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「お母さん、生んでくれてありがとう」釈迦が説く、親の大恩 [父母恩重経]

“10代の子供たちが、
親を尊敬していると思いますか”
読売新聞が、20歳以上の男女3000人に
行った世論調査に、
回答者の半数以上は、
「尊敬していない」と答えました。
生み育ててくれた恩を心から感じていれば、
親を敬わずにはおれないでしょう。
仏教では、恩を知り、恩を感じ、
恩に報いようとする心が強いほど、
素晴らしい人だといわれます。

お釈迦さまは、経典に、
父母の恩重きこと天の極まり無きが如し
と教えられています。

私たちは、両親からどんなご恩を受けているのか。
有名な『仏説父母恩重経』から、
聞いてみましょう。


お釈迦さまは、親の大恩を
十種に分けて教えられています。

①懐胎守護(かいたいしゅご)の恩
②臨生受苦(りんしょうじゅく)の恩
③生子忘憂(しょうしぼうゆう)の恩
④乳哺養育(にゅうほよういく)の恩
⑤廻乾就湿(かいかんしゅうしつ)の恩
⑥洗潅不浄(せんかんふじょう)の恩
⑦嚥苦吐甘(えんくとかん)の恩
⑧為造悪業(いぞうあくごう)の恩
⑨遠行憶念(おんぎょうおくねん)の恩
⑩究竟憐愍(くきょうれんみん)の恩


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①懐胎守護(かいたいしゅご)の恩
妊娠すると母親は重病のようになる

母親が妊娠してから出産するまでに受ける恩で、
経典には次のように説かれています。

「始め胎を受けしより十月を経る間、行・住・座・臥ともに、
もろもろの苦悩を受く。
苦悩休む時なきが故に、常に好める飲食・衣服を得るも、
愛欲の念を生ぜず。
唯一心に安く生産(しょうせん)せんことを思う」

母親は胎内に子供を宿ってから十ヶ月、
いろいろな苦悩を受ける。
その苦しみが激しく休むときがないため、
好物や、好みの服を入手しても、
食べたいと思わなければ、身を飾りたいとも思わない。
ただ、日々念ずることは、
丈夫な子供を生みたいということばかりである。

と教えられています。

釈尊はさらに、
「悲母、子を胎(はら)めば、十月の間に血を分け、
肉をわかちて、身重病を感ず。
子の身体これによりて成就す。」
とおっしゃって、
血も肉も子供の体のすべては、
母親から分け与えられるといわれています。
つわりが始まれば、みるみるやせていく人もある。
酸っぱい物を欲するのは、
体が酢酸を要求するからといわれます。
酸は、母親の骨を溶かし、溶かされたカルシウムは、
胎児の体に運ばれるのです。
重病のようになるのも無理はありません。

それでも母親は、心の静め行いを慎み、
胎教に努め、子供の成長を願うのです。

②臨生受苦(りんしょうじゅく)の恩
戦場に臨む、決死の覚悟がいるから陣痛といいます。

いよいよ月満ちて陣痛が起こり、
子供を生むときの苦しみは、青竹を握らせると、
二つに押し割るほど激しいといわれます。
出産に夫が立ち会うと、育児に協力する割合が
高くなるといわれるのも、
その苦しみを目の当たりにするからでしょう。
額にはあぶら汗が流れ、
全身がバラバラになるような痛みに耐えながら、
母は子を生むのです。
まさに、戦場に臨むような決死の覚悟が必要ですから
「陣」痛といわれます。

『父母恩重経』には、
「月満ち時至れば、業風催促(ごうふうさいそく)して、
偏身疼痛し、骨折解体して、神心悩乱し、
忽然として身を亡ぼす」
とあります。

有名な水戸光圀は、自分の誕生日に
最も粗末な食事を取っていました。
不審に思って、近臣が尋ねると、

「なるほど誕生日は、この世に生まれた祝うべき日で
あるかもしれない。
しかし、この日こそ、自分が亡き母親を最も苦しめた日なのだ。
それを思うと、珍味ずくめでお祝いなどする気には
どうしてもなれぬ。
母上を思い、母上のご苦労を思えば、
自分はせめて一年中でこの日だけでも、
粗末な料理で母上のご恩を感謝してみたい」
と言ったといいます。

大変な苦しみに耐え、命を与えてくれる恩です。
            (臨生受苦の恩)

 

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③生子忘憂(しょうしぼうゆう)の恩
元気な子供の顔を見れば、苦労は吹き飛ぶ

出産の知らせを聞いた父親は、真っ先に、
子供の無事を尋ねるといいます。
多少利口でなくても、器量が悪くてもよい、
なにしろ元気であってほしい一心に念じる親の心は、
いつの時代でも同じでしょう。

『父母恩重経』には、
「もしそれ平安になれば、なお蘇生し来るが如く、
子の声を発するを聞けば、
己も生まれ出でたるが如し」
とあります。

元気な子供の顔を見れば、
それまでの一切の苦しみを忘れて、
母はもとより一家あげて、
「よかった、よかった」と歓声をあげるのです。
この心配に対する恩は、ひととおりではありません。

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④乳哺養育(にゅうほよういく)の恩
成長に合わせて、次第に濃くなっていく母乳

乳を飲ませ、子どもを育てることは、
並大抵のことではありません。
特に母乳が足りないときは大変です。
牛乳では、生まれたばかりの子には強すぎる。
粉ミルクも、成長するにつれて濃さを調節するのは難しい。

ところが母乳は、最初は薄く、
子供の成長に適合して、
次第に濃くなっていくといわれます。

自然の法則の妙といえましょう。

「乳を噛む 子を叱りつつ 歯をかぞえ」
と昔からいわれるように、
授乳などのスキンシップは、母と子のきずなを強め、
愛情を深めるうえでとても大切だ、
と多くの学者も指摘します。
温かい母の胸で、命の糧を頂いたご恩は終生、
忘れてはならないはずです。

             (乳哺養育の恩)

 

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⑤廻乾就湿(かいかんしゅうしつ)の恩
水の如き霜の夜にも、氷の如き雪の暁にも

自分の子供は文句なしにかわいい。
子供が夜中におねしょをして布団をぬらすと、
母はその冷たくなった所に自分が休み(就湿)、
今まで自分が寝ていた温かい所へ
子どもを寝かせます(廻乾)。

これが廻乾就湿の恩です。

母はわが身の冷えることなど問題にしていません。
釈尊はこれを、
「水の如き霜の夜にも、氷の如き雪の暁にも、
乾ける処に子を廻(まわ)し、湿りし処におのれ臥す」
とおっしゃっています。
だれもが身に覚えのあることではなでしょうか。


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⑥洗潅不浄(せんかんふじょう)の恩
子の臭穢(しゅうえ)を厭うこと無し

「洗潅不浄の恩」とは、
子供の小便、大便のついた汚い物を、
労苦をいとわず洗濯して、
常に清潔な物を着せてくれる恩です。

釈尊は、
「母にあらざれば養われず、母にあらざれば育てられず。
その闌車(らんしゃ)を離るるに及べば、十指の甲の中に、
子の不浄を食う(くらう)」
「子、己(おの)が懐にくそまり、
或いはその衣に尿(いばり)するも、
手自ら洗い濯ぎて臭穢を厭うこと無し」
と説かれています。

子は母の愛情なくして養育されることはない。
おむつを洗濯するおりに、つめの間に子供の便を含み、
それを知らずに食事の用意をしているときなど、
口へ運んでしまうのである。

子供が小便をして自分の着物がぬれても、
また子供の服が汚れても、
決して臭いとか汚いと言って嫌うことなく、
自らの手で洗濯し、洗い清めてくれる。

今は、紙おむつや洗濯機が使われていますが、
子の不浄をいとわず世話をする親の心情は変わりません。
子供が成長し、自らトイレに行って、
大小便を済ませるようになるまで、
洗潅不浄の恩は絶えないのです。


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⑦嚥苦吐甘(えんくとかん)の恩
「お母さんはお魚の骨が好きなの?」

『父母恩重経』には、
「食味を口に含みて、
これを子に哺(くら)わしむるにあたりては、
苦き物は自ら嚥み(のみ)、甘き物は吐きて与う」
とあります。

自らは食べずとも、子を飢えさせる親はありません。
おいしい物は子供に与え、
自分はまずい物、残り物で我慢する。
子供の成長を願い、魚の身ばかりほぐし、子供に与え、
自分は骨をしゃぶって食事をするのです。

「お母さんはお魚の骨が好きなの?」
と不思議がる子供に、
「お母さんは、おなかがいっぱいだから、
おまえが食べなさい」
と答える。
子は親から、幾度この言葉を聞いたことがあるでしょう。
子供の口から吐き出された物さえ、
平気で自分の口に入れるのが母です。

「父母外に出でて他の座席に往き、
美味珍羞(びみちんしゅう)を得ることあらば、
自らこれを喫う(くらう)に忍びず、懐に収めて持ち帰り、
喚び(よび)来たりて子に与う」

(外出先で、おしいしそうな菓子や果物をもらうと、
自らはそれを食べずに持ち帰り、子供に与えます。)
衣類などでも同じです。
自らは、古い着物で我慢し、
子供には新しいきれいな物を与える。
子供が喜ぶ姿を見て満足するのが親なのです。

                (嚥苦吐甘の恩)

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⑧為造悪業(いぞうあくごう)の恩
子供を守るために刑務所に入ることもある

親はわが身を犠牲にしても、いかなる強きものにも対抗して、
子供を守ろうとするのです。

殊に子供が餓死せんとする時には、
前後を忘れて盗みを働き、
刑務所に入れられることもあるでしょう。

「もしそれ子のためにやむを得ざることあらば、
自ら悪業を造りて悪趣に堕つることを甘んず」

子供が欲しいと言えば、悪いこととは知りつつも、
つい他人の花をも手折ってしまう、親の悲しさです。

ヴィクトール・ユーゴに、『レ・ミゼラベル』という小説があります。
主人公が子供のために一片のパンを盗み、
その罪で刑務所に入るのですが、
自分がそばにいてやらないと子供が困るだろうと、
何度も脱獄を企てては見つかってしまいます。
結局、たった一片のパンを盗んだばかりに
十九年間も刑務所生活を送ることになるのです。
古今東西、変わりなきは子を思う親心でしょう。


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⑨遠行憶念(おんぎょうおくねん)の恩
遠くへ行くほど、親の心配はつのる

子供が遠くへ行けば行くほど、親の心配はつのります。
小学校に入り、一人で登下校するようになったころ、
こんなことがありました。
学校帰りに友達からザリガニ捕りに誘われ、
時間を忘れて夢中になってしまったのです。
気がつくと日は沈み、帰り道に母が待っていました。

驚いたのは翌朝。
教室に入るとみんなが、「大丈夫?」と言いながら、
心配そうに駆け寄ってくる。
実は、前日母が、クラス中の友達に電話をしていたのです。
「申し訳ないことをした」と、子供心に反省したものです。

子供が大きくなり、旅に出たとか、
遠方で下宿などしているときは、
雨につけ、風につけ、子供のことを案じ続ける。
病気をしなければよいが、怪我せねばよいが、と心配し、
その安全を念じ続けるのです。

衣・食・住のことから、友達の心配、学業のこと、
仕事のこと、そして経済状態、
身の回りのすべてが気になるのです。

「もし子遠くへ行けば、帰りてその面を見るまで、
出でても入りてもこれを憶い(おもい)、
寝ても覚めてもこれを憂う」
                   (遠行憶念の恩)

 


⑩究竟憐愍(くきょうれんみん)の恩
影の形に添うがごとく、親の心は子供から離れない

「おのれ生ある間は、子の身に代わらんことを念い(おもい)、
おのれ死に去りて後には、子の身を護らんことを願う」
とあります。

親は、自分が七十、八十の老境(ろうきょう)に入っても、
子供を哀れみ、慈しむ。
影の形に添うがごとく、親の心は終生、
子供から離れることはないのです。

これらの恩をまとめて「親の大恩十種」といわれます。

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こんなに重い恩を受けて、生み育ててもらいながら、
耳を疑うような事件が聞こえてきます。
親を絞殺したとか、
金属バットで殴り殺したと聞くに至っては、
言葉をのむよりありません。

ところがどうでしょう。
お釈迦さまは、『仏説父母恩重経』に
このように説かれています。

「既に婦妻を索(もと)めて他の女子をめとれば、
父母をばうたた疎遠にして夫婦は特に親近し、
私房の中において妻と共に語らい楽しむ」

「父は母を先立て、母は父を先立てて独り空房を守り居るは、
なお孤客の旅寓(りょぐう)に寄泊するが如し。
常に恩愛の情なくまた談笑の楽しみなし」

両親を別棟に押しやり、夫婦だけが母屋で語らい楽しむ。
老いた親のどちらかが先立てば、離れにポツンと独りぼっち。
談笑の楽しみはありません。
用事があって子供を呼ぶと、怒りののしられ揚げ句、
このように言われると、釈尊は説かれています。
「老いぼれて世に残るよりは早く死なんには如かず」
(この先、生きていて何の楽しみがあろう。
早く死んだほうがよかろう。)

「殺るよりも劣らぬものは思う罪」といわれます。
手で殺さなくても心で殺す方がもっとも恐ろしいのです。


ある所に女手一つで息子四人を皆、東大まで出させ、
一流企業に入社、結婚させた母親がありました。
その母の面倒を誰が見るか、四人の兄弟が集まり、
深夜まで口論しました。
が、だれ一人、面倒を見ると言うものがありませんでした。
一部始終を隣室で聞いていた母親は、
翌朝、電車に飛び込み、自殺したのです。

私たちは、心で親を、どれだけ殺しているか、
深く自己を振り返ってみずにはおれない悲劇です。


●感謝できないのは、どうしてか

どうしてこんなことになるのでしょうか。
私を生み、育ててくれたご恩が、なぜ感じられないのか。
それどころか、せっかくこの世に生まれてきても、
他人を恨み世間をのろい、
こんな苦しい人生ならば死んだほうがましと、
自殺する人も少なくありません。

そんな人は、「親が生みさえしなければ」と
思っているのではないでしょうか。

生きる喜びが分からなければ、
心から両親に感謝することはできません。

人生の目的を知り、「人間に生まれてきてよかった」という、
生命の歓喜がえられた時こそ、
真に親の大恩が知らされるでしょう。

それを教えたのが真実の仏法です。
釈尊は、阿弥陀仏の本願を聞信し、
絶対の幸福を獲得した時こそ、
人間に生まれてきた本当の有り難さ、
尊さが分かるのだと教えられています。

「人身受け難し、今すでに受く。
仏法聞き難し、今すでに聞く。
この身今生に向かって度せずんば、
さらにいずれの生に向かってか、
この身を度せん」

「生まれてきて本当によかった」の喜びがあれば、
それまで生み育ててくれた両親に
心から感謝の気持ちがおき、
孝行を尽くさずにはおれないのです。


●最高の孝行の道、未来永遠の親子に

私たちは、天の極まりなきがごとき両親の恩に、
どう報いればよいのでしょうか。

釈尊はまず、
「出でて時新(じしん)の甘果を得れば、
もち帰り父母に供養せよ」
「父母病あらば、しょう辺を離れず、
親しく自ら看護せよ」
と教えられています。

外出先で、季節の果物などを頂いたならば、
持ち帰り、父母に与えよ。
父母が病気になったら、自ら看護し、
他人にゆだねてはならない。
ということです。

そして、釈尊はさらに、真の孝行について、
次のように教えられています。

「汝等大衆よく聴けよ。父母のために心力を尽くして、
あらゆる佳味・美音・妙衣・車駕・宮室などを供養し、
父母をして一生遊楽に飽かしむるとも、
もし未だ仏法を信ぜざらしめばなお以て不幸となす」

「大衆よ、どんなに心を尽くしても、
父母にごちそうをふるまい、
美しい音楽、素晴らしい衣装、
立派な車、宮殿のような家を与えたとしても、

仏法を伝えなければ、仏弟子としては、
なお不幸といわねばならぬのだ。
ゆえに、両親に仏法を伝えて、
この世から絶対の幸福に救われ、
未来は弥陀の浄土に往生して
永遠の楽果を得ていただくことが、
真の孝行なのだ。」

佳味・美音・妙衣・車駕・宮室などの孝行を
否定されたのではありません。

これらのことよりもさらに素晴らしい、
最高の孝行の道を説かれたのが、
お釈迦さまです。

真実の仏法を求め、両親にも勧め、
ともに救われれば、
弥陀の浄土で再会でき、
未来永遠の親子となれるのです。

読んでいる皆さんも、一刻も早く真実の仏教を求め、
今生だけでない永遠の家族にならせていただきましょう。

             


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我々は六道を輪廻している [六道輪廻]

 

(真実の仏法を説かれている先生の書かれた「とどろき」より載せています) 

生死の苦界ほとりなし
 久しく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ
 乗せてかならずわたしける

        (親鸞聖人)
果てしない苦しみの海に溺れもだえている我々を、
阿弥陀仏の造られた大船だけが、必ず乗せて、
明るく楽しく極楽浄土まで渡してくださるのだ

今回もこの親鸞聖人のお言葉について解説します。
まず、親鸞聖人は、「生死の苦界ほとりなし」
と言われています。

これは私たちの生を海に例えられたものです。
仏教で「生死」とは、「苦しみ」を表し、
「ほとりなし」とは、「際がない」「果てしない」
ということですから、
私たちは、果てしない苦しみの海で溺れもだえている
という意味です。
2600年前、お釈迦さまは
人生は苦なり」と言われ、
『正信偈』に親鸞聖人が
「善導独明仏正意」(善導ひとり、仏の正意に明らかであった)
と称賛される中国の善導大師は、1300年前
四方八方眺むれどただ愁嘆の声のみぞ聞く
と言われています。

近代の日本ではどうでしょう?
人生を鋭く見つめた文学者たちはこう語っています。

なんのためにこいつも生まれて来たのだろう?
この娑婆苦の充ち満ちた世界へ。

(芥川龍之介・自伝小説『或阿呆の一生』で、
長男出世について語った言葉)

のんきとみえる人々も、心の底をたたいてみると、
どこか悲しい音がする。

         (夏目漱石『我輩は猫である』)

人生のさびしさは酒や女で癒されるような
浅いものではないからな。

       (倉田百三『出家とその弟子』)

まさに「ほとりなき苦界」の証言です。

●成功者もまた・・・

成功を勝ち得た者もまた「苦しみ」から
逃れることはできないようです。
前漢の第7代皇帝・武帝は、
中国全土を支配し、絶大な権勢と富を誇り、
漢時代の最盛期を生き抜いた。
しかし、盛大で、甘美を極めたといわれる宴の最中に、
彼の心に去来した次の言葉は
今でも多くの人々の胸を打ちます。

歓楽極まりて 哀情多し
少壮は幾時か 老を奈何(いかん)せん
」(秋風辞)
歓び、楽しみの絶頂に、
哀しさ、空しさが満ちてくる。
若く、壮健な時は束の間で、
やがて、老いさらばえて人は死ぬ。
この哀しくも儚い現実をどうすればよいのか

チャーチルは、第二次世界大戦・戦勝時の
イギリス首相であり、
1953年にはノーベル文学賞を受賞。
そんな彼は、人生最後の誕生日に、
娘にこう述懐しました。
私はずいぶんたくさんのことをやって来たが、
結局何も達成できなかった

90年の生涯を閉じる最期の言葉は
「何もかもウンザリしちゃったよ」
であったという

●現代も変わらぬ苦界

経済の発展も、苦しみを減じる
処方箋とはなりえないようです。
日本のGDP(国内総生産)は50年で7倍になりましたが、
生活満足度は全く変わっていません(表参照)

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心理学者は、これを「快楽の踏み車」という言葉で
説明しています。
経済などを状況がどんなに変わっても、
人間は、その状況に慣れてしまい、
願望を引き上げ、もっともっととさらなる満足を求める」
という説です。

永遠に満たされることがない欲望とのイタチゴッコを
人類は繰り返しているだけかもしれません。

それは、政治、経済、科学、医学、あらゆるジャンルでも
同じことがいえそうです。
日々の実感としても、人間関係、業績不振、
災害、病、死別などなど、
苦しみは多岐にわたります。
大小はあれど、苦界の波は、どの時代、
どの国においても静まることを知りません。
こんな状態では「人命は地球より重い」の言葉も、
木枯らしに舞ってしまうでしょう。

●「久しく」とは過去無量劫

この実相を、親鸞聖人は、「生死の苦界ほとりなし」
と短い言葉でズバリ言われています。
続けてさらに「久しく沈めるわれら」。

ここで「久しく」と言われているのは、
50年や100年くらいのことではありません。

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仏教では、私たちは、生まれては死に、
生まれては死にを繰り返し、
流転を重ねてきたと教えられます。
生まれる世界は大きく分けると6つあり、
六道とか、六界といわれます。


次の6つの世界です。

地獄界・・・最も苦しみの激しい世界。
インドの言葉で「ナカラ」(奈落はここから来ている)
地獄を八つに分けられるのが、「八大地獄」である。
「八熱地獄」ともいわれる。
その中でも、最も苦しみの激しい地獄を阿鼻地獄といい、
他の七つの地獄のさらに下にある、と説かれている。
寿命は八万劫。一劫は四億三千二百万年。
苦しみがヒマなくやってくるので
「無間地獄」ともいわれる。

餓鬼界・・・食べ物も飲み物も皆、炎となって食べられず
飲まれもせず、飢えと渇きで苦しむ世界。

畜生界・・・犬や猫、動物の世界。
弱肉強食の境界(きょうがい)で、
つねに不安におびえている。

修羅界・・絶えない争いのために苦しむ闘争の世界。

人間界・・苦楽相半ば(あいなかば)している、
我々の世界。

天上界・・六道の中では楽しみの多い世界だが、
迷いの世界に違いなく、老いる悲しみもあり寿命もある。


私たちの生命は、過去無量劫の間、
六道を回り続けてきたのであり、
この果てしない苦しみの歴史を
「生死の苦界ほとりなし 久しく沈めるわれら」と、
教えられているのです。

しかも、
地獄に堕ちる者は十方世界の土の如く、
人間に生まれる者は爪の上の土の如し

                  (涅槃経)
と経典に説かれていますから、
人間に生まれたことは、
実に有り難いことなのです。

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このことを『正信偈』で「源信広開一代教」
(源信広く一代の教を開きて)
と親鸞聖人が褒め称える源信僧都は、
こう仰っています。

まず三悪道を離れて人間に生まるること、
大なるよろこびなり。
身は賤しくとも畜生に劣らんや、家は貧しくとも
餓鬼に勝るべし、心に思うことかなわずとも
地獄の苦に比ぶべからず

           (横川法語)
人間に生まれたことは大いなる喜びである。
いくら賤しい身であっても、
畜生に劣る者はいない。
貧しさを嘆いても、飢えと渇きで苦しみ続ける
餓鬼よりはましである。

思いどおりいかない苦しみも、
地獄の大苦悩とは比較にならないではないか。
だから、人間に生を受けたことを大いに喜ぶべきなのだ。

何事も比較しなければ分かりません。
「人間に生まれなければよかった」
と嘆く人がありますが、
人間の生を受けたことは、
三悪道に堕することを思えば
とても有り難いことです。

人として生きていく以上、
この“人命を尊び、感謝する心”
が、政治、経済、科学、医学など
私たちの一切の営みの根底に
なければならないのではないでしょうか。

そのうえで、親鸞聖人は、
人間に生まれた本当の喜びとは
何なのか、こう教えてくださいます。

生死の苦界ほとりなし 久しく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ 乗せてかならずわたしける

               (親鸞聖人)
無量の過去から続く苦しみの海を、
明るく楽しく渡してくださる船がただ一艘だけある。
それこそ、阿弥陀仏が造られた船である。
この船に乗れば、生きては光明の広海に浮かび、
死しては阿弥陀仏のまします
極楽浄土・限りなく明るい無量光明土へ
生まれることができるのだ

この阿弥陀仏の大船に乗るには
真実の仏法を聞く以外にありません。
しかも仏法は、人間に生まれた今しか聞けないのです。

この真実が知らされた時、

人身受け難し、今已に受く。
仏法聞き難し、今已に聞く 
(釈尊)

生まれがたい人間に生まれてよかった!
聞きがたい仏法が聞けてよかった!

の聖語が、熱く胸に響くのです。

人生の目的とは、本当は多生の目的です。
私たちは今、生死生死を繰り返してきた
永の迷いの打ち止めをし、
未来永遠の幸せを
獲得するために生きているのです。

どんなに苦しいことがあっても、
「地獄の苦には比ぶべからず」
と乗り越えて光に向かって生き抜くのです。

仏法は聴聞に極まる。
今ここで、尊い仏縁に感謝し、
親鸞聖人のみ教えを
聞かせていただきましょう。


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