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「しあわせ」の道しるべ [親鸞聖人]


 (真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」より載せています。)
 
ふつうに生きる私たちのたった一つの願い。
それは「しあわせになりたい」ということです。
でも、毎日そのために頑張っているのに、
なぜか努力は空回り、と感ずることはないでしょうか。
一体、何を求めたら、「本当のしあわせ」になれるのでしょう。
その答えを教えられた方が親鸞聖人です。
ユウ子さんの事例を通して学んでみましょう。
「しあわせ」の
       道しるべ

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
会社と家の往復。代わり映えのしない毎日。
何かが足りない・・・・

「やだ、私泣いてる・・・」
ガラスに映った自分の姿に、ユウ子は慌てて顔をぬぐった。
都内の大手出版社に勤めるユウ子は、40代前半。
ファッション誌の編集を手がけ、数々の流行を生み出してきた。
自立した女性として生きてきた自負もある。
だがこの数年、目に見えて体力が落ち、
若い時のような無理は利かなくなってきた。
仕事への興味も薄れ、先のことを考えると不安になる。
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“私は幸せに向かって生きているのかなぁ”
会社と家の往復。代わり映えのしない毎日。
何が足りないわけではないが、心が満たされない。
そんな心を持て余し、最近はベッドの中だけでなく、
通勤電車でも、ふと涙があふれてくる。
〈生きる意味って、何ですか?〉
ユウ子は、よく見るインターネットの掲示板に問いかけてみた。
すぐにたくさんのコメントがつく。
多くの人が「私も同じ気持ち」と共感してくれた。
こんな回答もあった。
〈生きることに意味なんてない。
生きるために生きるのだと思う〉
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「うーん」
仕事が楽しかった二十代なら、これで満足したに違いない。
だが、今のユウ子を励ます力はなかった。
「なぜジョギングするの?」と尋ねて、
「ジョギングするためにジョギングする」
と答えられてもよく分からない。
「なぜ生きるか」の問いに、
「生きるために生きる」というのは、
「泳ぐために泳ぐ」というのと同じである。
流れに漂う浮草は、あてどもなく行きつ戻りつ、
やがて自ら腐っていく。
“これじゃあ、死ぬために生きているっていうことになるじゃない”
気を取り直し、ユウ子は次の回答に目をやった。
〈死んだら天国。
それまでこの世で自分の魂を磨くのが人生じゃないかな〉
最近はやりの「スピリチュアル何とか」だろうか。
なるほど、この世は修行の場といわれれば
「苦しみにも意味があった」と
少しは慰められるかもしれない。
でも、とユウ子は思う。
死んで本当に天国に行けるのだろうか。
結局死んでみなければ分からないのではなかろうか。
とすれば、生きているうちはどんなに頑張っても、
やっぱり不安を抱えていることになる。
これまでの人生を振り返って、
不真面目に生きてきたつもりもないが、
魂を磨いたかと言われれば、とてもそんな自信はない。
むしろ自分の死について考えると、
ユウ子は暗い気持ちになるばかりだった。
小学生のころは、死ぬのが怖くて眠れなかった。
死んで天国に行けるとは、無邪気に思えそうもない。

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ひととおり読み終え、ユウ子は大きくため息をついた。
「やっぱり答えなんて分かんないか」

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数日後の昼休み。
「ユウ子さん、そんなこと考えてたんだ」
「らしくないでしょ」
休憩室で打ち明けるユウ子に、
同僚は思いがけない言葉を口にした。
「僕、仏教を学んでいるんですよ」
「えっ?」
彼は穏やかな口調で言った。
仏教には、人生の目的が教えられています。
ちょうど、近くで勉強会があるんですけど、
よかったら参加してみませんか
それは「聞法のつどい」という名の、
仏教入門講座だと彼は説明した。
「仏教・・・・」。
遠い記憶を呼び覚まされるような懐かしい響き。
“お釈迦さまの教えよね。聞いてみようかな”と、
素直に思った。

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週末、会場近くのコーヒー・ショップで
2人は待ち合わせることにした。
イチョウ並木が、もうすっかり街を秋色に染めていた。
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●生きる目的

人は何のために生まれ、生きているのでしょう。
なぜ、苦しくても自殺してはならないのか。
すべての人にとって、これほど知りたいことはないでしょう。
生きるということは、歩くことや走ること、泳ぐことや、
飛行機でいえば飛ぶことと同じです。
毎日が飛ぶように過ぎていきます。
この間年が明けたと思ったら、もう11月。
私たちは、昨日から今日、今日から明日へと、
ものすごいスピードで進んでいます。
では一体、どこへ向かってでしょうか。
一休は、
「門松は 冥土の旅の 一里塚
 めでたくもあり めでたくもなし」
と歌っています。
冥土とは死後の世界のこと。
一日生きたということは、
一日死に近づいたということですから、
人生は、死へと向かっての行進であり、
「冥土への旅」といえるでしょう。
年が明けると皆「おめでとう」「おめでとう」と言いますが、
一年たったということは、
それだけ大きく死に近づいたということです。
元旦は冥土の旅の一里塚に違いありません。
私たちは、去年から今年、今年から来年へと、
どんどん歩き、走り、泳ぎ、
飛んでいるのです。
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だれでも、歩く時も、走る時も、
一番大事なのは「目的地」です。
目的なしに歩いたら、歩き倒れあるのみだからです。
ゴールなしに走り続けるランナーは、走り倒れあるのみです。
行く先を知らず飛んでいる飛行機は、墜落あるのみです。
「あそこがゴールだ」と、ハッキリしていてこそ、
頑張って走ることができます。
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「あの島まで泳ごう」と、目的地に泳ぎ着いてはじめて、
「ここまで泳いできてよかった」と、
一生懸命泳いできた満足があるのです。
では、私たちの生きる目的は何でしょうか。
目的を知らずに生きるのは、死ぬために生きるようなもの。
死を待つだけの生ならば、苦しむための一生に終わるでしょう。
私たちは決して苦しむために生まれてきたのではありません。
生きているのでもありません。
人生の目的を知り、達成し、「人間に生まれてよかった!」と、
心からの満足を得るために生きているのではありませんか。
その最も大切な「生きる目的」を
ハッキリと明示してくださったのが、
約800年前、日本にお生まれになった親鸞聖人です。
主著『教行信証』の冒頭に記された、
聖人の言葉をお聞きしてみましょう。

難思の弘誓は難度の海を度する大船、
無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり
“人生の目的は、難度海を度する大船に乗ることである”

●難度海とは

ここで聖人が「難度海」といわれているのは、
私たちの人生のことです。
「難度」とは、渡ることが難しい、苦しいということです。
だから、「苦海」ともいわれます。
「生死の苦海ほとりなし」(親鸞聖人)
生きることは本当に大変ですね。
もし皆さんが、見渡す限り水平線しか見えない
海の真ん中にいたら、
どうでしょうか。
例えば、海水浴に来て一人波間に浮かんでいるうちに
沖へ流された。
水面からの視点では、
時にわずかな距離でも陸地を見失うこともある。
慌てて戻ろうとしても、どちらへ向かえばいいか、分からない。
じっとしていれば沈んでしまいますから、
泳がなければなりません。
では、どこへ向かって泳ぐか。
方角がきちんと定まらなければ、
泳げば泳ぐだけ岸から遠ざかることになりかねません。
体力には限りがある。
やみくもに泳げば、それだけ早く泳ぎ疲れて
土左衛門になると思うと、
とても力強く泳げません。
私たちは、生まれた時にそんな海に
放り込まれたのだとはいえないでしょうか。
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今にもおぼれかける我々に、
懸命に泳ぎ方のコーチをしているのが、
政治、経済、科学、医学、倫理、道徳、
スポーツなどといえましょう。
しかし、肝心の「泳ぐ方角」は、だれも教えてくれません。
ただ、
「人生は 食て寝て起きて 糞たれて
子は親となる 子は親となる」
一休さんの言うとおりです。
ビジネスマンなら朝起きて、
満員電車に揺られながらの通勤は、
まさに“痛勤”。
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クタクタに疲れて帰ると、すぐ朝が来る。
毎日は決まった行動の繰り返しで過ぎていきます。
「生きてきて本当によかった」という満足がなく、
来る日も来る日も、「食べて寝て起きて」の反復ならば、
水平線しか見えない海の中を泳いでいるのと同じ。
泳ぐ手に力が入るはずがありません。
しかもこの海には、苦しみの波が、次から次へとやって来ます。
病苦、肉親との別れ、不慮の事故、家庭や職場での人間関係、
借金の重荷、老後の不安。
一つの波を乗り越えて、やれやれと思う間もなく、
別の波がやってくる。
高波にのまれて、おぼれかかっている人、
溺死する人もあります。
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一年前、「美しい国」を目指して華々しく発足した安倍政権も、
年金記録漏れ問題、閣僚の相次ぐ失言や不祥事、
参院選での与党大敗の大波にのまれ、あえなく転覆しました。
(平成19年のとどろきより載せています)
また今年は、訪問介護大手コムスンの不正をきっかけに
介護問題について
改めて考えさせられた人も多いでしょう。
昨年も、こんなやりきれないニュースがありました。

事件は2月1日早朝。
永年、献身的に認知症の母を介護してきた京都市の男性が、
追い詰められた末に母親を殺害し、自殺を図ったのです。
初公判での陳述によれば、男性の父親は10年ほど前に死亡。
その後、母に認知症の症状が出始め、
男性は一人で介護していました。
しかし母の症状は次第に悪化し、
男性は仕事を辞めざるをえなくなります。
ところが、失業給付金などを理由に生活保護は認められず、
平成17年12月には、頼みの失業保険給付もストップしました。
次の仕事も見つからぬまま、カードローンは限度額いっぱい、
デイケア費や家賃も払えない状況に追い込まれた男性は、
1月31日、ついに心中を決意。
最後に車いすの母と京都市内を観光し、
桂川河川敷の遊歩道で、
「もう生きられへん。ここで終わりやで」
と言うと、
母親は、「そうか、あかんか。一緒やで」と答えたといいます。
「すまんな」
それが最後の言葉となりました。
(検察側は)「『母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい』
という供述も紹介。
目を赤くした東尾裁判官が言葉を詰まらせ、
刑務官も涙をこらえるようにまばたきするなど、
法定は静まり返った」と新聞は、
裁判の様子を伝えています。

作家の林芙美子さんは、
「花のいのちはみじかくて、苦しきことのみ多かりき」
と言い残し、
夏目漱石は、
「人間は生きて苦しむための動物かも知れない」と、
妻への手紙に書いています。
これらの嘆きの声を聞くまでもなく、
「人生は苦なり」
の2600年前のお釈迦さまの金言に、皆、
うなずいているのではないでしょうか。
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一見、楽しげに見える人もありますが、
「ただ見れば 何の苦もなき水鳥の
足にひまなき わが思いかな」(水戸光圀)
の歌のとおり、人もうらやむ才能や地位、
名声を得ていても、本人しか分からぬ悩みを
皆抱えているようです。
社長であれ、著名人であれ、えっ、あの人が、
と思うような人が自ら命を絶ち、
驚かされることしばしばです。
生きることが大変なので、
私たちは何かにすがらずにいられません。
そこで近くに浮遊する丸太や板切れにすがろうとします。
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●丸太や板切れ

丸太や板切れとは、お金や財産、地位や名誉、
健康、恋人、結婚、
子供、マイホームなどを例えたものです。
これらを手に入れて少しでも楽になりたいと皆、
懸命に追い求めています。
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ところが、つかんでやれやれと安堵したのもつかの間、
くるりと丸太がひっくり返り、潮水のんでまた苦しめられる。
これらの幸せは、しばらくの間しか続かないのです。
「いい時」は続かない。
これまでを振り返ってみて、どうでしょうか。
離婚して泣いているのは、
結婚という丸太に裏切られたからです。
わが子に疎まれ悲しむのは、
子供という丸太の裏切りでしょう。
株の投資に失敗し、
お金に裏切られて苦しんでいる人もあります。
「こんな小さな丸太じゃだめだ。もっと大きなものを」
と思って、再び死に物狂いで泳ぎ、
もう少し大きめの丸太をつかんでも、
所詮は浮いたものですから、
やはり、くるりと回転して裏切られます。
一流企業に就職し、バリバリ働いていても、
突然の解雇、左遷の憂き目に遭うこともあるでしょう。

永年、大手スーパー・ダイエーの最前線で活躍してきた
松下登さんの
体験手記を7月号に紹介したところ、
多くの反響がありました。

「24時間、年中無休の精神で飛び回り、
結果、11年に及ぶ単身赴任で家族との生活も犠牲にしました。
もちろん人生を振り返る余裕などありません。
ただ年月が飛ぶように過ぎていったのです。
そんな3年前のある日、
それまでずっと感じていた仕事への充実感が
一気に吹き飛ぶ出来事が起きたのです。
リストラでした。
突然、『役職者に対し、新たに一律の定年を設ける』
という社内通達が突きつけられました。
役職にある者は、退職金を得て会社を去るか、
一従業員として会社に残るか、の選択に迫られたのです。
事実上の解雇通告です。
“会社のために身体を壊すほど頑張った。
家庭も犠牲にしたし、休日も返上して働いてきた。
オレはもっと力を発揮できるはずなのに、何で・・・?”
必死に貢献してきたという自負と、
その会社に裏切られた苦しみやむなしさを感じながら、
退職を選びました。
“冷たいなぁ”目の前の現実を受け止められない日が続き、
自分のことを分かってもらいたい気持ちで苦しみました」

難度海の例えが身にしみたと、
松下さんは語っておられます。

もし人生に目的がなければ、
人は苦しむために生きているようなものでしょう。
仕事や家庭に裏切られ、健康すらも失い、
最後はすべてに裏切られ、
健康すらも失い、最後はすべてに見放され、たった一人、
暗い海底に沈んでいかねばなりません。
「苦より苦に入り、冥(やみ)より冥に入る」(釈尊)
それは求める丸太が悪いからでも、
求め方が足りないからでもない。
変わらない本当の幸せを知らないからです。
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●大きな船

何かにすがっては裏切られ、苦しんでいる私たちに、
親鸞聖人は「絶対に壊れない大きな船があるんだよ」
と教えられています。

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「難思の弘誓は、難度海を度する大船」
苦しみの波の果てしない海を、明るく楽しく渡す大船がある。
この大船に乗ることこそ人生の目的である”
「難思の弘誓」とは何でしょう。
「難思」とは想像もできない、
「弘誓」とは素晴らしい誓いということで、
これは阿弥陀仏の本願のことです。
この本願の船に乗ったならば、
裏切りのない「絶対の幸福」になれるのです。
親鸞聖人は、その世界を、「無碍の一道」と
『歎異抄』に言われています。
そしてこの船は、弥陀の浄土へ往く大船ですから、
乗船すれば、いつ死んでも浄土往生間違いない身に
ハッキリ定まります。
まっ暗がりの人生が、光明輝く浄土への楽しい航海に、
ものの見事に大転換、
「人間に生まれてよかった!
この身になるために人生だったのか」
と、人生の目的がここで鮮やかに知らされるのです。
親鸞聖人は、29歳の時、この大船に乗ったぞ!と告白され、
800年後の私たちに声を限りと叫んでおられるのです。
「おーい、人生を明るく楽しく渡す大きな船があるぞー!
早く、乗ってくれよ」と。

●人生の目的

それは、
“決して裏切らない幸福”
講演を聞きながら、
ユウ子は自分のたどってきた道のりを思い出していた。
厳しかった父。いじめに遭った中学時代。
7年間つきあった彼との別れ。
初めて女性管理職に抜擢された喜び。
振り返れば、夢のようだ。
丸太や板切れにすがっては裏切られ、
私はどこへ向かっているのだろう。
この先、どんなものを手にしようが、きっと同じに違いない。
「人生に目的がある。難度海を度する大船がある。
絶対変わらない幸福がある」
親鸞聖人の断言が、うれしかった。

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終了後、同僚が言った。
「生きるって、確かに大変ですよね。
でも、生きる目的を知った人の苦労は、
必ず報われる苦労です。
だからお釈迦さまは、
『生きる目的を知らずに100年生きるより、
人生の目的に向かって一日生きるほうが、
はるかに優れている』
と言われているんですよ」
うなずきながら、ユウ子は答えた。
「何か少し、分かりかけてきた気がするわ。
それで一つ聞きたいんだけど、
この船にはどうすれば乗れるの?」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(体験手記)
ため息の人生に
   サヨナラ
泳ぐ方向が分かった

愛知県 岩水 清子さん(仮名)
  「人生は苦しみの海」という例え話に引かれ
仏法を聞くようになりました。

人間関係や仕事のちょっとしたトラブルで、
つらいと思うことがよくありました。
カッコいい生き方しているねと言われたいのに、
現実はささいなことで苦しんでいる。
ため息ばかりの毎日が嫌でした。
現状を打破したくて、最初は占いや風水にはまりました。
“黄色いものを西に置けばお金が入る”
などと言われるとおりにしても、
これといった変化はありません。
運を当てにするのではなく、もっと自分の能力を高め、
心を変えれば生きやすくなるのでは、と思うようになりました。
心理学や自己啓発について
インターネットで調べるようになったのです。
“プラス思考ですべてがうまくいく”
“イメージトレーニングで思い描いたとおりの人生を”。
ホームページには、魅力的な文字が並びます。
これはと思うものは何でも試してみました。
ところが、前向きに考えて一時は心が軽くなったように思っても、
後から嫌なことが次々と起き、ため息の生活に逆戻り。
イメージトレーニングも、
具体的な将来の夢がなければ思い描くことができません。
何かが違う、もっといいものがあるはず、
と納得の行くものを探し続けました。
ある日、いつものようにホームページを調べていると、
なぜ生きる」という言葉が目に留まりました。
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「なぜ生きる?そんなの考えたことないし」と思いつつ、
なぜかボタンをクリック。
すると画面いっぱいに文章が出てきて、面食らいました。
しかしその中に「幸福」の二文字を見つけたのです。
これを読まないと、この先ずっと幸せになれない気がして、
冒頭からじっくりと読み始めました。
そこに書かれていたのが、
親鸞聖人の教えられた「海のたとえ」だったのです。
次から次へと来る苦難の波に、何かにすがろうと、
海面に浮かぶ丸太や板切れを懸命に求める。
やっとつかんだと思ってもクルリと裏切られて
潮水のんでまた苦しむ。
丸太や板切れとは、お金や地位、
健康や恋人のことと書かれていました。
えっ、今まで苦労して手に入れようとしてきたものは、
みんな丸太や板切れなの?
釈然としない気持ちでしたが、文章の終わりにあった
「永遠に崩れることのない絶対の幸福の身になれる。
それが生きる目的です」
という言葉に引かれ、
ホームページの作者にメールを送ることにしました。
「本当の幸せになりたいですか?その答えは仏教にあります」
の返信に、とても驚いたのを覚えています。
その後2、3回メールのやり取りをして、
勧められた仏教講座に足を運んでみました。
意外にも同年代の女性が多く、
「皆人生を真面目に考えているんだ」と感心しました。
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親鸞聖人のお名前も知らなかった私が、
み教えを聞かせていただくようになり3年がたちます。
だれもが幸せになりたいのに、
その答えを聖人が明らかにされていると知らないから、
丸太や板切れがすべてとしか考えられません。
私も機会を見つけて、友人たちに仏教の話をしています。
 

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共通テーマ:資格・学び

仏教は私の真実の姿を見せてくれる鏡である。 [人間の実相]

仏教は
 「ありのままの私」を
     映す鏡


「ありのままの 姿を見せるのよ
ありのままの 自分になるの」
と高らかに歌うヒロイン
今年大ヒット映画『アナと雪の女王』
劇中歌です。
この歌が多くの共感を得たのは、
今の私は「ありのまま」の自分じゃない、と
感じている人が多いからでしょう。

「毎日毎日、他人の目を気にして自分を取り繕っている」
「本当はありのままの私を愛してほしい」
と思っても、現実はとても「ありのまま」では
受け入れてもらえないから、
他人の目によく映るよう、
涙ぐましい努力を重ねています。

ところが仏教は、
“ありのままで真実の幸せになれる”道を
教えられているのです。

果たして、どんな教えなのでしょうか。

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●演じなければ
    生きられない?


私たちは「他人からどう見られるか」
と常に気を遣い、
朝から晩まで神経をすり減らしてはいないでしょうか?

朝起きたら顔を洗い、髪を整える。
出掛ける前にはヒゲをそったり、
化粧をしたり、服やネクタイを入念に選ぶ。
「いつもステキね」と褒められたい、
少しでも若く見られたい、できる奴と思われたい、
そして一目置かれたい。
いや、そこまででなくても、せめて恥をかかぬよう、
笑い者にならないように、と思うからです。
さっきまでガミガミ子供に当たっていたお母さんが、
電話に出るとたちまち、
「はい、もしもし。
・・・まぁ、オホホホホ」。
声が一オクターブ高くなり、
大女優顔負けの演技をするのも、
少しでもよく見られたいからでしょう。
人は幾つもの仮面をつけて生きている、
と言われます。
会社では有能な社員になり、家庭に帰れば良き夫や妻になる。
子供の前で見せる親の顔、飲み屋で友人に見せる顔、
井戸端会議で近所の奥様方に見せる顔も、
また違う。
子供も子供で、友達によく見られたいと
“いい友達”を演じています。
ある男性読者(30代)は、
自身の学生時代をこう述懐しました。

    ※      ※
私が何より大事にしたのは、人間関係でした。
他人の目を気にして、衝突しないように、
「どこに行くか」「何をして遊ぶか」は、
皆が決めたとおりにしました。
空気を読む、顔色を見る、気の利いたことを言う。
誰に教わったわけでなく、「嫌われない人」になるために
身につけた術は、「自分の思いを言わないこと」でした。
そんな努力が実を結び、友達に恵まれ、
いわゆる「人気者」でしたが、
本当の自分を知られたら誰もいなくなる気がして、
放課後もできるだけ友達の家に行かず、
自宅にも呼びませんでした。
ボロを出さないよう、心はいつも平穏ではなかったのです。
高校3年の時、クラスで文集を作り、
その中のアンケートで、「あこがれる生き方の人」
「将来、大物になっていそうな人」の一位に選ばれました。
うれしい結果でした。
しかしこれは、他人の目に映った「私」であり、
そんな人間でないことは、
自分が一番分かっていました。


    ※        ※
常に仮面をつけて“いい人”を演じ続けているうちに、彼は、
「どれが本当の自分か分からなくなった」
と語っています。
一体、ありのままの自分とは、何者なのでしょうか。

●最も身近で、
最も分からない「自分」


「ありのままの私」と聞くと、
“それは自分が一番よく分かっている”
と思いがちですが、
「知るとのみ 思いながら 何よりも
知られぬものは 己なりけり」
(いちばん知っているようで、
最も分からない者が自分自身である)
の歌に、思い当たる節が多々あります。

メガネを額にのせたまま、メガネを探して家族に笑われる。
鳥インフルエンザが発生した養鶏場で、
何万羽もの殺処分っが決まった。
「ニワトリがかわいそう・・・」
とニュースを見ながら食べていたのは、
鶏のから揚げだった。

やはり、自分のことはなかなか分からないのが本当のようです。
自分の幸せを求めながら、その自分自身が分からないでは、
幸せになれる道理がありませんから、

古代ギリシャの時代から、
「汝自身を知れ」
と言われてきたのでしょう。

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なぜ私に「私」が分からないのか。
近すぎるからです。

私たちの目は、いろいろなものを見ることができます。
今、目の前で開いている本誌も、
夜空に映える名月も、近いものも、遠いものも、
よく見える。
ところが、目のすぐ隣にある眉や顔が、
直接見られない。
あまりに近すぎるからです。
「目、目を見ることあたわず、
刀、刀を切ることあたわず」
どんなに視力のいい人でも、
自分の目を直接見ることはできない。
どんな名刀も、その刀自身を斬ることは不可能。
はるか宇宙の構造を解明した科学者も、
自分の顔についた飯粒には気づかないようなもので、
どんなに頭のいい人でも、
本当の自分は分からないものなのです。

では近すぎる自己を見るにはどうすればいいのか。
私たちは鏡を使います。
古来、自己を知る「鏡」に、
「他人鏡」
「自分鏡」
「法鏡」
の3枚あると教えられています。

鏡で大事なことは、
私の姿を正しく映すかどうか。
実際より太って見えたり、痩せすぎだったり、
有るものが映らなかったり、無いものを映す鏡では、
困ってしまいます。
果たしてこれら三枚の鏡は、
「本当の私」を映し出してくれる鏡なのか、
詳しく検証してみましょう。


●他人鏡・・・他人の目に映る私

第一は「他人鏡」。
これは他人の目に映る私の姿です。
日々「他人鏡」に少しでもよく映るよう努力しているのは、
それだけこの鏡に大きな信頼を寄せているからです。
皆、他人の言葉に一喜一憂し、振り回され、
きゅうきゅうとしていますが、
果たして他人は私を正しく評価しているのでしょうか。
こんな話を通して、考えてみましょう。

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ある奥さんが帰宅すると、泥棒とバッタリ鉢合わせになった。
そこへタイミングよく、巡回中の警察官が通りかかる。
「助かった、地獄で仏とはこのことだわ。
なんて頼もしいお巡りさん」
ところが翌日、その奥さんが、
路上に駐車していた車に乗ろうとすると、
違反の張り紙が。
取り締まっていたのは、昨日助けてくれた警察官であった。
だが、「見逃して」と幾ら頼んでも、
警官は首を横に振るばかり。
「融通の利かない人ね。キライ!」
と腹を立てるのであった。

    ※      ※

この警察官は、一日で人格が変わったわけではありません。
奥さんの「都合」で評価がガラリと変わったのです。

「正も邪も 勝手に決める わが都合」
誰もが、その時々の都合で他人を評価しますから、
同じ人間が善人にも悪人にもなるのです。

このようなことは茶飯事ですから、
禅僧・一休は、
「今日ほめて 明日悪くいう 人の口
泣くも笑うも うその世の中」
と笑っています。
実際は、
「ブタは褒められてもブタ
ライオンはそしられてもライオン」で、
人の評価はそう簡単に変わるものではないはずです。
見る人の都合でコロコロ変わる「他人鏡」が、
変わらぬ本当の私を映す鏡でないことは、
認めざるをえないでしょう。


もちろん、「他人鏡(他人の評価)など、どうでもいい」
ということではありません。
他人の意見に耳を傾け、欠点を克服する努力は大事ですから、
例えば同じことを3人以上から指摘されたら、
改めるよう努めていきたいものです。

・・・・・・・・・・・・・・・・
●自分鏡・・・自己の良心

三枚の鏡の第二は「自分鏡」。
道徳的良心であり、自己反省のことです。
「一日三省」というように、自己を振り返ることは大切です。
反省がなければ進歩も向上もなく、
同じ失敗を繰り返すばかりでしょう。
しかし、いかに厳しくしようと努めても、
自己反省は往々にして
自分かわいい「欲目」によって甘くなるものです。

それは生んで育てたわが子にもしかり。
万引きをした子供の親に連絡すると、
第一声は決まって
「うちの子に限って・・・」
だそうです。
本当はわが子が首謀者であっても、
親はそう思いたくないし、思えない。
「自分の」子だからです。

子供にさえ欲目を離れられないのだから、
わが身となればなおさらで、
鏡の前で増えた白髪に一時は驚いても、
「年下のあの人よりはマシ」
と他人を引っ張ってきて上に立つ。
私は顔の色は黒いけれど鼻が高いから。
色も黒いし鼻も低いが口が小さいから。
口は大きいけれども色白だ。
しまいには、
「何にもできんが、素直な奴と皆から言われている」
と自分のことは何でも美化してしまう。
うぬぼれ心が私たちの本性だからです。
「自分鏡」も、自己の真実を歪めて見せる鏡にほかなりません。

●法鏡

他人鏡は都合で曲がり、自分鏡は欲目で曲がる。
一体、「ありのままの私」を映してくれる真実の鏡は
どこにあるのでしょうか?


お釈迦さまは、
「仏教は法鏡なり。
汝らに法鏡を授ける」
と遺言なされ、私たちに、
真実の姿を映す鏡を与えてくださいました。

「法」とは、真実であり、三世十方を貫くもの。
三世とは、過去・現在・未来で「いつでも」、
十方とは、東西南北上下四唯で「どこでも」ということ。
時代や場所に左右されず、
いつでもどこでも変わらないものだけを、法といいます。
仏法を聞くとは、法鏡に近づくことですから、
仏法を聞けば、今まで気づかなかった自己が見えてきます。
もちろん、鏡から離れていれば分かりません。
肉体を映す鏡でも、遠目には“まんざらでもない”
とうぬぼれていますが、近づくにつれて“あら、ここにシワがある。
こんなところにアザが。
随分白髪が増えたなあ”と、実態に嘆く。
同様に、法鏡に近づくほど“こんなわが身であったのか”
と、思いも寄らぬ自己の姿に驚くのです。


●ありのままに見る
     蓮如上人と一休


大切なのは自分をそのままに見ることです。
こんな話があります。

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時は、室町時代。
七曲がり半に曲がった一本の松の木の前に
人だかりができていた。
そこへ蓮如上人が通りかかられる。
「一体、何の騒ぎか」
「これはこれは、蓮如さま。
実は、あの一休和尚が“この松を真っ直ぐに
に見た者には、金一貫文を与える”と、
立て札立てたので、賞金目当てに集まっているのです」
なるほど、ある者は松の木にハシゴをかけ、
ある人は寝転がり、またある人は逆立ちしたりと、
それぞれに工夫を凝らして松を見ている。
だが、真っ直ぐに見たという者がいない。
事情を聞かれた上人は、
「また一休のいたずらか。
わしは真っ直ぐに見たから、一貫文をもらってこよう」
と事もなげに言われたので、
一同仰天した。
「おい、一休いるか」
気心知れた仲だから、呼びかけも屈託ない。
「あの松の木、真っ直ぐに見たから、
一貫文もらいに来たぞ」
出てきた一休さん、
「ああ、蓮如か、おまえはあかん。
立て札の裏を見てこい」
と答える。
実は立て札の裏には、“蓮如は除く”と書かれてあったのだ。
戻られた上人に気づいた人たちが、
「蓮如さま、一体どうやって真っ直ぐに見られたのですか?」
と身を乗り出して尋ねると、
蓮如上人はこう答えられた。
「曲がった松を、『なんと曲がった松じゃのー』と見るのが、
真っ直ぐな見方だ。
曲がった松を真っ直ぐな松と見ようとするのは
曲がった見方。
黒いものは黒。
白いものは白と見よ。
ありのままに見るのが正しい見方なのだ」
「なるほど!さすがは蓮如さま」
一同、感服したという。

●法鏡に映れる
    真実の自己


では、法鏡に映し出された、ありのままの自己とは、
いかなる姿でしょう。
お釈迦さまは、
「人間の真実の相は煩悩具足である」
と教えられておられます。

煩悩とは、私たちを煩わせ悩ませるもので、
百八つあります。
具足は塊、ということだから、
煩悩具足とは、“煩悩の塊”ということです。
その百八の煩悩の代表格である
貪欲・瞋恚・愚痴の三つについて
順番にお話しいたしましょう。


貪欲とは、金が欲しい、物が欲しい、男が欲しい、
女が欲しい、褒められたい、認められたい、
楽がしたいという欲の心。
根底には、「何でも自分の思い通りにしたい」
という自己中心的な思いがあります。
これを仏教で“我利我利”といい、
「我さえよければ、他人はどうなってもいい」
というあさましい心です。

ところが「思うままにはならぬ世の中」で、
種々に欲は妨げられる。
すると、イライラ、カリカリ、怒りの炎が燃え上がる。
この怒りの心が「瞋恚」です。
NHKの番組『あさイチ』が行ったアンケート調査によると、
夫婦ゲンカの原因は、家事(炊事・掃除・洗濯)のしかたや、
ちょっとした物の置き場所など、
ささいなきっかけが多いという。
ところが、注意のしかたと受け答えの悪さが
互いの感情を逆なでし、
最後はすっかり大きなものになってしまう。
「怒りは無謀に始まり、後悔に終わる」
といわれるとおりです。
露骨に怒れなかったり、腹立ちの相手が目の前にいなければ、
堰を切ったように愚痴が噴き出します。
「いちばん早く年を取るもの、
それは感謝の心」
とはギリシャのことわざですが、
「してくれて当然」と感謝を忘れると、
恨み呪いの心が出てきます。
先日、ファミリーレストランで食事をしていると、
中年女性が友人に愚痴をこぼしている。
「最近、うちの旦那臭いのよ。
帰ったら入浴してほしいのに。
先に食事するから汗臭いったらありゃしない。
それもよ、脱いだカッターシャツでわざわざ靴下をくるむのよ、
どう思う?シャツがますます臭くなるじゃない!」
その臭い旦那の給料で、
昼間からクーラーの効いたファミレスにいながら、
汗水流して働いているであろう夫をボロクソだ。
「それによ、ソファーに長々と座るから臭いがしみ込んじゃうの。
もっと頭にくるのは、座る場所を変えるから
被害が広がって、もう許せない!」
知らぬところで散々言われている夫も哀れなら、
恨みの黒鬼と化している妻も愚か。
でも、私たちも口にしないだけで、
すぐにカチンときたり、イラッとしたり、
不平、不満をこぼしたりと、
五十歩百歩が実態でしょう。

さるべき業縁の催せば、
如何なる振る舞いもすべし
」  
         (歎異抄)
縁さえ来れば、どんな恐ろしいことでもする親鸞だ

との告白は、万人共通の実相に違いありません。
切羽詰まると何をしでかすか分からないのが
自己の本性ではないでしょうか。
その真実の相を知らされ、親鸞聖人は、
こう懺悔されています。

悪性さらにやめがたし
こころは蛇蝎のごとくなり

       (悲歎述懐和讃)
悪はやめがたく、心はヘビやサソリのように恐ろしい

親鸞さまでさえそうならば、
私たちも言わずもがな。

日々、報道される犯罪に驚かぬ日はありませんが、
これ皆、心に巣食う貪欲の青鬼、瞋恚の赤鬼、
愚痴の黒鬼の成せる業だと、
仏さまはスッパ抜かれているのです。

●聞き間違えてはならない

法律、道徳レベルなら、善人・悪人がありますが、
仏の眼からごらんになると、
人間は皆、極悪人となります。

レントゲンの前では、美人も、醜女(しとめ)も、
富める者も、貧しい者も、
老若男女の違いなく、皆、骨の連鎖であるように、
法鏡に照らし出されると、
煩悩よりほかにない自己と知らされます。

「ならば善に励もうと努力するのは無駄か」
「善はしなほうがいい」
と聞き間違えてはなりません。
そんな誤解をすれば、たちまち悪果に見舞われ、
この世の“自業苦(じごく)”が現出するのは当然のこと。
光に向かわなければ、幸せになれないと、
お釈迦さまは教えていかれたのです。

●ありのままで救う
      弥陀の本願

煩悩具足の私たちは、
真実の自己を法鏡に照らし抜かれた一念、
煩悩具足の私をそのまま救ってくださる
阿弥陀仏の本願に遇わせていただくのです。

蓮如上人はこう教えられています。
「それ十悪・五逆の罪人も
空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我ら如きの凡夫なり。
然れば、ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なれば
弥陀にかぎりて、『われひとり助けん』
という超世の大願を発して」
           (御文章)

(大宇宙の一切の仏方〈十方三世の諸仏〉から「救い難き者」と
見捨てられたのがすべての人〈十悪・五逆の罪人〉である。
そんな者を諸仏の師・阿弥陀如来がただお一人、
「私が助けよう」と立ち上がられ、
崇高な超世の誓いを掲げられた)
大宇宙の諸仏があきれて逃げた、十方衆生(すべての人)を、
本師本仏の阿弥陀仏だけが「救わずにおかぬ」
と奮い立ってくだされた。
そんな偉大な阿弥陀仏でも、悪業煩悩の塊を、
どうしたら助けられようか、五劫という気の遠くなる間、
考え抜かれました。

親鸞聖人は弥陀に救われた一念に、
広大な仏恩を信知させられ、こう仰っています。

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人が為なりけり、
されば若干の業をもちける身にてありけるを、
助けんと思召したちける本願のかたじけなさよ」
             (歎異抄)

弥陀が五劫という永い間、
熟慮に熟慮を重ねてお誓いなされた本願を、
よくよく思い知らされれば、
全く親鸞一人を助けんがためだったのだ。
こんな無量の悪業を持った親鸞を、
助けんと誓い立ってくだされた本願の、
なんと有り難くかたじけないことか


むろんこれは、聖人だけのことでなく、
一人一人が自己の真実を照らされ、救われた時、
「私一人のための弥陀のご本願であった」
と躍り上がるのです。
見聞知の阿弥陀仏は、私も知らない私を、
骨の髄までお見通しです。


小指のない障害者として生まれてきた五歳の男の子。
親の前でもいじらしく、しきりにその手を隠す。
子供が悩む前から誰よりも、苦しんでいるのは親なのだ。
どんなに隠してもおまえのことは生まれたときから
隅から隅まで分かっている。
何もかも知っている親と早く分かってくれよと、
どれほど親は泣いていることか。
弥陀は「煩悩具足の極悪人」と私をお見抜きのうえで、
「我にまかせよ、そのまま救う」
と誓っておられるのです。

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この「ありのままの弥陀の救い」を明らかにされるため、
親鸞聖人は、31歳の時、「肉食妻帯」を断行されました。
公然と僧侶が肉食妻帯する。
当時それは世間でも、また仏教界でも大問題。
ために聖人は、「堕落坊主」「破戒坊主」
「仏教を破壊する悪魔」「狂人」「色坊主」と、
八方総攻撃を受けられたのです。
しかし、色と欲から生まれた人間に、
色と欲を断てという無茶な教えでは誰一人助からぬ。

どんな非難も覚悟で断固なされた理由は、
ひとえに、すべての人間が、
ありのままで絶対の幸福に救われる「真実の仏法」を
明らかになされるためでした。

アニメの中の聖人はご内室の玉日様に、
こう仰っています。
僧侶も在家の人も、男も女も、
ありのままで、等しく救いたもうのが阿弥陀如来の本願。
その真実の仏法を、今こそ明らかにせねばならぬのだ。
阿弥陀如来の広大なご恩を思えば、
どんな非難も物の数ではない

“ありのままの私を、そのまま救ってくださる方は、
天にも地にも、弥陀よりほかになかった”
と摂取されるまで仏法を聞かせていただきましょう。

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