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本当の仏教の先生に会うことはいかに難しいか [苦しみの根源]


(真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」から載せています)

真の知識にあうことは
難きが中になおかたし
流転輪廻のきわなきは
疑情のさわりにしくぞなき
        (親鸞聖人)

「真の知識」とは、本当の仏教を説く先生のことです。
「本当の仏教」とは、
「流転輪廻のきわなきは、疑情のさわりにしくぞなき」
と教える仏教のこと
で、
このように説く真の知識には、めったにあえないものである
と聖人は仰っているのです。

では、
「流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき」

とはどんなことか、解説を続けましょう。

●「流転輪廻のきわなきは」とは

「流転輪廻」とは、安心・満足というゴールのない円周を、
いつまでもグルグル回って苦しんでいるさまをいいます。

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禅僧・一休は、
人生は 喰て寝て起きて糞たれて 
子は親となる 子は親となる

と歌いました。

人が生きるということは、食べたり出したり、
寝たり起きたりしている間に、
小学校から中学、高校、大学と進み、
就職し、色気づいて結婚し、
子が親となって子育てしながら、
あくせく働いているうちに、気がついたらはや中年。
あーあ、もう人生の折り返し地点か、
などと寂しがっていると、
あっと言う間に退職を迎え、
いつの間にか孫が生まれて、
「おじいちゃん」「おばあちゃん」になっている。

こうして「喰て寝て起きて」を
何万回と重ねている私たちですが、
その間に「生まれてきてよかった」と
言えるほどの何かいいことあったでしょうか。

「今までで、一番うれしかったことは?」
「どんなときが幸せ?」
と聞かれて、即答できる人はどれだけあるでしょう。
「いやぁ、何かいいことあったかなぁ・・・・」。
昨日見た夢と区別がつかない程の記憶しか残っていないのが、
多くの人の実態ではないでしょうか。

そんな人生を聖人は、
「流転輪廻のきわなきは」
と言われているのです。
この果てしない流転輪廻(苦しみ)から、
「必ず救う。絶対の幸福にしてみせる」
と誓われているのが、阿弥陀仏の本願です。

なぜ苦しむのか

「肛門に目薬」とは、的外れな対処をヤユした言葉ですが、
痔が痛くてつらいのに、
そこへ目薬を差してもどうにもなりません。
そんな例えなら笑って済まされましょうが、
何ごとも原因を知らなかったり、
間違えたりすると大変なことになります。
治る病気も助からない。

お腹が痛い時でも、胃潰瘍の痛みか、
ガンからきているのか、神経性のものなのか、
正しい診断がなければ、的確な治療は望めず、
当然、患者の苦しみは除かれません。

胃ガンを潰瘍と誤診していたらどうなるか。
間違った治療を続けているうちに、
取り返しのつかないことになってしまいます。
病気の原因を突き止めることが、
治療の先決問題でしょう。


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私たちはなぜ苦しみから離れられないのか。
「人間に生まれてよかった」という喜びがないのでしょうか。

流転輪廻のきわのない本当の原因を、
正しく見極めてこそ、それを取り除いて、
真に輝く人生が開かれるのです。

苦悩の真因を、親鸞聖人はこう説かれています。
「疑情のさわりにしくぞなき」

疑情とは「無明の闇」のこと、
「しくぞなき」とは、これ以外にない、
これ一つということですから、

「すべての人が、苦しみから離れ切れない元凶は、
無明の闇ひとつなのだ」
と断言されているお言葉です。

私たちが最も知りたい、知らねばならないことを、
聖人は一言で説破されているのです。

●「無明の闇」とは何か

「無明の闇」とは、何なのか。
「無明」とは「明かりが無い」と書くように、
「暗い」ことです。
暗いことを「闇」とも言われますから、
意味を重ねて「無明の闇」と言われています。
「暗い心」のことです。
「暗い」とは分からない、ハッキリしないことで、
例えば「経済に暗い」といえば、
経済のことを知らないこと、
「パソコンに暗い」とは、パソコンのことはよく分からない、
ということ。
「無明の闇」とは、「後生」に暗い心をいうのです。
「後生」とは、私たちの100パーセント確実な未来です。

一休は、「元旦や 冥土の 旅の 一里塚」
と歌った。
「冥土」とは、死んだ後の世界です。。
年が明けると、みんな「おめでとう」「おめでとう」と言いますが、
私たちは「一年経てば一年、一日生きれば一日、
死に近づいております。
死ぬのは嫌じゃ嫌じゃと言いながら、
毎日、墓場に向かって行進しているのです。

すべての人が、後生へと向かっての旅人なのです。
たとえ地震や津波から逃げることはできても、
死ぬことから免れることはできません。
早ければ今晩かも知れません。
何かのことで吸った息が吐き出せなければ、
吐いた息が吸えなければ、その時から後生です。

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先のゴールデンウイーク、
関越道で高速バス死亡事故が起きました。
(平成24年のことです)
金沢を4月28日の夜に出発、富山県を経由して、
ディズニーランドのある浦安へ向かっていた夜行バスが、
92キロのスピードで防音壁に激突、
19歳の女性を含む7人の尊い命が奪われました。
乗客45名は皆、明日、目が覚めたら東京だ、
ディズニーランドだとワクワクしながらバスに乗り込み、
眠りに就いたにちがいありません。
ところが翌朝4時40分の事故で、
一瞬にして後生へと旅立ってゆかれた。

今生から後生へと変わるのには、
一日もかからない。
あっという間です。
50年や60年先のことではなく、
一息一息と触れ合っているのです
から、
人類70億の中で、後生と関係のない人は、
一人もありません。

ところが、普段「死」と聞いても、
ほとんどの人が「死んだら死んだ時だ」
「考えたって、どうにかなるものじゃない」
と、問題にもしていません。
肉親や友人の死にあって否応なしに考えさせられる時は、
「もうあの人には永遠に会えないのか。
いや待てよ、オレもやがて死ぬんだな」
と真面目にもなりますが、一過性で、
しばらくするとケロッとしています。
「そりゃあ、いつかは死ぬだろうが、
まだ当分、先のこと」と、死を先送りする。
死ぬということが、どうしても問題にならないのが私です。
「死ぬのは恐ろしい」と言ったところで、
ながめている他人の死と、眼前に迫った自己の死は、
動物園で見ているトラと、
山中で出くわしたトラほどの違いがあるのです。


秋田県のクマ牧場で、女性従業員2名が、
飼育していたヒグマに襲われ亡くなる事故が起きました。
いつも餌を与えていたクマたちが、
檻から逃げて目の前に出現した時の恐怖は、
どれほどだったことか。

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元気な時は、「死は休息だ」「永眠だ」「別に怖くないよ」
と気楽に考えていますが、“いざ鎌倉”となると、
先はどうなっているかが大問題となります。

死後は有るか、無いか。
無いなら無いでハッキリしているなら安心もできようが、
どうなっているやら、さっぱり分からない。
後生は真っ暗がりなのです。

この「死んだらどうなるか分からない心」を、
「無明の闇」といわれるのです。


阿弥陀仏は、この「無明の闇」こそが
私たちの苦しみの根元と見抜かれ、
「すべての人の無明の闇を破り、
必ず浄土へ往ける大安心に救う」
と約束なされている。
これが「阿弥陀仏の本願」です。


「本願」とは「誓願」とも言われます。
この「弥陀の誓願」を正しく伝える方を「真の知識」と言い、
そういう方はめったにおられないから、
「真の知識にあうことは 難きが中になお難し」
と仰っているのです。


そんな中、幸いにも親鸞は、
弥陀の誓願不思議を説かれる法然上人に
お会いすることができたのだ。
ああ、なんと幸せな者なのかと、
喜んでおられるお言葉なのです。

ここで、「無明の闇を破る」お力のある方が、
大宇宙広しといえども、
それは本師本仏の阿弥陀仏だけなのだよ
と、
親鸞聖人は、

無明の闇を破するゆえ
智慧光仏となづけたり
一切諸仏三乗衆
ともに嘆誉(たんにょ)したまえり

と褒め称えておられるのです。


タグ:善知識
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闡提とは何か [Q&Aシリーズ]

(質問)真剣に仏法を求めていくと、
      見えてくる闡提の機とはどんなことか。

闡提(せんだい)とは梵語で、断善根(だんぜんこん)
の衆生のことで、無信と訳されています。
微塵ほどの善根のない者をいいます。
信順を因と為し、疑謗を縁と為し、
信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕さん

        (教行信証)
と親鸞聖人の仰せのように、
謗法(ほうぼう)の者はまだ多少とも助かる
縁手掛かりがありますが、
闡提だけは全く助かる見込みがありませんから

『涅槃経』には「死骸のごとし」と説かれています。
親鸞聖人は「逆謗の屍」と仰っておられる心です。

これは己の死を真面目に凝視して真剣に求道しなければ、
見えてこない心です。

(※謗法とは、仏法を謗ることです。)

ある所に、よく喧嘩をする菓子屋の夫婦がいました。
今日もささいなことで口争いとなり、
ついには亭主は女房を殺すと言い、
女房は殺すなら殺せ、と叫喚怒号となりました。
たまたまそこへ通りかかった寺の和尚が、
また始まったかと思って、
「どうしたんだ、あまり大きな声を出すと、
人が寄ってきて笑うじゃないか、ほれほれ、
あんなに多くの子供が見ているじゃないか、
やめなさい、やめなさい」
と仲裁に入りますが、亭主は頑として聞かない。

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「和尚さん、今日という今日は我慢ならねえ、
今日こそ、かかあをたたき殺してやる、
捨てておいてください」
女房も女房で、
「和尚さんほうっといてください。
さあ!殺せるものなら殺してみろ」
とかみつかんばかりに逆上している。
思案に暮れた和尚は、
「これほど止めても聴き入れぬなら仕方がない、
殺すと殺されると勝手にするがよからう」
と言って、店先の菓子をつかんで、
「さあよいか、おまえたちにこの菓子全部くれてやるから、
好きなほど持っていけ」
と子供たちに、どんどんばらまいた。
菓子屋の夫婦は驚いた。
「和尚さん、何をされる、そんなことされては、
私たち、明日から商売できんじゃないですか」
と和尚のところへ飛んできた。
「何!明日から商売、殺すとか殺されるとか言っていたのは、
おまえさんらではないか、今殺される人と、
殺して牢屋へ行く人じゃないか、してみれば、
おまえさんらに用事のない菓子じゃないか」
と和尚が言うと、
「ああは言ったが、今晩また一緒に寝るつもりじゃ」
と言ったそうですが、
私たちには感情は激怒している時も、
その下に湖底のように静まり返っている心があります。

見えてくる
    腹底の心

特に真剣に仏法を聴聞していきますと、
ハッキリと2つの心があることが分かってきます。
死に直面すれば、一切のものが総崩れになり
真っ暗な後生に泣かねばならないのではないかと、
上の心は焦っても、天王寺の鐘を
蚊が刺したほどにも思わぬ心が、
腹底に横たわっていることに気がつきます。

地獄と聞いても驚かず、極楽と聞いても喜ばず、
仏法に明日という日はないのだと切り込まれても
急ぎもしなければ慌てもしない、
仏法に向かったら金輪際動かぬ心が闡提の機というのです。

上辺の心は罪悪の恐ろしさに縮み上がって、
今死んだら大変だと後生の一大事にジリジリしていても、
下の心は悪を悪とも思わず、
業を業とも感ぜず、キョロン、トロン、ボーと
知らん顔しているのです。

あの人が死んだのかと驚いて
同情の涙は流しても、その心の底には、
自分はまだ死なない、まだ死なないと、
後生とも菩提とも思わず、
平気でせせら笑っている心が闡提です。

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因果の道理を整然と聞かせていただければ、
教えには何一つ欠点はありませんから、
頭は分かりすぎるほど合点承知しているのですが、
どうしても承知しない納得しないやつが、
腹底にドタ牛が寝ているようにビリッとも動きません。

一念で
   生き返る

打ってもたたいても浴びるほど聞かせていただいても、
うんともすんとも言わない心です。
素直に聴聞しようとすればするほどひねくれてくる心、
はしにも棒にもかからぬ心、
三世の諸仏があきれて逃げた心は
この心であったのかと泣かずにはおれない心です。

この死骸のような闡提の機が、
若不生者の念力に貫かれた一念で生き返り、
聞き切らんやつが聞かされ、
金輪際なれぬやつが成らされ、
「謗法闡提(ほうぼうせんだい) 
廻心皆往(えしんかいおう)」を体験されるから、
不可称不可説不可思議のご本願よと、
感泣せずにおれないのです。
(※若不生者の念力に貫かれるとは、阿弥陀仏に救われること)


タグ:謗法 闡提
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