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南無阿弥陀仏を頂くとは、どういうことか!? [南無阿弥陀仏]

(真実の仏教を説かれている先生の書物「とどろき」から載せています。 ) 

大悲の願船に乗じて、
光明の広海に浮かびぬれば、
至徳の風しずかに、衆禍の波、転ず
          (親鸞聖人・教行信証行巻

阿弥陀仏の大悲の願船に乗って見る人生の苦界は、
千波万波きらめく明るい広海ではないか。
順風に帆をあげる航海のように、
なんと生きるとは素晴らしいことなのか


今回も、この親鸞聖人のお言葉について
お話いたしましょう。

●最高無上の宝とは?

「大悲の願船に乗じて、
光明の広海に浮かびぬれば」
とは、
「阿弥陀仏の大慈悲の願いによって
つくられた大きな船に
乗せていただいたならば、
明るく楽しい広い海に浮かぶ」
親鸞聖人は言われています。

では、光明の広海に浮かんだ人生とは、
いかなるものか。
親鸞聖人は、「至徳の風しずかに、衆禍の波、転ず
と教えてくださいます。
今回は、その
「至徳の風しずかに」
についてお話いたします。

まず、「至徳」とは、「至上の功徳」を
略したお言葉です。
「至上」とは「無上」、「功徳」とは「宝」ですから、
「至徳」とは、「無上の宝」という意味です。


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ここでいわれる「宝」とは何のことでしょうか?
世に「宝」といわれるものは色々ありますが、
その値を、お金の例で考えてみたいと思います。
最近発表された、長者番付の世界一は、
メキシコの通信王、カルロス・スリム・ヘル氏の
5兆6千億円でした。
「兆」とか「億」といわれても
なかなかピンときませんから、
細かい単位に分けて考えてみましょう。
もし、毎日100万円使ったとしたら
5兆6千億円を全部使いきるのに
どれくらいかかると思いますか?
答えは、「約15000年」。
毎日一億円使ったとしても、
約150年かかります。
まさに、「死ぬまで使い切れないお金」です。
これは、一年当たり、約1060億円の収入を
得た計算になり、
一日当たりだと約3億円!
5兆6千億円とは、それほどの大金です。
毎日、3億円が手に入れば、
「宝のような日々」で、
ほとんどの人が「これ以上すごいものはない」
と思われるのではないでしょうか。

●知恵がなければ、ネコに小判、ブタに真珠

しかし親鸞聖人は、
最高無上の宝は、南無阿弥陀仏なり
と言われています。
こう聞きますと、
「南無阿弥陀仏が最高の宝?
5兆円どころか、一万円札よりもありがたいとは
思えんが・・・」
という人も少なくないでしょう。

「南無阿弥陀仏」といっても、
ただの文字としか思えない人ばかりだからです。

そのことをお見抜きの蓮如上人は、
こう教えてくださいます。

「南無阿弥陀仏」と申す文字は、
その数わずかに六字なれば、
さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、
この六字の名号の中には、
無上甚深の功徳利益の広大なること、
更にその極まりなきものなり

          (御文章五帖目十三通)

まず、蓮如上人は、「『南・無・阿・弥・陀・仏』
と、たった六字しかないから、
そんなに功徳や、効能があるとは思えないだろう」
と言われています。
読経でも、短いものより
長いほうがありがたく感じるもの。
ましてや、たった六文字だけでは心もとなく
思えてしまう。
そんな迷いの心境を蓮如上人はお見通しで、
こう続けておられます。
だが、この南無阿弥陀仏の六字の中には、
最高無上で甚だ深い功徳がおさまっているのだ。
仰げば果てしなく高く、
底を見れば深さが知れない。
六字の功徳は広くて大きく
天の極まりないようなものだ

言葉を尽くされての大絶賛です。

この偉大な「南無阿弥陀仏」の価値が分からないのは、
ネコに小判、ブタに真珠で、
私たちには、値を知る知恵がないからです。

正しい知恵を持たれたお釈迦さまや、
親鸞聖人、蓮如上人からすれば、
大宇宙の宝が全て収まっている
「南無阿弥陀仏」なのだと明らかなのです。

ですから、
お釈迦さまは、
「『南無阿弥陀仏』の大功徳は、
何億年かかっても説き尽くせない」
と言われ、

親鸞聖人は、正信偈』に
「南無阿弥陀仏」を
「功徳の大宝海」(大きな宝の海)
と言われているのです。

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●「南無阿弥陀仏」は、どんな宝?

では、「南無阿弥陀仏」には、どんな功徳があるのでしょう。
親鸞聖人は『正信偈』に
名号正定業(名号は正定の業なり)
と教えられています。
「名号」とは本師本仏の阿弥陀仏が創られた
「南無阿弥陀仏」のこと。
「正定」は「正定聚」の略で、
今日の言葉で言えば、「絶対の幸福」。
「業」とは「働き」という意味ですから、
ここで、親鸞聖人は、
「『南無阿弥陀仏』の名号には、
すべての人を絶対の幸福にする働きがあるのだ

と言われているのです。

今、「正定聚」を、一言で「絶対の幸福」
と言いましたが、詳しく述べましょう。
「正定聚」とは、さとりの位をいいます。
仏教では、「さとり」といっても、
低いさとりから高いさとりまで
全部で五十二の位があり、
これを「さとりの五十二位」といわれます。
ちょうど相撲取りにも、
下は褌担ぎ(ふんどしかつぎ)から
上は大関・横綱までいろいろな位があるようなものです。
五十二のさとりには、それぞれ名前がついており、
最高の位を「仏覚(仏のさとり)」といわれます。
これ以上のさとりはないので、
「無上覚」ともいわれます。
さとりが一段違えば、人間と虫けらより違うと
いわれますから、
五十二段の仏覚が、
いかに崇高で想像も及ばぬ境地であるか、
お分かりになるでしょう。

その最高無上の仏覚まで到達された方のみを、
「仏」とか「仏さま」といわれるのであって、

死んだ人を「仏」というのは大変な間違いです。
今日まで、この仏覚を開かれた方は、
地球上ではお釈迦さま以外にありません。

これを、「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」
と言われます。

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中国で天台宗を開いた天台(智顗・ちぎ)も、
「五品弟子位(ごぼんでしい・十段よりも下の位)
までしかさとれなかった」
と臨終に告白していますし、
壁に向かって九年間(面壁九年)、
手足腐るまで修行した禅宗の開祖・達磨大師でも、
三十段そこそこであったといわれます。
仏のさとりを開くことが、
いかに大変なことかが分かります。

「正定聚」とは、いつ死んでも間違いなく(正しく・まさしく)
仏になれると定まった人たち(聚・じゅ)のことであり、
五十一段に相当する位をいうのです。

「正定聚不退転」とも言われ、
「不退転」とは、崩れない、壊れない、
という意味ですから、まさに「絶対の幸福」
といえましょう。
それは、“必ず浄土へ往って仏になれる”
大満足の身となり、
「人間に生まれてよかった」
という生命の大歓喜を獲るからです。

「名号は正定の業なり」とは、
「『南無阿弥陀仏』の六字には、
私たちを『正定聚不退転』の幸福に
救い摂る働きがある」

親鸞聖人が、これ以上尊い宝はないのだよと
仰っておられるお言葉なのです。

●至徳具足の幸せ

しかも、親鸞聖人は、阿弥陀仏から
「南無阿弥陀仏」を丸もらいすると
「至徳具足の益」に生かされる、と教えられます。

「具足」とは、「一体」のこと。
「一体」とは、ちょうど炭全体が
真っ赤な火になったようなものです。

炭のままが火、火のままが炭となって、
どこまでが火か炭か、区別できません。
分けようにも分けられなくなったのが
「一体」です。

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サンドイッチならば、パンと、ハムとサラダなどが
分けられますから、一体とはいわれません。
これは「合体」です。
水と油を混ぜても一体にはなりません。
大悲の願船に乗せていただくと、
大宇宙最高の宝である「南無阿弥陀仏」
と私が一体になります。

この幸せを「至徳具足の益」といいます。
金や財、名誉や地位などは、
苦労して手に入れても、
思わぬ天災、人災で一瞬にして消え失せる。
どんな豪邸のマイホームも、
マッチ1本で灰になる。
形あるものは、盗まれ、流され、焼かれ、
やがて消えてしまいます。
たとえ毎日3億円が手にはいるようになったとしても、
失う不安が常に付きまとい、
死ぬ時には、一円も持ってはいけません。
これらの宝では、私たちは本当の安心や満足を
得ることはできないのです。
「南無阿弥陀仏」と一体になられた親鸞聖人は、
焼けもせず、流されも、盗まれもしない、
いつも満ちている無上の幸福に生かされた。
「不可称・不可説・不可思議の
功徳は親鸞の、身にみてり」
と、誇り高くうたいあげていられます。

今日が満足、ただいまが幸せ、
鳥のさえずる声は、天然の音楽であり、
四季の花の美しさは、この世の極楽の荘厳です。
真実の仏法を知らされれば、
世の財産家を羨む必要は、少しもない。
最後に笑うのは、極善無上の宝と一体となった
心の長者にほかなりません。

「至徳の風しずか」。
無上の幸せの風が静かにそよいでいるとは、
なんと素晴らしいお言葉でしょうか。
「聞く一つ」でどんな人もなれますから、
真剣に、聞法精進いたしましょう。


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我々はいかに心で悪をやっているか! [罪悪深重]

 

(真実の仏教を説いておられる先生の書物「とどろき」から載せています)

生死の苦海ほとりなし
久しく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ
乗せてかならずわたしける
       (親鸞聖人)
果てしない苦しみの海に溺れもだえている我々を、
阿弥陀仏の造られた大船だけが、
乗せて必ず、明るく楽しく極楽浄土まで渡してくださるのだ

今回は「弥陀弘誓の船」について解説します。
「弥陀」とは、阿弥陀仏という仏さまのことで、
阿弥陀如来ともいわれます。
阿弥陀如来について、親鸞聖人の教えを
最も正確に伝えられた蓮如上人は、
こう教えられています。

阿弥陀如来は三世諸仏の為には本師・師匠なり
         (御文章二帖目九通)
今日、大宇宙に地球のようなものが
数え切れないほどあるのは天文学の常識ですが、
その大宇宙に数え切れない仏さまがましますと
お釈迦さまは説かれているのです。

これらの仏方を、「三世諸仏」とか、「三世十方の諸仏」
と言われます。

よく知られているのは、大日如来とか薬師如来
奈良の大仏はビルシャナ如来といわれる仏ですが、
皆、「三世十方の諸仏」の一仏です。

「本師・師匠」とは、師、先生ということですから、
阿弥陀如来は、大宇宙の無量の仏方の先生なのです。
大宇宙の仏方が、口をそろえて
「われらが師匠だ、尊い仏さまだ」
と絶賛され、合掌礼拝される仏さまが阿弥陀仏なのです。

逆から申しますと、大宇宙のあらゆる仏は、
阿弥陀如来のお弟子です。
地球のお釈迦さまも諸仏の一人ですから、
弥陀と釈迦は、先生と生徒、師匠と弟子の関係になります。

阿弥陀仏が見て取られた私たちのすがた

次に、「弘誓」とは、「弘い(ひろい)誓い」ということで、
十方衆生(すべての人)と約束されている弥陀の誓願のことです。
これ以上、弘い約束はありませんから、
「弘誓」といわれるのです。
約束は、相手をよく知らねばできません。
阿弥陀仏は、十方衆生をどのような者と見て取られたのか、
『御文章(御文)』にこう教えられています。

それ、十悪・五逆の罪人も、
(乃至)空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我等如きの凡夫なり

          (御文章二帖目八通)
私たちは、十悪・五逆という罪を犯し、
大宇宙の仏方から見捨てられた者である

「諸仏に見捨てられるほどの罪を造った覚えはない」
と思われる方がほとんどでしょう。

では、十悪・五逆とはいかなる罪なのか、
まず十悪から説明いたします。

仏教では、私たちの犯すいろいろの罪悪をまとめて、
十悪」と教えられています。

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の十の悪です。

はじめの貪欲、瞋恚、愚痴の三つは
心で犯す罪悪をいいます。

仏教では「殺(や)るよりも 劣らぬものは 思う罪」
といわれ、口や身で犯す罪よりも
心で思う罪のほうが恐ろしいと教えられています。

最初の「貪欲」とは底の知れない欲の心をいいます。
欲の本性は、「自分さえよければよい」
という我利我利の心です。

普段は隠しているようでも、
切羽詰まった時に本性が顔を出す。

ガソリンスタンドの割り込みトラブルが多発し、
注意すると「急いでいるんだ!」と喧嘩が始まる。
JRの職員が「ミスを知られたくなかった」
と機械をハンマーでたたき折り、故障に見せ掛けた。
介護疲れで、「いい加減に死んでくれたら・・・」
の悪魔の心が噴き出る。

こう聞いて自分は絶対そんなことはないと
言い切れる人がいるでしょうか。

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追い詰められると、「邪魔者は消えてなくなれ」
と恐ろしい心が出てきます。
それでいてバレると、「仕方なかった」「あいつのせいだ」
と反省もない。
表面上は頭を下げても心の中は、
どうせ、見えない、聴こえない、ばれないからと、
まるで無法地帯ではないでしょうか。
パチンコに夢中になり、車中のわが子を熱中症で死なせる。
遺産相続をめぐって兄弟姉妹が
骨肉相食む(あいはむ)修羅場と化す。
実の娘に保険金を掛けて殺害する。
自分の欲望を満たすためには、親でも、子でも恩人でも、
どんな恐ろしいことでも考え、やってしまうのが
“人間”という存在のようです。
この欲が邪魔されると出てくるのが「瞋恚」、
怒りの心です。
うまくいかなければイライラし、弱い相手に当たり散らす。
どうして言うことをきかないのかとわが子を怒鳴る。
試合に負ければ、あいつのせいだ、
コーチのせいだとムカツク。
やられたら倍返しでやり返す。
全て自分の思いどおりにしたい我利我利亡者の欲望は
ちょっとしたことで妨げられ、そのたび、
瞋恚の炎が燃え上がります。
心のまな板の上で、あの奴、この奴と切り刻むのは、
「怒」という字にも表れています。
次の「愚痴」とは、妬み、そねみ、うらみの心。
他人の成功を見ては、「あいつだけうまくやりやがって」
「いつもひいきされてずるい」と、妬み心が出てきます。
逆に、他人の不幸を目にすれば、
ごちそうを与えられたように瞳をランランと輝かす。

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いつも馬鹿にする上司、競っても勝てない同輩、
自分より優秀な後輩の失敗には、心の中で拍手喝采。
昔から「他人の不幸は蜜の味」ともいわれ、
脳科学でも証明されたそうです。
妬ましい人物に不幸が起きると、
脳の喜びに関する部分が反応する
実験結果が得られたというのです。

悪性さらにやめがたし
こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり
修善(しゅぜん)も雑毒(ぞうどく)なるゆえに
虚仮(こけ)の行とぞなづけたる

     (悲歎述懐和讃)

親鸞聖人は、「死ぬまでやまぬ悪性だ」と言われ、
蛇やサソリを見たときのようなゾッとする心だと
告白なされています。

次に、これらの心が口に表れれば、
綺語、両舌、悪口、妄語としかなりません。
さらに、身では殺生、偸盗、邪淫の悪を造っています。
(口や身の悪の詳細は以下にアクセスしてください)
殺生の限りを尽くしている者が救われるには!
ウソ偽りの私たちを命懸けで救う仏さま

このように、心や口や身で十悪を造り続けている我々は、
自分のまいたタネの結果で苦しみ続けています。
そんな私たちを放ってはおけぬと、
大宇宙の仏方が慈悲の心を起こされたのですが、
我々があまりに悪重く罪深いので、
とても助けられぬとサジを投げてしまわれた。

このことを『御文章』に、

空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我等如きの凡夫(人間)なり

と書かれています。

「悲願」とは慈悲によって起こされた願いです。
その「悲願に洩れた」とは、
諸仏でも助けられなかったということで、
私たちからいえば見捨てられた、ということです。

肉体の病で例えるなら、
町医者に「もっと大きな病院で」と言われ、
大病院でも「私の手には負えません」と手を放され、
ついに、すべての医者に見放された重病人のようなものです。
しかも、その自覚が全くないので、なお救い難いのです。

ただ一人見捨てられなかった仏

ところが『御文章』には、続けてこう書かれています。

然れば、ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、
(乃至)今の如きの諸仏に捨てられたる
末代不善の凡夫・五障三従の女人(すべての人)をば
弥陀にかぎりて、「われひとり助けん」
という超世の大願を発して

大宇宙のすべての仏に見捨てられた者なら、
なおさら捨ててはおけぬと、
ただ一人立ち上がってくだされたのが
本師本仏の阿弥陀仏なのだ。
弥陀だけが“決して見捨てはしないぞ、必ず助ける”
と、世を超えた、大慈悲の願いを起こしてくだされたのだよ

蓮如上人は教えてくだされています。

このことは、
お釈迦さまが『大無量寿経』というお経に説かれ、
親鸞聖人も『教行信証』に記されています。

その弥陀の誓願の原文は漢字三十六文字ですが、
今日の分かりやすい言葉に直しますと、
「どんな人も 我をたのめ
必ず絶対の幸福に救う」
というお約束です。

親鸞聖人は船に例えて、「弥陀弘誓の船」と仰り、
すべての仏が束になっても救えない極悪人を、
この世から絶対の幸福に救済する力を持っておられるのは
弥陀一仏
ですから、「弥陀弘誓の船のみ」
と教えられているのです。

弥陀弘誓の船に乗せていただくための人生

私たちは、苦しむために生まれてきたのでも、
生きているのでもない。
弥陀弘誓の船に乗せていただき、
“人間に生まれてよかった!”
の生命の歓喜を獲るために生を受けたのです。

弥陀の願船に乗せていただければ、
この世は絶対の幸せに生かされ、
来世は必ず阿弥陀仏の極楽浄土・無量光明土
(無限に明るく楽しい世界)に連れて行っていただけます。
まさに永の迷いの打ち止めであります。

生死の苦海ほとりなし 久しく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ 乗せてかならずわたしける

このお言葉は、溺れ苦しみ続けた生死の海を離れ、
一日も早く弥陀弘誓の船に乗って光明輝く世界に出てくれよ、
との親鸞聖人のやるせないお気持ちが込められています。

一生造悪値弘誓(一生悪を造れども、弘誓に値〈もうあ〉いぬれば)
至安養界証妙果(安養界に至りて、妙果を証せしむ)
              (正信偈)
一生造悪の極悪人ではあるが、
弥陀弘誓の船に乗せていただければ、
来世は必ず阿弥陀仏の浄土(安養界)へ往って、
弥陀と同じ仏のさとり(妙果)を
開かせていただくことができるのだよ

仏法は聴聞に極まる。聞く一つです。
先哲は、苦労して聞け、真剣に聞け、
続けて聞けとも教えておられます。
身代わりは立ちません。
今ハッキリするのが、弥陀の救いです。
後悔を残さぬよう
弥陀の本願をツユチリの疑心もなくなるまで、
真剣に聴聞いたしましょう。


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