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どんな気持ちで聴聞すればよいのか!? [Q&Aシリーズ]

(真実の仏教を説かれている先生のご著書「とどろき」より載せています。) 

(質問)どんな気持ちで聴聞すればよいのか

大変皆さんがお聞きになりたいことでありましょう。
釈尊出世本懐経である『大無量寿経』には、
大火有りて三千大千世界に充満せんに、
要(かなら)ず当にこれを過ぎてこの経法を聞き・・・・

と教えられ、これを受けて親鸞聖人は、
たとい大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは
ながく不退にかなうなり

蓮如上人は、
火の中を分けても法は聞くべきに、
雨風雪はもののかずかは

と、仏法は聴聞に極まるとおっしゃっておられます。
骨折ってきけ、衣食忘れてきけ、間断なくきけ
と教えた先徳もあります。

いずれもいずれも真剣な聴聞をお勧めになっているのは、
それだけ後生は一大事だからでありますが、

私たちは一匹の蚊ほどにも後生を一大事と思ってはいません。
一匹の蚊が攻撃してきても気になって眠れないのに、
後生が苦になって眠れなかったということがないのです。

他人の後生ではあるまいに、
なぜ、必ずぶち当たらねばならぬ己(おのれ)の一大事に、
こんなに鈍感で真剣に求めきらないのでしょうか。

その原因は2つあります。
まだまだ死なないと無常を遠くに眺めていることと、
地獄へ堕ちるような悪いことはやっていないと
己の罪悪に気がつかないからです。

無常と罪悪

道綽禅師は『安楽集』に次のような喩えを説いておられます。
たとえば、人有りて空昿(くうこう)の
はるかなる処に於て怨賊、
刀を抜き勇をふるいて直ちに来りて殺さんと欲するにあい、
此人ただちに走りみるに一河を度すべし。
未だ河に到らざるに即ちこの念を作さく。
我河岸に至らば衣を脱ぎて渡るとせんや、
衣を著(つ)けて浮んとせんや、
若し衣脱ぎて渡らんには唯ひまなきを恐る。
若し、衣をつけて浮かんには、また領全くし難きを畏る。
そのとき但一心に河を渡る方便をなすありて、
余の心想間雑(しんそうけんぞう)することなきが如し。
行者またしかり。
阿弥陀仏を念ずる時また彼人の渡るを念う(おもう)て
念々相次ぎ余の心想間雑することなきが如くせよ

後ろから剣を抜いて追いかけてくるとは無常の風の激しさを喩え、
前を見れば渦巻く怒涛で一歩も行かれない。
こんな人間が居眠りなんかしておれようか。
アメ玉なめていられようか。
この人の気持ちで仏法は聞かなければなりませんよ、
と教えられたものです。
衣を脱ごうとすれば帯が堅くて脱ぐことはできないとは、
にっちもさっちも動きのとれない罪悪に苦しんでいることを
喩えてあります。
そのまま飛び込めば溺れ死ぬことは明らかですから
地団駄踏まずにおれません。
このように無常と罪悪に責め立てられたものでなければ、
信心決定できないことを教えられたものです。
(※信心決定とは、弥陀に救われること)

世間の常識は習慣と経験とから生まれますが、
仏教ではこの習慣の中に常楽我浄(じょうらくがじょう)
の四つの迷いがあると指摘します。
(※常楽我浄の迷いとは、
無常なのに常があると思っていること、
人生苦なのに楽だと思っていること、
無我なのに我があるとおもっていること、
不浄なのに清らかな心があると思っていること、
我々の心には真実のカケラもないため、正しく見ることができない。)
自己に後生の一大事如何と反省していくのは
「常に我あり」の常識を破っていくのです。
出る息は入る息を待たずと自己に問い詰めて、
一念一念恐怖のどん底をたたいて聴聞するのです。

心を凝視する

また、仏教は結果よりも原因をやかましくいいます。
於因説果(おいんせっか)といって、
原因の中に結果を論じます。
仏法を聞いても本を読んでも他人事として聞かず、
自己の上に照らして聞くことです。

そして、自分の心の動きに注意していくのです。
一日の中に何回も「ちぇっ」と不足に思う心が起きましょう。
その心の動きを凝視し、自分を掘り下げていくのです。

未来の結果は現在造りつつあるのですから、
この現在当体(とうたい)の一念に
後生の一大事如何と反省していくのです。

これを蓮如上人は、
誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、
念仏申すべきものなり
」(白骨の章)
とおっしゃっていられるのです。


タグ:聴聞
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他力になるまで聞き抜いてください! [Q&Aシリーズ]

親鸞聖人の教えを聞き、
阿弥陀仏のお力(他力)によって
往生一定の身に救われることが
人生の目的と知りました。
そこで、さあ次のステップにと思って
努力している自分にふと思いました。
自分の努力に「自力のはからい」
があることを見たからです。
「他力」の救いなのに、これでよいのでしょうか。
                (東京都・40代男性)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(答え)
この方と同じように「『とどろき』を読んで、
人生の目的は弥陀に救われることだと分かりましたが、
どうすれば弥陀の救いにあえるのですか

という質問も、よく届きます。
親鸞聖人は「なぜ生きる」の答えを、
生死の苦界ほとりなし ひさしく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ 乗せてかならずわたしける

苦しみの波の果てしない海に、
永らくさまよい続けてきた私たちを、
弥陀の願船だけが、必ず乗せて渡してくださるのだ

と明示されています。
「乗せて」とありますように、
私たちが船まで泳いでいき、
はじごをよじ上って乗るのではなく、
阿弥陀仏のほうから、
溺れかかっている私たちを一念で船に乗せ、
必ず浄土へ渡してくださるのです。


このように
「全く阿弥陀仏のお力によって救われる、
無条件(ただ)の救い」と聞きますと、
「求めるのは自力だからダメではないか」と
思われるかもしれません。
それなら何もせず、ただボーッとしていれば助かるのか、
となりますが、それは「他力」ではなく、「無力(むりき)」です。


そこで、他力に救われるとはどんなことか、
ますます分からなくなりますね。
これについて昔から、
三通りの「ただ」があると教えられています。
一つは仏法を聞き始めの頃。
「阿弥陀さまは“ただ”で助けてくださるそうな」
と聞いて合点している「ただ」です。
ところが仏法を真剣に聞いていきますと、
お尋ねのように、
「阿弥陀さまは“ただ”で助けてくださるというが、
“ただ”とは、どうなった“ただ”だろうか。
“ただ”が分からん」
となってきます。

聞けば聞くだけ、求めれば求めるだけ、
聞き切らない自己に驚き、火の中を突破しても、
ここ一つはと思わずにおれなくなるのです。

そして、自力間に合わなかったと、
助かる望みが断ち切られて、
無間のドン底へたたき堕とされた時、
十劫以来、呼び続けてくだされていた阿弥陀仏の御声が、
五臓六腑を貫くのです。

「“ただ”の“ただ”もいらん“ただ”であったか、
他力とは、こんな楽な世界とは知らなんだ知らなんだ」
と躍り上がるのです。

そこまで聞かせていただかなければ、
本当の「ただ」は分かりません。

弥陀はどんな者を、どのように救うと誓われているのか。
その弥陀の御心を聞かせていただくのが聴聞です。
「仏法は聴聞に極まる」
他力になるまで、他力を聞き抜かせていただきましょう。

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タグ:他力
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