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死を考えずに明るく生きたいという人生観は間違いか? [なぜ生きる]

●死を考えずに明るく生きたいという人生観は間違いか?
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そのような人生観を持っている人がほとんどでないでしょうが、
真面目な人生観とはいわれません。
「今までは他人が死ぬぞと思いしに、
俺が死ぬとは、こいつたまらん」
と泣いて死んだ医者があったそうです。
人間一度は死なねばならない、
とはだれしも一応は合点しているのですが、
「自分の死」に直面した時は、動物園で見ていたトラと、
山中で突如出会ったトラほど違うのです。
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「一度は死なねばならぬことぐらいは、分かっている」
と言いますが、
それは「他人の死」であって「自分の死」という大問題については、
千里先の雷か百里先の馬が転んだほどにも、
考えてはいないのです。
もちろん、戦場とか大ゲンカで極度に興奮している時は、
平気で死ねるようにみえますし、
難病で死の宣告を受けた患者の中には、自殺する人もいますが、
あれは極度の興奮で一時気が狂っているか、
死を恐れるのあまり自分から死んでしまうのです。

四十七士の討ち入りで有名な大石内蔵助は、
腹を開き短刀は握ったが、
手が震えて腹に突き刺すことができなかった。
介錯人が見るに見かねて、彼の輝かしい名声を傷つけまいと、
大石の切腹の前に首をはねた、といわれています。
「手を一つ打つにつけても討つという、敵のことは忘れざりけり」
の執念が実って、吉良邸に討ち入った時の大石には、
死は眼中にはなかったでしょうが、
そのような激情は続くものではありません。
シェークスピアは『尺には尺を』の中で、
「死ぬのは怖いことだ」
と、クローディオに叫ばせ、
ユーゴーは『死刑囚最後の日』の中で、
「人間は不定の執行猶予期間のついた死刑囚だ」
と、言っていますが、すべての人間の悲劇は
遅かれ早かれ死なねばならないところにあります。
核戦争が怖い、公害が恐ろしい、食糧危機だ、
交通戦争だと騒いでいても、
所詮は死が怖いということではありませんか。
死という核心に触れることがあまりにも恐ろしすぎるので、
それに衣を着せ和らげたものと
対面しようとしているにすぎません。
しかしどんなに死を考えないように、
明るく生きようと努めてみても、
必ずやってくる「自分の死」から、
完全に目を背けることはできません。
麻酔薬は一時苦痛を和らげ、ごまかしてはくれますが、
麻酔がさめたら苦痛と対面しなければならないように、
やがて私たちはどんなことをしてもごまかすことのできない自分の死と、
自分だけで対面しなければならない時が、必ず来るのです。

ではなぜ死が恐ろしいのか。
それは、
「死んだらどうなるのか」
という未知の後生に入っていく不安があるから恐ろしいのです。
これを仏教では、「暗い後生」といい、
「一大事の後生」といいます。
親鸞聖人は、
「一たび人身を失いぬれば万劫にも復(かえ)らず。
徒に(いたずらに)後悔を胎す(のこす)ことなかれ」
            (教行信証)
と教え、それゆえに蓮如上人は、
「あわれあわれ、存命のうちに皆々信心決定あれかしと
朝夕思いはんべり」
と、この一大事の後生の解決(信心決定)を急げと
叫び続けておられます。
この魂の解決をして、
死んでよし生きてよしの無碍の大安心へ雄飛しない以上、
あなたの求めていられる光明の人生は開かれません。
一切の人生苦の根源である死の解決こそ
一生参学の大事であり、
全人類究極の目的なのです。
しかもそれは、真実の仏法、阿弥陀仏の本願力によらなければ
絶対に果たし得ない難中之難の大事です。
この一大事の後生の解決のできうる唯一の道を教える
真実の仏法を求めて、
真に明るい人生を心行くまで味わってください。


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本当の私を知る [罪悪深重]

 (真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています)

本当の私を知る
  法鏡に映った真実の自己

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「あなたはだれ?」
と尋ねられたら、皆さんはどう答えますか。
「そりゃあ、『○○会社の課長の△△です』
と名刺を渡しますよ」
と言う人もあるでしょう。
でも、会社を退職してしまえば、
その肩書きもなくなってしまいます。
改めて、
「あなたはだれ?」と尋ねられたら、
何と答えることができるでしょう。
「うーん、元課長」
と言うわけにはいきませんね。
私とは何か。とても大切な疑問です。
そしてこれは、人間として生きていくには、
避けて通れぬ大きな問題なのです。

●幸せになろう
   としている「自分」とは

桜咲く春が近づき、大学受験や資格取得、
就職など、人生の新しいスタートに向かって、
準備している人が多いでしょう。
どんな仕事に就いたら、どんな人と結婚したら。
今までは仕事一筋の人生だった、さあ退職後は、
何をすればいいのかな。
悔いのない満足した日々を送りたい。
それには、どうすれば・・・。
人生の岐路に立たされた時、人は悩み、考えます。

仕事仕事で、生きてきた。
待てよ、このままで終わっていいのかな

という方も多いでしょう。
女性なら、
やれやれ、ようやく子育てが終わった。
でも、子供たちが就職、結婚して、家を出ていったら、
何だか寂しくなっちゃった。
あーあ、私の人生なんなのかしら

と、ふと疑問が生じる人もあるのです。
だれでも、幸せになりたいと望んでいます。
私らしく生きたい」
「私の人生、後悔したくない」
と、みんな言います。
では、肝心のその「私」とはどんなものでしょう。

就職のアドバイスでも、どんな仕事を選ぶかの前に、
「まず自分を知ることが大切」
といわれます。
自分というものを知らずして、
その自分が幸せになれる道を選べるはずはありません。

幸せになろうとしている主体である「私」について、
よくよく考えてみることが大切ではないでしょうか。

●もっとも
   大事な探し物

古来から、自分自身を知ることが
大事だといわれてきました。
「汝自身を知れ」とは、
古代ギリシャの時代からいわれています。

本当の自分を知らなければ、
本当の幸せにはなれないからでしょう。

仏典には、こんな話があります。

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お釈迦さまが一樹の陰に休んでおられた時、
近くの林で30人余りの貴公子が、
それぞれ妻を伴って酒宴を楽しんでいた。
その中で一人の独身男が、
娼婦のような女を連れていた。
ところが、みんなが疲れて眠っている間に、
その女が貴重品を盗んで逃げたのだ。
驚いた一行が林の中を徘徊して捜し回っていると、
座しておられる釈尊(釈迦)の姿を見た。
「世尊、怪しい女が通りませんでしたか」
と尋ねると、こう反問されたという。
「事情はよく分かったが、その女を求めるのと、
汝自身を求めるのと、いずれが大事であろうか」
一同、迷夢から覚めた心地して、
説法を聞き、仏弟子になった、
と記されています。

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かつて、バブルといわれる時代がありました。
株だ、土地だ、債権だ、と美酒に酔いしれ、
右肩上がりの景気のいい話に、
皆、我を忘れて、舞い上がったといわれます。
ところが、はじけてみると、こりゃ大変。
破産、倒産、リストラの嵐吹き荒れ、
人生そんなにいいことばかりではない、
自分というものを
しっかり見つめ直さなければならないぞと、
反省したはずでした。
今また、景気がじわじわよくなりつつあるといいますが、
今度こそ、浮かれず踊らず、
私たちは自分を見つめて生きていくのでしょうか。

●いつも一緒
   だけど見えない・・・

私のことは私がいちばんよく知っている、
と思う人も多いでしょうが、しかし、
「知るとのみ 思いながら 何よりも 
知られぬものは 己なりけり」
ともいわれるように、最も分からないのが、
実は、自分自身ではないでしょうか。

古今東西、我が身知らずを笑った話は多くあります。
その一、二を挙げてみましょう。

古代中国の蔡君謨(さいくんぼ)という宰相は、
長い見事なあごヒゲで有名でした。
天子から、そのヒゲを布団の中に入れて寝るのか、
外に出して休むのか、と聞かれましたが、
一向にハッキリした自覚がありません。
いい加減なことも言えず、一晩の猶予を願って、
早速、帰宅して試してみました。
しかし、夜具に入れると息苦しいし、
外に出しても都合が悪い。
長いあごヒゲを出したり入れたり、
夜明けに及びましたが、
結論は出なかったといいます。

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        ■ ■ ■
窃盗団が山中で宴会を開きました。
もちろん、盗品でないものは何一つありません。
中に輝く金杯がありました。
回し飲みをしているとうちに金杯がなくなったので、
親分株が立ち上がり、目を釣り上げてどなりました。
「さては、この中に盗人がいるな」
自分が窃盗団のボスであるのを忘れなければ、
言えないことに違いありません。

いずれも身につまされる話ですが、
キルケゴールは、自分自身を忘れるという、
最も危険なことが、世間ではいとも簡単になされていると
警告しています。(『死に至る病』)
キャシュコーナーに、
現金を置き忘れたとなれば大騒ぎしますが、
最も大事な自分を忘れていても、
ちっとも驚かないのです。

●口や体を動かす
  心のすがた

どうしてこんなに自分がわからないのでしょうか。
どんなによく見える目でも、
目そのものを見ることはできません。
同じように、私たちは、あまりに近すぎて、
自分のすがたを見ることができないのです。

近すぎて見えない自分を見るには、
鏡が必要です。

では、どんな鏡が、本当の私のすがたを
映してくれるのでしょうか。
お釈迦さまはご遺言に、
「汝らに法鏡を授けるであろう」
と述べられています。

釈尊の説かれた教えが仏教です。
その仏教を「法鏡なり」と言われているのは、
「私たちのありのままのすがたを
映して見せる鏡のようなものが仏教だ」
ということです。

鏡に近づけば近づくほど、
自分の姿がハッキリ見えてくるように、

仏教を聞けば聞くほど、知らされてくるのは、
自分の本当のすがたです。

大無量寿経』には、私たちのすがたを、

心常念悪(心は常に悪をおもい)
口常言悪(口は常に悪を言い)
身常行悪(身は常に悪を行い)
曾無一善(かつて一善もなし)

とおっしゃっています。
仏教では、私たちを、
心と口と身の三方面から眺めますが、
中でも最も重視されるのが、心の行いです。

殺る(やる)よりも 劣らぬものは 思う罪
といわれ、口や体で造る悪よりも、
心で悪いことを思う罪はもっと重いのです。

なぜなら、口や体の行いは心の指示によるからです。
心は火の元、口や体の行為は、
火の粉に例えることができましょう。
火の粉が火の元から舞い上がるように、
体や口の行為は、心の表現なのです。

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では、心で、どんな悪を造っているのでしょうか。
釈尊は、「貪欲、瞋恚(しんい)、愚痴」
と教えられています。

貪欲とは、なければないで欲しい、
あればあるでもっと欲しい、
という底の知れない欲の心をいいます。

釈尊は、食欲、財欲、色欲、名誉欲、
睡眠欲の五欲を教えられています。

■食欲

食欲とは、食べたいという欲です。
私たちは動物を食べるのを当たり前だと思っていますが、
動物たちは決して、人間のための生命とも、
当然の犠牲とも考えてはいないでしょう。

どんな生物でも、死にたくないのは、
私たちと変わらないはずです。
船上の魚がピチピチはねるのも、
首を絞められる鶏がバタバタもがくのも、
苦しいからでしょう。
人間とは何と残酷なものかと、
強くのろって死んでいるに違いありません。

ちょうど私たちが無実の罪で殺される恨みと、
少しも変わりはないでしょう。

しかし、毎日、私たちの食欲を満たすため、
どれだけ多くの生命が奪われているか分かりません。

■財欲

昔、3人の泥棒が大金を盗んで山頂まで逃げた。
山分けしようとした時、
一人が欲を起こした。
「腹ごしらえしてからにしようじゃないか。
オレは食べ物を探してくるからな」
と言って、町へ出かける。
空腹にあえいでいた2人に、異論はない。
町へ行き、買った饅頭をたらふく食べた泥棒は、
残りの饅頭に毒薬を注入する。
山に残った2人も、悪相談ができていた。
「アイツを片づけて、この大金を二分しよう」
町から帰った泥棒は、
「オレは、食べてきたよ」
と毒饅頭をそこに置き、がけの上から、
気持ちよさそうに放尿し始めた。
チャンスとばかりに2人の泥棒は、
足音忍ばせ近づき、谷底へと突き落とす。
「これで安心、食べてから分けよう」
毒饅頭を食べた2人も枕を並べてあの世行きだ。
山頂に残ったのは、盗んだ大金だけだったという。

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

切りのない欲を満たそうとして苦しみ、
すべてを置いてこの世を去る。

人間の末路を象徴しているような話です。
財欲のために一級建築士が耐震データを偽造し、
韓国では、名誉欲のために
大学教授が論文を捏造して、
辞職を表明しました。

■名誉欲

名誉欲とは、他人からよく思われたい、
褒められたい、悪口言われると面白くない心です。
最近、“できると思わせる”ための
ハウツー本が注目を集めています。
“できる人になる”のは難しいけれど、
“できる人と見られたい”という心理からでしょう。
転職セミナーには、「できると思わせるポイント」
「人事担当者に会ってみたいと思わせる応募書類の秘訣」
などのテーマが並び、人気を呼んでいます。
「『やさしい男』に見せる法」「『知的な男』に見せる法」
などの目次が並んだ恋愛術の本も売られています。
年末には、「いいお嫁さんと思わせる帰省術」なる特集が、
婦人雑誌で組まれたりします。
アンチエイジングも大人気です。
直訳すると抗加齢。
若く見られたい女性の間で注目を集めましたが、
最近は、男性にもブームが広がっているそうです。
退職後、美容外科に通い、月数万円をかけてシミの除去、
美肌効果のある点滴を受け、
ビタミン剤を服用している男性もいるといいます。
他人からどう評価されるか、皆、気にしているようです。

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●鎮火したと聞くとがっかりするのはなぜ?

これらの欲が妨げられると、
出てくるのが愼恚(しんい)、
怒りの心です。

「怒」という字は、心の上に奴と書きます。
あいつのせいで儲け損なった、
こいつのせいで恥かかせられたと、
怒りの炎が燃え上がります。

離婚話にカッとなった男が、部屋に灯油をまき、
火をつけ、妻も子供も焼き払った事件がありましたが、
この愼恚の心のなせる業(わざ)でしょう。

怒ってもかなわぬ相手と知ると、
わき上がってくるのが、
ねたみ、そねみ、恨みの、愚痴です。

他人の才能や美貌、金や財産、名誉や地位をねたみ、
相手の不幸を喜ぶ、悪魔の心が出てきます。
災難に遭って苦しんでいる人に、
「お気の毒に」と言いながら、心ではニヤリとする、
恐ろしい心です。
「火事だ」と聞いて、火事場に向かって走っている途中に、
鎮火したと聞くと、がっかりします。
「旅先の火事は大きいほど面白い」
といわれますが、不謹慎であってはならない、
と思う下から、対岸の火事を楽しんでも、
悲しむ心が起きません。

悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり

親鸞聖人は、ヘビやサソリを見た時のような、
ゾッとする心だと嘆かれています。

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●本当の私と
   最高無上の幸せ

法鏡で、本当の自分のすがたを
ハッキリ知らされた親鸞聖人は、

いずれの行も及び難き身なれば、
とても地獄は一定すみかぞかし

         (歎異抄)

と助かる縁が断たれたと同時に、

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人(いちにん)が為なりけり

            (歎異抄)
と歓喜踊躍なさっています。
“阿弥陀仏の本願は、ひとえにこの極重悪人の
親鸞一人を助けるためであった”

と躍り上がって喜ばれているのです。

「オレはそんなに悪いヤツではない」
とうぬぼれている人は、

極悪人目当てに救うと誓われた
弥陀の本願に相応できません。
地獄一定の門を通らねば、
弥陀の救いにあえないのです。

本当の自分のすがたを知らされねば、
本当の幸福にはなれませんから、
お釈迦さまは、一切経に、
私たちの本当のすがたを教えられているのです。


 


タグ:法鏡
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