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阿弥陀仏とお釈迦さまの関係とは!? [阿弥陀仏]

本師本仏の阿弥陀仏

「阿弥陀仏」といわれる仏さまは、どんな方でしょうか。
世間ではお釈迦さまといっても阿弥陀仏といっても、
レッテルが違うだけで、
同じ仏さまだろうと思っている人があります。
しかし、それは大変な間違いです。
お釈迦さまと阿弥陀仏とは、全く違う仏なのです。
その違いを知らないと、仏教は全く分かりませんので、
よく知っていただきたいと思います。

お釈迦さまは、今から約2600年前、
インドで活躍された方です。
お釈迦さまが、35歳で仏という最高の悟りを
開かれてから、
80歳でお亡くなりになられるまでの45年間、
教えていかれたみ教えを、
今日、仏教と言われます。

お釈迦さまは、地球上でただお一人、
仏の悟りを開かれた方ですから、
「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」といわれます。
そのお釈迦さまが、
「私の尊い先生を紹介しにきたのだよ」と、
私たちに教えてくだされたのが、
阿弥陀仏といわれる仏さまです。


(蓮如上人:親鸞聖人の教えを一器の水を一器に移すかのごとく、
一切自分の考えを入れずに正確に日本中に伝えられた高僧
親鸞聖人は、真実の仏教である「弥陀の本願」を誰よりも鮮明に教えられた方)

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阿弥陀仏とお釈迦さまとの関係について、
蓮如上人は『御文章』に次のようにおっしゃっています。

ここに弥陀如来と申すは、
   三世十方の諸仏の本師本仏なれば

お釈迦さまは、地球上ではただ一人の、
仏のさとりを開かれた方ですが、

大宇宙には地球のようなものが
数え切れないほどあります。
その大宇宙には、数え切れないほどの
仏がましますと説かれています。
それらの仏を「三世十方の諸仏」と言われているのです。

よく知られているのは、大日如来とか、薬師如来とか、
奈良の大仏はビルシャナ如来といわれる仏ですが、
それらの仏も皆、十方諸仏の一人です。

「本師本仏」とは、本師も本仏も先生ということですから、
この大宇宙の仏方の先生だということです。
これはお釈迦さまがおっしゃっていることなのですが、
親鸞聖人も明らかにされ、
蓮如上人もこのように言われているのです。

「阿弥陀仏は十方諸仏の先生である」ということは、
「大宇宙の仏方は皆、阿弥陀仏のお弟子」
ということです。

諸神の上が、弥勒や観音、地蔵菩薩などの菩薩であり、
その菩薩の上が諸仏ですが、

それらは皆、阿弥陀仏のお弟子です。

地球上では三大聖人、二大聖人といっても
常にトップに挙げられるお釈迦さまも、
十方諸仏の一人ですから、
弥陀と釈迦の関係は、師匠と弟子、
阿弥陀仏を先生をするなら、
お釈迦さまは生徒、ということになります。

お釈迦さまだけでなく、大宇宙のすべての仏方が、
阿弥陀仏のことを、
「偉大な仏さまだ、尊い仏さまだ、われらの先生だ」
と讃めたたえて、
手を合わせ、拝んでおられるのです。


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●仏教=弥陀の本願

仏教の教えのすべては、今日、
一切経といわれるものに書き残されています。
それは七千余巻という膨大なお経の数です。
仏教に何が教えられているかを知るには、
この一切経を余すところなく読んで、
正しく理解しなければなりません。
ところが難しい漢字ばかりのお経ですから、
誰でも全部読めるものではありませんし、
理解できるものでもありません。
今日、世界の光と仰がれています親鸞聖人は、
その一切経を何回も読み破られ、
「お釈迦さまの教えていかれたことは、
これ一つなんだよ」と、
『正信偈』に次のように書かれています。

如来所以興出世
唯説弥陀本願海

「如来、世に興出したまう所以は、唯、
弥陀の本願海を説かんがためなり

と読みます。
「如来」とは、釈迦如来、すなわちお釈迦さまのこと。
「世に興出したまう所以は」とは、
「お釈迦さまが、この地球上に現れて
仏教を説かれた目的は」
ということです。
「唯説」とは、
「ただ一つのことを説かれるためであった」
ということです。

七千冊以上のお経があり、
四十五年間教えられた、と聞くと、
「お釈迦さまは、いろいろなことを説かれたのだろう」
と思う人もあろうが、そうではない。
お釈迦さまの教えられたことは、
たった一つなのだと、
親鸞聖人は断言なされています。

一切経の99パーセント読んでも、
こんな断言はできません。
後の1パーセントに何が書かれてあるか
分からないからです。

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私たちは釈迦が教えられた、
そのたった一つのことを聞けば、
仏教すべてを聞いたことになり、
仏教のすべてを知ったことになるのです。

だから釈迦のただ一つ説かれた、
そのことほど大事なことはありません。
親鸞聖人は、それこそ「弥陀の本願」である、
とおっしゃっています。

弥陀の本願とは、「阿弥陀仏の本願」のこと。
阿弥陀仏という仏さまが本当に願っていられる御心は、
大変広くて深いので、
海に例えて「本願海」と言われています。
弟子の使命は、先生の御心を正確に、
一人でも多くの人にお伝えすること以外ありませんから、

お釈迦さまも45年間、
自分の先生である阿弥陀仏の本願以外、
教えていかれなかったのだと
断言されている親鸞聖人のお言葉に、
深くうなづかずにはおれません。

お釈迦さまが、阿弥陀仏の本願一つを
明らかにされたように、
親鸞聖人の九十年の生涯も、
阿弥陀仏の御心以外には、
教えられたことはありませんでした。

では、その「本願」とは、どういうことでしょうか。


(世界の光・親鸞聖人アニメより)

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弥陀の本願とは

「本願」とは、「誓願」ともいわれるように「約束」のこと。
ですから「阿弥陀仏の本願」とは、
本師本仏の阿弥陀仏のなされているお約束のことです。

阿弥陀仏は、次のように誓われています。

(弥陀の十八願)

設我得仏 十方衆生
至心信楽 欲生我国
乃至十念
若不生者 不取正覚
唯除五逆 誹謗正法

我を信じよ
どんな人も必ず救う
絶対の幸福に

約束には必ず相手があります。
弥陀のお約束の相手を、「十方衆生」、
すなわち「すべての人」とおっしゃっています。

この中に入らない人は一人もありません。
男も女も、老いも若きも。
才能の有無、健常者・障害者、
人種や職業・貧富の違いなどとは関係なく、
どんな人とも約束する、と誓われているのです。

では、どのような約束をなされているのでしょうか。
約束で一番大事なのは、その内容。
金銭の貸借で言えば、金額に当たります。
阿弥陀仏は、「絶対の幸福に、必ず救い摂る」
と誓っておられます。

「絶対の幸福」とは、「歎異抄」には「摂取不捨の利益」とか、
無碍の一道」と書かれているように、
絶対に崩れない大安心、
色あせない大満足のことです。

その絶対の幸福に、平生ただ今、
必ず救い摂ってみせると誓われているのが、
弥陀の本願なのです。

私たちは、何のために生まれてきたのか、
どこへ向かって生きているのか、
なぜ苦しくても生きねばならないのか、
全く分かりません。
親鸞聖人は、
「この世で阿弥陀仏の本願により、
絶対の幸福に救い摂られ、
死ねば弥陀の浄土へ往って、
弥陀と同じ仏に生まれることである。」
と教えています。


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親鸞聖人と「なぜ生きる」 [親鸞聖人]

「これまでは仕事の目標達成が生活の全てでした。
退職して毎日が休日。
何をすればいいのか分かりません」
「子や孫も、いずれ私たちを必要としなくなる。
その時、私は何を支えに生きればいいのでしょう」
「心の安定を求めて、趣味や免許、資格を持っても
心が落ち着きませんでした」

さまざまな節目やきっかけから、
このような思いを持ち、
仏法を求め始められた方も多くあるでしょう。
何気ない、こんな思いはしかし、大変根が深く、
実は生きる本当の意味が分からないことに起因する、
と仏教では教えます。

なぜ生きるか・・・この人生の根本問題ひとつを、
世界の光といわれる親鸞聖人は、
生涯伝えられた方でした。
聖人が明らかにされた
「なぜ生きる」について学びましょう。

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親鸞聖人の力強い断言

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「人は何のために生きるのでしょう」
「毎日、同じことの繰り返しに、
どんな意味があるの?」
「苦しくとも、なぜ自殺してはいけないのでしょうか」
これが「人生の目的」であり、
平たい言葉で「なぜ生きる」です。


親鸞聖人はその答えを、主著『教行信証』の冒頭に、
上の画像のように明言されています。

なんという力強い断言でしょう。
曇りのない簡明な文章に、
揺るぎない自信と迫力がみなぎっています。

「人生の目的は、ある。
あるから、早く達成せよ」

『教行信証』はじめ多くの著書に記されていることは、
この「人生の目的」一つを、
私たちに知らせんがためでした。

聖人の言動のすべては、
これ一つが目的であったのです。

31歳の肉食妻帯も、
40歳過ぎの関東のご布教中、
石を枕に雪を褥(しとね)に門前で休まれ、
日野左衛門を済度されたのも、
殺害せんと迫る弁円の剣の下に
数珠一連で出会われ
「御同朋・御同行」と諭されたのも、
84歳の御時、50の長男・善鸞を勘当されたのも、
私たちの生きる目的を明らかにし、
その達成を勧めてくださるご苦労でした。

「なぜ生きる」と
    「どう生きる」

政治や経済、科学や医学、倫理・道徳、法律、芸術、
スポーツ、これらはみな、
「よりよく生きる」ための営みです。
消費増税もエネルギー対策も介護制度も、
通信回線の高速化も、新薬や医療器具を開発するのも、
「どうすれば、より快適に、長く生きることができるか」
の研究であり、努力でしょう。

どんな人と結婚するか、それとも独身を貫くか、
転職か今の会社に残るか、マイホームか賃貸か、
健康食品は何がいい?美容・ダイエットはどれを選ぶ?
いずれも「生き方」、「どう生きるか」の問題です。
これら「生きる手段」がなければ、
生きてはゆけませんが、
そうやって一生懸命生きてゆくのは、
どこへ向かってか。

「人間に生まれたのは、この幸せになるためだった」
という喜びはいずこにあるのでしょうか。

この「なぜ生きるか」が曖昧なままでは、
「どう生きるか」の努力も根無し草で、
宙に舞ってしまいます。

ところがほとんどの人が、
この「なぜ生きる」と「どう生きる」を混同し、
「生きる手段」を「生きる目的」だと
誤認しているのです。

だからこそ親鸞聖人は、この2つの違いを峻別され、
真の人生の目的を明示することに、
90年の生涯を懸けられたのでした。

聖人が示された人生の目的は、
「難度海を度する大船に、乗ることだ」
これは、どんなことなのでしょうか。

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人生は苦なり
    四苦八苦の波、絶えることなし

「難度海」の「難度」とは、
“渡ることが難しい”の意で「苦しみ」のこと。
私たちの一生は、苦しみ悩みの波が次から次と
絶えずやってくる海のようになものだから聖人は、
人生を「難度海」とか「苦海」と仰っています。

約2600年前、お釈迦さまが35歳で
仏のさとりを開かれた第一声も、
「人生は苦なり」。

その苦悩の波を八つに分けて教えられているのが、
四苦八苦」です。
日常会話でもよく、「トラブルの対処に四苦八苦した」
などと言いますが、語原は仏教で、
人生の苦しみを四つに大別したものを「四苦」、
それに四つ加えて「四苦八苦」と教えられています。

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いずれの世、いずこの里でも
受けねばならなぬ人間の苦しみを、
八つにまとめられたものです。

お釈迦さま自身も、王様の子として生を受け、
文武の才能に恵まれながら、
それでも無くならぬ苦に驚かれたのでした。
まず「四苦」とは、「生苦」「老苦」「病苦」「死苦」
の四つです。

生苦

生きる苦しみです。
「人生は地獄よりも地獄的である」
と言ったのは芥川龍之介ですが、
すべての人が苦しんでいる。
生きるために衣食住をそろえるのも大変ですが、
たとえそれらが満たされても、
親子や夫婦、友達や会社の上司、
同僚らとの人間関係で苦しんでいる人が
多いのではないでしょうか。
あらぬ誤解をされ悶々としたり、
心ない一言に傷ついたり。
逆に「あんなこと言わなきゃよかった」
と不用意な発言を後悔することもしばしばです。
新聞の人生相談欄を読むと、
「世の中には、そういう苦しみもあるのか」
と驚くことがあります。
生きること自体の苦しみを「生苦」と言われるのです。

老苦

年を取ると、耳は遠く、目は薄くなる、
髪は抜けるし歯も抜ける、腰が曲がって、
物忘れはひどくなる。
さっき薬を飲んだのを忘れる。
「わしのメガネどこいった?」
と眼鏡をかけながら捜す・
リューマチやら神経痛やら関節炎やら、
ちょっとつまずいて骨折すると、なかなか治らない。
美貌の衰えが、特に女性にとって耐え難い。
世界の三大美女の一人・小野小町は、
「面影の変わらで年のつもれかし とたえ命に限りあるとも」
(容姿が変わらずに年を取りたいものだ。
たとえ命に限りがあっても)
と歌っています。
鏡を見て白髪が一本増えていると発見してさえ、
食欲がなくなる。
「アンチエイジング」とシワやほうれい線を
消す整形手術をしたり、脂肪吸引したり、
エクササイズでなんとか体型を保とうとしても、
限界がある。
「長生きすれば恥多し」で、
美しい人ほど老苦は深刻なもののようです。

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病苦

肉体は病の器。
いつ病気になるか分かりません。
しかも、どんな病でも、自分のかかっている病が
一番つらいと皆がそれぞれに思っています。

死苦

なんといっても嫌なものは「死」。
放射能汚染が怖い、地震や津波は嫌だ、
ガンになりたくない、というのも結局、
「死」が恐ろしいからです。

愛別離苦

愛する人や物と別れる苦しみ。
手に入れたものは、いつか手離さなくてはならない。
毎日きれいにお手入れしているこの肉体さえ、
やがて焼いて灰になる。
死んでゆく時には、金や財産、何も持ってゆけず、
独りぼっちで逝かねばならないのだ。

お釈迦さまはこれを
独生独死 独去独来
と仰っています。
誰も否定できる人はないでしょう。

怨憎会苦

怨み憎んでいる、嫌な人や物と会わねばならない。
あの人嫌やなあ、と思っている人とはよく会う。
今日はこっちの道を行こうっと思って行ったら、
また会った。
向こうも同じことを思っていた。

あの人の隣の席にはなりたくない、
端のほうに座って離れようと思っていたら、
相手も同じでまた隣になる。
難しいものです。

「あの人が吐いた息を、同じ部屋で吸うのも嫌」
という人があるほど、これもひどい苦しみです。
試験や災害、事故に遭うのも、
この怨憎会苦といえましょう。

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求不得苦

求めても得られない苦しみ。
世の中、自分の思いどおりになるものではありません。
「朝夕の
飯さえこわし やわらかし
思うままには ならぬ世の中」
「世の中は
一つかなえば また二つ
三つ四つ五つ 六つかしの世や」
と歌われているように、
何かが得られても、何かが足りない。
それぞれ置かれた立場で皆苦しんでいます。

五陰盛苦

五体満足、肉体あるが故に苦しむことで、
これまでの七つをまとめたものです。

これら四苦八苦は、
誰もが受けてゆかねばならぬ苦しみです。
仏教では古今東西の人類に
共通したことしか説かれていません。

これら苦しみ悩みの波が、
次々と襲ってきてアップアップしているから、
人生を「難度海」と親鸞聖人は教えられているのです。

難度海を、
  明るく楽しく渡す大船あり

でも私たちは、苦しむために生まれてきたのではない。
みんな幸せになるために生きているのです。

人生の目的は、真の幸福ただ一つ。
ならば、四苦八苦の波に
揉まれ溺れ苦しんでいる私たちが、
心から安心満足できる道が、
どこにあるのでしょうか。

その切実な問いに、親鸞聖人の答えが、
「難思の弘誓は、難度海を度する大船」
の金言です。

「難思の弘誓」とは、阿弥陀仏の本願のこと。
本師本仏の阿弥陀仏が、
「すべての人よ、平生に必ず、
苦しみ悩みの元凶である心の闇を破り、
無碍の一道(絶対の幸福)に救う」
と誓われているお約束です。

ゆえに弥陀の本願を聖人は、
「苦海の人生を、明るく楽しく渡す大きな船なのだ」
と教えられ、
「この大船に乗って、絶対の幸福になることこそが、
『なぜ生きる』の答えだ。

この目的果たすまでは、どんなに辛くとも生き抜けよ
冒頭にこう宣言され、
その大船である弥陀の本願とは何か、
どうすれば大船に乗せて頂けるのかを、

『教行信証』全六巻に明らかにされているのです。

●阿弥陀仏の本願ひとつ

その大船に乗られた(弥陀に救われた)自らの体験を、
聖人はこう述べられています。

大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮かびぬれば、
至徳の風静かに、衆禍の波転ず

         (教行信証)

“弥陀の造られた、大悲の願船に乗って見る人生は、
千波万波きらめく明るい広い海ではないか。
順風に帆をあげる航海のように、
なんと生きるとは素晴らしいことなのか”

これはまさしく聖人の、キラキラ輝く乗船記。
「大悲の願船に乗じて」とは、
「弥陀の誓いどおり、人生の目的成就した」
晴れやかな宣言です。
人生の目的は決して、曖昧なものでないことは明白です。
「光明の広海に浮かびぬれば」とは、
暗い人生が、明るく転じた慶喜です。
「闇」に泣いた人だけに「光」に遇った笑いがあり、
「沈んで」いた人にのみ「浮かんだ」大慶喜があるのです。

つらくとも、なぜ生きるのか。
最も大事なことが分からない。

ただ生きるために生きるだけなら、
料亭の生簀に泳ぐ魚とどこが変わるでしょう。

死を待つだけの生ならば、
沈んでいるといわれて当然でしょう。

生まれてきた意味が分からず、
もだえ苦しんでいた聖人が、
“ああ、生まれてきてよかった”
と、浮かび上がられた光明の広海とは、
いかなる人生であったのでしょうか。
「至徳の風静(しずか)に、衆禍の波転ず」
「至徳」とは無上の幸せ。
「衆禍」とは四苦八苦のこと。
大宇宙の宝「南無阿弥陀仏」と一体となった大満足を
「至徳の風静に」と言われ、
苦悩がそのまま喜びに転じ変わる不思議さを
「衆禍の波、転ず」と驚嘆されているのです。

そんな世界が本当にあるのか、達成できるのか、
と疑い訝る(いぶかる)私たちに聖人は、

ある。親鸞が生き証人だ。皆さんも早く、
弥陀の大船に乗ってもらいたい

と勧めておられるのです。
かくして聖人90年の教えは、
「人生の目的は弥陀の救いに値う(あう)ことだ」。
これ一つであったことが、お分かりになるでしょう。

●よく聞くこともかたし

ところが「親鸞聖人のファン」を自称する作家は、
“人生の目的は、ないと思う”と書き、
また、浄土真宗の看板を掲げ、
聖人の教えを伝えるべき立場の人も自著の中で、
“人間はなぜ生きているか、答えは見つからない”
と述べています。
親鸞聖人が、「人生の目的」を
一言で喝破されている御文が、
難思の弘誓は、難度海を度する大船」。
この『教行信証』劈頭(へきとう)であることを
知られないのでしょう。
聖人、90年のご苦労を水泡に帰してはなりません。
親鸞聖人の教えを、真剣に、一筋に聞き抜けば、
どんな人も必ず救われます。
弥陀の救いに漏れている人は一人もいないのです。
「苦しみ悩むあなた一人を、
必ず絶対の幸福に救う」
弥陀の誓願、まことだったと知らされる時が、
必ずありますから、弥陀の御心、聞き開きましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
体験手記
仏法で身も心もよみがえった
   病苦からの生還
京都・福知山の大山賢治さん(仮名・25歳)は、
数ヶ月前まで病苦にあえいでいました。
それが親鸞聖人の教えと出遇い、
人生が一変したといいます。

3人兄弟の2番目だった私は、
高校卒業と同時に郷里の福知山を離れ、
栃木県にある本田技研の研究所へ入りました。
自動車エンジンの設計という、“ものづくり”の仕事で、
希望に燃えて就職しました。
ところが、社会人としての生活は
理想と現実のギャップが大きく、
仕事は主にパソコン作業や精神労働、
人間関係でも強いストレスを感じ、
私生活では、お金や異性、ファッションなどに
のめりこんで苦しみました。

そんな中、頭痛、難聴、めまいや倦怠感が
続くようになりました。
いろいろの医者にかかっていましたが、
やがて、脳腫瘍で倒れて緊急手術を受けたのです。
一命を取り留めましたが、
あと少し処置が遅ければ手遅れだったと知ったときは
背筋が凍りました。
副作用の強い抗ガン剤や放射線の治療に耐え、
半年で腫瘍は完治しましたが、
病魔はそれだけでは終わりませんでした。

精神の病にかかり、
躁と鬱を繰り返すようになりました。
「なぜ自分だけがこんな目に・・・」
疑問を医師や母にぶつけますが、
誰も答えられません。
仕事も継続できなくなり、退職して実家に戻りました。
その頃は日常の小さなこと、
例えば今いた場所を立ち去る時、
何か忘れていないか、などが気にかかり、
何度も確認しないと気が済まない
強迫観念に苦しみました。
鬱の時は、
「こんな苦しいのに、なぜ生きねばならないのか」
「この先もこんなに苦しいなら、いっそのこと・・・」
そんな思いから離れられません。
絶望から、周囲に暴言を吐き、そんな自分を嫌悪する。
生きた心地のしない状態で、自ら命を絶ってしまいそうな
危機が何度もありました。
今思えば、よく生きていられたと思います。

そんな私を支えてくれたのは、
女手ひとつで3人兄弟を育ててくれた母でした。
私の病気に心を痛めているのが申し訳なく、
母のためにも何とかよくなりたいと、
いろいろな治療を試しました。
その一つ、鍼灸(しんきゅう)の接骨院で、
人生を変える出会いが待っていたのです。
その治療院では体のことだけでなく、
日々の思いも打ち明けて相談しており、
鍼(はり)治療も一定の成果を見せ始めていました。
ある日のこと、その鍼の先生が、
「なぜ生きる」と書かれた仏教勉強会の案内チラシを
手渡してくれました。
その日、たまたま接骨院のポストに投函されていて、
私に渡さねばと思ったそうです。

それは、苦しい精神状態の中、
いつも考えていた問いでした。
その答えが分かるなら、ぜひ知りたいと参加したのが、
親鸞聖人の教えとの出遇いだったのです。

●生きる目的が分かった!

初めは“すごい世界があるんだな。ぜひ自分も”
と思う反面、“本当に答えが分かるのか”
と半信半疑で、なかなか仏法が自分のことと
思えなかったのですが、
「必ず『なぜ生きる』の答えが分かる」
との講師の力強い言葉に一筋の明かりを見いだし、
続けて聞くようになりました。
やがて、苦しみの波の絶えない人生の波を、
阿弥陀仏の本願の船のみが、
乗せて必ず渡してくだされる。
人間に生まれてきたのは、
この阿弥陀仏の救いにあうためである、
と私の生きる目的がハッキリ分かりました。


弥陀の救いは二益(二度救われる)とお聞きします。
その真の弥陀の救いとは比較になりませんが、
あの苦しみの中で親鸞聖人の教えに遇えたことが、
私にとって大きな救いであり、
三益にも四益にも感じられます。
つらかった闘病生活も
私に仏法を聞かせる方便だったのだと、
今なら喜べます。

疎遠だった父とも、私が投函した「なぜ生きる」
のチラシを縁に再び交流できるようになり、
それも大変うれしいことでした。
先日、母の誕生日に手紙を書きました。
「生んでくれて本当にありがとう」
心底からそう書けたのは、
親鸞聖人の教えを知らされたからです。
母も、元気になった私を誰よりも喜んでくれています。
これから母や、私と同じように苦しんでいる多くの人たちに、
弥陀の本願を正しく伝えられるよう、
親鸞聖人の教えを真剣に聞き求めたいと思います。


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