた、増えた減った、
得した損したと、目の色変えて、
息が止まるまで走り続けるのです。
押し合い揉み合い先陣争いをして、
何に向かって走っているのでしょうか。
他人が走っているから、
自分もジッとしておれないからといった調子では、
走り倒れあるのみです。

仏法を求め、
この道一筋、わが行(ぎょう)精進(しょうじん)にして
忍びて悔いじ(くいじ)、
弥陀の無量光明土に向かって進みましょう。

(※無量光明土(むりょうこうみょうど)・・・無限に明るい世界。
阿弥陀仏の極楽浄土)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

更にどういうことか読まれたい方は、
以下にアクセスしてください。

明白な地獄の実在


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我々とはどんなものなのか、釈迦が説く、「人間の実相」 [釈迦]

仏説譬喩経で説かれている、我々人間の実相

マイホームを新築すると、火災保険に入りますね。
もしものことがあったら、大変だからです。
老後に備え、貯蓄に励む人もいます。
それも大事ですが、
一生涯火事に遭わない人もありますし、
老後を迎えず早死にする人もあるでしょう。
多額の保険料を支払い、
万が一に備える一方で、
確実に訪れるにもかかわらず
忘れがちなものが、「死」です。

仏法は、「後生の一大事」に始まり、
その解決に終わると言われます。

「後生」とは、死んだ後。
想像を絶する大事件が起きるので、
「一大事」と釈尊(釈迦)は仰いました。

親鸞聖人は九歳の御時、
「死ねばどうなるのだろう」と後生に驚かれ、
二十年間の仏道修業を比叡山で開始されました。

二十九歳で、後生の一大事を救い摂られた聖人の、
その後のご活躍は、この大問題と解決の道を
知らせる以外にありませんでした

京にまします老聖人を、
それまでご教導賜っていた関東の同行が、
「ことは後生の一大事!
親鸞さまから聞かせていただきたい」
と決死の旅を敢行したことでも明らかです。

「後生の一大事」とはどんなことか、
釈尊(釈迦)は、
『仏説譬喩経』というお経に、
次のような譬えを説かれました。

背後に迫る無常の虎(仏説譬喩経の説法)

今から幾億年という昔である。
草の生い茂った果てしない昿野を、
淋しい秋の夕暮れに、
トボトボ歩く一人の旅人があった。
出稼ぎの帰りだろうか、
稼いだものを背負って、
妻子の待つ家へと急いでいた。
ふと旅人は、薄暗い野道に、
点々と散らばる白い物が目に止まった。
はじめは気にも止めなかったが、だんだん多くなる。
「いったい何だろう」と拾い上げて驚いた。
人間の白骨ではないか。
墓場でも火葬場でもない所に、
なぜ白骨がたくさんあるのか。
不気味に思って、
歩けなくなったのである。


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間もなく旅人は、
前方から異様なうなり声と足音を聞いた。
凝視すると、飢えに狂った獰猛な大虎が、
まっしぐらに向かってくるではないか。
瞬時に旅人は、白骨の意味を知った。
「自分と同じように旅していた者が、
あの虎に食い殺された残骸か!」
と思うが早いか、無我夢中で、
もと来た道を戻ったのはいうまでもない。
しかし所詮は、虎と人間の競争である。
猛虎の吐く息をすぐ後ろに感じ、
「もうダメか!」と思ったとき、
どう間違えたか、
断崖絶壁の頂上にたどり着いたのだ。

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九死に一生を得る。

「しまった!」と叫んだが、どうにもならない。
断崖には松の木が生えていたが、
虎は木登りが上手いので、登っても無駄である。
気が動転した旅人は、
意味もなく辺りをうろついていたが、
木から藤蔓が垂れ下がっているのに気がついた。
それを伝ってスルスルと降りたのと、
虎が断崖へ走り寄ったのとは同時であった。
まさに九死に一生を得た旅人は、
大きく安堵して見上げると、
せっかくの獲物をあと一歩で逃した虎が、
無念そうに吠えながら見下ろしている。
「やれやれ、この藤蔓のおかげで助かった。」
と足下に目を転じたときである。

旅人はあっ!と叫んで硬直した。
宙吊りの下には、怒濤逆巻く深海が絶壁を洗い、
白い波が牙をむいている。
さらに波間から三匹の毒龍が、
赤い焔(ほのお)を吐きながら旅人が落ちるのを
待ちかまえているではないか。

恐怖のあまり、旅人は震えが止まらず、
藤蔓をしっかり握り直さずにはいられなかった。


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ところが、人間の感情は続かないものである。
大学合格や結婚できた喜びも、
瞬く間に薄らいでいく。
子供を失ったり家を焼いてしまった悲しみも、
だんだん癒される。
「藤蔓に捕まっていさえすれば大丈夫だ」
と思った旅人は、やがて落ち着いてきた。

すると空腹なのに気がついた。
周囲に食を求めて眺めると、旅人は、
虎や深海や龍よりも
もっと恐ろしい光景を目のあたりにする。
藤蔓の元に白と黒のねずみが現れ、
命の綱である藤蔓を交互に
ガリガリとかじっているではないか。

顔面蒼白、歯はガタガタ鳴る旅人は、
何とかネズミを追い払おうとして藤蔓を揺さぶったが、
ネズミは一向に逃げようとせず、かじり続けている。
ただ、藤蔓を揺さぶるたびに、
ポタポタと落ちてくるものがあった。
手にとると、上質のハチミツではないか。

松の木に蜂の巣があるので、
蜜が落ちてきたのである。
それを一口なめた旅人は、
もともとの空腹なところへごちそうを与えられ、
陶然と蜂蜜に心を奪われてしまったのである。
そして、虎も深海もネズミのこともすべて忘れ、
「もっと蜂蜜をなめたい」という心だけで、
藤蔓を揺さぶるようになったのだ。


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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「お釈迦さま、その話はもうおやめください!」
これまで静かに聞いていた勝光王という王様が、
手をあげて遮りました。
「その旅人は、なんと愚かなんでしょう。
この先どうなるかと思うと、恐ろしくて聞いておれません。」
すると釈尊は、
王よ。この旅人とは、そなたのことなのだ。
いや、そなただけでなく、
ここに集まっているすべての人であり、
全人類の姿である。」

と仰いました。


これは何を譬えているのでしょうか。
今から解説します。

ひとりぼっちで連れがいない、人生は孤独な旅

まず、旅人とは、「私」の姿であり、
すべての人の姿です。
古来、人生を旅人に譬える人は多くありました。
旅人が歩いていたのは、秋の夕暮れ時でした。
春夏秋冬でもっとも淋しいのは、秋。
これは人生の底知れぬ淋しさを表されています。

なぜ淋しいのか。
人生はひとりぼっちだからです。

『大無量寿経』に釈尊は、
独生独死、独去独来」と仰いました。
「独り生まれ独り死ぬ。
独り来たのだから
独りで去らなければならない。」

家族や友人は、
肉体の連れでしかありません。

例え、親や兄弟でも、まして夫婦ならなおさら、
相手を本当に理解することができるでしょうか。
もしできるなら、不幸な離婚や
遺産相続争いは起こらないはずです。

飢えた虎=無常

私たちは、歳を経るほどに、
人の死を見たり聞いたりすることが多くなります。
旅人が歩くほどに増えてきた白骨は、
他人の死を表しているのです。

「あの人が死んだ!?昨日、話したばかりなのに」
という経験もするでしょう。
白骨を拾って驚いた旅人のように、
私たちも、そんなときは随分驚くではありませんか。

しかし、死ぬのは他人だけではありません。
我が身に無常の風が吹くのです。
それが飢えた虎です。

慌てふためき、何とか逃れたいと思います。
不治の病と宣告されたら、いくつもの病院を訪ね、
莫大な費用を要してでも、
何とか助かりたいと必死になるでしょう。
乗っていた飛行機が、エンジントラブルで
降下し始めたらどうでしょうか。
一時は病気が小康を得ても、
また九死に一生を得て大事故から生還しても、
永遠に救われたのではありません。

あたかも死は、
手のひらで生をしばらくもてあそび、
やがてぎゅっとひねりつぶすかのようです。

決して逃げ切れません。
無常の風ほど残虐なものはないので、
飢えた虎に譬えられたのです。


刹那の幸福

次に松の木は、この世の幸せは
無常の垣根にはならないこと
を示しています。

金も名誉もある、マイホームを手に入れた、
家族全員が健康で仲むつまじい、
等の幸せは大切ですが、
もろくも崩れ去ってしまいます。

東北の大震災の被害者しかり。
営々と築いてきた幸福が
あてにならないと分かったとき、
最後に私たちが頼るのは、自分の命です。

ところが、平均寿命八十歳と聞くと、
長いように錯覚しますが、
細い藤蔓のようなもので、
アッという間でしかありません。

第二次世界大戦や、経済の復興、
東京オリンピックにしても、
瞬く間に消えていった、
泡のようではないですか。

その藤蔓をかじっている白と黒のネズミは、昼と夜です。
間断なく、昼と夜が、交互に寿命を縮めています。
昼に死んだ人は、白のネズミに噛み切られ、
夜に亡くなった人は、黒のネズミに噛み切られたのです。

このネズミには、盆も正月もありません。

耐えることのできない、無間地獄の苦しみ

藤蔓が切れたら旅人は、底の知れない深海へと
落ちてゆかねばなりません。
深海とは、地獄です。

地獄と言うと、虎の皮のふんどしをはいた鬼が、
罪人を切り刻んだり、
釜茹でにしているような絵図を思い浮かべ、
おとぎ話と片づける人があるかもしれません。

「地獄」とは、中国語の翻訳で、釈尊はインドの言葉で
「ナカラ」と説かれました。
苦しみの世界という意味です。

一息切れた後に、
大苦悩の世界があるということです。
「仏語に虚妄なし」
と言われますように、
仏様である釈尊のお言葉に
嘘はありません。

想像を絶する苦しみゆえに、
「譬えをもっても説けない。」

と釈尊は仰いましたが、
「それでも教えていただきたい」
と願う仏弟子たちの懇願に、
次のようにも説かれています。

「朝百本の槍で突かれる。
昼にまた百本、夜に百本、
一日に三百本槍で突かれてもなお死ねない
苦しみをどう思うか。」
「一本でもひどいのに、
三百本の槍とは、想像も及びません。」
お弟子が答えました。
み手に小石を拾われた釈尊は、
「この石と、向こうにそびえるヒマラヤ山とは、
どちらが大きいか。」
と尋ねられました。
「それは大変な違いです。」と答えると、
一日三百本の槍で突かれる苦しみを、
この小石とするならば、
地獄の苦は、かのヒマラヤ山の如しである。」

と釈尊は仰ったのでした。

想像も及びません。


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地獄を生む三匹の毒龍

なぜ私たちは、地獄へ堕ちねばならないのでしょう。
地獄は、三匹の毒龍が生み出した世界です。
これは貪欲・瞋恚・愚痴の三毒の煩悩を表します。

青い龍は貪欲(欲)の心。
無ければ欲しい、あってもなお欲しい底なしの深さを、
青で表されました。

赤い龍は瞋恚(怒り)の心です。
カーッとなったら、前後の見境なく怒りをぶちまけ、
後は野となれ山となれ、相手だけでなく、
自分をも焼き尽くします。
無謀に始まり、後悔が残るほかないのが、
恐ろしい怒りの心です。

ウラミやネタミの愚痴が、黒い龍です。
他人が不幸な目に遭うと、いい気味だとほくそ笑み、
幸せにしていると、にがにがしく思う、何とも醜い心を、
私たちは持っています。

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これら煩悩に汚れ、悪しか造れない私たちは、
悪因悪果・自因自果の因果の道理に狂いなく、
暗い心で地獄へ堕ちねばならないのは必然です。

つまり地獄は、自分の行いが生み出した世界ですから、
絶対に逃れることはできません。


そのような絶対絶命の危機にもかかわらず、
私たちは死を忘れ、
罪悪をおざなりにし、
蜂蜜ばかり追い求めています。

蜂蜜とは、
○食欲(食べる楽しみ)
○財欲(金を貯める楽しみ)
○色欲(男女の楽しみ)
○名誉欲(誉められる楽しみ)
○睡眠欲(眠る楽しみ)

「地獄へ堕ちるのではなかろうか」
と心配しているのなら、
まだ救われようもあるでしょう。
旅人は、蜂蜜をなめながら、
笑って地獄へ落下していくのです。


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(親鸞聖人)

実践して初めて分かる、必堕無間の己の姿

死んで地獄へ堕ちる魂の大問題が、
後生の一大事です。

親鸞聖人は九歳で出家をなされてより二十年間、
比叡山で修業に専心され、煩悩と闘われました。
煩悩を抑えねば助からないのが、
『法華経』の教えだからです。

ですが、やればやるほど、見えてくるのは、
煩悩から離れきれない自己の姿でした。
体は行に打ち込んでも、
心は蜂蜜を追い求めている。

「定水を凝らすといえども、識浪しきりに動き、
心月を観ずといえども、妄雲なお覆う。
しかるに一息つがざれば、千載に長う往く」
                   (歎徳文)
今、一息切れたならば、後生は一大事である、
との悲痛な聖人の心情が伝わってきます。
これこそ、親鸞聖人のご修業の原点でした。

蓮如上人もまた、
「後生ということは、
ながき世まで地獄に堕つることなれば、
いかにもいそぎ後生の一大事を思いとりて、
弥陀の本願をたのみ、
他力の信心を決定すべし。」
と仰っています。

善をしようとすればするほど、
善のできない自分がわかり、
後生は一大事と知らされます。

実践せねば、わかりません。
また後生の一大事が知らされて初めて、
なんとか解決したいと、真剣な聞法求道になるのです。

「いずれの行も及び難き身なれば、
とても地獄は一定すみかぞかし」
                   (歎異抄第二章)
地獄行き間違いなしの我が身に、
親鸞聖人は悲泣なされました。

仏法を求める目的は、
後生の一大事の解決以外になく、
人生の目的もまた、
一大事の解決である
ことを、
早く、一人でも多くの方に、
知っていただきたいと思います。

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