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聖道仏教ではなぜ助からないのか? [聖道仏教と浄土仏教]

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親鸞聖人の主著「教行信証」

聖人の代表的著作
     三重廃立の教え

親鸞聖人の代表的著作と言えば『教行信証』である。
聖人の教えは、すべて、このお聖教の中に記されており、
故に、浄土真宗の根本聖典となっている。
『教行信証』を知らずして、
親鸞聖人のみ教えを知ることはできない。

では、何が説かれているのか。
ズバリ、「三重廃立」である。
「廃立」とは、捨てものと、ひろいもの、の意である。
全人類が、真実の幸福を獲得するためには、
三つのものを捨て、
三つのものを信じなければならない。

三重廃立とは、こうだ。
内外廃立・・仏教以外の全宗教を捨てて、仏教を信じよ。
聖浄廃立・・聖道仏教を捨てて、浄土仏教を信じよ。
真仮廃立・・浄土他流を捨てて真宗を信じよ。

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聖道仏教を捨てよ

今回は、「聖浄廃立」について、明らかにしよう。
「聖」とは聖道門自力の仏教のことであり、
宗派で言えば、天台宗、真言宗、禅宗などが代表と言える。
「浄」とは、浄土門他力の仏教であり、
浄土真宗、浄土宗などである。
「廃立」は前述の如く、
捨てるべきものと、信ずべきものであり、
親鸞聖人は、徹底的に、
聖道仏教を捨てよ、浄土仏教を信じよ、
と叫んでゆかれた。

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聖道権化の方便に
衆生久しくとどまりて
諸有(しょう)に流転の身とぞなる
悲願の一乗(いちじょう)帰命せよ

         (親鸞聖人)

聖道仏教という方便の教えを、
多くの人が真実の仏教と勘違いして、
長らくそこにとどまっているから、
たちまち短い一生が終わって、
迷いの世界に流転輪廻してしまう。
人々よ早く、聖道仏教を捨て、
全人類の救われる唯一絶対の教えである、
阿弥陀仏の本願に帰命せよ

『正信偈』の中にも、説かれている。
「道綽決聖道難証(どうしゃくけっしょうどうなんしょう)
唯明浄土可通入(ゆいみょうじょうどかつうにゅう)」

道綽は、聖道の証し難きことを決し、
唯、浄土の通入すべきことを明かす」と読む。

中国の高僧、道綽禅師は、聖道仏教では、
人々が救われないことをハッキリと教えられ、
唯一、浄土門他力の仏教こそ、万人の救われる道たることを
明確に説き切られた。

親鸞聖人は、その功績を讃えられ、
『正信偈』に記述しておられるのだ。

天台宗、真言宗といえども釈迦の説かれたみ教えなのに
何故に親鸞聖人は排斥されるのだろうか。

その前に、釈尊の教えは一つの筈なのに、
多くの宗派が存在するのは、何故なのか。
説明しなければならない。

仏教の目的は成仏
    手段の相違が宗派を生む

仏教とは、仏の教えであり仏になる教えである。
「仏」とは何か。
これは仏教でいう「さとり」の一名称なのだ。
仏教では、「さとり」という言葉をよく使うが、
さとりには、五十二の位がある。
それぞれに名前がつけられている。

例えば千三百年ほど前の中国で、天台宗を開いた天台は、
生涯独身を貫いて、仏道修業に打ち込んだ人物である。
天台の臨終に弟子が尋ねた。
「師は、いずれの位をさとられましたか」
その時、天台は正直に告白した。
「下から九段目の五品弟子位(ごぼんでしい)までしか
到達できなかった。
もし、私が、大衆の教化に時間を費やすことがなければ、
下から十段目の六根清浄位は獲ていただろう」

一宗一派を開いた程の人物にしてわずか九段。
如何に、さとりの階段を上るのが困難かが分かる。
仏の覚り、とは、この五十二位中の最上の位を言う。
五十二段目である。
これ以上の覚りはないから無上覚とも言い、
妙覚ともいう。
涅槃、大覚、無上正真道(むじょうしょうしんどう)などみな、
仏のさとりの異名である。
これに達した方のみを仏というのである。

釈尊の場合、生老病死の人生の無常を感じられて、
29歳で出家され、35歳までの6年間の難行苦行の末、
遂に35歳12月8日に、仏の覚りを極められたのである。
成仏得道、とこれを言う。
仏道修業は成仏得道、仏のさとりに達する事が目的である。
そこに、一切の苦悩から解放された世界があるのだ。

釈尊は、仏のさとりに至る修行を種々に説かれた。
目的は同一でも、手段が異なることはある。

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分け登る
ふもとの道は 異なれど
同じ高嶺(たかね)の
月を見るかな

この古歌の意味は
「登山する人は、いろいろな方角から登るが、
同じ頂上で、同じ月を見るのだ」
というものである。
富士山で言うならば、東から登れば御殿場口、
西から行けば浅間口、
北側からならば自動車道路スバルラインで5号目までは快適だが、
そこから頂上までは、やはり歩かねばならぬ。

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同様、仏の覚りを開いて眺める真如の月は同一でも、
修業方法は宗派によって異なる。

座禅の行を主とする禅宗、
彼らは、「只管打坐」ただすわれ、と言う。
天台宗は『法華経』に説かれる行を実践し、
真言宗は、『大日経』に従うのだ。
『華厳経』を所依(しょえ)とする華厳宗もあれば、
『涅槃経』に基づく涅槃宗などもある。
『浄土三部経』をよりどころとするのは
浄土真宗、浄土宗などである。

いずれも、目的は、成仏得道であるから、
それが見失われたら、もはや仏教ではない。

千日回峯行(せんにちかいほうぎょう)にみる
      自力難行道

数多ある宗派を、親鸞聖人は、
どのように、二種類に分類されたのか。

仏のさとりに向かうのに、
あくまでも、自力の難行で行こうとするものを、
自力聖道仏教
と言われ、
自力では到底仏果に達することはできない。
阿弥陀仏の本願に救われて、五十一段高飛びをし、
あと一段で仏という等正覚、正定聚(しょうじょうじゅ)の位に
入ろうとする教えを他力浄土仏教
と言われるのだ。

「他力」とは、阿弥陀仏のお力のみを言う。
他人の力、自然の力などの意味ではない。
親鸞聖人は、9歳から29歳まで、
自力聖道仏教たる天台宗で修業され、
29歳の御時、法然上人との運命的な邂逅(かいこう)により、
阿弥陀仏の本願力不思議に摂取されたのである。

自力と他力、聖道門と浄土門、双方を体験された聖人が、
聖道仏教を捨てよ、と教えられている。

そう教えられたのには種々の理由がある。
まず第一に「自力難行道」と言われる如く、
修業そのものが常人には到底為し難い(なしがたい)ほど
難しい点にある。

2、3例あげてみよう。
滋賀県比叡山の天台宗は、
『法華経』の教えの通りに修業しようという宗派であるが、
有名な、千日回峯行という荒行がある。
千日回峯行を成就した、というだけで、
新聞やテレビに紹介されるほどの凄まじい行なのだ。
修業の期間は8年間。
1年目から6年目までは、毎年百日ずつである。
百日間毎日、午前2時に起き、比叡山に設定された7里半、
30キロの行者道を歩くのだ。
この間、塔堂伽藍、山王七社、霊石、霊水など、
350ヶ所で所定の修業をする。
雨風雪でも中断はできない。
中断したならば、持参の短刀で自害するのが、
江戸末期まで、山の掟となっていた。
病気、事故でも、同様である。
伝教(でんぎょう)が山を開いてより、
幕末までわずか300人しかいないといわれるから、
随分、途中で切腹して果てた修行僧がいたに違いない。

6年間で600日頑張ると、
7年目は、一年間に200日と日数が倍加する。
その間、700日目に入った時には、
天台宗で「生き葬式」といわれる「堂入り」という修業がある。
堂に入って断食、断水、不眠、不臥(ふが)のまま、
9日間も、真言を唱え、経典を読み続けるのだ。

断食・・・食物を一切とらない。
断水・・・水を断つ。普通、3、4日も水を断つと
     生命が危険といわれる。
     それを9日間である。
不眠・・・「真言」を10万回唱えたり、
      経典を読んだりする。ねない。
      一日一回だけ、堂から出ることは許されるが、
      それは「水取り」といって、小便に行く時だけなのだ。
不臥・・・横たわってもいけない。

この堂入りを成し遂げた人の体験談。
「堂に入ってボンヤリしているのではなく、
たえず、経文を読み、誦文(じゅもん)を唱えているので、
口の中に水気がなくなりやがて、
口の中に粘膜を張ったようになり、
睡魔との闘いで、頭がガンガンしてくる。
それをすぎると、ある感覚が異常に研ぎ澄まされ、
線香の灰の落ちる音さえ『ドサッ』と聞こえる。
灰の落ちていく有様が、スローモーションのように見えてくる。
最後はほとんど意識を失った状態になる」

この9日間の堂入りが、
如何に至難なことか、比較してみよう。
親鸞聖人は19歳の時、
大阪磯長(しなが)の聖徳太子廟(びょう)を訪ねられた。
その時、自らの後生の一大事の解決を祈願して堂に籠もられた。
その折りも不眠、不休、断食、断水であったが、
3日間こもられた時、遂に意識不明で昏倒してしまわれた。

その夢の中に聖徳太子が現れて
「汝が命根(みょうこん)、応に(まさに)十余歳なるべし」
という一文を含む、夢告(むこく)をなされたのである。
磯長の夢告といわれ、
親鸞聖人の求道に大変な衝撃を与えている。
19歳といえば、体力的には、最高潮の時であろう。
その時期の親鸞聖人でさえ、3日間で意識不明になられたのだ。
9日間の堂入りが如何に至難の行であるか知られる。
親鸞聖人はそれ以後に、大曼の難行という、
千日回峯行のような行を果たしておられるから、
別の機会では、9日間の堂入りのような行も、
達成されたのであろう。

堂入りで終了ではない。
801日目から1000日にむかう最後の一年間は大回りといい、
修業コースが大幅に延びる。
21里、84キロメートルの道のりを日々修業するのだ。
オリンピックのマラソンの距離が、42.195キロであるから、
その倍の長さである。
オリンピックの金メダルの選手が走っても、
4時間以上かかるのだ。
そのようなコースは比叡山では設定できないので、
山を降りて、一乗寺、平安神宮、祇園と市街地を走る。
1日17~8時間かかるのだ。
それを年間200日、1日も休まず続けねばならない。
30年ほど前、それを達成したS氏は、
苦しかった体験を述べている。
「修業の途中、イノシシに追っかけられて、
左足を痛めた。
足が倍くらいにはれて、
このままでは行が中断されると思って
短刀で切開してうみを出し、
血まみれで歩き通した。
その足で泥水の中も歩いたのに破傷風にもならず、
やり遂げることができた」
これだけ修業しても、仏果にはほど遠い、
初歩の段階でしかないのだ。
こんな修業を誰ができるというのか。
まさに難行道といわれる所以である。

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四十段までが退転位
   少しの油断も許されぬ

自力聖道の修業が難しいのは、さとりの五十二位中、
四十位までが退転位である点にもある。

退転位とは、退き、転がるの意で、
四十段までは、さとりを開くと言っても、
少しでも油断すると、たちまち崩れてしまうのだ。

法然上人と同時代、華厳宗に明恵という学僧がいた。
ある日、弟子が明恵の好物の雑炊を造って部屋に運んだ。
「おお、雑炊か」と、早速、
箸を手に一口食べた明恵の顔が曇った。
すると、何を思ったのか、明恵、茶碗を持ったまま立ち上がり、
障子に近寄って、桟にたまっていた埃を指ですくい、
雑炊にかけ始めた。
折悪くし、2、3日前から、弟子たちが掃除を怠っていたのである。
無言のうちにも、
その事を厳しく指摘されていると思った弟子は恐縮して、
いかにもまずそうに埃のかぶった雑炊を
黙々と食べ続けている明恵を見つめていた。

やがて食事を終えた明恵、
「先ほど、ワシは奇妙なことをしたであろう」
「まことに申し訳ございません。
お部屋のそうじをいたしておりませんでした」
「いやいや、そなた達のそうじのことをとやかく思ってのことでない」
「では、一体なぜ、あのようなことを」
「恥ずかしい事だが、お前の造ってくれた雑炊が、
あまりにも美味しかったので、一口食べたときに、
自分の心の中に美味しい食べ物に対する執着の心がムクムクと、
蛇の鎌首を持ち上ぐるように起こってきたのだ。
おいしい雑炊を作ってくれたお前の親切心だけを
味わえばよいのに、
余りに味が美味しかったので、味覚のとりこになろうとした。
ワシの心は実にあさましい限りだ。
だから、あわてて埃を入れて折角ながら、
おいしい味を消していただいたのだ。
これでやっと口先の誘惑からまぬがれることができた」
おいしい食べ物に心を奪われれば、心にスキが生じ、
さとりが、退転してしまうのだ。

それほどに油断なく自らを律していた明恵にして、なお、
さとりが退転してしまったことを記述している。
ある時、師匠から拝領(はいりょう)した念珠を手に
境内を散歩していた。
その時、ふとした油断から数珠を落としてしまった。
念珠は、仏を礼拝する時の大切な仏具である。
もとより大切に扱うべきであり、地面に落とすなど、
もっての外である。
特に聖道仏教は、こうした作法がやかましい。
「しまった」と思った明恵、咄嗟に、
もう一方の手で落ちてゆく念珠を受け止めたのである。
その時、「ああ、よかった」
と思った一瞬の心のゆるみから、
さとりが崩れてしまったというのである。

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四十一段目の不退転位に至るまでは、
そのように一瞬の油断も許されないから、
そんな所を難行苦行で極めていこうとする自力聖道仏教は、
我々凡夫の救われる教えではない。

千日回峯行にしろ、明恵の覚悟にしろ、
常人の想像を絶するような、
意志堅固な求道心の持ち主でなければ進めない。

自力聖道の菩提心
心も言葉も及ばれず
常没流転の凡愚は
いかでか発起せしむべき

      (親鸞聖人)
我々凡夫が、どうしてそのような、
自力聖道の菩提心を起こすことができようか。

親鸞聖人のご和讃が深くうなずかれるではないか。


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なぜ生命は尊いのか [なぜ生きる]


テストの成績を知られたくなくて、
保護者面談の日に自宅に火を放ち、
母と幼い兄弟を死なせた16歳少年がありました。
女性との交際をめぐって人を生き埋めにしたり、
隣近所の子供を狙ったり、
生命の尊厳を踏みにじる犯罪が相次いでいます。
悲劇が起きるたび、
「尊い命を守りましょう」
「命の大切さを実感させる」
「人命は地球より重い」
という言葉が多く掲げられます。
しかし、これは本当に、説得力のある言葉として
人々の心に響いているのでしょうか。
大人も子供も、「命は尊い」と本心から思っているのでしょうか


呼吸器取り外し問題と仏法

無理やり生かされるのはかわいそう?

「日本人の8割は、病院で死ぬ」
といわれます。
大多数の人が、そう遠くない将来、
かかわるであろう医療現場で、
末期患者の人工呼吸器が取り外され、
全国に議論を巻き起こしました。
(平成18年のことです)
奇しくも本誌編集部のすぐ近くの病院で
起きた出来事を通して、
仏教から“命の尊厳”を学びましょう。

今年の3月下旬、
富山県の射水市民病院の外科部長(当時)が、
ガン患者など7人の人工呼吸器を取り外していたことが
明らかになりました。

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病院長と外科部長の意見の相違から、
発覚したといわれますが、
両者の主張を整理すると、
まず病院長が指摘する外科部長の問題点は2つ。

1つは患者の意志がハッキリせず、
得られた家族の同意も口頭のみであったこと、
2つに、病院や他の医師に相談していないことです。
「明確な本人の意思が分からぬうえに、独断であった」
ことを問題視しています。

対して、外科部長は、
「快復の見込みもないのに、
人工的に無理やり生かされているのはかわいそう。
家族の同意も得たし、
患者のためにも死なせたほうがいい」
という考えです。

すべての人の100パーセント確実な未来である
死にかかわる問題に、大きな関心が寄せられました。
双方の見解に対して、新聞、雑誌などで論争が広がり、
さまざまな立場から、真摯に問う声が上がりました。
「医師が、『生命』のチャンスを断ってしまうのは
いかがなものかと疑問に思う」
「いかなる病院であっても人の生命を、
何の取り決めもなしに軽んじてはならない」

一方で、このような意見も多く見られました。
「意識もないのに生かされる延命治療は必要ないと思う」
「死に際しては、自然体が尊重されるべきだ」
「寝たきりの母を見ていると、
つい、楽にしてあげられたらと思う」
「意味のない延命は、医療費の無駄遣いでは?
家族の負担も心配だ」
その後、この病院では、「人工呼吸器は、
つけたら外さないことを基本方針として確認し
た」
と発表しました。

問われる大前提
     「延命の意味」と「命の尊厳」

それぞれの主張を突き詰めていくと、
このような論点が浮き彫りになります。
「延命に意味はあるのか」
「なぜ生命は尊厳なのか」

これはどういうことでしょうか。

例えば、「延命は是」という意見は、
「生きる=よいこと」という方程式が
正しいことを大前提にしています。
それが覆れば、延命は意味を失います。

逆に、「延命は患者に苦痛を与えるのみ」
と主張する人は、「延命は無意味、無目的」
と思っているのでしょう。
延命に重大な意味があれば、
苦痛があっても死なせてはならないからです。

いずれも、「延命に意味はあるのか」に
明解な答えがなくては、語れないことです。

ただ、多くの人は、この延命について、
「本人の意思を尊重せよ」
と結論づけています。
一見、もっともらしい回答ですが、この結論も、
「万人が命の尊厳を十分に知っている」
ことを大前提にしないと言えないことではないで
しょうか。

生死に無知なのは誰?

ところで私たちは、
「死」というものの実態をどれだけ知っているでしょう。
そもそも人が「死」を考える、という場合の「死」とは、
多くは「他人の死」であって、「自分の死」ではありません。

例えば肉親や知人が亡くなるのを見て、
「自分もいつか死んでいくんだな。
でもあんなふうに体中に管を巻かれて死にたくない」
と思ったり、
「できれば自分の意志で、
皆に送られながら自然に死にたいものだ」
と思っていますが、
これは、自分で見聞きした「他人の死」を
基準にして考えているだけで、
本当に「自分が体験する死」ではありません。
生きている私たちが、
「死」を体験するのは、すでに死んでしまった時で、
生きている人間には想像できないことなのです。

「死」があいまいなのですから、
生命の実態や、死後のこともだれも分かりません。

解剖学の権威という東大名誉教授も、
このようにサジを投げています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
死について考えるといっても、
自分の死について延々と悩んでも仕方がないのです。
そんなのは考えても答えがあるものではない。(略)
死んだらどうなるかは、死んでいないから分かりません。
誰もがそうでしょう。
しかし意識が無くなる状態というのは
毎晩経験しているはずです。
眠るようなものだと思うしかない。
そんなわけで私自身は、
自分の死で悩んだことはありません。
            (養老孟司「死の壁」)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「自分の死」ほどの大問題はないのに、
「仕方がない」とか、「悩んだことがない」で、
本当に納得できるでしょうか。

「死んだらどうなるか」が分からないから
「延ばした命で何をするのか」も
「なぜ命は尊いのか」も分からないのです。

だれしもが「生きる意味」「生命の尊厳」という
人生の根本問題に、
全く無知だということはないでしょうか。


仏陀・釈尊の教え
    「天上天下 唯我独尊」

ではそれを知るにはどうすればよいのか。
それは、人智を超えた仏さまの教えによって
知る以外にありません。

世界の三大聖人の筆頭に挙げられるお釈迦さまは、
35歳で大宇宙最高の仏のさとりを開かれ、
80歳でお亡くなりになるまでの45年間、
教えを説かれました。
では、生命の尊厳を、
仏教ではどのように教えられるのでしょうか。
釈尊は、
「天上天下 唯我独尊」
とおっしゃっています。

お釈迦さまが誕生された時、
天と地を指さされておっしゃったといわれるお言葉です。
多くの人は、これを
「この世でいちばん偉くて尊いものは、
自分一人である」
と、釈尊が威張り、
うぬぼれて言われたことのように扱っています。
しかし、このお言葉は、
決してそのような思い上がった御心で
おっしゃったものではありません。
なぜなら、この「我」というのは、
決して釈尊だけのことではないからです。
この「我」は、人間一人一人のことなのです。
「独尊」とは、たった一つの尊い使命ということで、
自分一人が偉いのだということではありません。

このお言葉は、我々人間は、天上天下、広しといえども、
たった一つしかない聖なる使命を果たすべく、
この世に生まれてきた、という意味なのです。

ですから、人間だれしも釈尊と同じように、
「天上天下 唯我独尊」
なのであり、またそういえるのです。
「私たちは、過去無量劫の永い間、
生まれ変わり、死に変わり、流転を重ねてきたが、
人間に生まれなければ絶対に完成できない
尊い目的があるのだ」
ということです。

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よくぞ人間に
     生まれたものぞ
  
      盲亀浮木(もうきふぼく)のたとえ

この尊い使命を果たした喜びを、
お釈迦さまはこうおっしゃっています。

「人身受け難し、今已(すで)に受く。
仏法聞き難し 今已に聞く。
この身今生に向かって度せずんば、
さらにいずれの生に向かってか、
この身を度せん」

「人身受け難し、今已に受く」
とは、
「生まれ難い人間に、生まれることができてよかった」
という喜びの言葉です。
「よくぞ人間に生まれたものぞ」
という生命の大歓喜です。
仏教では、
「人間に生まれたことは大変ありがたいことだから、
喜ばねばならないよ」
と説かれています。

『雑阿含経』の中には、
有名な盲木浮木の譬えがあります。

ある時、お釈迦さまが阿難というお弟子に、
「そなたは人間に生まれてきたことを
どのように思っているか」
と尋ねられました。
「大変喜んでおります」
と阿難尊者が答えられると、
お釈迦さまは次のような話をされています。
「果てしもなく広がる海の底に、
目の見えない亀がいる。
その盲亀が、100年に一度、海面に顔を出すのだ。
広い海には一本の丸太ん棒が浮いている。
丸太ん棒の真ん中には小さな穴がある。
その丸太ん棒は風のまにまに、西へ東へ、
南へ北へ漂っているのだ。
阿難よ。100年に一度、浮かび上がるこの亀が、
浮かび上がった拍子に、丸太ん棒の穴にひょいと
頭を入れることがあると思うか」
聞かれた阿難は驚いて、
「お釈迦さま、そんなことはとても考えられません」
と答えると、
「絶対にないと言い切れるか」
お釈迦さまが念を押されると、
「何億年かける何億年、何兆年かける何兆年の間には、
ひょっと頭を入れることがあるかもしれませんが、
無いと言ってもよいくらい難しいことです」
と阿難が答えると、
「ところが阿難よ、私たちが人間に生まれることは、
この亀が、丸太ん棒の穴に首を入れることが有るよりも、
難しいことなんだ。有り難いことなんだよ」
とお釈迦さまは教えられています。

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「有り難い」とは「有ることは難しい」ということで、
めったにないことをいいます。
『涅槃経』には、
「地獄に堕つる者は十方世界の土の如く、
人間に生まれる者は爪の上の土の如し」

とも説かれています。
人間に生まれることは、それほど喜ばねばならないことだと、
お釈迦さまは教えられている
のですが、
喜んでいるどころか、何で生まれてきたのだろう。
人間に生まれさえしなければ、
こんなに苦しまなくてよかったのに、
と恨んでいる人さえあります。

それは、何のために人間に生まれてきたのか。
何のために生きているのか。
なぜ苦しくても生きねばならないのか。
人生の目的が分からないからです。

受け難い人身を受けたということは、
人間に生まれなければ果たせない大切な聖使命があり、
それを達成するための命なのだということです。

唯一無二の聖使命

ではその聖使命とは何でしょう。
それこそがお釈迦さまがこの世へ生まれられた、
たった一つの目的です。
その釈尊の出世本懐を、
一切経を何度も読破せられた親鸞聖人は、
『正信偈』に次のように仰せられています。

「如来、世に興出したもう所以は
唯、弥陀の本願海を説かんがためなり」
「釈迦如来が、この世に生まれ出られ、
仏教を説かれた目的はただ一つ。
弥陀の本願を説くためであったのだ」


「すべての人々を、
必ず絶対の幸福にしてみせる」
と誓われた、大宇宙の仏方の本師本仏である
阿弥陀仏のなされたお約束のことです。
「この世界広しといえども、
唯一無二の弥陀の本願を説くという、
たった一つの尊い使命を担って、
この釈迦は生まれてきたのだ」

という、釈尊の使命感が、
「天上天下 唯我独尊」
という格調高き宣言となったのです。

お釈迦さまはこのように、
弥陀の本願を説くという、たった一つの聖使命を、
「唯我独尊」とおっしゃいました。
同時に、
一切の人々は、
その仏陀・釈尊が唯説なされた
弥陀の本願を聞くことが、
人間に生まれた、
たった一つの使命なのだと示されています。


釈尊と私たちとは、「弥陀の本願」という一点において、
共通の人生の目的を持っているのです。

ところが、それを知らぬ人々は
人生の目的を何と心得ているでしょうか。
人生の喜びを金儲けと見定め、
マネーゲームに興ずる者たち、
地位を追い、名誉に明け暮れて、
むなしく一生を過ごす人。
スポーツや芸術に醍醐味を見出し、
花鳥風月をめでる人。
人の数だけ人生はあっても、
「わが人生こそ『独尊』なり」
と、心から叫べる人はどれだけあるでしょうか。

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「人の一生は
重荷を負うて
遠き道を行くがごとし」
と、徳川家康は天下を取ってもなくならぬ
人生の苦しみを告白し、
「花のいのちはみじかくて
苦しきことのみ 多かりき」
と、作家の林芙美子は振り返っています。
いずれも涙とともに、
はかなく一生を閉じているではありませんか。
仏教に説かれた本当の人生の目的が
明らかに自覚されていない人は、
決して、
「天上天下 唯我独尊」
と叫ぶことはできないのです。

そこで釈尊は次に、
「仏法聞き難し 今已(すで)に聞く」
と仰せられています。
「聞き難い仏法、よくぞ聞かせていただいたものぞ。
仏教の真髄、弥陀の本願を聞くことができてよかった」
の法悦です。

しかも、このように
弥陀の本願を聞かせていただくことは、
何億年に一度しか巡ってこない
絶好のチャンスなのだ
と、
「この身今生に向かって度せずんば、
さらにいずれの生に向かってか、
この身を度せん」
と仰せられ、真剣な聞法求道を勧めておられます。

弥陀の救いは
    ハッキリする
     臨終 息の切れ際でも

弥陀の救いは「一念」で完成します。
「一念とは時尅(じこく)の極促」と
親鸞聖人はおっしゃっています。
何億分の一秒より短い、時間の極まりをいいます」
阿弥陀仏は「ひとおもい」で
絶対の幸福にしてみせると誓っていられるのです。

これを聖人は、
「一念往生」とか、
「一念の信心」
ともおっしゃっています。
いずれも、アッという間もない時尅の極促に、
無上の幸福を与えてくださるのです。
この身今生、ただ今の一念で、
迷いの世界から出離できる。
かくて、仏法を聞き、
未来永遠の絶対の幸福を獲得(ぎゃくとく)した時にこそ、
人間に生まれた本当の有り難さ、
輝く生命の尊厳が知らされるのです。

仏法を聞き開かぬ限り、
人界受生(じんかいじゅしょう)の本当の喜びなど
絶対に分かるものではありません。

弥陀の救いに値う(あう)ことこそ、
人生の目的であり、
それは臨終、息の切れ際でも達成できます。
だからこそ、一分一秒でも命を延ばすことが、
極めて大切になるのです。

人間に生まれてきた唯一の聖使命を知り、
その使命に向かって全力を挙げ、
この使命を成就した時にこそ、
すべての人々が、天と地に向かって、
「天上天下 唯我独尊」
と、絶叫せずにいられなくなるのです。

これを機縁に我々の生きる聖なる目的について、
深く考えてみようではありませんか。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
読者の声

人間に生まれた意味をしらせていただいたことが、
何よりの喜びであります。
私の命の尊さも知らされた。
       (石川県・70代男性)

一刻も早く生命の歓喜する身となり、
家族や周りの人たちにも
伝えられる人になりたいと思います。
       (栃木県・30代女性)

生まれ難い人間に生を受けた喜びに手を合わせ、
日々仏法を心にかけて暮らします。
       (富山県・70代女性)

正しい生命の実相を知らねば、
大人も子供も救われません。
       (石川県・80代女性)

有り難く尊い生命を頂いたことを、教えていただきました。
        (滋賀県・80代男性)

 


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