SSブログ

弥勒お先ごめん! [南無阿弥陀仏]

(真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」から載せています)

本願名号正定業(本願の名号は正定の業なり)
至心信楽願為因(至心信楽の願を因と為す)
            (親鸞聖人・正信偈)


前回は、「本願名号正定業」の
一行についてお話いたしました。
これは、
「本願の名号は正定の業なり」と読みます。
「本願」とは「阿弥陀仏の本願」、
「名号」とは「南無阿弥陀仏」の六字のことです。
「正定」は「正定聚」の略で、
今日の言葉で言えば「絶対の幸福」のことですから、
本師本仏の阿弥陀仏が、本願に基づいて作られた
『南無阿弥陀仏』の名号には、
すべての人を絶対の幸福に救う働きがあるのだ

といわれている、親鸞聖人のお言葉です。

EPSON024.jpg-1.jpg


例えて言うと、
「阿弥陀仏の本願」とは、苦悩の人生の海を
明るく楽しく渡す船の“設計図”であり、
「名号」は、その“設計図”どおりに造られた「大船」である、
ということです。

「名号」の働きについて、今回も学びましょう。

EPSON025.jpg-1.jpg

正定聚(しょうじょうじゅ)とは

「正定聚」を、一言で「絶対の幸福」と言いましたが、
詳しく述べたいと思います。
「正定聚」とは、さとりの位をいうのです。
「さとり」といっても、低いさとりから高いさとりまで
全部で五十二の位があり、
これを仏教で「さとりの五十二位」といわれます。

EPSON025.jpg-2.jpg


ちょうど相撲取りにも、下はフンドシ担ぎから
上は大関・横綱までいろいろな位があるようなものです。
五十二位のさとりには、それぞれ名前がついており、
中でも最高のさとりの位を
「仏覚」(仏のさとり)といわれるのです。

これ以上のさとりはないから、
「無上覚」ともいわれます。

さとりが一段違えば、人間と虫けらほどの
境涯の差があるといわれるのですから、
五十二段の仏覚が、
いかに崇高で想像も及ばぬ境地であるか、
お分かりになるでしょう。

その最高無上の仏覚まで到達された方のみを、
「仏」とか「仏さま」といわれるのであって、
死んだ人を「仏」というのは大変な間違いです。

今日まで、この仏覚を開かれ「仏」となられた方は、
地球上ではお釈迦さま以外にはありません。
これを「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」
と言われます。

中国で天台宗を開いた天台も、
「九段目までしか覚れなかった」と
臨終に告白していますし、
また、壁に向かっ9年間(面壁九年)、
手足腐るまで修行し禅宗を開いた達磨大師でも、
三十段そこそこであったと言われます。

仏の覚りを開くことが、いかの大変なことかが
分かります。

「正定聚」とは、その仏に間違いなく(正しく)なれると
定まった人たちのことであり、
五十一段のさとりの位をいうのです。

絶対に崩れない位ですから、
「正定聚不退転」とも言われます。

「不退転」とは、後戻りしない、壊れない幸せ、
ということで、今日の言葉で「絶対の幸福」と言えましょう。

“必ず浄土へ往って仏になれる”大満足であり、
何ものも往生のさわりとならない「無碍の一道」(歎異抄)であり、
「人間に生まれてよかった」という生命の大歓喜なのです。

EPSON026.jpg-1.jpg


阿弥陀仏が、兆載永劫のご苦労によって完成なされた
「南無阿弥陀仏」の六字には、
どんな極悪人も、この「正定聚不退」の絶対の幸福に
救い摂る働きがある
ことを、
親鸞聖人は『正信偈』に、
「本願の名号は正定の業なり」
と絶賛されているのです。

同じく『正信偈』に「功徳の大宝海」(功徳の大きな宝の海)
とも言われています。
多くの人が「これは宝だ」と大事にしているものは、
どんなものでしょうか。
代々伝わる壷とか掛け軸、土地や家財道具などでしょう。
中には鑑定士から何千万と評価された
「お宝」もあるかもしれません。
「国宝」に指定された仏像や建造物、
「世界遺産」登録の文化や自然を誰もが大切にするでしょう。

EPSON027.jpg-1.jpg
しかし悲しいかな、これらの宝は、
どんなに厳重に管理し維持しようと努めても、
火事で焼けたり、洪水で流されたり、
盗まれたりする不安が絶えず、やがて必ず朽ち果てる、
一時的なものではないでしょうか。

「佐賀の会社役員、庭に埋めた3億6000万円盗まれる」
という見出しで、こんな記事がありました。

会社役員の80代の男性が、安全のために、
佐賀県にある自宅の庭に埋めていた
現金3億6000万円が盗まれていたことが明らかになった。
(中略)前年10月に盗難にあっていることに
気づいたという。
男性はその2ヶ月後に死亡している。(中略)
40年間にわたって、現金を容器に入れては
自宅の庭に埋めることを繰り返していたという。
男性は、銀行の金利が低いことから
手元に置いておく方がよいと考え、
さらに火事や地震の被害を避けるために
庭に埋めていたという。

なんともったいない、とも思いますが、
考えてみれば、たとえ盗まれなかったとしても、
後生へは一円も持っていけない。
この世の宝は、すべて置いていかねばなりません。

ところが、「南無阿弥陀仏」の宝は、
焼けもせず、流されも、盗まれもしない、
未来永遠の幸福にする、もの凄い働きがあるから、
親鸞聖人は「功徳の大宝海」と讃嘆されているのです。


蓮如上人も『御文章』に、
分かりやすく解説されています。

それ「南無阿弥陀仏」と申す文字は、
その数わずかに六字なれば、
さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、
この六字の名号の中には、
無上甚深の功徳利益の広大なること、
更にその極まりなきものなり

「『南無阿弥陀仏』といえば、わずかに六字だから、
それほど凄い力があるとは誰も思えないだろう。
だが、この六字の中には、私たちを最高無上の
幸せにする絶大な働きがあるのだ。
その広くて大きなことは、
天の際限のないようなものである」

まことだった!ホントだった!

この不可称・不可説・不可思議の大功徳(南無阿弥陀仏)を、
親鸞聖人ご自身が一念で弥陀から丸もらいされて(仏智全領)、
「正定聚」の身に救い摂られた歓喜を、
『教行信証』にこう告白されています。

真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心を窮めるが故に、
龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。
念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
臨終一念の夕、大般涅槃を超証す

初めに「真に知んぬ」と言われているのは、
「親鸞、ハッキリ知らされた」という確信です。
「たぶんこうだろう」という曖昧な憶測でもなければ、
「私はこう思う」などという想像でもありません。
体験して知らされたことを、
「まことであった、本当であった」
と高らかに叫ばれているのが、
聖人の「真知(真に知んぬ)」です。
「あまりにも明らかに知らされた」驚嘆の叫びなのです。
では、どんなことが「ハッキリ知らされた」と
おっしゃっているのでしょうか。
「弥勒大士」とは、有名な弥勒菩薩のこと。
「菩薩」とは、仏のさとりに向かって修行中の人のことです。
いろいろな位の菩薩がある中で、
弥勒菩薩は、仏のさとりにもっとも近い等覚(51段のさとり)
を開いていること
を、
「弥勒大士は、等覚の金剛心をきわむるがゆえに」
と言われています。
あの面壁九年の達磨でも、30段そこそこであったのですから、
51段のさとりを開いている弥勒が、
いかに勝れた菩薩であるか、お分かりになるでしょう。
その等覚の弥勒菩薩は、
「龍華三会の暁、当に無上覚位をきわむべし」
“56億7000万年後に、仏のさとりを開く”

と聖人が言われているのは、
お釈迦さまがお経の中に、
「この釈迦の次に、地球上で仏のさとりを開くのは弥勒である。
それは、56億7000万年後のことである」
と説かれているからです。

その弥勒菩薩と比較して、
「念仏の衆生は、横超の金剛心をきわむるがゆえに、
臨終一念の夕(ゆうべ)、大般涅槃を超証す」
と宣言されています。

「念仏の衆生」とは、阿弥陀仏に救われた人のことであり、
聖人自らのことです。

「横超の金剛心」とは、「正定聚」のこと。
絶対壊れない幸福ですから、金剛心
(ダイヤモンドのように硬い、不変の信心)
と言われています。
あの弥勒菩薩は、気の遠くなるような
長期間の自力修行によって、
さとりの位を一段一段上り、
ようやく51段まで到達したけれども、
「念仏の衆生」の親鸞は、
「南無阿弥陀仏」の働きによって、
一念で51段を高飛びさせられ
「正定聚」の身に救い摂られたのだ

という大自覚を、
「横超の金剛心をきわむるがゆえに」
と告白され、
「臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」
“一息切れると同時に、
阿弥陀仏と同じ仏のさとりを開くことができるのだ”
と明言されているのです。

本当にそうだったなぁ!
あの弥勒菩薩と、今、同格になれたのだ。
まったく弥陀の名号不思議によってのほかはない。
しかもだ。
弥勒は56億7000万年後でなければ、
仏のさとりを得られぬというのに、親鸞は、
今生終わると同時に浄土へ往って、
仏のさとりが得られるのだ。
こんな不思議な幸せが、どこにあろうか

この世から未来永遠に救い摂る、
名号六字の働きを真知させられた聖人の、
大慶喜なのです。

救われたらハッキリする

ここで親鸞聖人の言われている「真知(真に知んぬ)と、
一般に使われる「信じる」との違いについて、
よく知っていただきたいと思います。

実は、「信じる」のは「疑い」があるからです。
「ん?そりゃどういうことだ。
『信じる』とは、『疑っていない』ことだろう」
と、常識的には思われるでしょう。

ですが、ちょっと考えてみれば分かるように、
疑う余地の全くないことなら、
「信じる」必要はありませんし、
「信じている」とも言いません。
「知っている」といいます。

例えば、ひどい火傷をしたことのある人なら、
火は熱いものだと「知っている」というでしょう。
火は熱いと「信じている」とは言いません。
そのように言う人は、まだ火に触ったことがなく、
想像や憶測で語っている人です。
「あなたの永遠の愛を、信じているわ」
「あの子はまだどこかで生きてくれていると、
信じている」
「今度こそ合格、と信じる」
いずれも、ハッキリしない不安をかき消すために、
疑いを抑えつけ信じ込もうとする努力ではないでしょうか。

EPSON028.jpg1.jpg


親鸞聖人の「真に知んぬ」の告白は、
それらの「信じる」とは全く異なります。
「南無阿弥陀仏は尊いそうな」という想像でもなければ、
「お念仏さえ称えていれば、
阿弥陀さまは極楽へ連れて行ってくださるだろう」
と夢みる信仰でもない。
身も心も「南無阿弥陀仏」と一体となって、
「正定聚」の身に救い摂られた聖人が、
「まことであった、本当だった、ウソではなかった」
と、本願に露チリほどの疑心もなく晴れ渡った、
実体験なのです。

蓮如上人も『御文章』に、
「その位を『一念発起・入正定之聚』とも釈し」
「今こそ明らかに知られたり」
「この大功徳を一念に弥陀をたのみ申す我等衆生に
廻向しまします故に、
過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、
正定聚の位また等正覚の位なんどに定まるものなり」
「うれしさを昔は袖につつみけり、
今宵は身にもあまりぬるかな」
とおっしゃっているのも、
「南無阿弥陀仏」を頂いた一念に、
絶対の幸福に救い摂られた歓喜の発露です。

ところが、「弥陀に救われても、
そんなにハッキリするものではない」
と嘯(うそぶ)いている人が少なくありません。

一念で51段を高飛びさせられて、
この世は弥勒と同格、死ねば「弥勒お先ごめん」
と仏覚を開く身になった人が、
「その自覚がない」ということがありえるでしょうか。

何兆円どころでない大宇宙の宝を丸もらいして、
永遠の幸福に救い摂られたのに、
それが「自分には分からない」ということが、
考えられるでしょうか。
「救われても、ハッキリするものではない」と言うのは、
「正定聚」とはどんなことかも、
「南無阿弥陀仏」の偉大な働きも、
知られていないだけなのです。

どうして、そんな働きが

「本願名号正定業」(本願の名号は正定の業なり)
と言われている御心の一端を、解説してきました。
では、どうしてそんな凄い力が名号にはあるのかというと、
その理由を次に、
「至心信楽願為因(至心信楽の願を因と為す)
と開示されています。

「至心信楽の願」とは、
“すべての人を必ず信楽(正定聚)に救う”
と誓われている「阿弥陀仏の本願」のこと。

その「至心信楽の願」を因として造られた結果が
「南無阿弥陀仏」だから、この六字の名号には、
私たちを「正定聚」にする働きがあるのだよ
と、
親鸞聖人は朝晩の勤行(おつとめ)で、
本願名号正定業(本願の名号は正定の業なり)
至心信楽願為因(至心信楽の願を因と為す)
と教えられているのです。


nice!(81)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

南無阿弥陀仏って何だろう? [南無阿弥陀仏]

 (真実の仏教を説いておられる先生の書「とどろき」より載せています。)

「南無阿弥陀仏」って何だろう?

Q1.念仏とは何ですか?

Q2.「南無阿弥陀仏」って何ですか?

Q3.「南無阿弥陀仏」はどなたが、何のために、
   創られたのですか?

Q4.「南無阿弥陀仏」を頂いたら、どうなるのでしょうか

Q5.どうすればいただけるのでしょうか

Q6.どのように聞けばよいのでしょうか?

親鸞聖人といえば
「念仏」(南無阿弥陀仏と称えること)を
連想する人が多いでしょう。
「お念仏の声を子や孫に」
「お念仏の喜び」などのフレーズが、
まるで浄土真宗であるかのように
語られているからです。
これでは誰もが
「念仏称えたら極楽へ往ける」と
誤解するのも、当然かもしれません。

では、そもそも念仏って、何なのでしょうか?

厄除け?それとも何かのマジナイ?
まずは次のページのアンケート結果をごらんください。

『とどろき』のメールマガジンを
購読されている皆さんを対象に、
「南無阿弥陀仏」とは何だと思いますか、と、
下記のような内容でアンケートを実施いたしました。

EPSON012.jpg-1.jpg

普段から何気なく称えておられる方も多いでしょうが、
一体どんなことなのか、まずは各自の思いをお聞きしました。

『とどろき』で出会うまでは、
何も考えずに称えていました。
父親の真似をして・・・

自分の思いがかなえてもらえるように、とか、
自分に嫌なことが起こらないように祈る時、
称えていました。

「南無阿弥陀仏」とは、亡くなられた方への供養、
亡くなられた方への栄養と思っていました。
お仏壇にお参りするときは、「南無阿弥陀仏」と称え、
残っている家族の健康を願っていました。

称えれば災いから逃れられるのかなぁ、と、
気休めのまじないのように思っていました。

よく心霊番組で、悪魔ばらいにお経を称えている光景が
映し出されていましたので、
その影響を受けていました。
墓の近くを通った時や夜中に怖くなった時に、
「なむあみだぶつ」と称えていました。

救われたお礼と聞いて、
「救われている実感がないのになぜお礼するの?」
と思いましたが、言葉が先で、
実体は後からついてくるということなのかと、
今は思っています。

「あぁ、私もそう思ってた」と共感されたり、
あれっと思われたり、いろいろでしょうが、
では親鸞聖人は、「念仏」について
どのように教えておられるのでしょうか。
次ページから問答形式で学びましょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Q1.念仏とは何ですか?

「念仏」とは、「口で南無阿弥陀仏と称えること」です。
「口声(くしょう)の念仏」とも、
「称名念仏」ともいわれます。
先に述べたように、
「念仏さえ称えていれば、誰でも極楽へ往ける」
というのは大きな誤りで、

500年前の蓮如上人の時代にも
同じ誤解が蔓延していたのでしょう、
こう糾(ただ)されています。

まず世間にいま流布して旨と勧むるところの念仏と申すは、
ただ何の分別もなく南無阿弥陀仏とばかり称うれば
皆助かるべきように思えり、
それはおおきに覚束(おぼつか)なきことなり

             (御文章三帖)

このような『御文章』は枚挙にいとまがありません。
蓮如上人はここで、
「『南無阿弥陀仏』とは何のことか分からず、
ただ称えている」のを「何の分別もなく」と誡められ、
それでは助かりませんよ、
早く「南無阿弥陀仏のいわれ」
を知りなさいと勧められておられるのです。

 

EPSON004.jpg-1.jpg


そこで「南無阿弥陀仏」とはどんなことか。
親鸞聖人、蓮如上人のご教示を頂きましょう。

Q2.「南無阿弥陀仏」って何ですか?

「南無阿弥陀仏」とは何か、
蓮如上人は平易に明らかにされています。

「南無阿弥陀仏」と申す文字は、
その数わずかに六字なれば、
さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、
この六字の名号の中には、
無上甚深の功徳利益の広大なること、
更にその極まりなきものなり

       (御文章五帖)
南無阿弥陀仏といえば、わずか六字であるから、
そんな凄い力があるとは誰も思えないだろう。
だが実は、南無阿弥陀仏の六字の中には、
我々を最高無上の幸せにする
限りなき広大な働きがあるのだ

「南無阿弥陀仏」を「六字の名号」と言われます。
この六字の中には、とてつもない働きがあることを
蓮如上人は、
「無上」「甚深」「広大なること極まりもなし」
と、表現を変え言葉を尽くして絶賛されているのです。

あまりにも凄すぎてピンとこない人もあるかもしれませんので、
具体的に比較して考えてみましょう。

日本には現在、個人金融資産は千四百兆円あります。
さて、かりにこれが全部自分の物になったら、どうでしょう。
まずはローン完済してスッキリ重荷を下ろしたい。
それから我慢していた海外旅行へ。
豪華客船で世界一周。
しかも高級スイートルームで。
それでもせいぜい数千万ですから、
さらに料亭通いでもしますか。
銀座で毎晩、100万円散財し、田園調布に豪邸、
軽井沢に別荘。
ヨーロッパ旅行に親族300人を連れて
何億円も“大人買い”する、
アラブの石油王をマネてみても、
まだまだ大丈夫。
考えてみると少し気が遠くなってきますが、
「南無阿弥陀仏」の真価は、
そんな金額に換えられるようなものじゃない、
と蓮如上人はここで仰っているのです。

EPSON006.jpg-1.jpg
「無上甚深の功徳」ですから、
世界中のお金も貴金属もダイヤも、
全部かき集めたよりも桁違いに凄い値が、
この六字の名号の中にあるのだ、ということですが、
そう聞いて、「なるほど、よく分かりました」
と素直にうなずけるでしょうか。

そんなバカな、たった6つの字に、何で?
と訝る(いぶかる)私たちの心を見透かされて蓮如上人は、

南無阿弥陀仏」と申す文字は、
その数わずか六字なれば、
さのみ功能のあるべきとも覚えざるに
「南無阿弥陀仏といえば、わずか六字であるから、
そんな凄い力があるとは誰も思えないだろう

とズバリ指摘されているのです。

だがそれは、猫に小判、豚に真珠、
あなたに「南無阿弥陀仏」の真値を知る知恵がないからだ、
実は「南無阿弥陀仏」の六字は、
大宇宙の万善万行の結晶なのだと、
讃嘆されているのです。

親鸞聖人は、朝晩拝読する『正信偈』に
「功徳の大宝海」と褒め称えておられます。
両聖人とも、釈迦が教えておられることを、
「その通りであった」と知らされてのことです。

お釈迦さまが仏の大雄弁をもって
「南無阿弥陀仏」の功徳一つを説かれたのが、
7000余巻の一切経ですが、
それでも晩年に、

若し広説(こうせつ)せば
百千万劫にも窮め尽くすこと能(あた)わじ
             (大無量寿経)

「『南無阿弥陀仏』の功徳は、
何億年かかって説いても説き尽くせない。
80年の生涯では、大海の一滴も説けなかった。」

と仰っています。
不可称・不可説・不可思議の功徳と言われて当然でしょう。

Q3.そんな「南無阿弥陀仏」を、
どなたが、何のために、創られたのですか?

それほど功徳のある「南無阿弥陀仏」の名号を、
では一体どなたが、何のために、創られたのでしょうか。

それについて釈迦や親鸞聖人は、
阿弥陀仏という仏が、苦しみ悩む私たちに
与えて助けるために、創ってくだされたのだよ

と仰っています。
幸せ求めて生きているのに、
なれずにいる私たちを見捨てておけず、
立ち上がってくださったのが、
阿弥陀仏という仏さまなのです。

地震や津波がまた来ないか。
株は暴落しないか。
就職できるのか。
会社が倒産するのでは。
将来、年金はちゃんともらえるのだろうか。
未来が不安で皆苦しんでいます。

これらの大事は、放っておけぬと私たちは必死です。
しかし、最も大きなものが「死後、どうなるかハッキリしない」
不安ですから、仏教ではこれを「後生の一大事」といわれます。
嫌じゃ嫌じゃといいながら、
墓場へ向かって、皆行進している。
一日生きたとは、一日死に近づいたこと。
意識しようとしまいと、それが真実なのです。

死は100パーセント確実な未来であり、
今晩かも知れぬ大事です。
災害や事故で、一瞬で命が失われていく。
生と死は、つねに隣り合わせ。
今生と後生は、一息一息触れ合っています。
その後生が暗い「無明の闇」が、
今の生を暗くしているのです。

阿弥陀仏は、この「無明の闇」こそ
私たちの苦しみの根元と見抜かれて、
「無明の闇を破り、必ず浄土へ往ける
大安心の身に救ってみせる」
と、命を懸けて誓約されています。
これが有名な「阿弥陀仏の本願」であり、
この誓願を実現するために、
阿弥陀仏が創られた大功徳の結晶が
「南無阿弥陀仏」なのです。

いわば、私たちが「無明の闇」という
恐ろしい心の病で苦しんでいるのを、
阿弥陀仏という医師が
「何とかして治してやりたい、必ず助ける」
と誓われた、その熱願から創られた妙薬といえましょう。

だから、この六字の名号には、
“すべての人を幸福に救い摂る、
広大無辺の力があるのだ”
と親鸞聖人は、こう道破されています。

無碍光如来の名号と
かの光明智相とは
無明長夜の闇を破し
衆生の志願をみてたまう

       (高僧和讃)

阿弥陀仏の創られた名号(南無阿弥陀仏)には、
果てしなき過去から我々を苦しめてきた無明の闇を破り(破闇)、
どんな人をも永遠の幸福にする(満願)働きがある

EPSON007.jpg-0.jpg

本師本仏の阿弥陀仏が、
私一人を絶対の幸福に救うために、
五劫の思惟の末に本願を建てられ、
その願を果たすために兆載永劫のご修行をされた、
その大変なご苦労によって成就なされたのが
「南無阿弥陀仏」の六字の名号であり、
これら経緯の一切を「名号(南無阿弥陀仏)のいわれ」というのです。

そう聞いても、分析して価値を認めようとする
科学万能主義では、
荒唐無稽でしかないも知れませんが、
19世紀のイギリスの大化学者ファラデーは
学生たちにこう説いたといいます。

“母親の涙も、化学的に分析すれば、
少量の塩分と水分に過ぎない。
しかし、その涙の中には化学も分析し得ない
深い愛情がこもっていることを知らねばならぬ
”と。

EPSON007.jpg-1.jpg


名号はわずか「南無阿弥陀仏」の六字だけれども、
「すべての人を絶対の幸福にしてやろう」
という阿弥陀仏の大慈悲心(仏心)の顕現なのです。

Q4.「南無阿弥陀仏」を頂いたら、
      どうなるのでしょうか。

弥陀から、その「南無阿弥陀仏」の名号を頂いたのを
「信心獲得」というと、
蓮如上人は説示されています。

信心獲得すというは、第十八願(阿弥陀仏の本願)
を心得るなり。

この願を心得るというは、
南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり 

           (御文章)
「信心獲得」したならば、どうなるのか。
聖人はこう仰せです。

五濁悪世の衆生の
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者の身にみてり

       (高僧和讃)
どんな人も、弥陀の本願信ずれば(南無阿弥陀仏を賜れば)、
心も言葉も絶えた幸せが、
その人の身に満ち溢れるのである。

蓮如上人も、弥陀より名号を頂いた一念に、
永の迷いの打ち止めをさせられるのだと、
こう言われています。

この大功徳を一念に弥陀をたのみ申す
我等衆生に回向しまします故に、
過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、
正定聚の位また等正覚の位なんどに定まるものなり

          (御文章)
過去・現在・未来の三世を通して
苦しめてきた迷いの親玉(無明の闇)が、
弥陀より『南無阿弥陀仏』の大功徳を
頂いた一念でぶち破られて、同時に、
絶対の幸福(正定聚)に救い摂られるのである

正定聚とは、「必ず仏になれる身」のことで、
等正覚ともいわれます。

事故や災害、病気など、どんなことがあっても崩れない、
壊れない、裏切らない幸せですから、
今日の言葉で「絶対の幸福」といえるでしょう。

EPSON008.jpg-1.jpg

弥陀の救いは、信心一つ

「信心獲得」のことを「信心を獲る」「他力の信心」
とも言われます。
親鸞聖人は、「弥陀の救いは、この他力の信心一つ」
と教えていかれました。

ゆえに親鸞聖人の教えを「信心正因」とも
「唯信独達の法門」ともいわれます。

蓮如上人はこれを、有名な「聖人一流章」の冒頭に、

聖人一流の御勧化の趣は、
信心をもって本とせられ候

親鸞聖人九十年の生涯、教え勧めていかれたことは、
信心獲得ひとつであったのだ

と明言されています。

念仏さえ称えたら極楽へ往ける」など、
断じて親鸞聖人の教えでもなければ
浄土真宗でもないことが、
このご文一つでお分かりでしょう。

そこで初めの質問に戻りますが、
では「口で『南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』と称える」
「念仏」とは、何なのか。
弥陀に救い摂られて(信心獲得して)からの
「念仏」は、救いたもうた弥陀への
感謝報恩(称名報恩)である
ことを、
聖人は『正信偈』に、

唯能く常に如来の号(みな)を称して、
大悲弘誓の恩を報ずべし

(唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩)
他力の信心を獲た上は、
常に念仏して、弥陀の大恩に報いるのである

と詳説されています。
蓮如上人も、先の「聖人一流の章」の最後に、

その上の称名念仏は、如来わが往生を定めたまいし
御恩報尽の念仏と、心得べきなり

弥陀に救われてからの念仏は、
浄土往生が決定した大満足の心から、
その御恩に報いる念仏である

と明らかにされています。

この「信心正因、称名報恩」こそが、
親鸞聖人の開顕された浄土真宗の教えなのです。

ここまでの話をまとめましょう。

【本願】
「阿弥陀仏の本願」とは、
「現在ただ今、絶対の幸福に救う」
という阿弥陀仏の誓いのこと。

それは五劫という気の遠くなるような長期間、
熟慮に熟慮を重ねて誓われたお約束ですから、
聖人は「弥陀五劫思惟の願」とも仰って、
広大なご恩徳に感泣さなれています。

【名号】
この弥陀の五劫思惟の本願とは、
兆歳永劫の修行によって、
十劫の昔にすでにでき上がったものが
「南無阿弥陀仏」の六字の名号です。

【信心】
「信心」とは、大功徳の六字の妙薬をのんで、
病気が全快した(無明の闇が晴れた)ことをいうのです。

EPSON009.jpg-1.jpg


【念仏】
病気を治して頂いたら、治してくださった医師に
対して出るのがお礼の言葉です。
そのお礼が「称名念仏」です。

顔中に飯粒をつけていても、
食べなければ腹は膨れず、餓死してしまいます。
何万遍礼を言っても、薬をのまずしては、
病気は治りません。
「名号」は私が頂いて「信心」となり、
その上の御恩報謝の「念仏」とならなければならないのです。
ゆえに「後生の一大事」助かるか、どうかは、
「信心」一つで決するから、

蓮如上人はこう仰っています。

祖師聖人御相伝一流の肝要は、
ただこの信心一つに限れり。
これを知らざるをもって他門とし、
これを知れるをもって真宗のしるしとす

          (御文章)
親鸞聖人の教えの肝要は、信心一つなのだ。
浄土真宗か、どうかは、『信心一つ』の弥陀の救いを、
知るか、否かで決するのである

仏教で「肝要」とは、“これ以上大事なものはない”
という極めて重い表現です。
その「肝要」に加えて蓮如上人は、「ただ」「一(ひとつ)」
「限れり」と、いずれも「たった一つ」を表す言葉を
四つも使われて、「信心ひとつ」を強調されているのです。
微に入り細を穿(うが)っての懇ろな教導に、
間違ってくれるなよ、『念仏さえ称えたら助かる』
は浄土真宗ではない、
『信心一つの救い』が親鸞聖人の教えなのだ、
聞き誤ったら大変ですよ」
という、蓮如上人の熱き御心を
感ぜずにおれないではありませんか。

Q5.ではどうすれば、
その名号を頂けるのでしょうか。

お釈迦さまは、
「聞其名号」
「無上の功徳の名号は、聞く一念に
我々に満入する」
と説かれています。

「聞く一つ」で頂けるように、
阿弥陀仏は名号を成就なされているのです。

EPSON010.jpg-.jpg

Q6.どのように聞けば
      よいのでしょうか。

親鸞聖人は、こう和讃されています。

たとい大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名を聞くひとは
ながく不退にかなうなり

      (浄土和讃)
たとえ大宇宙が猛火に包まれても、
その中、弥陀の名号(仏法)を聞く人は、
不滅の幸せに輝くのである

尋常ならざる、真剣な聞法の勧めです。
また、たゆまぬ聞法の大切さを、
蓮如上人はこう細説されています。

りて堅きは石なり、至りて軟らかなるは水なり、
水よく石を穿つ。
「心源もし徹しなば菩提の覚道何事か成ぜざらん

といえる古き詞あり。
いかに不信なりとも聴聞を心に入れて申さば、
お慈悲にて候間、信を獲べきなり。
只仏法は聴聞に極まることなり

        (御一代記聞書)

EPSON011.jpg-1.jpg
至って堅い石でも、至って軟らかい水で穴が開く。
『初志貫徹すれば成就できぬことはない』
と昔から言われるではないか。
どんなにしぶとく疑い深くとも、
聴聞に身も心も打ち込めば、
限りなく深い弥陀のお慈悲によって、
必ず信心を獲ることができるのだ。

ただ仏法は聞くことが肝要である

これら善知識方の教えに順って「聞法」に励み、
信心獲得してお礼の念仏を称える身と
ならせていただくのです。
それこそが、親鸞聖人の最も喜ばれる
真の750回忌となりましょう。
(平成23年5月号のとどろきです)


nice!(63)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。