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人生その時その時、楽しめれば、それでいいのか!? [阿頼耶識(我々の本当の心)]

なぜ我々は、科学が進歩しても、物が豊かになっても、
幸せになれないのか書かれています。
 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●幸福は足し算できるか

人は皆、幸せを求めて生きています。
これに異論を唱える人はないでしょう。
しかも、いつか崩れる幸せではなく、
永遠に崩れない絶対の幸福こそ、
全ての人が求めている人生の目的だと、
仏教では教えられています。

こう聞くと、「そんな難しいこと考えなくても、
今、楽しいことをやればいい。
それがその時その時の、生きる目的。
そうやって楽しい時間を積み重ねていけば、
人生の幸福も最大になるはずだ」と言う人があります。

もしそのとおりなら、大変結構な話ですね。
果たして私たちの幸福感は、
都合よく足し算できるのでしょうか。

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●楽しみの実態を考えてみよう

私たちが「楽しい」と感じるのは、
どんな時か、ちょっと想像してみましょう。
例えば、ワールドカップ・サッカーを観戦する。
世界遺産を巡る旅に出る。
落語や音楽を聞く。
おいしい物を食べる。
真夏の夜飲むキンキンに冷えたビールがたまらない。
こういった「欲望を満たす気持ちよさ」は、
確かに強烈な幸福感ですが、
その快楽は何日続くでしょう。
すぐ消える宿命は、免れません。

心の仕組みを詳細に説く仏教では、
これらを一括して、「前五識」の楽しみと教えられます。

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●「前五識」の楽しみって何?
仏教で、私たちの心を八つに分けて教えたものを
「八識」といい、
そのうち初めの五つ「眼識、耳識、鼻識、舌識、身識」
を前五識といわれます。

識とは心のことです。
眼識とは色や形を見分ける心。
スポーツ観戦や世界遺産巡りは、目の楽しみでしょう。
しかし「虹を15分も眺める人はない」の格言どおり、
美しい風景も見続ければ飽きます。
耳識は音を聞き分ける心。
落語や音楽は耳の楽しみですが、
同じものを聞き続けたらやはり飽きがきます。
鼻識は匂いをかぎ分ける心。
コーヒー工場の隣に住む人がこう言っていた。
「いい香りも毎日だと何とも思わなくなる」

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●快楽の行き着く先

舌識とは甘い、辛い、酸っぱいなど味を分ける心です。
どんな美味しい料理も、一ヶ月食べ続けたら
見たくなくなるに違いありません。
身識とは、寒い、暖かい、痛い、快いなどを感ずる心。
かゆい所をかく気持ちよさは格別ですが、
かゆみが消えてもなお、かき続けたら、
今度は痛みに変わるでしょう。
考えてみれば、私たちの味わう喜びの大半は、
この前五識の楽しみではないでしょうか。

肉体とともに滅ぶこれらの快楽を幾ら求めても、
足し算どころか、すぐ色あせ苦痛に変わる。

ところが仏教には、決して色あせることのない幸せが
教えられているのです。

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なぜ、阿弥陀仏が本師本仏なのか [阿弥陀仏]

(質問)なぜ、阿弥陀仏が本師本仏なのか

「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」と言われますように、
この地球上に現れた仏は釈迦唯一人であります。
その釈尊が35歳で成仏してから80歳でご入滅するまでの
45年間の教えがすなわち仏教ですが、
一体釈尊は何を説くのが目的であったのでしょうか。


親鸞聖人は『教行信証』に、
それ真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり」
と喝破なされています。

釈迦一代の教えは真実の経、
『大無量寿経』唯一つを説かんがための方便であったのだと
断言なされています。

では『大無量寿経』には何が説かれているのでしょうか。
それは唯、すべての人々が本当に幸福に救われる
阿弥陀仏の本願のみが説かれています。

ゆえに、親鸞聖人は『正信偈』に、
「釈迦如来がこの世に生まれられた目的は、
唯、弥陀の本願のみを説かんがためなり」

と仰せになっております。

釈尊は、阿弥陀仏の使いの者として、
この世に出て阿弥陀仏の本願を説かれたのです。

これを聖人は、
久遠実成阿弥陀仏
五濁の凡愚をあわれみて
釈迦牟尼仏としめしてぞ
迦耶城には応現する
」 (和讃)
と仰っています。

また、親鸞聖人の仰せのとおり釈尊は、
一切経に阿弥陀仏のことばかり褒めたたえていられます。
無量寿仏の威神光明は最尊第一にして
諸仏の光明の及ぶこと能わざる所なり
」(大無量寿経)とか、

十方無辺不可思議の諸仏如来、
阿弥陀仏を称讃せざるはなし」とか、
「諸仏の中の王なり、光明の中の極尊なり

            (大阿弥陀経)

とか、挙げれば切りがありません。
ゆえに「諸教に讃ずる所、多く弥陀に在り
天台宗のけい渓でさえ驚いているのです。

●すべての仏が称讃される訳

ではなぜ阿弥陀仏を一切の仏方が称賛し礼拝されるのか。
その理由は『般舟経』に明らかに説かれています。
三世の諸仏は、弥陀三昧(みだざんまい)を念じて、
等正覚(仏)に成る

これは一切の諸仏は、最後は阿弥陀仏のお力によって、
仏になったということです。

大日如来も薬師如来も、
そうであるように釈尊もその例に漏れません。
ですからあらゆる仏は阿弥陀仏には頭が上がらないのです。

本師本仏とあがめたてまつる道理ではありませんか。

三世十方の諸仏たちでさえそうなんですから、
ましていわんや私たちは一向専念阿弥陀仏で、
阿弥陀仏一仏を一向に信じたてまつるより、
絶対の幸福になる道は毛頭ないことを
よくよく知らなければなりません。

阿弥陀仏は光明無量、寿命無量、
智慧と慈悲の仏であることは
多くの経典で明らかですが、
中でも阿弥陀仏の勝徳(しょうとく)は、
光明、智慧、無量であることだと、
親鸞聖人は讃嘆なされています。

それはすでに釈尊が、出世本懐経たる『大無量寿経』において、
前述のとおり

無量光仏の威神光明は最尊第一にして
諸仏の光明の及ぶこと能わざる所なり

と、喝破なされているからです。

光明といいますと、何か太陽か電灯の光線のように
誤解する人もありますが、
仏法では仏の念力、仏力をいつも光明と表現いたします。
私たちの目に見えない如来の大願業力、大念力、
智慧をいうのです。

私たち人間でも、その方面の修練を積めば、
ある程度の念力を持つことができることは
今日、催眠術や超能力などによって周知のとおりです。

このように催眠術や超能力は一種の人間の精神力であり、
念力といわれるものの働きであることは、
科学的に説明されるようになりましたが、
テレパシー、念写などによれば、
念力は目には見えませんが、
光線と同じような働きや性質があることが知らされています。
例えば、遠方の暗室に置いてある印画紙に向かって、
ある人が一心に何かを念ずると、
その念じたものが瞬時にして、
遠方の印画紙に写るということは、
念力は光のような速度を持ち、
光のような作用を持っていることが分かります。

それにしても2600年以前において、
すでに釈尊は、念力や精神力を光明という言葉で
表現なされた智慧には、今更ながら驚嘆せずにはおれません。

散乱放逸の私たち人間にさえ、
ある修練を積めば相当の念力を持つことができるのですから、
仏の念力、業力は私たちの想像を絶するものです。

阿弥陀仏のズバぬけたお力とは

仏は光明と寿命、智慧と慈悲の覚体だといわれますのは、
私たちを救わんとする大念力を
体得していられることをいうのですから、
阿弥陀仏が本師本仏とあがめられ、
諸仏の王とされますのは、すでに述べましたように、
阿弥陀仏の光明智慧が諸仏に超過して、
私たちを救済する力がズバぬけているからです。

それは同時に、極悪最下の私たちを
救済することのできる仏は、
阿弥陀仏以外には断じてないことを、
暗示なされた釈尊の金言でもあります。


果たして釈尊は最後に、
「一向専念 無量寿仏」
と、その真意を説破なされています。

これはあらゆる諸仏、諸菩薩、諸神を捨てて、
一心一向に専ら阿弥陀仏一仏を信ずる以外に、
一切の人々の助かる道は絶無なることを
明言なされたものです。

この仏意を受けて親鸞聖人
一向専念の義は、往生の肝腑、自宗の骨目なり
              (御伝鈔)
とまで断言なされています。
蓮如上人また
諸仏菩薩を捨てて、弥陀一仏を一心一向にたのむべし
更に余の方へ心をふらず
その外には何れの法を信ずというとも、
後生の助かるということ、ゆめゆめあるべからず

とまで断定なされているのも、
けだし当然と言わなければなりません。


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死んだら何も無くなるのでは? [Q&Aシリーズ]

(質問)死んだら何も無くなるのでは?

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(答え)「死んだ後なんかないよ」と言い続けている人も、
知人や友人が死ぬと、
「ご霊前で」とか「ご冥福を祈ります」と言います。
「霊前」は故人の霊の前であり、
「冥福」は冥土(死後)の幸福のことですから、
いずれも死後を想定してのことです。
死後を否定し切れないものがあるのでしょう。
「社交辞令だよ」と笑って済ませられるのは、
肉親などの死別にあわない、
幸せな時だけに違いありません。

死後の幸福を願うのは、
深い人間性からくるもので、
「死後はない」という一片の知識で、
否定できるものではありません。

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(質問)死んだら何もなくなるのでは?

(答え)ある所に、死後を否定し、
「オレが死んだら葬式など、
無駄なことは一切やるな」
といつも公言していた、
仏法の大嫌いな男がいました。

ところが、この世は老少不定。
不幸にも、その男より先に、
かわいがっていた一人息子が急死したのです。
悲しみにうちひしがれた男は、
大嫌いだった寺へ行き、
盛大な葬式を依頼して、
遺骨を墓地に納めました。
その日は雪でした。
墓にやってきた男は、墓石に積もった雪を
手できれいに払いのけ、
持参したミカンやお菓子を供えて手を合わせ、
「息子よ、さぞかし寒かろう。
さあ、お上がり」
と生ける者に話しかけるように、
いつまでも墓前を去ろうとしなかったといいます。

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(質問)お釈迦さまは、「死後はない」という考えについて
どう教えられていますか?

(答え)
釈尊は、「死後はない」という考え方を
「断見外道」といわれ、
間違いだと教えられています。

その理由を『阿含経』には、
「因果応報なるが故に来世なきに非ず」
と説かれています。

例えば、人を1人殺したら死刑という結果を
受けるとします。
では10人殺した人は、後の9人分の報いを
いつ受けるのでしょうか。
死後がないとすれば、何人殺しても一緒だという
自暴自棄的な考えに賛同することになるでしょう。


しかし釈尊は、三世を貫く因果の道理を説き、
後の報いは未来世(死後の世界)で、
必ず受けていかなければならないと
教えられているのです。

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(質問)「親鸞聖人は死後の浄土のことは教えられなかった」
と言う人がありますが?

(答え)
いいえ、とんでもない。
親鸞聖人がこの世と死後の浄土を
ハッキリ区別され、
弥陀の救いは二度あることを示された
お言葉はたくさんあります。

一例を挙げれば、
この身は今は歳きわまりて候えば、
定めて先立ちて往生し候わんずれば、
浄土にて必ず必ず待ちまいらせ候べし

“親鸞、いよいよ今生の終わりに近づいた。
必ず浄土へ往って待っていようぞ。
間違いなく来なさいよ”

と、『末灯鈔』におっしゃっています。
私たちも、一日も早く、
弥陀の本願を聞き開き(信心獲得)、
いつ死んでも浄土往生間違いない身と
ならせていただきましょう。

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我々の苦しみは、未来が暗いからである! [苦しみの根源]

アニメ『世界の光 親鸞聖人』

(真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」から載せています。 )  

難思の弘誓は
  難度の海を度する大船、
無碍の光明は
  無明の闇を破する慧日なり

          (教行信証)


阿弥陀さまは苦しみ多い世間の海を、
明るく楽しく渡す大きな船を造られています。
阿弥陀さまにはその大船に、私たちを必ず乗せて
極楽浄土まで届けて下さるお力があります

親鸞聖人の主著『教行信証』の
冒頭のお言葉について学びましょう。

親鸞聖人が、生涯かけてお書きくだされた
『教行信証』のいちばん最初には、
どんなことが教えられているのでしょうか。
今回は、
「無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり」
についてお話したいと思います。

●「無明の闇」とは?

ここに「無明の闇」というお言葉が出てきます。
「無明」とは「明かりが無い」と書くように、
「暗い」ことです。
暗いことを「闇」ともいわれますから、
意味を重ねて「無明の闇」といわれています。
ここで言われる「暗い」とは、
「分からない、ハッキリしない」ことです。

例えば、経済がよく分からなければ
「私は経済には暗くって」と言いますし、
女性の気持ちに鈍感な人は、
「あなたって、女心に暗い人ね」と言われます。
では、「無明の闇」は何が分からず、
ハッキリしないのでしょう。
それは、「死ねばどうなるか」が
ハッキリしないのです。
つまり、「無明の闇」とは
「死後(来世)に暗い心」
をいうのです。

●「現在」と「未来」の関係

親鸞聖人が『教行信証』の最初に「無明の闇」について
書いておられるのは、
私たちにとってとても大切なことだからです。
ですが、「死後に暗い心」と聞いても、
「あまりピンとこない」という方もあるかもしれません。
「そんなことより今が大事では」
と感じられる方もあるでしょう。
そこで、「生と死」という大きなテーマを、
ひとまず「現在と未来」に置き換えて考えてみましょう。
現在と未来は、密接不離な関係にあります。
未来が明るければ現在も明るくなりますし、
未来が暗ければ現在も暗くなります。
例えば、大好きな人とのデートを
明日に控えた恋人の心境は
言うまでもないでしょう。
まだ恋人が隣にいなくても、
明るい未来に今からときめき、
気がつくと一人で笑顔になっています。

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逆に、一週間後に内蔵を取り出す大手術を
控えていたらどうでしょう。
「まだ一週間あるから今を楽しもう!」
と思えるはずがありません。
また、トイレが故障して使用不能なのに、
「今さえよければいい!」
と、思いっきり食べたり飲んだりも
できないでしょう。

安心して思いっきり出せるところが
確保されていなければ、
今、安心して思う存分、飲食もできないのです。
このように、現在と未来は切り離せない
関係にあります。
未来を無視して、明るく楽しい現在は
築けないのです。

では、人生の未来はどうなっているのでしょう?

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●人生を船に例えると

ここで、人生を船旅に例えてみましょう。
“今、川を下る船に乗っている”
と想像してみてください。

あなたは、船の中で人生を送っています。
船の中で、好きな人ができたり、嫌いな人とケンカしたり、
損した得をした、勝った負けたと、
泣き笑いしつつ、あくせく日々を過ごしています。

時折、こんな思いが、ふと頭をよぎるでしょう。
「特に何というわけでもないけど、何だかむなしい」
「家庭や友人に恵まれているはずなのに、
私は独りぼっちと感じることがある。
この孤独感はどこからくるのかしら」
「成功したはずなのに達成感がない。なぜだろう?」
「肩書きをなくしたら、自分には何もないなあ」
「毎日、同じことの繰り返し。
こんな人生に一体どんな意味があるのだろう」

この心はどこからくるのかな?と、
しばし悩みますが、答えは見つからず、
結局は目の前のことを何とかせねばと、
その日その日を精一杯生きています。

しかし、そうこうしている間にも、
船はどんどん進んでいくのです。

では、自分の乗っている船の行き先(確実な未来)は
どうなっているのでしょうか。

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誰もよく考えていないようですが、滝壺です。
船の中でどれだけ稼いでも、
趣味にいそしんでも、
最後、船もろとも落ちていかねばなりません。
人生は、「死」という「滝壺」への
旅路にほかならないのです。

その間、何しにこの世へ生まれてきたのか。
何を求めて、あくせく働いてのでしょう。
この家を建てにに来たのだと胸を張る人。
子供を生みに来たのだと苦笑いする人。
金や財産をためるために来たのだとうそぶく人。
名誉や地位を誇る人。
中には酒飲みに来たのだとわめく人もいます。

果たして誰か、これ一つに誕生したと
いえるものがあるでしょうか。
これでは一生空奉公(からぼうこう)ではないのか。
命を懸けてわがものと思っていますが、
この世のものは皆離散する。
あるというのは今しばらくそばにある
ということなのです。

天下を取った太閤秀吉も
「難波のことは、夢のまた夢」
と言い遺してこの世を去りました。

その400年前に、日本の権力を掌中にした平清盛も、
一昨年の大河ドラマで、
こんなセリフを吐露しています。
「誰か、助けてくれ。
暗闇ばかりじゃ」
「手に入れても、手に入れても、
光は・・・光には届かぬ・・・」
未来が暗ければ、現在も暗い。
100パーセント確実な未来に
一大事を抱えていては、
何を、どんなに手に入れても、
心に明かりが灯らないのです。

ならば、船の中の栄華より、
船ごと落ちていく滝壺の一大事こそ、
急ぐべきではないでしょうか。

                                                                                  
●蓮如上人は仰せです。
まことに死せんときは、予て、
たのみおきつる妻子も財宝も、
わが身には一つも相添うことあるべからず
」 
                (御文章)
いよいよ死んでいかねばならないとなった時、
今まで頼りにしてきた妻も子供も財産も、
皆、わが身から離れていきます。
人間は最後、丸裸になって、
たった一人で暗黒の滝壺へと
落ちていくのです。
咲き誇った花も散る時が来るように、
死ぬ時には、必死にかき集めた財産も、
名誉も地位も、すべて私から離れて、
一人で地上を去らなければなりません。
これほどの大事があるでしょうか。

これを「後生の一大事」といいます。
この悲劇の滝壺を、
魂はウスウス予感しているので、
何をしても、何を手に入れても、
現在の心が晴れないのです。

人は皆、笑顔の裏に、悲しみを抱えています。
たとえ一時は楽しめても、スグに言いようのない
むなしさや寂しさに襲われるのは、
生きている根底が暗いからなのです。

滝壺に落ちたあとは、どうなるのか?
誰もハッキリしません。
このような「後生(来世)に暗い心」を
「無明の闇」といいます。

●無明の闇を破ってくださる仏さま

滝壺行きの船から、
極楽行きの船へと乗り換えねば、
私たちは本当の幸福になれません。

ですが、無明の闇を抱えたままでは、
極楽往きの船には乗れないのです。

では、どうすれば無明の闇を
晴らすことができるのでしょう?
大宇宙に多くの仏さまがおられても、
無明の闇を破る力を持っておられるお方は、
阿弥陀仏以外にましまさぬと、
お釈迦さまも親鸞聖人も教えられています。

親鸞聖人は阿弥陀仏に無明の闇を晴らしていただき、
『教行信証』の冒頭に、
無碍の光明は、無明の闇を破する慧日なり
“阿弥陀仏には、無明の闇を晴らし、
私たちを絶対の幸福に救うお力がある”
と明言なされ、
『正信偈』には、
「已能雖破無明闇」(すでによく無明の闇が破れた)
と書いておられます。
生きている現在ただ今、
阿弥陀仏のお力によって
無明の闇(後生暗い心)を
破っていただけば、
いつ死んでも極楽往生間違いなしの
後生明るい心に
生まれ変わります。
阿弥陀さまが、極楽浄土に向かう
大きな船に乗せて
必ず渡してくださるからです。

極楽のことを、無量光明土(無限に明るい世界)ともいい、
親鸞聖人は『正信偈』に、
「必至無量光明土(必ず無量光明土に至る)」
と教えられています。
未来、明るければ、今も明るい。
弥陀に救われれば、
最高に明るい未来となりますから、
輝く未来に向かって生きる現在の
一息一息が、光明輝く、
絶対の幸福になるのです。

阿弥陀仏は「聞く一つ」で助けると
誓っておられます。
無明の闇が晴れるところまで、
阿弥陀仏の御心を真剣に
聞かせていただきましょう。


タグ:弥陀の大船
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