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平生達者なときに救うのが、弥陀の本願!! [親鸞聖人]

本願名号正定業(本願の名号は正定の業なり)

「本願」とは「阿弥陀仏の本願」、「名号」とは
「南無阿弥陀仏」の六字のこと、
「正定」は「正定聚不退転」、「業」は「働き」のことですから、
この一行は、こういう意味になります。
阿弥陀仏の本願によって作られた『南無阿弥陀仏』の名号には、
すべての人を『正定聚不退転』の身にする働きがある

初めに「阿弥陀仏の本願」とはどういうことか、解説しましょう。

●阿弥陀仏の本願

「阿弥陀仏」は、「阿弥陀如来」とも「弥陀如来」とも、「弥陀」とも
いわれる仏さまです。
世間では、「お釈迦さま」といっても「阿弥陀仏」といっても、
名前が違うだけで、同じ仏様だろうと思っている人がありますが、
それは大変な間違いです。
お釈迦さまと阿弥陀仏とは全く違う仏なのです。
その違いを知らないと、親鸞聖人のみ教えは分かりませんので、
よく知って頂きたいと思います。

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お釈迦さまは、今から約2600年前、インドで活躍なされた方です。
お釈迦さまが、35歳で仏という最高の覚り(さとり)を開かれてから、
80歳でお亡くなりになるまでの45年間、
教えていかれたみ教えを、今日、仏教といわれます。
地球上でただお一人、仏の覚りを開かれた方ですから、
「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」
と言われるのです。
そのお釈迦さまが、「私の尊い先生を紹介しに来たのだよ」
と、私たちに教えてくだされたのが、阿弥陀如来といわれる仏様です。
弥陀如来と釈迦如来との関係について、
蓮如上人は、『御文章』に次のように仰っています。

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ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なり

お釈迦さまは、地球上では唯一の仏さまですが、
大宇宙には地球のようなものが数え切れないほどあり、
無数の仏がましますと説かれています。
それらの仏を「三世十方の諸仏」と言われているのです。
有名なのは、大日如来とか、薬師如来、奈良の大仏はビルシャナ如来
といわれる仏ですが、それらも皆、十方諸仏の一人です。
本師本仏とは、師匠であり先生ということですから、
大宇宙の仏方の先生ということ。
これはお釈迦さまが説かれたことですが、
親鸞聖人も明らかにされ、蓮如上人も仰っているのです。
「弥陀如来は、十方諸仏の先生である」ということは、
大宇宙の仏方はみな阿弥陀仏のお弟子ということです。
地球のお釈迦さまも、十方諸仏の一人ですから、
弥陀如来と釈迦如来の関係は、
師匠と弟子、弥陀如来を先生とするなら、
お釈迦さまは生徒、ということになります。

お釈迦さまだけでなく、大宇宙のすべての仏方は、
弥陀如来のことを「偉大な仏様だ、尊い仏様だ、我らの先生だ」
と讃め称えて、手を合わせ拝まれているのです。
親鸞聖人も、弥陀如来のことを無上仏、「最高の仏さま」と
仰がれています。
次に「本願」とは「誓願」とも言われるように、
「約束」のこと。
「阿弥陀仏の本願」とは、
「本師本仏の阿弥陀仏がなされているお約束」をいうのです。
では、阿弥陀仏は、どんな約束をされているでしょうか。
漢字36文字で誓われているのですが、
分かりやすく今日の言葉で表現すると、

すべての人を
必ず助ける
絶対の幸福に

というお約束です。

「約束」には必ず相手がある。
相手のない約束はありません。
阿弥陀仏は約束の相手を、本願に「十方衆生」と仰っています。
「十方」とは、仏教で大宇宙のこと。
「衆生」とは、生きとし生けるものすべて。
私たちは人間ですから、「十方衆生」とは、
「すべての人」ということです。
この中に入らない人は一人もいません。
「弥陀の本願には老少善悪の人を選ばず」(歎異抄)
とも言われているとおり、
男も女も、老いも若きも、差別なく救うのが阿弥陀仏の本願。
キリスト教やイスラム教を信じている人も、
無宗教の人も、日本人もアメリカ人もフランス人もドイツ人も、
健常者も障害者も、あらゆる人が、弥陀の本願の対象なのです。

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●摂取不捨の利益

では阿弥陀仏は、「すべての人」と、
どんな約束をなされているのでしょうか。
大事なのは、約束の内容です。
金銭の貸借で言えば、金額に当たります。
阿弥陀仏はすべての人を「信楽」にする、と誓われているのです。
『歎異抄』には「信楽」を「摂取不捨の利益」と言われています。
「摂取不捨」とは、阿弥陀仏が私たちを「ガチッと摂め取って(おさめとって)、
絶対に捨てられない」こと。
「利益」は幸福のことですから、
「摂取不捨の利益」とは、現代の言葉で「絶対の幸福」といえましょう。

この世は無常、いつどうなるか分からない世界です。
終身雇用で安泰と思っていたのに、突然のリストラ。
やっと決まった内定が、一方的に取り消し。
一家団欒の喜びが、愛児の事故死で涙の日々に。
恋人に振られたショックで自殺する人もいます。
健康が取り柄だったのに、末期がんの宣告。
かつて賞賛を浴びた才能が衰えて泣く人。
これらは皆、信じていたものに「捨てられた」苦悩でしょう。
東京の高島平や千葉の常盤平など、
都心近郊の団地として開発され、かつては憧れの的だったエリアが、
30年を経た今、子供は皆巣立ち、
独り暮らしの年配者が増え、孤独死の温床になっているといいます。
身寄りがなく起居もままならぬからと、
役所を介して入居した老人ホームが悪質業者で、
悲惨な生活を強いられている高齢者の実態が、
NHK番組『クローズアップ現代』で紹介されていました。
わずか八畳間に男女の区別なく3人押し込められ、
風呂にも入れず、食事は一日たったの200円。
入居者の生活保護費を狙い、介護報酬を国から取って、
経費は極限まで切り詰め儲けを出す悪質ぶりには、
ア然としました。
ある男性は「まるで、金を払って入る、現代の姥捨て山ですよ」
と涙ぐむ。
家やアパートを引き払っているから、出るに出られない。
「身寄りがない、いられるだけでよい」
という弱みにつけ込む悪どい業者、
それを把握せず仲介していた行政の欠陥が、
浮き彫りにされていました。
死に物狂いで働き、
日本の高度経済成長を支え、家族を養ってきたのに、
その家族を失い、頼みの綱の国にも裏切られた悲嘆は、
想像に余りあります。
会社に捨てられ、友人も去って、
才能は枯渇、体力も気力も萎えてゆく。
オギャッとこの世に生まれ落ちてより、
努力してかき集めてきたものが、
年とともに奪われていく。
最後、死んでいく時には、丸裸でこの世を去っていかねばなりません。
これが人生というものならば、一体どこに、
生きる喜びがあるでしょうか。
何をしに、この世に出てきたのでしょうか。

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火宅無常の世界は、万(よろず)のこと皆もって空言・たわごと・真実(まこと)
あること無し       (歎異抄)

やがて必ず「捨てられる」ものしか知らず、
薄氷を踏む不安で毎日を送っている私たちをご覧になって、
阿弥陀如来は、「すべての人を、絶対に裏切られることのない、
大安心の身にしてやりたい」
と、無上の願いを起こされたのです。

何と有り難いことではありませんか。
本願に誓われている「信楽」とは、その絶対不変の幸福のことであり、
「歎異抄」にはこれを「摂取不捨の利益」といわれているのです。

●若不生者のご念力

ところがそう聞くと私たちは、
「摂取不捨の利益?そんなもの本当にあるの?」
「絶対の幸福になんかなれるはずがない」などと、
本願を疑います。
中には「絶対の幸福なんて夢物語、ユートピアだ」
「脳内現象じゃないか」「どうせ特殊な宗教体験だろう、
自分とは関係ない」
と怪しむ人もありましょう。
そこで阿弥陀仏は、「十方衆生」のその疑いを晴らして、
「絶対の幸福」に救い摂るために、「正覚」(仏の覚り)の命を懸けて
誓われているお言葉が、
「若不生者不取正覚」(もし生まれずは、正覚を取らじ)
の八字です。
「正覚」とは「仏の覚り」のことであり、
仏覚は仏さまの命ですから、これは、
「もし『信楽(絶対の幸福)』に生まれさせることができなければ、
命を捨てる」
といわれているお言葉です。
弥陀が命を懸けて、私たちを「必ず絶対の幸福に救う」
と誓われているのが、
「若不生者の誓い」なのです。

卑近(ひきん)な例えで言うと、
銀行でローンを組む際、
こちらの返済能力を疑う相手の疑念を晴らすために、
土地や建物を担保に入れるでしょう。
阿弥陀仏は私たちの、「本当に助かるのか」の疑心を晴らすために、
自身の命を担保に、
「平生ただ今、必ず絶対の幸福に生まれさせる」
と誓われているのです。

この絶大な「若不生者のご念力」によって、
平生の一念、疑心が晴れわたり、
必ず「信楽」に生まれる時が来るのだよと、
親鸞聖人は生涯、教え続けていかれたのです。

若不生者のちかいゆえ
信楽まことにときいたり
一念慶喜するひとは
往生かならずさだまりぬ 
        (浄土和讃)

●名号の働き

「本願の名号」の「本願」とは、
本師本仏の阿弥陀仏が「すべての人を絶対の幸福にする」
と誓われているお約束であることを、
明らかにしてきました。
次に「名号」とは、阿弥陀仏が、
この誓願を実現するために、
大変な苦労をして完成してくだされた「南無阿弥陀仏」の
六字のことです。
これを親鸞聖人は『正信偈』に、
「本願の名号」
“本願によって造られた名号”
と言われています。
だから「六字の名号」には、「本願」の通りに
「すべての人を絶対の幸福に救い摂る」力があることを聖人は、
「本願の名号は正定の業なり」
といわれているのです。

●正定聚

「正定」とは、「正定聚」のことで、
「間違いなく(まさしく)仏のさとりを開くことに定まった人たち」
ということ。
さとりと言いましても、
低いさとりから高いさとりまで全部で十二の位があり、
これを「さとりの五十二位」と言われます。
それぞれのさとりには名前があります。
「正定聚」とは、下から数えて五十一段目、あと一段で仏、
という位のことであり、
「正定聚不退転」とも言われています。
「不退転」とは、後戻りしない、捨てられない、
裏切らない、ということですから、
「正定聚不退転」とは、「摂取不捨の利益(絶対の幸福)」のことを
いわれます。
だから、
「本願名号正定業」(本願の名号は正定の業なり)
の一行は、
「阿弥陀仏が本願を果たすために造られた
『南無阿弥陀仏』の六字の名号には、
すべての人を絶対の幸福にする働きがあるのだよ」
と、親鸞聖人が断言されているお言葉なのです。

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だまされて地獄に堕ちても後悔しない [親鸞聖人]

如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし(
親鸞聖人・恩徳讃)

(阿弥陀如来の洪恩は身を粉にしても報い切れない。
その弥陀の大悲を伝えてくだされた師主知識のご恩も、
骨を砕いても済みませぬ)

法然上人からお受けした大恩は、
命懸けても返し切れませぬとまで仰った聖人の御心を、
今回は、有名な『歎異抄』第二章の次のお言葉に学びたいと思います。

たとい法然聖人にすかされまいらせて、
念仏して地獄に堕ちたりとも、
さらに後悔すべからず候

(法然上人になら、だまされて地獄に堕ちても、
親鸞、さらに後悔はしない)

「あの人にならだまされても後悔しない」
と言い切れる人は果たしてあるでしょうか。
いくら借金を頼まれても、不正直な者には、
とても貸せません。
「この人は、だますような人ではない」
と信ずればこそ、私たちはお金を貸すのですが、
深く信用して貸した相手に大金をだまし取られたら、
後悔どころでは済まないでしょう。
「だまされても後悔しない」
という信じ方は、この世にありえないことなのです。
法然上人への信頼と尊敬の念は、
かくも強く、深いものであったのか、
と驚かずにはおれません。

●暗い後生に驚き、出家なされた聖人

では、親鸞聖人のこの確言は、どこからなされたものなのでしょうか。

聖人は、幼くして両親を亡くされ、
真っ暗なわが身の後生の解決一つを求めて、
わずか9歳で比叡山・天台宗の僧侶となられました。
それから20年間、血みどろのご修行は、
ひとえに後生の一大事解決のためでした。
アニメ『世界の光・親鸞聖人』第一巻には、
「人間は煩悩に汚れ、悪しか造れない。
だから後生は地獄と釈尊は仰る。
私の心の中にも、欲望が渦巻き、怒りの炎が燃え盛り、
ネタミ・ソネミの心がとぐろを巻いている。
どうすれば、この煩悩の火を消し、
後生の一大事を解決することができるのか」
とひたすら修行に打ち込まれる場面が描かれています。

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人間は、欲や怒り、ネタミ・ソネミなどの煩悩で日々、
悪の造り通しだから、自業自得で一息切れた後生、
苦患に沈む一大事が引き起こるとお釈迦さまは仰せです。
この地獄の解決のために聖人は、
比叡山で煩悩と格闘する修行を20年間も続けられたのです。

しかし、いかに難行苦行に身を投じられても、
全く明かりの見えぬ後生に、ついに下山を決意。
京の町を当てもなく徘徊され、絶望の淵に沈んでおられた聖人が、
阿弥陀仏の本願一つを説かれる法然上人にお会いして、
ついに後生明るい心に救い摂られたのです。
聖人、29歳の御時のことでした。

「地獄に堕ちたくない」と、青春の全てをかけて
後生の一大事の解決を求められた親鸞聖人が、
「法然上人にだまされて、地獄に堕ちても後悔はない」と、
何のためらいもなく言い放たれたのは、なぜか。

例えば、知人が「必ず返すから、一千万円お借りしたい」
と言ってきた。
信頼の置ける知人なので貸しはしたが、
「本当に返してくれるだろうか」の疑念は一千万円が返済されるまで
晴れることがない。
そのまま持ち逃げされれば“だまされた”と後悔する。
しかし、約束の期日までに利子をそろえて返済されたら、
「約束は本当だろうか」の疑いは一切なくなる。
約束は果たされたのだから、もう“だまされようがない”でしょう。

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●「弥陀の本願まこと」の大宣言

親鸞聖人は、法然上人から
「どんな人も、煩悩あるがままで、必ず往生一定の絶対の幸福に救う」
という阿弥陀仏の本願を開かれました。
本願とは、誓願ともいい、お約束のことです。
比叡山で20年間、煩悩と格闘され続けた聖人にとって、
煩悩あるがままの弥陀の救いは
青天の霹靂ともいうべき衝撃であったに違いありません。

「阿弥陀仏のお約束は、本当だろうか」
この弥陀の本願を疑う本願疑惑心は、
約束どおり絶対の幸福に救われた一念で金輪際無くなります。
二十九歳で弥陀の本願に救い摂られた親鸞聖人は
「本願まことだった」と、次のように宣言なさっています。

誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法
               (教行信証総序)
(まことだった、まことだった!
弥陀の本願、本当だった!)

それは、煩悩あるがままの弥陀の救いであることを、
聖人は次のようにご和讃に仰っています。

超世の悲願聞きしより
われらは生死の凡夫かは
有漏の穢身はかわらねど
心は浄土にあそぶなり
(帖外和讃)
(弥陀の本願に救われてからは、もう迷い人ではないのである。
欲や怒り、ネタミ・ソネミの煩悩は少しも変わらないけれども、
心は極楽で遊んでいるように、明るく愉快だ)

有名な『歎異抄』第九章では、
煩悩の他に何もない私たちを助けんがための弥陀の本願であった、
と疑いなくハッキリ知らされ、

仏かねて知ろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、
他力の悲願は、かくのごときの我らがためなりけりと知られて、
いよいよ頼もしく覚ゆるなり

(阿弥陀仏は、とっくの昔から私たちを
“煩悩の塊”とお見抜きになっている。
弥陀の本願は、このような煩悩以外に
何もない私たちのためだったと知られて、
いよいよ頼もしく思えるのだ)

と、弥陀の救いにあわれた慶喜を仰っています。

このように、“弥陀の本願まこと”とツユチリも疑いもなく
ハッキリ知らされた心こそ、親鸞聖人が一生涯、
明らかにしていかれた「真実の信心」なのです。

親鸞聖人の教えを最も正確に、
最も多くの人に伝えられた蓮如上人は『御文章』に、

聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候
                 (聖人一流章)
(親鸞聖人が一生涯、教えられたことは、ただ信心一つであった)

と仰っています。
ここで「信心」といわれているのは、
仏や神にゴリヤクを祈念することや、
神仏を深く信じて疑わないように努める
世間一般の信心とは根本的に異質のものであることを
知らねばなりません。
一般に「信じる」とは、疑わないことだと思われていますが、
疑いがあるから私たちは信じなければならないのです。
疑いようのない明らかなことならば「知っている」と言います。
「信じている」とは言いません。
「夫は男だと信じている」と言う妻はないでしょう。
疑いようがないからです。
「助ける」という約束に対する疑いは、
「助かった時」に晴れます。
「必ず絶対の幸福に救う」という約束の疑いは、
「絶対の幸福になった時」に晴れるのです。

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●露チリの疑いもなくなった真実の信心

聖人が「信心」と仰るのは、
この「弥陀の本願(約束)に露チリほどの疑いもなくなった心」です。
私たちが、裏切られたらどうしようと、
不安な心で疑うまいと努める「信心」とは全く違いますから、
聖人は「真実の信心」と仰るのです。

真実の信心についてお約束には、

信心という二字をばまことの心と読めるなり、
まことの心と読む上は凡夫自力の迷心に非ず全く仏心なり

と説かれています。
弥陀の本願に疑い晴れた信心とは、
「まことのこころ」だから、まことなき私たちの
持ち合わせていない心です(凡夫自力の迷心に非ず)。
それは、阿弥陀仏から賜った仏心(南無阿弥陀仏)なのです。
阿弥陀仏から、この真実の信心(仏心)を頂いた一念に
“本願まこと”と疑い晴れ、
絶対に裏切られることのない絶対の幸福になるのです。

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「弥陀の本願まことだった」と真知させられた親鸞聖人にとって、
その本願を伝えてくだされた恩師・法然上人の仰せも
また疑いようのない“まこと”でありました。
阿弥陀仏と法然上人とが一直線上にあった親鸞聖人ゆえに、
「法然上人になら、だまされて地獄に堕ちてもさらに後悔はない」
と言い切られたのです。

●一貫して変わらぬ「恩徳讃」の御心

終わりに、聖人のご生涯を一貫して変わらぬ「恩徳讃」の御心について、
主著『教行信証』の最後のお言葉に学びましょう。

慶ばしきかな。心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。
深く如来の矜哀を知りて、良に(まことに)師教の恩厚を仰ぐ。
慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。(乃至)
唯仏恩の深きことを念じて、人倫の嘲を恥じず
  (教行信証後序)

「心を弘誓の仏地に樹て」とは、弥陀の本願どおり絶対の幸福に救い摂られ、
“本願まこと”が明らかに知らされたこと。
「念を難思の法海に流す」は、苦悩渦巻く煩悩一杯が、
大満足の不思議な世界に生かされたことを言われています。
「如来の矜哀」とは、阿弥陀如来の大悲、
「師教の恩厚」「至孝」とは、弥陀の大悲を正しく
伝えてくだされた釈迦・七高僧方のご恩のことです。
「悲しきかな」「慶喜いよいよ至り」と仰っているのは、
色あせることなき無上の幸福に救われた大歓喜の表明です。
そして、「唯仏恩の深きことを念じて、人倫の嘲を恥じず」
のお言葉は、「この阿弥陀如来の大恩を念う時、世の人々の嘲笑、
罵倒、非難攻撃など物の数ではない。
命懸けてもこの親鸞、本願のまことを伝え抜くぞ」と仰っているのです。

如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし
(親鸞聖人)

親鸞聖人が、この「恩徳讃」そのままに全身全霊
伝えてくだされた阿弥陀仏の本願を
“誠なるかなや、弥陀の本願”と明らかに知らされる一念まで、
真剣に聞かせていただきましょう。


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親鸞聖人の教えは「弥陀の本願まこと」が原点 [親鸞聖人]

誠なるかなや
摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ
       (親鸞聖人・教行信証総序)
まことだった!まことだった!
弥陀の誓い、ウソではなかった。
みなみな、聞いてもらいたい、この親鸞が生き証人だ。
早く、弥陀の誓願まことを知ってもらいたい。

今回も、この親鸞聖人のお言葉を解説いたしましょう。
最初に親鸞聖人は、
「誠なるかなや」
と言われ、
「まことだった」
「本当だった」
と仰っています。
何が、まことだったのか。
それは「摂取不捨の真言」です。

「摂取不捨の真言」とは、「阿弥陀仏の本願」のこと。
「阿弥陀仏の本願」は、大宇宙最高の仏・本師本仏の
阿弥陀仏が誓われたお約束で、
『歎異抄』冒頭に「弥陀の誓願不思議」と著され、
『正信偈』には「(阿弥陀)如来の弘誓願」とあります。
それは、
“どんな人も、必ず絶対の幸福に救う”誓いです。

この不思議な弥陀の誓いに疑い晴れた聖人が、
「弥陀の本願まことだった」と仰っています。

「弥陀の本願まこと」
これが親鸞聖人の原点なのです。

最大の誤り

ところが、最も大切な聖人の原点が、
これまで多く誤解されてきました。
一例を挙げると『歎異抄』第二章のお言葉、

弥陀の本願まことにおわしまさば、
釈尊の説教、虚言なるべからず

の理解は大変誤られています。
もしも本願が、まことであるならば」
と「仮定」で解釈されているのです。

仮定では、アテにならない。
「本願まこと」と、ハッキリしなければ安心できません。
こんな話があります。

ある寺が、布教使を招き、浴室へ案内した時のこと。
昔のことですので、入浴時には湯加減を尋ね、
熱ければ水を運び、ぬるければ、たかねばなりませんでした。
程よい時を見計らって、湯加減を聞くと、
「これでいいでしょう」
と、布教使。
「でしょう」
では、困る。そこで重ねて、
「布教使さん。湯加減だけは遠慮は無用。
ハッキリ仰ってください」
と催促しても、
「これでいいでしょう」
と曖昧な返事。この布教使、
湯加減も分からんのかと不安に思った住職が、
戸のスキ間からそっとのぞき、納得した。
フンドシのヒモがもつれて脱げず、
ブルブル震えながら、まだ風呂へ入っていなかったのだ。

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熱いか、ぬるいか、ザブンと湯につかったら子供でも分かるが、
入っていなければハッキリしません。
湯加減でさえ、お湯に入れば明らかに知られる。
阿弥陀仏に絶対の幸福(往生一定)に救われたならば、
誰よりも本人がハッキリいたします。

もし、死ぬまで救われたのやら救われていないのやら、
ハッキリしないとすれば、一体、いつ安心できるのか。
「疑うまんま助けてくだされるのが阿弥陀仏」
「もう助かっていると私は感じています」
というような、
ハッキリしないものが阿弥陀仏の救いではありません。

往生一定と火に触ったよりもハッキリしますから、
大安心できるのです。

「弥陀の本願まこと」
これが親鸞聖人の原点である、教えの根本なのですから、
決して、「本願まことにおわしまさば」を、
「本願まことならば」と「仮定」で解釈してはならないのです。

本願寺の門主が明言

そんな中、本願寺の門主(最高責任者)が
この春に本を出版しました。
帯には、「門主・最後のメッセージ」と謳っています。
この6月に門主を退任されますので、
最後に言い残したいことなのでしょう。
その中に、注目すべき発言がありました。
『歎異抄』第二章の「弥陀の本願まことにおわしまさば、
釈尊の説教、虚言なるべからず」のところを、
「『阿弥陀如来の本願がまことであるから、
釈迦如来が説かれたことは嘘ではない』、
『阿弥陀如来の本願がまことであるから、
釈迦如来はそれを説かれたのだ』」

          (いまを生かされて)
と、二回も「断定」で強調されていたのです。

今回、門主自身が、仮定で解釈されていた誤解を翻し、
「本願がまことであるから」と断定された意義は
極めて大きなものです。
親鸞聖人のみ教えを学ぶ人たちに、
大きな影響を与えることでしょう。

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ハッキリするのが弥陀の救い

「弥陀の本願まことにおわしまさば」は、
「弥陀の本願まことだから」という明らかな「断定」です。
「誠なるかなや 摂取不捨の真言」(教行信証総序)
の聖人の明言どおり、
弥陀の本願に救われたらハッキリいたします。

蓮如上人も『御文章(御文)』に、
他力の信心ということをば今既に獲たり、
今こそ明らかに知られたり
」(二帖目十三通)
と仰っています。
「他力の信心を獲た」とは、
弥陀の本願に救い摂られたことですから、
「今そこ明らかに知られたり」とハッキリするのです。
ハッキリするのが間違いなら、
親鸞聖人も蓮如上人も間違いになります。

それどころか「明信仏智」と教えられたお釈迦さまも
間違い者になります。

皆、「助かったらハッキリする」と教えられているからです。

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事は生死の一大事。
阿弥陀仏に救われてハッキリしなければ、
往生一定の決定心もなく、安心はできません。
大安心のない救いは、阿弥陀如来の救いではありません。

アニメーション映画『世界の光・親鸞聖人』第一巻には、
こう描かれています。
不思議なるかなや、不思議なるかなや。
弥陀五劫思惟の願は、親鸞一人がためなり」
「多生にも、値い難き本願力に、今値えたり。
億劫にも、獲難き真実の信心を、今獲たり」
「本願、まことだった。まことだった

聞思して遅慮することなかれ

では、「弥陀の本願まこと」とハッキリするには、
どのような道を進むのでしょう。

親鸞聖人は、「聞思して遅慮することなかれ」
と教えられています。

「聞思」とは、「聴聞」のこと。
聴聞とは、
「阿弥陀仏の本願に、疑心あることなし」
と聞きひらくさまで、聞き抜くことです。

『正信偈』には、

聞信如来弘誓願  (阿弥陀)如来の弘誓願を聞信す

と教えられています。
その『正信偈』の最後の言葉は、

唯可信斯高僧説  唯、斯(こ)の高僧の説を信ずべし

です。

「唯」とは、「たった一つ」「これしかない」ということ。
「斯(こ)
の高僧」とは、弥陀の救いを正しく伝えてくだされた、
インド・中国・日本の高僧方。
すなわち、インドの龍樹菩薩・天親菩薩、
中国の曇鸞大師・道綽禅師・善導大師、
そして日本の源信僧都、法然(源空)上人です。

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これら七高僧の教えを、信じてくれよ」
と親鸞聖人はお勧めなのですが、
七高僧の教えといいましても、
「弥陀の本願」以外にありません。

ですから、
「唯、斯の高僧の説を信ずべし」
とは、
「ただ弥陀の本願を聞信するほかに、助かる道はない」

「決して、親鸞が勝手に言っているのではない。
あの偉大な七高僧方が、
口をそろえて教えられていることなのだ。
こんな広大無辺な世界があるぞ、
絶対の幸福があるぞ。
弥陀の本願まことをまこととハッキリ知らされるまで、
聞き求めていただきたい。それが親鸞の願いなのだ

との御心です。
親鸞聖人が最もお喜びになることは、
阿弥陀仏の本願を真剣に聞き求め、
聖人と同じく絶対の幸福(往生一定)に
救い摂られること以外ありません。

「本願に疑心あることなし」と
ツユチリの疑いもなくなるまで、聞法精進いたしましょう。


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親鸞、更に私なし [親鸞聖人]


(真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」より載せています)

「親鸞、更に私なし」
    親鸞聖人と七高僧

親鸞聖人の教えとか、浄土真宗と聞きますと、
何か独自の教えを説かれた方のように
思うかもしれませんが、
そうではありません。

親鸞聖人の教えといっても、
お釈迦さまの説かれた仏教以外にはなかったのです。

聖人は常に、
更に親鸞珍らしき法をも弘めず、
如来の教法をわれも信じ、
人にも教え聞かしむるばかりなり

“親鸞の伝えていることは、
決して珍しい教えではない。
釈迦如来の教法を、
親鸞も間違いないと知らされたから、
皆さんにお伝えしているだけなのだよ”

と言われ、「親鸞、更に私なし
ともおっしゃっています。


では、釈迦の教えとは何でしょうか。
親鸞聖人は『正信偈』に、
「如来、世に興出したまう所以は、
唯、弥陀の本願海を説かんがためなり」

“釈迦如来が、仏教を説かれた目的は、唯、
弥陀の本願一つを説くためであった”

と断言されています。
弥陀の本願とは、
「我を信じよ、すべての人を必ず絶対の幸福に救い摂る」

と誓われた大宇宙最高の仏さま・阿弥陀仏のお約束です。

この弥陀の救い一つを、お釈迦さまは、
生涯説いていかれたのです。

●貯水池と水道管

しかし、お釈迦さまは、約2600年前のインドの方。
親鸞聖人は、約800年前の日本の方。
時代も国も違う聖人が、どうして仏教を聞けたのでしょう。

それは、インド・中国・日本に現れ、親鸞まで、
本当の仏教を間違いなく伝えてくだされた方々の
おかげであった

と、聖人は『正信偈』に7人のお名前を挙げ、
それらの方の恩徳をしのび、褒めたたえています。

インドでは、龍樹菩薩、天親菩薩。
中国では、曇鸞大師、道綽禅師、善導大師。
日本では、源信僧都、法然上人。
これらの方々を「七高僧」といいます。

山の上にある貯水池の水が、
家の蛇口をひねってすぐに飲めるのは、
水道管のおかげ。

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弥陀の本願を貯水池に例えれば、
水道管に当たるのが、お釈迦さまから始まって、
龍樹・天親・曇鸞・道綽・善導・源信・法然上人の七高僧方です。

これら善知識(正しい仏教の師)のご教導あればこそ親鸞、
弥陀の本願に救われることができたのだと喜ばれ、
その弥陀の本願を、私たちに正しく伝えてくださったのです。

いかに聖人が仏教を正確に伝えられたか。
それは主著『教行信証』を見れば一目瞭然でしょう。
『教行信証』には聖人ご自身の作文は非常に少なく、
ほとんどがお経や七高僧の書かれた論・釈の引用です。
「経に言(のたま)わく」「論に曰(いわ)く」
「釈に曰く」とおっしゃって、

親鸞は常に経・論・釈に基づいてお伝えしている。
独自の考えなど一切ない

といわれています。
まさに「親鸞、更に私なし」
のお言葉です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

阿弥陀仏とはどんな仏さま?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

他の仏教はどうなのか、疑問に思っている方もいると思います。
以下を見ていただければと思います。

お釈迦さまの本当のみ教えは、いかに骨抜きにされたか!

(空海、最澄、密教、加持祈祷、修験道、神仏習合などに関してです。)


 


タグ:親鸞聖人

阿弥陀仏に救われるのは、生きている今! [親鸞聖人]

お釈迦さまの仏教を説かれた目的はただ一つ。
それは、
我々の後生の一大事(死後、大苦悩の世界へ堕つること)の解決でした。
その解決の方法は、阿弥陀仏に救われる以外ないと教えられたのです。(一向専念無量寿仏)
救われるのは、生きている今か、死んでからなのか、
親鸞聖人はより鮮明に我々に教えられています。
 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(アニメ『世界の光・親鸞聖人』今回の記事の内容そのままなので、
見ていただければ分かりますよ)

(ここからは真実の仏教を我々に叫んでくださっている先生の書物「とどろき」から載せています。 )  

慈悲の権化(ごんけ)のような親鸞聖人に、
激しい大諍論が3回もあったということは、
信じられないことかもしれませんが、
事実なのです。

これを聖人の三大諍論といわれています。

第一の諍論は、体失不体失(たいしつふたいしつ)の諍論と
いわれているものです。

●救いは死後か現在か

聖人がまだ法然上人のお弟子であった時のことです。
法然門下三百八十余人の中でも、
上足(じょうそく)と目されていた
小坂の善慧房証空(ぜんえぼうしょうくう)が
「念仏のお徳によって、
死んだ後には極楽往生させていただけるのが、
阿弥陀仏のご本願のありがたさであります」
と、大衆を前に、得意満面で説法していました。

みんな感心して聴いていましたが、
親鸞聖人は思わず立ち上がり、
「しばらく待ってください」
と、善慧房の説法に待ったをかけられました。

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一同、何事だろうと聖人を凝視したのも
無理はありません。
「親鸞殿、私の説法に何か異議でもござるのか」
ムッとした善慧房は詰問いたしました。

ただいま、あなたは弥陀の本願は
死後(体失)でなければ
助けて(往生)くださらぬとおっしゃいましたが、
この親鸞はただ今救われた(往生)ことを
喜ばずにおれません。
弥陀の本願は生きているただ今、
助けてくださる不体失往生でございます。
一匹の馬が狂うと千匹の馬が狂います。
あなたのような方が本願を誤られては、
大衆ともに無間の火城(かじょう)へ
転落しなければなりません

聖人はきっぱりとおっしゃいました。
あまりにも鮮明な阿弥陀仏の救いを
体験なされていた聖人にとっては、
弥陀五兆の願行を水泡にし、
釈迦の一切教をホゴにする、
このような悪魔の説法は
到底聞き流すわけにはいかなかったのです。


「何を親鸞殿はおっしゃる。
聖道仏教は此土入証(しどにゅうしょう)だが、
わが浄土仏教は彼土得証(ひどとくしょう)、
死んだ後で極楽参りさせていただくからこそ、
往生浄土というのではありませんか。
どうして私たち凡夫が、
この世で助かることができましょうぞ」
当然ながら善慧房の反撃がなされました。

「そのことは親鸞もよく承知していますが、
あなたのおっしゃるのは結果でありましょう。
だれでもが浄土往生できるのではありますまい。
現在信心決定(しんじんけつじょう)して、
魂の解決、心の往生のできた人のみ
のことではありませんか。
ただ今救われないものが、
どうして死後助かるでしょうか。
前の小川さえ渡り切らない者が、
どうして後の大河が渡れましょうか

憤激した善慧房は、
「それでは、あなたがそれほどまでに
自信を持っておっしゃるのならば、
この世で助けるという本願の
ご文を挙げてもらいたい。
それができなければ、あなたの独断と言われても
仕方がありますまい。

さぁ、その根拠を示してください

と迫りました。


時に聖人、いよいよ弥陀の本願の真意を
開顕する勝縁きたりと微笑なされて、
「善慧房殿、それは、
若不生者 不取正覚
(にゃくふしょうじゃ ふしゅしょうがく)のご文で
明らかでございます」

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何を申される。親鸞殿、
あなたは何か勘違いなされてはおられぬか。
あなたの示されたご文は、
若し生まれずば正覚を取らじ、
と弥陀が誓われたお言葉ではありませんか。

一度死なねば生まれることはできませんから、
私の正しいことを証明するご文にこそなれ、
あなたの説のあかしにはなりません

勝ち誇ったように叫ぶ善慧房。

しかしその時、すかさず聖人のお言葉が四方を圧しました。
善慧房殿、あなたの誤りは実にそこにあるのです。
若不生者の生まれさせると誓われたのは、
この肉体のことではないのです。
魂のことなのです。
心のことなのです。
暗い心を明るい心に、
不安な心を大安心に、
苦悩渦巻く心を歓喜の泉に
生まれさせるとのお誓いなのです。
人間の医者でさえ、
あなたの腹痛はこの世では
止められないから辛抱しなさい。
死んだら何とかしてあげよう、
という医者はありません。

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今、濁流におぼれて苦しんでいる者に、
今は救うてやれないが
土左衛門になったら助けてやるから、
それまで待っていろ、
という人がありましょうか。
ましていわんや、大慈大悲の阿弥陀仏が、
この世の苦悩はどうにもできぬ、
苦しくても我慢しなさい。
死んだら助けてあげるから、
と誓われる道理がないじゃありませんか


鋭い聖人の追及に善慧房すでに顔色なく、
一言の返答もできませんでした。
明らかな仏智を体得し、
絶対の幸福を獲得した者は、
あいまいな妥協はできず、
真実を発揮するために大胆不敵な信念を、
傍若無人に叫ばずにおれないのです。


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「なぜ生きる」その答えとは・・・ [親鸞聖人]

●なぜ生きる

私たち何のために生まれてきたの、
何のために生きているの、
どんなに苦しくても、
なぜ自殺してはいけないのでしょうか。
これが、「人生の目的」であり、
平易な言葉で「なぜ生きる」です。

富山県で、心臓を患う女の子をなんとか助けたいと、
“救う会”が結成され、募金活動がなされました。
目標額を達成し渡米が実現、
移植手術が報じられました。
政治も経済も、科学も医学も、
倫理も道徳も法律もスポーツも、
人間のあらゆる営みは、
「より快適に、少しでも長く生きる」為の
努力と言えるでしょう。


(平成22年の記事です)
鳩山首相は、来年度92.3兆円の予算を
「命を守る予算」と命名しました。
失業者支援に派遣村が設置されたのも、
孤独死の不安をかかえる高齢者をサポートするのも、
「命を守る」ために違いありません。
教育現場では、子供たちの“生きる力”を養おうと
必死に取り組みがなされています。
CO2の削減目標を高く設定し、
エコカー減税やエコポイントを導入したのは、
「地球環境を守り、生命を存続させるため」でしょう。

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ではどうして命を守らなければならないのか。
強く生きて何をするのか。
私たちは一体、なんのために生まれ、生きるのか。
この「生命の尊厳」「人生の目的」が
鮮明にされないかぎり、
どんな政策も技術の進歩も、
水面に描いた絵に
終わってしまうのではないでしょうか。

「人生に目的はあるのか、ないのか」
「生きる意味は何なのでしょう」

明答をどこからも聞けぬ中、
親鸞聖人ほど人生の目的を明示し、
その達成を勧められた方はありません。

『正信偈』にはズバリそれを、
『破闇明闇』(無明の闇を破ることだ)
と、断言されているのです。

「万人共通の生きる目的は、
苦悩の根元である『無明の闇』を破り、
“よくぞこの世に生まれたものぞ”
の生命の大歓喜を得て、
永遠の幸福に生かされることである。
どんなに苦しくても、
この目的果たすまでは生き抜きなさいよ」
聖人、90年のメッセージは一貫して、
これしかありませんでした。
すべての人の最も知りたい
「なぜ生きるのか」の答えを、
鮮明にされた方が親鸞聖人ですから、
世界の光と言われる
のもうなずけます。

では「無明の闇」とは、何か。
これを正しく知ることが、
生涯かけての最大事になってくるのです。

●苦しみの根元「無明の闇」とは

「無明の闇」とは、分かりやすく言えば、
「死後どうなるか分からない、後生暗い心」のこと。

「後生」とは死後のことで、
私たちの100パーセント確実な行き先です。

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禅僧・一休は、
「世の中の娘が嫁と花咲いて、
嬶(かかあ)としぼんで婆(ばば)と散りゆく」
と歌いました。
女性は、娘から嫁、嫁から嬶、嬶からお婆さんへと、
どんどん進んでいきます。
お婆さんが嫁になったり、かかあが娘になったり、
という逆行はない。
男も呼び方が違うだけで、すべて同じコースをたどります。
だんだんと体力は衰え、病気がちになり、
ケガもしやすくなり、物忘れが進み、
気力も衰えてくる。
どんなに美容整形を施してみても、
悲しいかな、避けられないのが「老い」です。

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だが、老後で終わりではない。
「散りゆく」と一休が言うように、必ず死んでいく。
では、死んだその先は、どうなっているのでしょうか。
「死ぬ」ことを、よく「他界」といわれます。
“この世とは違う、他の世界に行く”ことですが、
他の世界とはどこなのか、ハッキリしているでしょうか。

死んだら天国とか極楽とか言うけれど、本当だろうか。
楽しいところへ往けるような気もするけれど、
ひょっとして暗いところかも・・・。
いろいろ想像はしても、確証もない。
なんだかぼんやりしています。
科学はいろいろなこの世の謎を
解明してくれましたが、
肝心の人間の行き先については
何の説明もありません。

死んだらどこへ行くの?
これは“人類最大の謎”
と言っていいのではないでしょうか。
他のことなら冗舌(じょうぜつ)な政治家や
知識人といわれる人たちも、
こと後生の話になると、誰もが口ごもります。
哲学者も沈黙です。
どこへ行くかも分からないまま、一日一日、
着実に後生に向かって突き進んでいる。
これが、紛れもない私たちの現実なのです。

年金がちゃんと満額もらえるのか、
多くの人が制度に不安を感じていますが、
それは「受給年齢まで生きておれる」
ことを前提としてのことです。
その年になる前に、
事故や病気であっさり死ぬこともある。
早ければ今晩、この世とオサラバかも知れない。
元旦に「おめでとう」と言っていた人が、
もう何人亡くなられたことでしょう。
たとえ命永らえて20年、30年生きたとしても、
過ぎてしまえばアッという間。
一瞬で「後生」に入っていく。
その「後生」がどうなっているか、
ハッキリしない暗い心を「無明の闇」といわれ、
この闇こそが、人生を苦に染める元凶なのだと、
親鸞聖人は断定なされているのです。

どうして「後生暗い心」が苦悩の根元なのか。
疑問に思う人もあるでしょうが、
未来暗いとどうなるか。
墜落を知った飛行機の乗客を考えれば、
よく分かるでしょう。
小説や映画でたびたび描かれる「日航機墜落事故」は、
1985年8月12日、
羽田発大阪行きの日本航空123便が、
群馬県御巣鷹の尾根に墜落炎上し、
520名が亡くなる惨事でした。

発見された遺書には、
「恐い 恐い 恐い 助けて 
気持ちが悪い 死にたくない」(26歳女性)

「もう飛行機には乗りたくない」(52歳男性)

と、悲痛な心境がつづられていました。
墜死だけが恐怖なのではない、
悲劇に近づくフライトそのものが、
地獄なのです。

未来が暗いと、現在が暗くなる。
現在が暗いのは、未来が暗いからです。

死後の不安と現在の不安は、
切り離すことができないことが
お分かりになるでしょう。

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●無明の闇を破す、阿弥陀仏の本願

後生暗いままで、
明るい現在を築こうとしても、
できる道理はありません。

すべての人が苦しみから離れ切れないのは、
お金がないから」でも、
「病気だから」でもない、
「こんな人と結婚したから」でもなければ、
「隣にこんな人が住んでいるから」でもない、
後生暗い「無明の闇」こそが
苦しみの根元なのだ
と、
本師本仏の阿弥陀仏は見抜かれて、
こう約束なされています。

「すべての人の『無明の闇』を破り、
『往生一定』の大満足の身に救ってみせる」

このお誓いが、「阿弥陀仏の本願」です。
「本願」とは「誓願」ともいわれ、約束のこと。
あの有名な『歎異抄』の一章冒頭に、
「弥陀の本願不思議に助けられまいらせて」
と言われている「弥陀の誓願」とは、
この「阿弥陀仏の本願」のことです。
「往生一定」とは、
疑いもなく浄土に往く身となったことで、
蓮如上人は
「往生は治定せしめたまう」(聖人一流の章)とか、
「領解文」にも「往生は一定・おん助け治定」
と言われています。
「一定」も「治定」も、ハッキリしたこと。
一切が浄土往生のさわりにならないから
「無碍の一道」(歎異抄第七章)
とも聖人は言われています。
今日の言葉では、「絶対の幸福」といえるでしょう。

その絶対の幸福に、
平生の一念、必ず救い摂る、
という凄い約束を阿弥陀仏はなされている。

私たち人間の智慧では、
とても計り知れない阿弥陀仏のお誓いですから、
「弥陀の誓願不思議」と讃歎(さんだん)されるのです。

大宇宙広しといえども、
私たちの後生暗い心(無明の闇)
をぶち破ってくだされるのは、
本師本仏の阿弥陀仏だけ
なのだと、
親鸞聖人は、

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と仰っています。意味はこうです。
阿弥陀仏には、全人類の苦悩の元凶である
無明の闇(後生暗い心)を破り、
往生一定の大安心に救い摂るお力がある
から、
大宇宙のすべての仏や菩薩方が、
“智慧光仏”と弥陀を絶賛されているのである

ゆえに「阿弥陀仏一仏に向け、
阿弥陀仏だけを信じよ」と、
釈迦は仏教の結論として
「一向専念無量寿仏」と説かれ

この釈迦の金言を、
疑謗(ぎほう)破滅の嵐の中、
生涯叫び続けられていかれた方が
親鸞聖人でありました。


人生にはゴールがある!‘親鸞聖人と平生業成’ [親鸞聖人]

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「人類が今日ほど親鸞を必要としている秋(とき)はない」

作家・井上靖氏の言葉です。
多くの文学者、哲学者を魅了し、
「世界の光」と仰がれる親鸞聖人。
なぜ聖人は、かくも輝きを放たれているのでしょうか。
聖人のご生誕がなかったら、
決して知りえなかった真実に迫ってみましょう。

●歴史上の人物ベストワン

今から八百年前、鎌倉時代に活躍された
浄土真宗の祖師・親鸞聖人。
あるテレビ番組では、戦後出版された本の中で、
最も多く語られた「歴史上の人物ベストワン」と紹介されました。
試みに、近くの図書館に行き、明治以降の文学者、
哲学者の書物をひもといてみたならば、
聖人の言動に共鳴し、感動し、
共感する言葉の数々に出会うでしょう。

* * * * * * * * * * 

「親鸞のようなひとにめぐり会えたことは、
一介の文学者としても、人間としても、
生涯のよろこびである」
            (丹羽文雄『親鸞』)

「親鸞を語ることは私にとって
人生を語ることにひとしい。(中略)
私のまず最初に言うべきことは、
親鸞に出会ったという
その謝念でなければならぬ」
           (亀井勝一郎『私の宗教観』)

「わたくしは、何ということもなく、親鸞はすきだ。
蓮如がすきだ。
すき、嫌いでいうのはへんだけれど、
正直な表現でいえば、そうなる」
            (吉川英治『折々の記』)

「鎌倉というのは、
一人の親鸞を生んだだけでも偉大だった」
         (司馬遼太郎『この国のかたち』)


このような声は、国内のみにとどまりません。
戦後、世界を風靡した
ドイツの大哲学者、ハイデガーは、
老後の日記に次のように記しています。

「今日、英訳を通じて、初めて、
東洋の聖者親鸞を知った。
もし、十年前に、こんなすばらしい聖者が
東洋にあったことを知ったなら、
私はギリシャ語や、ラテン語の勉強もしなかった。
日本語を学び、親鸞聖人の教えを聞いて
世界中に弘めることを、生き甲斐にしたであろう」

なぜ、かくも多くの文学者、
哲学者が親鸞聖人に魅了されているのか。

「世界の光」と仰がれるのでしょうか。
それは、
聖人九十年の教えが、人類の光だからです。


●親鸞聖人の教え    
       “平生業成”

親鸞聖人の教えは一言で、
「平生業成」の教えといわれます。
「平生業成」は、聖人九十年のすべてを
漢字四字で表された一枚看板なのです。


「平生」とは、死んでからではない、
「現在、生きている時」ということ。

親鸞聖人の教えは、平生の教え。
生きている今のことを教えられた方が親鸞聖人です。
次に「業」とは、仏教では「ごう」と読みますが、
大事業のことです。
大事業と聞くと、
一代で世界的企業を作り上げた本田宗一郎や
松下幸之助のやった事業、
あるいは、オリンピックで金メダルを獲得したり、
ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で
優勝した偉業などを思い浮かべるかもしれません。
確かにそれらも大事業に違いありませんが、
ここでいう大事業とは、「人生の大事業」、
言い換えれば、「人生の目的」のことです。

人は何のために生まれてきたのか。
何のために生きているのか。
どんなに苦しくても、
生きていかねばならないのは何故か。
これが、人生の大事業であり、
人生の目的です。
先に挙げた、「金メダルを獲得」
「世界一の会社を作る」などは、
「生きがい」と呼ばれるものであって、
「人生の目的」ではありません。

●「今後も努力精進して生きたい」
       生きがいとは?

学問や芸術、スポーツ、囲碁、将棋、
書道、華道、お茶の道など、
「生きがい」は人それぞれいろいろあります。
「生きがいのある毎日」は、だれもの望み。
ゴールデンウィークともなれば、観光やレジャー、
趣味や生きがいに興じる人も多いでしょう。
確かにそれらは爽快感や充実感を与え、
明日への活力となります。
しかし、欠点があります。
それは、どこまで極めても卒業もなければ
完成もない、ということです。

「ヒットを打つことは、
打てば打つほど難しくなり」と言うのは、
一昨年、大リーグの年間最多安打記録を
塗り替えたイチロー選手。
868本のホームラン記録を持つ王監督に、
「打撃が簡単なものだと思ったことはありますか」
と尋ねると、
「そんな時期は一度もなかった」
「コツをつかんだと思っても、
すぐにどっかに消えちゃうもの。
それはやめるまで続くものだ。」
世界の王にしてしかり、なのです。


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トリノオリンピック・女子フィギュアスケートで
金メダルに輝いた荒川静香選手は、
帰国後の記者会見で、こう語りました。
「金メダルは私の人生で最高のもの。
このメダルのように輝いていきたい。
そうなれるように、努力精進していきたい」
5歳でスケートを始め、
小学3年生の時には三回転ジャンプをマスター。
天性の才能を認められながら、
なかなか結果は出ませんでした。
平生16年、世界選手権で優勝し、
ようやく女王の座に。
周囲の期待が高まる中、
しかし本人は現役続行を悩み、
成績は低迷します。
「このままで終わりたくない」
そう奮起して研究と努力を重ね、
再び上り詰めた世界の頂点。
それはまさに人生で最高の勲章でしょう。
しかし彼女は、このメダルのように輝きたいからと、
「さらなる努力」を誓っています。
今回、無念の涙をのんだ選手は、
次回に夢馳せて気づかないかもしれませんが、
世界一になっても、それでスケートの道が
完成するわけではありません。
銀盤の女王ですら、次のステップを見据え、
一層の努力精進を余儀なくされる。
「生きがい」といわれるものには、
「これで求まった、完成した」
ということはないのです。

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●「死ぬまで求道」は素晴らしい?

「それがいいんだ、
完成したと思ったら進歩がない」
「死ぬまで求道こそが素晴らしいのだ」
たいていの人は、そう言うかもしれません。
だが、本当にそうでしょうか。

落ち着いて、よく考えてみれば、
「死ぬまで求道」とは、「死ぬまで求める」こと。
「死ぬまで求める」とは、
「死ぬまで求まらない」ということです。
死ぬまで求めているものが得られないことが、
どうして「素晴らしい」といえるでしょうか。

例えば宝くじでも、
「どうせ当たらない」と言いながら、
「ひょっとしたら」と思うからこそ買うのであって、
絶対当たらないとハッキリしている去年の宝くじを
買う人はありません。



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●求めても、求まらない繰り返し

勉強にせよ、仕事にせよ、
「求める」ということは、苦しいことです。
それでも私たちが求めるのは、求めていけば、
いつか心からの満足が得られると思うからでしょう。
それが、どれだけ求めても手に入らないとしたら、
どんな一生になるでしょうか。
春、灰色の受験生活を乗り越えた新入生が、
キャンパスにあふれます。
長く苦しい受験生活に耐えてきたのは、
大学合格というゴールにたどり着いたら、
きっと満足できると信じてのこと。
ところが、「よーし、これからバラ色の大学生活を楽しむぞ」
と意気込んだのも束の間、
やっと勝ち得た合格の喜びは数ヶ月も続かず、
退屈な授業、同じことの繰り返しの毎日に、
「こんなはずでは」と肩を落とす人は
少なくありません。
気を取り直し、難関の資格試験や、
厳しい就職戦線を突破して、
「さあ、これから思う存分、活躍するぞ」と
希望に胸膨らませても、
気がつけば、雑務やトラブルの対処に追われ、
残業、残業の毎日。
「こんなはずでは」のため息が聞こえてきます。

大学には入った、就職はしたものの、
本当に求めていたものは得られない、の繰り返し。
「人の一生は 重荷を負うて 遠き道を行くがごとし」
の家康の述懐が、自分自身に重なります。

「あぁ、どこまで求めたら、満足できるのだろうか」
たとえ好きなことをして、
成功している人でも同じです。
レギュラー番組を何本も抱え、
軽妙なトークでお茶の間を沸かせた
人気タレント・島田紳助さんは、
以前に、次のように告白しました。

  *   *   *   *   *

「この世界でやりたいことも、
もうほとんど残っていない。
それで、このところへこみっぱなしなのだ。
これから何をすればいいか、
正直いってわからない。
山登りと一緒で、楽しいのは登るときなのだ。
頂上に着いて、気がついてみたら何もない。
だからそういう意味では、
今は本気で心の底から楽しいことが何もない」

               (『哲学』)

「下積みの苦労」という言葉もあるように、
どの世界でも、一流になるには相当な努力と忍耐が
要るに違いありません。
ところが、そうやって頂点にたどり着いた人も、
期待していた満足感がどこにもなく、
途方に暮れているのです。
達成すれば終わってしまう、
そんな目標だけを追い続ける一生は、
どんな人生になるでしょうか。


目標にたどり着けば、「自分は達成した」
という一時的満足はあっても、時間とともに薄れ、
またスタート地点に逆戻り、
「今度こそ・・・」と、さらなる苦労や始まります。
一点の周りをグルグル回るのみで、
「人間に生まれてよかった」という、
生命の歓喜は永久にありません。


報われない人生をショーペンハウエルは、
「苦痛と退屈のあいだを、
振り子のように揺れ動く」と形容しました。
「卵の殻ほどのもの」を駆け抜け争い、
“山のむこうに幸せが住む”希望に欺かれ、
安心も満足もないまま、
死の腕(かいな)に飛び込んでいく。
それは人生ならば、
まさに悲劇ではないでしょうか。
死ぬまで求めるのは、
死ぬまで苦しむことに他なりません。

●楽しいのは死を忘れている間だけ

それでも、「いや、求まらなくてもよい、
求める過程が楽しいのだ」
と言う人もあるかもしれません。
「求める過程が楽しい」とは、
例えば囲碁の対局で数手先を読み、
「ここ」と決めて石を置く。
「さあ、相手はどこに打ってくるか」
という時の楽しさ。
予想外のところへ石を置かれ、
「いや、なかなかやるな。じゃあ、次はどこへ打つか」
と考える時の面白さ。
そういった喜び、楽しみのことを言っているのでしょう。
なるほど、そんな喜びなら、どこにでも転がっていそうです。
しかし、それが「楽しい」のも、
「死」を忘れている間だけでしょう。
命のともしびは有限です。
人生には終わりがある。
趣味の熱中から現実に戻ったその時。
夜、床に入って眠りにつくその時。
ふと、やがて来る死の不安に
襲われることはないでしょうか。

「人生の目的は何ですか」と問いかける、
こんなエッセーが掲載されたことがあります。
「資格を取ったり、習い事をしたり、健康であることは
確かに人生を豊かにする大きな要素の一つであるでしょう。
しかし、それはわかるんだが、
でもね、あなたは死ぬんだよ、やがて死ぬんだよ、
という魂の奥底からのささやきはないのでしょうか。(中略)
子供に学費がまだかかるから、人並みな生活を送りたいから、
たまにはゴルフを楽しみたいから、
プライドを保つためには、飲みにも行きたいし、旅行もたまには、・・・。
そういう理由をつけて、本当に死ぬまで、人生の目的を考えることを
先へ先へと押しやりながら結局死んで行く、
という人生を歩んでいるんではないか、という恐れがあります」

      (田中鶴昭『人生の目的は何ですか』
         平生11年3月・建設物価調査会会計検査資料)

「死がそこまで迫っているのに、趣味にうつつを抜かしていてよいのか」
という不安は、
人生の終幕が近づくにつれ、次第に大きく膨らんできます。

その時、これまで生きがいとしてきた明かりは、木っ端微塵に打ち砕かれ、
暗黒の後生へ飛び込んでいかねばなりません。

●人生の目的は、
     未来永遠の幸福に生かされること

「難思の弘誓は、難度海を度する大船」
              (教行信証)
“弥陀の誓願は、苦しみの波の絶えない人生の海を、
明るく楽しく渡す大きな船である。
この大船に乗ることこそ、人生の目的である”

こんなジゴクから地獄への綱渡りをしている私たちを救い摂り、
未来永遠の幸福にしてみせると誓われているのが、
本師本仏の阿弥陀仏のお約束(弥陀の誓願)です。

“この弥陀の誓願に救い摂られ、
「よくぞ人間に生まれたものぞ!」に生命の歓喜を得て、
未来永遠の幸福に生かされることこそ、人生の目的なのだ”

聖人の解答は、確信に満ちて簡潔です。
万人共通の、この人生の目的を、平生業成の「業」の一時で
表されているのです。



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●この世でハッキリ救われる

最後の「成」とは、「完成する」ということ。
すなわち、「人生の目的は現在、完成できる」
ということです。
「人間に生まれてよかった!」という、絶対の幸福に、
ただいま生かされるということです。
言葉を換えれば、「この世でハッキリ救われる」ということです。
二十九歳の春、弥陀の誓願に救われ、人生の目的完成された聖人は、
「誠なるかなや、摂取不捨の真言」
           (教行信証)

“まことだった、本当だった、弥陀の誓いにうそはなかった!”
と叫ばれています。
「摂取不捨」とは、ガチッとおさめとって、
捨てられない幸せということで、
絶対の幸福のこと。
「絶対の幸福に助ける」という弥陀の誓願は本当だったなあと、
自らの救われた歓喜を告白されているお言葉です。
弥陀の救いは火に触ったよりもハッキリするのです。
弥陀の誓いどおり、絶対の幸福に救われた時を、
「他力の信心を獲た」とか、「信心決定した」とかいわれます。
これひとえに、阿弥陀仏のお力(他力)によって、
この幸せにさせていただけた、ということがハッキリしますから、
「他力の信心」といわれるのです。
しかも阿弥陀仏の救いは一念でなされます。
阿弥陀仏は、「ひとおもい」で絶対の幸福にしてみせると
誓われているからです。
これを聖人は、「一念往生」とか「一念の信心」ともおっしゃっています。

「然れば(しかれば)平生の一念によりて往生の得否は定まれるものなり」

“永遠の浮沈は、平生の一念で決定する”
人生は、決してゴールなき道ではありません。
「ああ、生きてきてよかった!」と喜べる決勝点がある。
心から歓喜の泉がわき上がる世界。
絶対色あせない、未来永遠の幸せ、この苦悩渦巻く人生が、
光明輝く人生になるのです。
「だからどんなに苦しくても、この目的果たすまで、生き抜きなさいよ」
と、聖人は私たちに呼びかけておられます。
“人生には目的がある。あるから早く完成せよ”
これ以外、聖人九十年のメッセージはありません。


●完成したら、つまらない?

人生に完成がある、卒業があるというと、
「完成したら、つまらんじゃないか」という人がありますが、
つまらないどころか、完成してからが、本当の人生の始まりです。
卒業式で、「卒業したら、あとはブラブラ遊んでおれ」
という先生はいるがずがない。
いわんや人生の目的卒業したら、世のため人のため、
何ものにも恐れず、粉骨砕身の大活躍をせずに
おれなくなるのは当然でしょう。
聖人の燃える恩徳讃(おんどくさん)は、そのお気持ちの表明です。

如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし   (恩徳讃)

非難攻撃の嵐の中を「たくましき親鸞」と称賛される、
あの不屈の大活動は、人生の目的を完成された二十九歳から
始まったのです。
「死ぬまで求道」しか知らぬ人類に、
「人生のゴール、ここにあり」と叫び続けてくだされた親鸞聖人こそ、
まさに世界の光でありましょう。



タグ:親鸞聖人

弥陀に救われたらどうなるか? [親鸞聖人]

shinran


あなたに伝えたいことがある。
なんとか分かってもらいたいことがある。
どう書けばよいのか、
どのように表現すれば正しく知ってもらえるか。
祖師聖人が、一字一涙(いちじいちるい)の熱い思いで
筆を執られたのが『正信偈』です。

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その冒頭が、
「帰命無量寿如来
南無不可思議光」
という有名な二行。
これは、
「親鸞、無量寿如来に帰命いたしました。
親鸞、不可思議光に南無いたしました。」
と読み、
「親鸞、阿弥陀仏に救われたぞ。
親鸞、阿弥陀仏に助けられたぞ」
という、弥陀に救い摂られた聖人の告白です。

言葉を換えて同じことを繰り返されているのは、
二回だけではなく、何度でも叫ばずにはおれない、
弥陀に救われた大慶喜の表明であるのです。

この最初の2行で親鸞聖人は、

○弥陀の救いは「死んだらお助け」ではない、
現在ただ今の救いである。


○弥陀に救われたならば、ハッキリする。

という、弥陀の「凄い救い」を明らかにされているのです。

ところが、このような聖人の教えを聞くと、
「それは親鸞さまのような特別な方だけのことではないか。
私みたいな者がハッキリ救われることなんか、
ホントにあるのか」

と途方に暮れたり、
「どうせオレなんか無理だ」とアキラメたり、
「阿弥陀さまに救われたなら、
どこがどう変わるのだろうか」と、
疑問に思う人がある。

それらの不審に聖人は、同じく『正信偈』の中で、
「凡聖逆謗斉廻入(凡・聖・逆・謗、ひとしく廻入すれば)
如衆水入海一味(衆水の海に入りて一味なるが如し)」
と答えておられるのです。

今回は、この二行について解説します。



●「凡聖逆謗」=「すべての人」

「凡・聖・逆・謗」の「凡」は凡夫、
「聖」は聖人(といっても親鸞聖人のことではありません。
後述します)、
「逆」は五逆罪の人、
「謗」は謗法罪の人。
この「凡・聖・逆・謗」で、「すべての人」ということです。
何十億の人がいても、「凡聖逆謗」の中に入らない人は、
一人もいません。
まず「凡夫」について、親鸞聖人に解説をお聞きしましょう。

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「凡夫というは無明・煩悩われらが身にみちみちて、
欲もおおく、愼り(いかり)腹立ち、
そねみねたみ心多く間なくして、
臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず」
             (一念多念証文)

“凡夫というは、欲や怒り、腹立つ心、ねたみそねみなどの、
かたまりである。
これらは死ぬまで、静まりもしなければ減りもしない。
もちろん、断ち切れるものでは絶対にない”
「欲も多く」とは、あれが欲しい、これも欲しい、金が欲しい、
恋人が欲しい、尊敬されたい、才能も努力も認められたい、
若く見られたい、キレイと言われたい、まだ足らん、もっと欲しいと、
際限もなく求める欲の心で、
朝から晩まで振り回されていることです。
聖人ご自身、
「悲しきかな、愚禿鸞(ぐとくらん)、愛欲の広海に沈没し、
名利の大山に迷惑して」(教行信証)

と告白されるように、男女の性欲や人間の好き嫌い(愛欲)の
広い海に沈み切っている。
先生と呼ばれたい、悪口言われたくない名誉欲と、
一円でも金が欲しい利益欲が、
大きな山ほどあって煩わされ苦しんでいる、
情けないなあと言われています。
「愼り腹だち」とは、それらの欲の心が邪魔されてカーッと腹が立つ心。
ひとたび怒りの炎が燃え上がると、
相手が親だろうが親友だろうが恩師だろうが、
思ってはならないことを思い、
言ってはならぬことを言う、やってはならぬことをやる。
後先考えずに八方を焼き尽くす、恐ろしい心です。
「そねみねたむ心」は、仏教では愚痴といわれ、
宇宙の真理である「因果の道理」が分からぬバカな心をいいます。
不幸や災難に遭うと「あいつのせいだ」「こいつが悪い」と
他人を怨み憎しみ、ライバルの成功や隣家の新築を見てはねたみそねむ、
醜い心です。

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これらの欲や怒り・ねたみそねみの煩悩が、
「身にみちみちて」いるのが「凡夫」である、
と言われているのですが、そう聞いてどんなイメージを
思い浮かべるでしょう。
多くの人が想像するのは、大体こんな感じではないでしょうか。
「私という器があって、その中に汚い煩悩が入っている。
まあ七割か、多くても八割ぐらいだろう。
残りの二割が、理性とか真心とか愛とか、
なにか煩悩以外のピュアなものに違いない」

親鸞聖人が「身にみちみちて」と言われているのは、そんなことではない。
煩悩以外には何もない、百パーセント煩悩。
これを「煩悩具足」ともいわれます。
「具足」とは、「それによってできている」ことで、
例えば「雪だるま」は「雪具足」といえるでしょう。
雪だるまから雪を取ったら、何もなくなるからです。
といっても厳密に言えば、目や鼻に使った木炭やニンジンは残りますから、
完全な「雪具足」ではありませんね。
「煩悩具足」とは、「煩悩の塊」のことで、
我々から煩悩を取ったら、まさにゼロになる、何もなくなる。
これを「凡夫」と親鸞聖人は、言われているのです。


次に「聖」とは「聖人」のこと。
欲や怒り・ねたみそねみなどの煩悩が、凡夫ほどには荒っぽくない人。
ある程度はコントロールできる人。
ですから、「愛欲と名利に朝から晩まで振り回されている親鸞だ」
と懺悔されている、親鸞聖人ご自身のことを仰ったのではありません。
相当高いさとりを開いている人のことを、
「聖」と言われているのです。


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「逆」は「五逆罪を造っている人」
「五逆罪」とは、「五つの恐ろしい罪」をいいます。
中でも初めに挙げられているのが、「親殺し」の罪です。
包丁で刺したり、寝室に忍び込んで絞殺するなど、
子が親を殺す事件が絶えませんが、親鸞聖人は、
そのように手にかけて殺すばかりが五逆罪でないのだよと、
「親をそしる者をば五逆の者と申すなり」(末灯鈔)
と言われています。
「早く死んでしまえ」と言うのは無論だが、
「うるさい」「あっちへ行け」などとののしるのも五逆罪である、
ということです。
また仏教では、「殺るよりも、劣らぬものは、思う罪」と言われ、
もっとも恐ろしいのは「心」で殺す罪。
「心で親を殺す」とは、一つ屋根の下に暮らしておりながら
ロクに口もきかず、呼ばれても聞こえないふりをして親を
邪魔者扱いすることです。
赤ん坊のころは、おしめ換えから食べ物ひとつひとつ、
何もかも世話をしてもらい、
高熱を出せば夜通し看病してもらった。
小・中・高と心身を削って養育され、精神的にも経済的にも、
一人前になるまでどれだけ親に手間をかけて、
私たちは成長してきたことでしょうか。
ところが今度はその親が、寝たきりになったらどうでしょう。
おしめ一つ換えるのも面倒くさがり、
介護に疲れて「もういい加減に・・・」、
他人にはとても言えぬ恐ろしいことを、自分は絶対に思わないと、
言い切れる人はありましょうか。
音を仇(あだ)で返す鬼とはいったい誰のことか、
よくよく胸に手を当てて反省せずにはおれません。

これら「親殺し」など五つの罪のうち、
一つ犯しても「五逆罪」であり、
もっとも苦しみの激しい無間地獄に堕ちる「無間業」と教えられています。
その五逆の罪人を「逆」と言われています。

「謗」は、「謗法罪を造っている人」のことで、
親鸞聖人は、「善知識をおろかに思い、師をそしる者をば、
謗法の者と申すなり」(末灯鈔)
と仰っています。
「謗法罪」とは、真実の仏法を謗ったり非難する罪をいいます。
大恩ある親を殺す五逆罪も大変恐ろしい罪ですが、
最も恐ろしいのが仏法を謗る(そしる)罪であり、
「無間業」と教えられている。
それは、すべての人が救われるたった一本の道である仏法をぶち壊し、
幾億兆の人を地獄へ堕とすことになるからです。
だが、「仏法も鉄砲もあるか」「仏教なんて迷信だ」「邪教だ」と
ののしる者だけが、謗法しているのではない、
「善知識をおろそかに思う」ことも謗法罪である、
と教えられているお言葉です。
「善知識」とは、仏教を正しく教える先生のことであり、
「おろかに思う」とは、おろそかにする、軽んずること。
例えば、居眠り半分や他のことを考えながら聞いたり、
「どれだけ聞いても分からん」と不平を言う、
「今日の話は長かった」「短かった」と批評するのも、
善知識を疎かにしているのです。
このような謗法罪を造っている人を「謗」といわれるのですが、
一体だれのことでしょうか。
仏法聞かぬ人は、「仏法聞くなら他のことをする」と身体で謗法罪を造り、
聞いている人は聞きながら、謗法罪を造っているのです。
されば「凡・聖・逆・謗」とは「すべての人」、
「どんな人も」ということであり、
この中に入らぬ人は一人もないことが、お分かりになるでしょう。

●弥陀に救われたら、どうなるのか。

次に「斉しく(ひとしく)廻入すれば」の「廻入」とは、
「廻心帰入(えしんききゅう)」を略した言葉です。
「廻心」とは「心が廻る(まわる)」と書くように、
心がガラーッと百八十度変わってしまうこと、
「帰入」は、阿弥陀仏の誓願に救われたことをいわれます。
阿弥陀仏は、「すべての人を、必ず極楽浄土に生まれられる身に救う」
という超世の大願をおこされています。
この「弥陀の誓願不思議」に助けられたならば、
「死んだらどうなるのか後生不安な心」が、
「いつ死んでも必ず浄土に往ける大安心」に、
「何のために生きているのか分からない」暗い心が、
「人間に生まれたのはこれ一つのためだった」と明るい心に、
生まれ変わる。
永久の闇より救われて、苦悩渦巻く人生が、
そのまま絶対の幸福に転じ変わってしまう。
弥陀に救われる前と、救われた後とでは、
このように心がガラーッと変わり果てますから、
弥陀に救い摂られたことを「廻心」といい、
『正信偈』には「廻入」といわれているのです。

しかもその「弥陀の救い」は、「一念」であることを親鸞聖人は、
「一念とは、これ信楽開発の時尅(じこく)の極促(ごくそく)を顕す」
(教行信証)
と説示されています。
「信楽開発」とは、“後生不安な心”が晴れ渡り、
“必ず浄土へ往ける”大満足がおきたこと。
その「弥陀の救い」の速さを「一念」という、
と言われているお言葉です。

凡夫も、聖人も、五逆の罪人も、謗法の者も、
一念で阿弥陀仏に救い摂られたならば
(凡・聖・逆・謗、ひとしく廻入すれば)、
どうなるのか。
一味になる。それはちょうど、世界中の川の水が、
海に流れ込むと、同じ塩辛い一つの味になるようなものだ

と、例えで教えられているのが、次の
「衆水の海に入りて一味なるが如し」です。
「衆水」とは、色々の川の水のこと。
日本にも、世界にも、沢山の河がありますが、
どの川の水も、海へ、海へと向かって流れています。
大河も小川も、綺麗な川の水も汚い川の水も、
万川の水がやがて必ず海にたどりつくことを、
「衆水が、海に入る」と言われ、
海に流れ込んだならば、同じ塩辛い味になることを、
「一味になる」と表現されていまする
海は、圧倒的に広くて大きいですから、
どんな川の水も受け入れて、海には入れば一つの味になる。
そのように、
「阿弥陀仏に救い摂られたならば、ノーベル賞をもらった人も、
凶悪殺人犯も、才能の有無、健常者・障害者、
人種や職業・貧富の違いなどとは関係なく、
すべての人が、同じよろこびの世界に共生できるのだよ」
と、驚くべき世界を喝破されているのが、
「凡聖逆謗斉廻入
如衆水入海一味」
の二行なのです。
「えー、殺人犯も同じよろこびに共生するって、
おかしいんじゃないの」と思われるでしょう。
このお言葉の真意を知るのは、
実は大変なことで、ちょっとやそっとで分かるものではありません。
例えば、こう言われて、ピンとくるでしょうか。
「ヒトラーも、オバマ大統領も、酒井法子さんも、あなたも、
弥陀に救われたならば、全く同じ心の世界に生かされるのですよ」
あまりに常識からかけ離れていて、
「なるほどそうですか」と、簡単に納得できることではありませんね。
そこで聖人は、この不可思議な弥陀の救いを
何とかみんなに知ってもらいたい、早く弥陀の救いに遇ってもらいたいと、
同じ法然門下の法友と、大ゲンカまでなされたのが、
今日「信心同異の諍論」といわれている論争です。
「阿弥陀仏の救いは、一味平等か、差別はあるのか」
で、激しく闘われた親鸞聖人の大喧嘩について、
また別の機会に詳説したいと思います。


がんばって生きるのは何のため? [親鸞聖人]

shinran
(親鸞聖人)

「がんばって生きよ」と励ます本が相次いでベストセラーになりました。
「毎日が訓練と思って耐えなさい、きっと幸せになれるから」
「何でもいいから、信じた道を歩んでほしい」
と訴えています。
「思いは、かなう」のキャッチフレーズとともに、困難を乗り越え、
がんばった無名の人に、スポットを当てる番組も人気です。
「がんばれ」「あきらめるな」というメッセージを、
みんな待望しているようです。

ところが、若くして芥川賞を受賞し、
一躍、時の人となった金原ひとみさん(当時二十歳)の
「受賞のことば」は、少々変わっています。
がんばって生きてる人って何か見てて笑っちゃう(中略)
一生懸命、気張らずに、とりあえず書いて、まあ、適当に。
今までも適当に生きてこられたし、芥川賞を受賞できた」
          (『文芸春秋』平成十六年三月号)

「そんなにがんばって何になる」とでも言いたげなこの発言に、
「これは傲慢不遜な人間観だ」と政治評論家の早坂茂三氏(当時73歳)
は語気を荒げました。

かつて日本人の美徳とされた「努力、忍耐、勤勉」も、
今や「死語」になったとささやかれる時代。
「近頃の若者は・・・」と言えば、
「年寄りの常套句(じょうとうく)」と煙たがられる。
多少のことは「時代の流れ」と達観するのが処世術かもしれません。

しかし、がんばることを否定する物言いに、
多くの人が衝撃を受けるのは、
世の常識を、真っ向から否定しているからでしょう。
つまり「がんばることはよいことだ」の信念に、
「がんばることが、どうしてよいことか」と挑んでいるのです。
果たしてこの反論に、どう答えればよいでしょう。
「がんばって生きていれば、きっとそのうちいいことあるよ」
と励まされても、了解できません。
なぜなら心の片隅に、「どうせがんばっても報われない」
の苦い思いを抱く人が少なくないからです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
要約
「がんばって生きることはよいこと」、これが多くの人の信念。
しかし、それに疑問を抱く人がいる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●「がんばっても報われない」と、多くの人が感じている

「がんばっても報われない」
こんな嘆きの声は四方に満ちています
「この坂を越えたなら、しあわせが待っている
そんなことばを信じて 越えた七坂四十路坂」
の歌(都はるみ)がはやったのも、
報われなかった苦労を嘆く人に共感を呼んだからかもしれません。

「この坂さえ越えたなら、幸せがつかめるのだ」と私たちは、
必死に目の前の坂を上っています。
「金さえあれば」「物さえあれば」「有名になれたら」
「地位が得られれば」「家を持てたら」「恋人が欲しい」などなど。
ところが、とらえたと思った楽しみも一夜の夢、
握ったと信じた幸福も一朝の幻、
線香花火のように、はかないものです。
やっとの思いで幸福を手にした瞬間から、
苦しみの魔の手が足下から背後から近づいています。
どんな幸せも、やがて私を見捨て、傷つけずにはおきません。



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親鸞聖人とお釈迦様 [親鸞聖人]

親鸞聖人は、世界の光と言われ、世界中の人から尊敬されている方です。

何故、世界の光と言われているか、

それはお釈迦様の教えを自分の考えを一切入れず

正確に、我々が受け取りやすいように、徹底して教えて行かれた方だからです。

親鸞聖人の書かれた正信偈の冒頭のお言葉は、

帰命無量寿如来、南無不可思議光ですが、

帰命は昔の中国の言葉で救われた、助けられたという意味です。

南無は昔のインドの言葉で同じく救われた、助けられたという意味です。

無量寿如来は阿弥陀仏の別名で、

不可思議光は不可思議光如来の略で同じく、阿弥陀仏の別名です。

よって、親鸞は阿弥陀仏に救われたぞ!、助けられたぞ!

繰り返して言われているお言葉です。

何故繰り返し言われたかですが、うれしさがあまりに大きかった、

驚きがあまりに大きかったので繰り返して言わずにおれない心を表しているのです。

私たちもうれしさが大きかったとき、驚きが大きかったときに言葉を繰り返しますよね。

例えば、夕飯時に停電して、さあ食べようと思っても暗くて食べられず、

おあずけをくらっていたときに、突如明かりが点いたら、

あっ、点いた!、点いた!と喜ぶんではないでしょうか。

受験勉強して、希望する大学に受かったときに、

掲示板を見て、あっ、受かったとぼそっと一言で終わるでしょうか。

受かった受かった!と飛び跳ねるでしょう。

心から待ちわびていたことが到来したときにわれわれは言葉を繰り返さずにはいられないのです。

親鸞聖人は比叡の山で20年間難行苦行をして、

後生の一大事の解決に全身全霊で打ち込みました。

法華経の教えでは救われないことをはっきりと知らされて、

泣く泣く山を下りられ、法然上人に巡り会われました。

そして法然上人の教えの下で、阿弥陀仏に救われることができたのです。

そのときの喜びは、ちょっとやそっとのことではありません。

20年間修行をして、地獄しか行き場のないことを知らされ、

その怖ろしさに戦慄し、追いつめられ、絶望したところで救われたのです。

阿弥陀仏に救われ、無始から苦しみ続けた魂を解決していただき、

地獄しか行き場の無いものを、死ねば阿弥陀仏の極楽に往生できる身となり、

大安心、大満足の身になられました。

その時の喜びは我々が想像できるようなものではありません。

何度叫んでも叫びたりないでしょう。

その気持ちを表すために2回繰り返してお書きになられているのです。

そして死んでからではなくて今生で救われるのが阿弥陀仏の救いだと強調して教えられているのです。

また明日お釈迦様の教えを、親鸞聖人を通してお伝えしようと思います。




こちらでも同じ記事を載せています。
お釈迦様が本当に伝えたかったこと(seesaaブログ)


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