SSブログ

未来永遠に続く幸せの厳存!! [なぜ生きる]

 

(真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」から載せています)

誠なるかなや、
摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ
        (親鸞聖人)
まことだった!本当だった。
弥陀の誓いにウソはなかった。
みなみな、聞いてもらいたい、
この親鸞が生き証人だ。
早く、弥陀の誓願まことを知ってもらいたい

ここで聖人が「摂取不捨の真言」と言われているのは、
「阿弥陀仏の本願」のことです。

すべての仏の師匠である阿弥陀仏が
誓われたお約束のことで、
『歎異抄』の冒頭には「弥陀の誓願」と著されています。

弥陀の誓願は、
“すべての人を、摂取不捨の利益(絶対の幸福)に救う”
という真実の誓いです。

この弥陀の本願を親鸞聖人は「摂取不捨の真言」
と言われているのです。

絶対に捨てられぬ幸福

「摂取不捨」とは文字どおり“摂め取って捨てぬ”ことであり、
「利益」は“幸福”のことです。
“ガチッと摂め取られて、捨てられない幸福”
を「摂取不捨の利益」と言われます。


EPSON139.jpg-1.jpg


私たちは、健康を失わないか、
妻や子供が自分から離れていかないか、
友人の裏切り、会社のリストラ、金や財、名誉や地位から、
見捨てられはしないかと日々不安を抱え、

薄氷を踏むような日暮らしをしているのではないでしょうか。
とらえたと思った楽しみも一夜の夢、
握ったと信じた幸福もシャボン玉、
まるで線香花火のようにはかないものだと
知っているからです。

どんな壮大な栄華も、やがて夢幻と消えていきます。

400万票以上という、最多得票記録で当選した
猪瀬・前東京知事
「東京五輪招致」を実現させた得意の絶頂から
わずか百日余りで辞任とは誰が想像したで
しょう。
辞意表明の前夜に発売された
猪瀬氏の著書『勝ち抜く力』が書店に並ぶ光景は、
まさに盛者必滅を地でいくものでした。
南米エクアドルで新婚旅行中の夫婦が強盗に襲われ、
夫(30歳)が亡くなりました。
目撃者によると、黄色いタクシーと黒い車が走り去った後、
27歳の新妻は、倒れた夫の名を呼びながら
泣き叫んでいたといいます。
挙式の一週間後のことでした。
世界制覇をもくろんだアレキサンダー大王
世界の三大征服者に数えられる彼の死因は諸説ありますが、
その一つが「蚊に刺されマラリアにかかったから」です。
それが本当ならば、広大な地域を支配した男も、
蚊一匹によって、すべてを奪われたことになる。
ある人は、彼を評して、こう言いました。
「全世界で足りなかった人も、一つの墓で十分」

たとえ幸せが続いたとしても

アニメ『世界の光・親鸞聖人』第4巻に
次のような場面があります。

親鸞聖人 「いいですか皆さん。考えてみてください。
      もし皆さんがお金もあり、子宝にも恵まれ、
      健康に暮らせたとしても、それで本当に、安心できますか

参詣者A 「そうなれば、安心できると思うが・・・
参詣者B 「しかしなぁ。金持ちになったら盗まれはせんかと、
       また心配じゃな

親鸞聖人「たとえ、どんなにお金が儲かっても、
      死んで持っていけるわけじゃない。
      病気
が治っても、一時の安心ではありませんか。
      死なんようになったわけじゃない。
      少し死ぬのが延びただけ。
      やがては死なねばなりません

参詣者A 「そんなこと考えんようにするしかないわ
親鸞聖人 「こんな一大事が、外にあるでしょうか。
       考えないで済むことではありません。
        これを後生の一大事といいます。
        この一大事の解決こそが、仏法の目的なのです。
        なぜ苦しくとも生きねばならぬのか。
        この、一大事の解決のためです!


たとえ、事故や事件に巻き込まれず、
幸せが続いたとしても、
人は皆死んでいかねばなりません。

蓮如上人のお言葉に耳を傾けてみましょう。

それ、つらつら、人間のあだなる体を案ずるに、
生ある者は必ず死に帰し、
盛なる者は終(つい)に衰うるならいなり。
されば、ただいたずらに明し、いたずらに暮して、
年月を送るばかりなり。
これまことに歎きてもなお悲しむべし
           (御文章三帖目四通)

(意訳)人間のはかなさをよくよく見るに、
生まれたからには死は免れず、
栄華を誇る者もやがて衰える。
むなしく月日を送るすがたは
まことに嘆かわしいではないか

咲き誇った花も、やがて散る。
死の巌頭に立てば、死に物狂いでかき集めた財宝も、
名誉も地位も、すべてわが身から離散し、
一人でこの世を去らねばなりません。
こんな大悲劇に向かっている人類に、
絶対の幸福の厳存を明示された方が、
親鸞聖人です。

絶対捨てられない身にガチッと摂め取られて、
「人身受け難し、今已に受く」(釈尊)
“よくぞ人間に生まれたものぞ”と、
生命(いのち)輝く摂取不捨の幸福こそ、
万人の求める幸せであり、人生の目的なのです。

疑心を打ち砕かれた聖人の歓喜

“どんな人も必ず、
摂取不捨の幸福(絶対の幸福)に救い摂る”
と誓われた弥陀の本願。
しかし、そんなすごいお約束を素直に
信じられる人など一人もありません。
「本当に絶対の幸福など、あるのだろうか」
「どんな人もと仰るが、私も救われるのだろうか」
という疑いが、必ず起きてきます。

その疑心を粉砕された聖人の歓喜が、
「誠なるかなや、摂取不捨の真言」
なのです。

摂取とは、逃げ回っているものを追いかけて、
もう逃げ場のないところまで追い詰めて救う、
という意味です。
私たちは皆、阿弥陀さまに背を向けて
逃げ回っているのです。
そんな私をどこまでも追いかけ、追いこんで、
「逃しはせぬぞ。必ず救う」と摂取不捨。

「弥陀の本願まことだった、
摂取不捨の真言本当だった。

この親鸞が生き証人だ。
どうか皆さん、早く絶対の幸福になってくれよ


この聖人の断言に、
私たちはどれだけ励まされることでしょう。

仏法は聴聞に極まる

では、どうすれば聖人と同じ、
摂取不捨の幸福に生かされるのか。

聞思して遅慮することなかれ
と教えられています。
「聞思」とは「聴聞」のこと。

蓮如上人は、
仏法は聴聞に極まる
と仰せです。
弥陀の救いは聞く一つなのです。
ちょっと聞いて合点したのが救いではありません。

いつも信心の一通りをば、われ心得顔の由にて、
何事も聴聞するにも、その事とばかり思いて、
耳へも確々(しかじか)とも入らず、(乃至)
かくの如きの心中にては、
今度の報土往生も不可なり
              (御文章二帖目五通)

(意訳)ひととおり聞いて分かったつもりになり、
同じ話を「またあの話か」と馬鹿にして耳にフタをする。
それでは仏法は聞けない、報土往生はできないのである。


ただ珍しきことを聞きたく思うなり。
一つことを幾度も聴聞申すとも、
珍しく、はじめたるようにあるべきなり

             (蓮如上人御一代記聞書)

珍しい話、変わった話を聞きたがるが、何度、
同じことを聴聞しても、初事、初事と聞かなければならない
珍しい体験談や、知識を増やすための聞法では、
ダメです。

阿弥陀如来の救いを、
自分の具体的な体験(いつ、どこで、どうなった)
で語る人がありますが、それは、
万人に通ずる教えではありません。

各人各様の体験談を聞いて救われるのではないのです。
「泣いた」「笑った」「跳び上がった」「念仏が噴き上がった」
のが弥陀の救いではありません。

蓮如上人の金言を胸に、阿弥陀如来の御心(弥陀の本願)
をよくよくしっかりと、聞かせていただくことが肝心です。

 

 


タグ:摂取不捨
nice!(103)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。