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ウソ偽りの私たちを命懸けで救う仏さま [罪悪深重]

 (真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています) 

生死の苦海ほとりなし
久しく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ
乗せてかならずわたしける

       (親鸞聖人)
果てしない苦しみの海に溺れもだえている我々を、
阿弥陀仏の造られた大船だけが、乗せて必ず、
明るく楽しく極楽浄土まで渡してくださるのだ


今回もこの親鸞聖人のお言葉を解説いたします。
前回は、「弥陀弘誓の船」についてお話ししていました。
「弥陀」とは、すべての仏の師である阿弥陀仏、
「弘誓」とは、“すべての人を
必ず絶対の幸福に救う”お約束。

阿弥陀仏は、全人類(十方衆生)を
相手取って誓われているのです。

相手を知らずして約束はできません。
阿弥陀仏は、約束の相手、十方衆生(すべての人)を
どのように見られているのでしょう。

『御文章(御文)』に分かりやすく、書かれています。

我が身は極悪深重の浅ましき者なれば、
地獄ならでは赴くべき方もなき身なるを、
辱くも弥陀如来ひとり助けんという
誓願を発したまえり

           (御文章二帖目九通)
弥陀は私たちを、極悪深重の者、
地獄しか行き場のない者と見抜かれ、
「われ一人、助けよう」と誓われている。


前回から、仏教で教えられる十の罪悪を解説しています。

心で犯す罪
①貪欲
②愼恚(しんい)
③愚痴

口で犯す罪
④綺語(きご)
⑤両舌(りょうぜつ)
⑥悪口(あっこう)
⑦妄語(もうご)

身で犯す罪
⑧殺生
⑨偸盗(ちゅうとう)
⑩邪淫

今回は、口で犯す罪です。


人間関係の多くは言葉遣いによって決まるといわれ、
「言葉で人生は決まる」「大人の会話力」などの本が
世にあふれています。
確かに人は、ちょっとした言葉で傷つくもの。
容姿を悪く言われ、
落ち込んでいる娘を慰めようとした父親が、
「おまえ、人間は顔じゃないぞ」
と言うところを、
「おまえ、人間の顔じゃないぞ」

と言ってしまったり、
新人女子社員が電話で
「どちらさまですか」を
「何様(なにさま)ですか」
と聞いてしまったり、

妻をたしなめるため、
「バカモノ!」と言うべきところ、
「バケモノ!」と怒鳴って収拾がつかなくなったり、

そばで聞けば笑い話でも、
当事者たちは、言葉一つで修羅場が現出します。

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口で犯す、四つの悪

「口に四悪を好むなり」といわれ、
仏教では、口で四つの悪を造ると教えられます。
順番に見ていきましょう。

【綺語】
綺語とは、おべっか、へつらいの言葉。
「巧言令色(こうげんれいしょく)、鮮し仁(すくなしじん)」
という故事成語があります。
“口先だけうまいことを言ったり、
上辺だけ愛想よく取り繕って媚びへつらうさまは
誠実に欠ける”という意味です。
「口に密あり、腹に険あり」で、
甘い言葉の奥に、
金や出世の策略が巡らされています。
「下いびりの上へつらい」という言葉もありますが、
部下には毒舌、上司には甘言でこびる醜さは、
他人に見えても自分にはなかなか気がつかぬものです。

【両舌】
両舌は、二枚舌。
友達を仲たがいさせるもので「離間語(りかんご)」
ともいいます。
仲良しを見るとしゃくに触り、
一方には、
「あの人、裏ではこんなひどいことを言っているのよ」
と吹き込み、
もう一方にも同じことを言う。
初めは二人とも「まさか」と思いますが、
やがて疑心暗鬼が生じ、
関係がギクシャクしてくる。
それを見て、「しめしめ」とほくそえむ。
こんなのが両舌です。

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【悪口(あっこう)】
文字どおり、悪口のこと。
心無い一言や悪意に満ちた言葉は「舌刀」となって、
深く人を傷つけます。
昔、丹波(京都)に百歳を超えた老婆がいた。
「いちばん思い出深い話は?」
との問いに
「もう何もかも忘れてしまったが、
二十四回殺されたことだけは忘れられん」
どういうことか尋ねると、悲しげに老婆が言う。
「ワシの家では子や孫が先立ち、
二十四度の葬式を出した。
そのたびに参列者が、
『ここのばあさんと代わっておれば・・・』
と言ったのじゃ。そのつど、ワシは殺された」
言ったほうは無自覚でも、
言われたほうは死ぬまで忘れられないもの。
私たちも知らずに言葉で
どれだけ人を殺していることか。

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いじめでも、言葉の暴力が問題視されています。
特に、インターネット上は無法地帯。
十年以上、十数人から
殺人者扱いされ続けた芸能人もいる。
しかも、捕まった中傷者たちは、
「ネットの情報にだまされた。
自分も被害者だ」
「あなたは悪口言われただけではないか、
離婚した自分のほうがつらい」
と反省もなく、
「表現の自由」を振りかざす者もあった。
刑事から
「表現の自由なら自分の名前が書かれてもよいのか」
と問われると、
「芸能人はよいが、自分は一般人だから嫌だ」
と嘯いた(うそぶいた)といいます。
被害者は、中傷犯たちの顔写真を見て
「どこにでもいる普通の人」
という印象を持ったという。
匿名だと本性をむき出し、
辛辣な攻撃をする人間へと変貌する。
集団化もしやすく、安易に中傷サイトを見ていると
「語殺」の共犯者になりかねません。
その報いは一人一人が
受けていかねばならないでしょう。

【妄語】
事実無根のウソをつくこと。
「私はウソは申しません」と言った政治家があったが、
これほどの大ウソはありません。
「ウソつきの受ける罰。
それは、人が信じてくれなくなることだけでなく、
誰も信じられなくなることにある」
          (バーナード・ショー)
お釈迦さまは経典に、
「心口各異(しんくかくい) 
言念無実(ごんねんむじつ)」
と説かれています。

心で思うことと口で言うことはそれぞれ異なり、
いずれにも真実がない。
これが私たちの真実の姿だと教えられています。

あまりに私たちは平気でウソばかりついているので、
醜いという感覚が麻痺してしまって、
ウソをついているという自覚すらありません。
ちょうど、臭いトイレの中に長くいると鼻がバカになって、
臭いと感じなくなってしまうようなものです。

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命がけの弥陀の救い

このようにウソ偽りばかりの全人類は、
悪を造り続けながらも自覚がなく、
ほとりなき苦しみの海に溺れもだえています。
まさに自業自得。

諸仏から見捨てられても文句の言えない我々です。
そんな私たちを相手に、

若不生者 不取正覚
(若し生まれずは、正覚を取らじ)
もし、絶対の幸福(往生一定)に生まれさせることが
できなければ正覚(仏のさとり)を捨てる

と、命懸けて誓われた仏さまがおられます。
その仏こそ、すべての仏の先生である阿弥陀仏です。

このことを親鸞聖人は、こう和讃されています。

若不生者のちかいゆえ
信楽まことにときいたり
一念慶喜するひとは
往生かならずさだまりぬ

       (浄土和讃)

阿弥陀仏が「若(もし)」の一字に命を懸けて
「必ず救う」と誓ってくだされたからこそ、
諸仏にも捨てられた虚仮不実の私たちが、
絶対の幸福(信楽)に救われる。
平生の一念、絶対の幸福になった人は、
「人間に生まれてよかった」の大慶喜を獲(え)、
死ねば必ず弥陀の浄土・無量光明土に往って
仏に生まれられるのだ、との仰せです。

仏語に虚妄なし」
ウソをつかれぬ方が仏さま。

ましてや本師本仏の阿弥陀仏にウソはありません。
“我々凡夫の真実(まこと)は、真実がないのが真実
仏の真実は、真実があるのが真実”

真実(まこと)なき私たちは、
真実一杯の弥陀弘誓の船に
乗せていただく以外、
本当の幸せになれる道はないのです。

弥陀弘誓の船に乗ずる唯一の道

この弥陀弘誓の船に乗せていただくには、
弥陀の本願を聞く一つ。

ですから、親鸞聖人は、
「聞思(聴聞)して遅慮することなかれ」
モタモタせずに弥陀の本願聞き抜けよ
と、今日もあなたのそばで念じておられます。
そして、「自分のような罪深いものはとても・・・」
「これだけ聞いてもダメだから・・・」
と悲しむ私たちに、

無明長夜の灯炬なり
智眼くらしと悲しむな
生死大海の船筏(せんばつ)なり
罪障重しと嘆かざれ

       (正像末和讃)

長い夜のような暗い心を晴らす光あり、
生死(苦悩)の大海を渡す弥陀の大船ましますから、
どんなに罪重く、さわり多くとも
「悲しむな」「嘆かざれ」と励まし、
押し出してくださっているのです。

「虚仮不実の私一人がための本願であった」
と悲嘆の涙が歓喜の涙に変わるまで、
阿弥陀仏の本願を真剣に聞かせていただくことが
何より肝心なのです。


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弥陀はどう我々を救ってくださるのか!?(その道程) [Q&Aシリーズ]

(真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」より載せています。) 

大宇宙の諸仏方から本師本仏と仰がれている阿弥陀仏には、
四十八のお約束があります。
弥陀の四十八願といいます。

その中で
「あらゆる人を救う」
と誓われた願が三つあります。

十八、十九、二十願がそれです。

十八願は、率直に阿弥陀仏が
「どんな人をも、必ず、絶対の幸福に救う」
と、本心を誓われたものですから、
王本願といいます。

ところが、うぬぼれ強く、相対の幸福しか知らない私たちを、
絶対の幸福にまで導くことは大変で、
種々の方便が必要だったのです。
十九、二十の願は、そのために誓われたものです。

十九願には、
十方の人々が、人生の苦しみの連続に驚いて、
どうしたら平和な安楽な世界に生まれることができるのか。
それには、悪を慎み、善を励まなければならないと
奮発心をおこし、あらゆる善を一生懸命実行して、
その力で我が国(浄土)に生まれたいと願う者は、
臨終に諸仏菩薩に取り巻かれて迎えに行こう」
と、約束なされています。


因果の道理は宇宙の真理、
善因善果、悪因悪果、自因自果には寸分の狂いもない。

知っただけでは観念の遊戯に終わり、
実行しなければ善果は得られない、
と真面目に全力尽くしてやってみると、
悪はやみ難く善は成し難い悪性ばかりが知らされて
泣かざるをえません。


二十願はそんな人に誓われた弥陀の約束です。
十方の人々が、南無阿弥陀仏の名号を聞いて、
念仏を称え、その功徳の力で、
我が国(浄土)に生まれたいと願う者は、
必ず、思いを遂げさせてあげよう」と。

そこで誠心誠意、一心不乱に念仏を称えようと、
つとめればつとめるほど、
散乱麁動(さんらんきどう)の心ばかり見えてきて、
こんな雑念で称えていてもよいのだろうか、
こんな乱れた心で称えていても本当に助かるのだろうか、
と不安な心が出てきます。

また悪い心や、悪い行為をしながら称えていても、
功徳にならぬように思えるので、
悪を慎み善を励んで、念仏しようとするのですが、
見えてくるのは悪ばかり。

励めば励むだけ、乱れる心はやまず、
悪しか造れない自己が知らされ不安で苦しいから、
こんな者でも死んだらお助け、
と安心して喜ぼうとしますが、
助かっていないから喜ばれるはずがありません。
法の尊さに感激した時は、
助かるようにも思いますが、悪性が現れると、
こんなことでは助からんのではなかろうかと、
堕ちるような気がする。

念仏は称えているが、自分の心の善し悪しで、
参ってみたり堕ちてみたり、
常に不乱動乱がやまないのです。


十九、二十願で無能無力、真実のカケラもないことを知らせ、
次の十八願で絶対の幸福へ転入させようとするのが、
弥陀の狙いなのです。

後生も菩提も分からず、相対の幸福しか知らず、
後生の一大事と聞いても驚かず、
絶対の幸福と言っても、ウンともスンともこたえず
何のことかい、とせせら笑っているのが私たちの本性です。

親鸞聖人は、逆謗の屍(しかばね)と言われました

この屍を、絶対の幸福に生かし切らねば、
命を投げ出すとお約束なされているのが
弥陀の十八の誓願です。

こうまで聞かされても、聞き切らぬしぶとい私であったのかと
照らし出され、進むに進まれず、やめるにやめられず、
にっちもさっちもならぬところを三定死といいます。

一切の助かる望みが切れた時と、
大慈悲心が徹底した時とは同時で、
まことなるかな、弥陀の本願、
己(おのれ)忘れて躍り上がり、
ようこそ、ようこそ南無阿弥陀仏と噴き上がるお念仏を
仏恩報尽の念仏というのです。


無辺の智慧と、無限の慈悲を体得しますから、
底の知れない懺悔、高さの知れない歓喜、
広さの知れない苦悩の晴れた味に、
遠く宿縁を喜ばずにおれないのです。

この十八願に誓われた絶対の幸福、
無碍の一道に出るには、十九、
二十願の道程を通らなければならないことを発見し、
教導なされたのが親鸞聖人です。

その体験を三願転入というのです。


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