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阿弥陀仏に救われるとどう変わるのか!? [信心決定]

已能雖破無明闇(已に能く、無明の闇を破すと雖も、)
貪愛嗔憎之雲霧(貪愛・愼憎の雲霧、)
常覆真実信心天(常に、真実信心の天を覆えり、)
譬如日光覆雲霧(譬えば、日光の雲霧に覆われるれども、)
雲霧之下明無闇 (雲霧の下、明らかにして闇なきが如し)

            (親鸞聖人・正信偈)
 

みんなに知ってもらいたいことがある。
あなたに伝えたいことがある。
それにはどう書けば、どう表現すれば・・・。
一字一涙の御心で筆を染められた『正信偈』には、
親鸞聖人九十年の教えのすべてがおさまっています。
その『正信偈』を、朝晩拝読する勤行は、
自らの声を通して、聖人の直のご説法を聞かせていただく
聞法の勝縁です。
ゆえに浄土真宗の家では毎日欠かされないのも、
お分かりでしょう。
しかし、せっかく暗誦できるほど親しんでいても、
意味が分からず「門徒もの知らず」では、
あまりにも勿体ないですね。
一行一句に込められた真意をよくよく知り、
聖人の教えに明るい真実の仏弟子とならせていただきましょう。
まず冒頭に、
帰命無量寿如来(無量寿如来に親鸞、帰命いたしました)
南無不可思議光(不可思議光に親鸞、南無いたしました)
と言われている二行は、
親鸞、阿弥陀如来に救われたぞ!
親鸞、阿弥陀如来に助けられたぞ!
という、「弥陀の救い」に遇われた聖人の告白であり、
叫び尽くせぬ歓喜の発露です。
この初めの二行で親鸞聖人は、

○弥陀の救いは、平生ただ今である。

○弥陀の救いは、ハッキリする。

という、「凄い弥陀の救い」を明らかにされていることは、
すでに繰り返し述べてきました。
では、どうすれば親鸞さまと同じように、
私も弥陀に救われるのですか。
救われたら、何がどう変わるのですか
私たちの切実な疑問に、同じく『正信偈』の中で
懇ろに答えておられるのが、次の五行です。

已能雖破無明闇(已に能く、無明の闇を破すと雖も、)
貪愛嗔憎之雲霧(貪愛・愼憎の雲霧、)
常覆真実信心天(常に、真実信心の天を覆えり、)
譬如日光覆雲霧(譬えば、日光の雲霧に覆われるれども、)
雲霧之下明無闇 (雲霧の下、明らかにして闇なきが如し)

ここで親鸞聖人は、どんなことを言われているのか、
少しずつ区切りながら解説していきましょう。

●弥陀の救いは「破闇明闇」

まず一行目の「已能雖破闇明闇」に、
「阿弥陀如来の救いは、無明の闇を破ること(破闇明闇)である」
と、明らかにされています。
「無明の闇」とは、「後生暗い心」ともいわれ、
「死んだらどうなるのか、ハッキリしない心」。
「後生」とは、一息切れた死後のことであり、
「暗い」とは、分からない、ハッキリしないことをいいます。

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生まれたからには死は避けられませんが、
その死後の行く先が、分からない。
有るのか、無いのかさえも定かではない。
“千の風になる”と言われても、ピンとこない。
“死んだら死んだ時だ”と強がってみても、
どうもスッキリしない。
“死後は無になる”の信念にも、根拠がない。
心はなんだかぼんやりしています。
気楽に考えている人は
「念仏さえ称えておれば極楽へ往けるのだろう」
と淡い想像をし、自己を真面目に見つめている人は
「こんな私は暗い世界へ行くのではなかろうか」
と恐れおののく。
「でも、そこはお慈悲な阿弥陀さま、なんとかしてくださるだろう」
と希望を抱きもする。
死を遠くに追いやっている間は気づかなかったが、
ひょっとして今晩かもと、
死を凝視して魂を後生へ送り出してみると、
なんとも言えぬ不安な、恐ろしい戦慄を覚える。
崖っぷちから千尋(せんじん)の谷底をのぞき込んでいるような
薄気味悪い、真っ暗な心が胸一面を覆います。
このような、確実な行く先である「後生」がハッキリしない心、
今の一息一息と触れ合っている「後生」が暗い心を、
親鸞聖人は「無明の闇」と言われているのです。

本師本仏の阿弥陀如来は、
この「後生暗い心(無明の闇)」こそが、
十方衆生(すべての人)の苦しみの根元と見抜かれて、
「無明の闇を破り、“必ず浄土へ往ける”大安心に救い摂る」
と誓われています。
これを「阿弥陀如来の本願」と申します。
「本願」とは「誓願」とも言われ、約束のこと。
有名な『歎異抄』冒頭の「弥陀の誓願」も、
この阿弥陀如来のお誓いのことです。

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「後生暗い心(無明の闇)」が晴れわたり、
“必ず浄土へ往ける”とハッキリしたことを
「往生一定」ともいわれます。
それは、どんな事故や災難にも微動だにしない大満足であり、
最悪の死が来ても崩れない幸せですから、
『歎異抄』には「摂取不捨の利益」とか
「無碍の一道」とも言われ、
今日の表現で「絶対の幸福」といえるでしょう。
しかも弥陀は、その絶対の幸福に「一念で救う」
と誓っておられる。
一念とは、何兆分の一秒よりも短い時間。
アッと言う間もない一瞬で、
後生暗い心(無明の闇)を破り、
絶対の幸福に救い摂る、と、弥陀は誓われているのです。

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この弥陀の誓願通りに「後生暗い心」が晴れて、
「往生一定」に救い摂られたことを、
「已能雖破闇明闇(いのうすいはむみょうあん)
「弥陀の誓願力によって(能く)、無明の闇が破られた」
と言われ、冒頭の、
「帰命無量寿如来(親鸞、弥陀に救われたぞ!)
南無不可思議光(親鸞、弥陀に助けられたぞ!)」
という宣言も、
聖人自らこの「弥陀の救い」に遇われた魂の絶叫なのです。

●弥陀に救われたら、どうなるのか

では、弥陀のお力によって、
苦悩の根元である「無明の闇」がぶち破られて
「往生一定」の絶対の幸福に救い摂られたならば、
どうなるのか。
欲も起こさず、腹を立てないようになるのか。
「しがみつかない生き方」に変わるのか。
執着心の無いひょうひょうとした人生になるのだろうか。
それらのことについて、親鸞聖人は次に、
貪愛瞋憎之雲霧(貪愛・瞋憎の雲霧、)
常覆真実信心天(常に、真実信心の天を覆えり)
と明言されています。
「貪愛」とは、貪欲・愛欲のことで、底知れぬ欲の心。
褒められたい、儲けたい、愛したい、愛されたい、
まだ足らんと、際限もなく求める心をいわれます。
ダイエットや整形に大金を投じ、
時には命の危険さえ冒すのも、
モテたい、キレイと言われたい、
の強烈な願望にちがいありません。
「瞋(しん)」は瞋恚、怒りの心。
欲が邪魔されてカーッと腹が立つ心です。
ひとたび怒りの炎が燃え上がると、
理性も教養もへったくれもなく八方を焼き尽くす、
恐ろしい心です。
18歳の男が、「交際を邪魔されたから」と、
恋人の姉を刺殺した事件も、
この怒りのなせる業でしょう。
「憎」は憎しみ・うらみの心。
因果の道理も分からず、
“オレがこんな目にあったのは、あいつのせいだ”
“こいつが余計なことを言ったからだ”
“世間が悪い”と他人を怨み世を呪い、
ライバルの容姿や人気をねたみそねむ、
醜い心のことです。

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これら欲や怒り・ねたみそねみの心で私たちは、
朝から晩まで煩わされ、悩まされ、
イライラしてはいないでしょうか。
仏教ではこれを「煩悩」といわれ、
全部で百八つあると教えられます。
聖人が「貪愛瞋憎(とんないしんぞう)の雲霧」
と言われているのは、
その百八の煩悩を雲や霧にたとえられてのこと。
次に「真実信心の天」は、
無明の闇が晴れた「後生明るい心」であり、
その天を、欲や怒りの雲霧が「常覆(常に覆っている)」
とは、「途切れる間がない、一杯である」ことですから、
この三行で親鸞聖人は、
「弥陀に救われて『無明の闇』が無くなっても、
欲や怒り・ねたみそねみの『煩悩』は、
減りもしなければ無くもならない、まったく変わらない」
と、驚くべきことを道破されているのです。

●仏教の目的は、何か

この「煩悩」と「無明の闇」の違いを正しく知らなければ、
親鸞聖人の教えは絶対に分からず、
弥陀の救いには遇われません。
だからこそ聖人は、『正信偈』に峻別して教えておられる。
ところが、専門外の作家が間違うならまだしも、
相当の真宗学者でもこの「煩悩」と「無明の闇」
の区別がなされておらず、
ごちゃまぜに論じているものがほとんどですから、
違いを知るのは大変です。
それで、多くの人の仏教観がこうなるのでしょう。
「阿弥陀仏に救われたならば、欲が減って、
何事にも淡泊になるのではないか。
今まで一日に十回腹を立てていた人は、
忍耐力がついて、五回か六回になるのだろう。
執着を離れてひょうひょうとした生き方になるのではないか」

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これが常識ですから、それに反する言動を見聞きすると、
「あんたは仏教を聞いているのに、
少しも欲が減らないじゃないの」
「腹立ててばかりいるし。聞く前とちっとも変わってない。
それで仏教聞いているといえるの?」
「そんなことでは仏教聞く意味なんてない!」
と非難までする。
これは「無明の闇」と「煩悩」との違いが分からず、
仏教の目的を完全に誤解しているから。
すなわち、
「仏教を聞く目的は、煩悩を減らすことだ」
「欲や怒りをコントロールできるようになることだ」
と、カンカンに思い込んでいるのです。

そこで聖人は、この「無明の闇」と「煩悩」との違いは
簡単にわかることではないからと、
さらに譬えを重ねて、
譬如日光覆雲霧(譬えば、日光の雲霧に覆わるども、)
雲霧之下明無闇(雲霧の下、明かにして闇なきが如し)
“雲や霧で天が覆われていても、弥陀の智慧の太陽で、
心は明るく浄土に遊んでいるように楽しいのだ”
と解説されています。
私たちの本願成就のポイントは、
欲や怒りの煩悩にあるのではなく、
「無明の闇が晴れたか、どうか」にあることを、
巧みなたとえで説かれているお言葉と知られるでしょう。

●「無明の闇」と「煩悩」のちがい

阿弥陀仏の目的は、私たちの欲や怒りの煩悩を
減らしたり無くすることではありません。
もしそうなら、弥陀に救われた人は、
夜も眠らず食欲減退、ヒョロヒョロの草食系の人間になり、
誰かにいきなり頭をたたかれても、
腹も立たないということになります。
おかしいとすぐ分かるでしょう。
弥陀の救いは「無明の闇(後生暗い心)を照破すること」なのです。

聖人は9歳で仏門に入って20年、
比叡山の日々は、まさに煩悩との格闘でした。
「あの湖水のように、なぜ心が静まらぬのか。
あの月を見るように、なぜさとりの月が見れぬのか。
思ってはならぬことが思えてくる。
考えてはならぬことが浮かんでくる。
恐ろしい心が噴き上がる。
どうしてこんなに欲や怒りが逆巻くのか」
無常の風は時を選ばず。
このままならば、釜の中の魚の如く、
永久の苦患は免れぬ。
忍び寄る無常の嵐に火急を感じ、
「こんな親鸞、救われる道があるのだろうか」
と下山を決意。
間もなく、法然上人に邂逅(かいこう)され、

「凡夫」というは、無明・煩悩われらが身にみちみちて、
欲もおおく、瞋り腹立ち、そねみねたむ心、
多くひまなくして、臨終の一念にいたるまで、
止まらず消えず絶えず
            (一念多念証文)

“人間というものは、欲や怒り、腹立つ心、
ねたみそねみなどの塊である。
これらは死ぬまで、静まりもしなければ減りもしない。
もちろん、断ち切れるものでは絶対にない”。

苦悩の根元は無明の闇一つであると知らされて、
「無明の闇を断ち切り、往生一定の身にする弥陀の誓願」
に救い摂られたのが、
聖人29歳の御時のことでした。
それから90歳でお亡くなりになるまで61年間、
この「弥陀の救い」ひとつを、すべての人に知らせたいと、
「煩悩」と「無明の闇」との違いを『正信偈』に峻別され、
欲や怒りの煩悩は、死ぬまで無くならぬ。
仏教を聞く目的は、
後生暗い『無明の闇』を破ること一つなのだ。
聞き誤ってはならないよ
と朝晩、訴えておられる5行なのです。
弥陀のご本願を、正しく聞き抜かせていただきましょう。


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平生達者なときに救うのが、弥陀の本願!! [親鸞聖人]

本願名号正定業(本願の名号は正定の業なり)

「本願」とは「阿弥陀仏の本願」、「名号」とは
「南無阿弥陀仏」の六字のこと、
「正定」は「正定聚不退転」、「業」は「働き」のことですから、
この一行は、こういう意味になります。
阿弥陀仏の本願によって作られた『南無阿弥陀仏』の名号には、
すべての人を『正定聚不退転』の身にする働きがある

初めに「阿弥陀仏の本願」とはどういうことか、解説しましょう。

●阿弥陀仏の本願

「阿弥陀仏」は、「阿弥陀如来」とも「弥陀如来」とも、「弥陀」とも
いわれる仏さまです。
世間では、「お釈迦さま」といっても「阿弥陀仏」といっても、
名前が違うだけで、同じ仏様だろうと思っている人がありますが、
それは大変な間違いです。
お釈迦さまと阿弥陀仏とは全く違う仏なのです。
その違いを知らないと、親鸞聖人のみ教えは分かりませんので、
よく知って頂きたいと思います。

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お釈迦さまは、今から約2600年前、インドで活躍なされた方です。
お釈迦さまが、35歳で仏という最高の覚り(さとり)を開かれてから、
80歳でお亡くなりになるまでの45年間、
教えていかれたみ教えを、今日、仏教といわれます。
地球上でただお一人、仏の覚りを開かれた方ですから、
「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」
と言われるのです。
そのお釈迦さまが、「私の尊い先生を紹介しに来たのだよ」
と、私たちに教えてくだされたのが、阿弥陀如来といわれる仏様です。
弥陀如来と釈迦如来との関係について、
蓮如上人は、『御文章』に次のように仰っています。

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ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なり

お釈迦さまは、地球上では唯一の仏さまですが、
大宇宙には地球のようなものが数え切れないほどあり、
無数の仏がましますと説かれています。
それらの仏を「三世十方の諸仏」と言われているのです。
有名なのは、大日如来とか、薬師如来、奈良の大仏はビルシャナ如来
といわれる仏ですが、それらも皆、十方諸仏の一人です。
本師本仏とは、師匠であり先生ということですから、
大宇宙の仏方の先生ということ。
これはお釈迦さまが説かれたことですが、
親鸞聖人も明らかにされ、蓮如上人も仰っているのです。
「弥陀如来は、十方諸仏の先生である」ということは、
大宇宙の仏方はみな阿弥陀仏のお弟子ということです。
地球のお釈迦さまも、十方諸仏の一人ですから、
弥陀如来と釈迦如来の関係は、
師匠と弟子、弥陀如来を先生とするなら、
お釈迦さまは生徒、ということになります。

お釈迦さまだけでなく、大宇宙のすべての仏方は、
弥陀如来のことを「偉大な仏様だ、尊い仏様だ、我らの先生だ」
と讃め称えて、手を合わせ拝まれているのです。
親鸞聖人も、弥陀如来のことを無上仏、「最高の仏さま」と
仰がれています。
次に「本願」とは「誓願」とも言われるように、
「約束」のこと。
「阿弥陀仏の本願」とは、
「本師本仏の阿弥陀仏がなされているお約束」をいうのです。
では、阿弥陀仏は、どんな約束をされているでしょうか。
漢字36文字で誓われているのですが、
分かりやすく今日の言葉で表現すると、

すべての人を
必ず助ける
絶対の幸福に

というお約束です。

「約束」には必ず相手がある。
相手のない約束はありません。
阿弥陀仏は約束の相手を、本願に「十方衆生」と仰っています。
「十方」とは、仏教で大宇宙のこと。
「衆生」とは、生きとし生けるものすべて。
私たちは人間ですから、「十方衆生」とは、
「すべての人」ということです。
この中に入らない人は一人もいません。
「弥陀の本願には老少善悪の人を選ばず」(歎異抄)
とも言われているとおり、
男も女も、老いも若きも、差別なく救うのが阿弥陀仏の本願。
キリスト教やイスラム教を信じている人も、
無宗教の人も、日本人もアメリカ人もフランス人もドイツ人も、
健常者も障害者も、あらゆる人が、弥陀の本願の対象なのです。

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●摂取不捨の利益

では阿弥陀仏は、「すべての人」と、
どんな約束をなされているのでしょうか。
大事なのは、約束の内容です。
金銭の貸借で言えば、金額に当たります。
阿弥陀仏はすべての人を「信楽」にする、と誓われているのです。
『歎異抄』には「信楽」を「摂取不捨の利益」と言われています。
「摂取不捨」とは、阿弥陀仏が私たちを「ガチッと摂め取って(おさめとって)、
絶対に捨てられない」こと。
「利益」は幸福のことですから、
「摂取不捨の利益」とは、現代の言葉で「絶対の幸福」といえましょう。

この世は無常、いつどうなるか分からない世界です。
終身雇用で安泰と思っていたのに、突然のリストラ。
やっと決まった内定が、一方的に取り消し。
一家団欒の喜びが、愛児の事故死で涙の日々に。
恋人に振られたショックで自殺する人もいます。
健康が取り柄だったのに、末期がんの宣告。
かつて賞賛を浴びた才能が衰えて泣く人。
これらは皆、信じていたものに「捨てられた」苦悩でしょう。
東京の高島平や千葉の常盤平など、
都心近郊の団地として開発され、かつては憧れの的だったエリアが、
30年を経た今、子供は皆巣立ち、
独り暮らしの年配者が増え、孤独死の温床になっているといいます。
身寄りがなく起居もままならぬからと、
役所を介して入居した老人ホームが悪質業者で、
悲惨な生活を強いられている高齢者の実態が、
NHK番組『クローズアップ現代』で紹介されていました。
わずか八畳間に男女の区別なく3人押し込められ、
風呂にも入れず、食事は一日たったの200円。
入居者の生活保護費を狙い、介護報酬を国から取って、
経費は極限まで切り詰め儲けを出す悪質ぶりには、
ア然としました。
ある男性は「まるで、金を払って入る、現代の姥捨て山ですよ」
と涙ぐむ。
家やアパートを引き払っているから、出るに出られない。
「身寄りがない、いられるだけでよい」
という弱みにつけ込む悪どい業者、
それを把握せず仲介していた行政の欠陥が、
浮き彫りにされていました。
死に物狂いで働き、
日本の高度経済成長を支え、家族を養ってきたのに、
その家族を失い、頼みの綱の国にも裏切られた悲嘆は、
想像に余りあります。
会社に捨てられ、友人も去って、
才能は枯渇、体力も気力も萎えてゆく。
オギャッとこの世に生まれ落ちてより、
努力してかき集めてきたものが、
年とともに奪われていく。
最後、死んでいく時には、丸裸でこの世を去っていかねばなりません。
これが人生というものならば、一体どこに、
生きる喜びがあるでしょうか。
何をしに、この世に出てきたのでしょうか。

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火宅無常の世界は、万(よろず)のこと皆もって空言・たわごと・真実(まこと)
あること無し       (歎異抄)

やがて必ず「捨てられる」ものしか知らず、
薄氷を踏む不安で毎日を送っている私たちをご覧になって、
阿弥陀如来は、「すべての人を、絶対に裏切られることのない、
大安心の身にしてやりたい」
と、無上の願いを起こされたのです。

何と有り難いことではありませんか。
本願に誓われている「信楽」とは、その絶対不変の幸福のことであり、
「歎異抄」にはこれを「摂取不捨の利益」といわれているのです。

●若不生者のご念力

ところがそう聞くと私たちは、
「摂取不捨の利益?そんなもの本当にあるの?」
「絶対の幸福になんかなれるはずがない」などと、
本願を疑います。
中には「絶対の幸福なんて夢物語、ユートピアだ」
「脳内現象じゃないか」「どうせ特殊な宗教体験だろう、
自分とは関係ない」
と怪しむ人もありましょう。
そこで阿弥陀仏は、「十方衆生」のその疑いを晴らして、
「絶対の幸福」に救い摂るために、「正覚」(仏の覚り)の命を懸けて
誓われているお言葉が、
「若不生者不取正覚」(もし生まれずは、正覚を取らじ)
の八字です。
「正覚」とは「仏の覚り」のことであり、
仏覚は仏さまの命ですから、これは、
「もし『信楽(絶対の幸福)』に生まれさせることができなければ、
命を捨てる」
といわれているお言葉です。
弥陀が命を懸けて、私たちを「必ず絶対の幸福に救う」
と誓われているのが、
「若不生者の誓い」なのです。

卑近(ひきん)な例えで言うと、
銀行でローンを組む際、
こちらの返済能力を疑う相手の疑念を晴らすために、
土地や建物を担保に入れるでしょう。
阿弥陀仏は私たちの、「本当に助かるのか」の疑心を晴らすために、
自身の命を担保に、
「平生ただ今、必ず絶対の幸福に生まれさせる」
と誓われているのです。

この絶大な「若不生者のご念力」によって、
平生の一念、疑心が晴れわたり、
必ず「信楽」に生まれる時が来るのだよと、
親鸞聖人は生涯、教え続けていかれたのです。

若不生者のちかいゆえ
信楽まことにときいたり
一念慶喜するひとは
往生かならずさだまりぬ 
        (浄土和讃)

●名号の働き

「本願の名号」の「本願」とは、
本師本仏の阿弥陀仏が「すべての人を絶対の幸福にする」
と誓われているお約束であることを、
明らかにしてきました。
次に「名号」とは、阿弥陀仏が、
この誓願を実現するために、
大変な苦労をして完成してくだされた「南無阿弥陀仏」の
六字のことです。
これを親鸞聖人は『正信偈』に、
「本願の名号」
“本願によって造られた名号”
と言われています。
だから「六字の名号」には、「本願」の通りに
「すべての人を絶対の幸福に救い摂る」力があることを聖人は、
「本願の名号は正定の業なり」
といわれているのです。

●正定聚

「正定」とは、「正定聚」のことで、
「間違いなく(まさしく)仏のさとりを開くことに定まった人たち」
ということ。
さとりと言いましても、
低いさとりから高いさとりまで全部で十二の位があり、
これを「さとりの五十二位」と言われます。
それぞれのさとりには名前があります。
「正定聚」とは、下から数えて五十一段目、あと一段で仏、
という位のことであり、
「正定聚不退転」とも言われています。
「不退転」とは、後戻りしない、捨てられない、
裏切らない、ということですから、
「正定聚不退転」とは、「摂取不捨の利益(絶対の幸福)」のことを
いわれます。
だから、
「本願名号正定業」(本願の名号は正定の業なり)
の一行は、
「阿弥陀仏が本願を果たすために造られた
『南無阿弥陀仏』の六字の名号には、
すべての人を絶対の幸福にする働きがあるのだよ」
と、親鸞聖人が断言されているお言葉なのです。

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大安心に生きる [なぜ生きる]

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誰もが皆、安心して生きたい、
満足した人生を送りたいと望んでいます。
しかし現実は、不安を感じている人が
少なくありません。
日本は昨年、明治以降続いてきた人口の自然増加が
初めて減少に転じ、
本格的に少子高齢化社会に突入、
起こりうるさまざまな問題の対策が
論じられています。(平成18年の記事です)
「不安の時代」といわれる現代、
真に安心した人生を送るに必要なのは、
一体、何でしょうか。

●平均寿命世界一
    でも、年を取るのは不安

今年四月に発表された平均寿命世界一の国は、
日本、モナコ、サンマリノの三国で、
82歳だったそうです。(2004年時点の寿命)
前の年に続いて、日本は、
“長寿世界一”を維持したことになります。
ところが、この長寿を日本の私たちは
喜んでいるのでしょうか。
国立長寿医療センターが一昨年、
全国の20~70代の男女約2000人を対象にした
アンケートによると、
8割以上の人が、
「高齢者になることは不安」
と答えています。
年代別では、75歳以上の69パーセントに比べて、
20~39歳は87パーセント、40~54歳で88パーセントと、
若い人ほど不安に感じていることが
分かります。
寝たきりや認知症で介護が必要になることが
理由の一位、
自分が病気になることが2位と、
健康に関する悩みがトップを占めています。

●アンチエイジングで
      安心できる?

そんな未来への不安を打ち消そうと、
今、アンチエイジングがブームになっています。
「アンチエイジング」とは、
直訳すれば「抗加齢」。
老化を遅らせようとするものです。
もともとは、しわなど美容に関するものが
多かったのですが、
最近は、健康維持を目的として、
運動、脳のトレーニング、食生活やサプリメントなど、
さまざまな分野での研究がなされています。
書店には、『脳を鍛える大人の計算ドリル』、
『ボケない脳をつくる』など、
脳を活性化させるための本が数多く並んでいます。
あるパソコン教室は今年四月、
六十歳以上の人を対象に、
パソコンゲームを解きながら脳を鍛える講座を開設しました。
テレビをつけると、老化予防によい食品を紹介した番組や、
現在の食生活を続ければ五年後、
十年後にどんな病気になるかを
予測する番組が放映され、
人気を呼んでいます。
みんな、将来への不安をなくそうと必死ですが、
老化を遅らせることで本当に不安はなくなるのでしょうか。

●「生きてよかった」
     と言える“目的”は?

最近、老後の人生を考える書籍が相次いで
出版されていますが、
その中の一冊『60歳からの「生きる意味」(森村誠一・堀田力著)』には、
定年後に大きな問題となってくるのが、
「なぜ生きるか」だと述べられています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「生きる意味」(森村誠一・堀田力著)

60歳を迎えると会社を定年退職し、
突然に自由な時間が有り余るほどできる「余生」を手にして、
そこではじめて「自己の存在証明」について
考えるようになります。
「自分は何のために生きてきたのか」と。(中略)
「あなたは何のために生きているのですか?」
と聞かれて、
「私は社会に役立つために生きています」
とはなかなか言えません。
現実にだんだんと役立たなくなるのですから、
それでは答えにならない。
社会に役立たなくなっていながら、
なおかつ存在しているのはなぜか。
この存在理由を証明するのは、
実は歴史上にかつて存在しなかった大変な難問なのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

仕事をしている時は、
「これが、私の生きる目的だ」と思っていたものが、
実は人生の通過駅であり、
目標と呼ばれるもので、
「生まれてきたのはこれ一つ」
と言える人生の目的ではなかったことが、
定年後になって知らされるのです。
退職して、たとえ体が不自由になっても、
生きねばならない理由は何か。
人生の終わりに近づいて、
自らの生きる目的がハッキリしていなかったことに
愕然とするのです。
「人間に生まれてよかった」
「生きてきてよかった」
と大満足する「人生の目的」が分からなければ、
長生きすればするほど老いや病の苦しみは深くなり、
苦しむための一生に終わってしまうのではないでしょうか。

●百パーセント
    確実な未来

そうやって、なぜ生きるかが分からないまま日を送り、
やがて人生の終わりを予感した時、
大問題になってくるのが、
「死んだらどうなるか」
だと著者はいいます。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「生きる意味」(森村誠一・堀田力著)

だんだんと老化が進んで体が不自由になってくると、
そうやって自分の力で寂しさを解消することが
できなくなってきます。
そのときに、思うことは二つです。
一つは、「自分は生きてきてよかったのか」
という過去からの自己の存在証明、
もう一つは「自分が死んだら将来どこへ行くのか」。
死と向かい合っている人と話しをしていると、
必ずと言ってよいほど、
この二つのことが出てきます。(中略)
私の父がそうでした。
けっして神仏を信じてる人ではなかったけれども、
最期には私の手を握って「エマーソン」と
小さく呟いたのです。
私の耳には確かにそう聞こえました。
さらに父は、「エマーソンは、
日本の言葉で言えば輪廻転生、
死んでからの魂の再生のことを言っているけれども、
どう思う?」
と私に聞いてきたのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この死の問題を無視して、
人生の不安を根本的に解決することはできません。
年を取るのが不安、病気にはなりたくない、
と言うのも、結局は、死が怖いということにほかなりません。
風邪だと言われても驚きませんが、
「ガンだ」「エイズだ」となると大騒ぎするのは、
それが死に至る病気だからでしょう。

作家、ヴィクトール・ユゴーは
『死刑囚最後の日』の中で、
人間は不定の執行猶予期間のついた死刑囚だ
と言っていました。
すべての人の悲劇は、
遅かれ早かれ、死なねばならないところにあります。
どれだけ健康に気を遣っても、
死ななくなることはできません。
死は、確実な未来ですから、まさに死刑囚です。

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●突然やってくる暴力

死刑を宣告された死刑囚は、
明日にも執行されるか、今日にも執行されるか、
と毎日を戦々恐々と過ごすといいます。
私たちも、必ず死なねばなりませんが、
いつ死がやってくるか分からないから、
不定の執行猶予期間をもった死刑囚です。

ところが、それほど死が問題になっていないのは、
なぜでしょう。
それは、「自分が死ぬのは、
まだまだ遠い先のことだ」
と思っているからではないでしょうか。

ガンを宣告された岸本英夫氏(東大・宗教学教授)は、
死はまさに、突然襲ってくる暴力だと闘病記に残しています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
死は、突然にしかやって来ないといってもよい。
いつ来ても、その当事者は、
突然に来たとしか感じないのである。
生きることに安心しきっている心には、
死に対する用意が、なにもできていないからである。
        (岸本英夫『死を見つめる心』)

・・・・・・・・・・・・・・・・・

交通事故で今日亡くなった人の中で、
「今日が最後の日」と思って、
朝、出かけた人があったでしょうか。
私たちと同じように、洗顔し、
食事を済ませ、「行ってきます」
と出て行った人が、今日、
突然の事故や病気で帰らぬ人となっているのです。
突然の死の到来は、
今日かもしれないのです。

●先はどうなっているのか?

死の問題と聞くと、
財産の分配や葬式について遺言状を書いたり、
墓を造ったりすることが大事だと
考える人もあります。
それは例えて言えば、
電車から降りる時、それまで座っていた席を誰に譲ろうかと、
辺りを見回しているようなものです。
しかし大事なのは、降りた後、どこへ行くのかということでしょう。
財産や葬式、墓などは電車の席のようなもの。
死を目前にして問題となるのは、
後生、どこへ行くかということだけなのです。

“まだまだ死なない”と死を遠くに眺めている時は、
「死んだら死んだ時さ」「死は永眠だ」
「恐ろしくないよ」と気軽に考えている人も、
いざ死が近づくと、先はどうなっているかだけが
大問題となります。

死後は有るのか無いのか、
どうなっているのかさっぱり分からない、
お先真っ暗な状態なのです。
この死んだらどうなるか分からない心を
「無明の闇」といい、「後生暗い心」ともいわれます。

「後生」とは死後のこと。
「暗い」とは分からないということです。
すべての人の苦しみの根元は、
この後生暗い心だと仏教では教えられています。
この暗い心を解決しないかぎり、
何を手に入れても、心からの安心は得られないのです。

なぜか。
未来が暗いと現在が暗くなるからです。
自分の乗っている飛行機が墜落する、
と知った乗客の心境を考えれば、
よく分かるでしょう。
どんな食事もおいしくないし、
コメディ映画もおもしろくなくなる。
不安におびえ、狼狽し、泣き叫ぶ人も出てくる。
乗客の苦悩の元はこの場合、
やがて起きる墜落ですが、
墜死だけが恐怖なのではありません。
悲劇に近づいている今が、地獄なのです。
未来が暗いと、現在が暗くなる。
死後の不安と現在の不安は、切り離せないもの。
後生暗いままで明るい現在を築こうとしても、
できる道理がありません。

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●言い尽くせぬ 
     大きな喜び

この後生暗い心が断ち切られ、
「人間に生まれてよかった!」
という生命の大歓喜を獲ることこそが、
人生の大目的なのです。

その目的を達成した喜びを、
親鸞聖人は『正信偈』の冒頭に、

「帰命無量寿如来
南無不可思議光」

と叫んでおられます。
「無量寿如来」も「不可思議光」も
阿弥陀仏の別名です。
「帰命」とは中国の昔の言葉、
「南無」はインドの昔の言葉で、
ともに「助けられた、救われた」
という意味ですから、
「阿弥陀如来に、親鸞、救われたぞ!
阿弥陀如来に、親鸞、助けられたぞ!」
とおっしゃっているお言葉です。

・・・・・・・・・・・・・・
【阿弥陀如来とは】
「阿弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なれば」(御文章)
と教えられている。
「三世十方の諸仏」とは、
大宇宙のすべての仏、「本師本仏」とは先生のことだから、
「阿弥陀如来は、大宇宙のあらゆる仏の先生である」
ということ。

・・・・・・・・・・・・・・

なぜ、同じことを2回も?
これは、言っても言っても言い尽くせぬ、
書いても書いても書かずにおれぬ、
大慶喜を表されているのです。
例えば、ある死刑囚に、いよいよ執行の日がやってきた。
絞首台の階段を上り、首にロープをかけられ、
今まさにボタンを押されて
足下の板が外れたら死ぬ、という時、
「その死刑待った!無罪放免、
そしてその者に百億円与えよ!」
と言われたら、どうでしょうか。
「あー!」と言葉にならぬ驚き、
感嘆のあとは、
「助かったぁ、救われたぁ」
と叫ばずにおれません。
親鸞聖人が『正信偈』に、
「親鸞は阿弥陀如来に救われたぞ、
親鸞は阿弥陀如来に助けられたぞ」
と繰り返しおっしゃってるのは、
それ以上のことなのです。
苦悩の根元(後生暗い心)が破られ、
大宇宙の宝を丸もらいするのですから、
天に踊り、地に踊る歓喜がわき起こります。
どれだけ喜んでも喜びすぎることはありません。

●自分自身に
    ハッキリする

このハッキリした体験を、
蓮如上人は次のように書かれています。

「三世の業障、一時に罪消えて」(御文章)

「三世」とは、過去、現在、未来のことで、
今まで私たちが迷い苦しんで来たのも、
現に苦悩渦巻いているのも、
未来また無限の苦患(くげん)を受けなければならないのも、
その原因は三世の業障ただ一つ。
後生暗い心のことです。
その迷いの元凶が、
一念でなくなると断言されています。
そんな苦しみが抜き取られたのに、
助かったのか助かっていないのか、
他人に聞かねば分からない、
というようなものではありません。

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背中についた糸くず程度なら、
他人に取ってもらっても、
取られたのかどうか分かりません。
軽いからです。
しかし、重荷を背負って苦しんでいた時、
その荷物を取られたら分からないはずがない。
だれに言われなくても、
自分自身がハッキリします。

分からないのは、まだ救われていないからです。
三世の業障という重荷を負うて、
その重さに泣いたことがない人に、
その重荷を阿弥陀仏に一念で
奪い取られて躍り上がった
体験がないのは当たり前です。

●大安心、大満足の
    世界に生かされる

この後生暗い心がなくなった一念で、
“必ず弥陀の浄土に往生できる”
と心が一つに定まるので、
蓮如上人は、「往生一定」と言われています。
往生の本決まり(ほんぎまり)です。
合格発表までの受験生は大丈夫だろうか、
ダメだろうかと心は千々(ちぢ)に乱れて
定まりませんが、合格発表を見た瞬間、
「やった」と心が一つに定まり、
安心するようなものです。
阿弥陀仏のお力によって、
“死んだらどうなるか分からない”
後生不安な心が破られ、
“いつ死んでも必ず極楽往生へ往ける”
大安心・大満足の世界に生かされるのです。
親鸞聖人は、ご著書の至るところに、
その世界に救われた大歓喜を書き記されています。
そして、この身になることこそが
人生究極の目的であり、
「なぜ生きる」の答えだと明らかに教えられています。

それなのに、
「なぜ生きるの答えは見つからない」などと言うのは、
そんな聖人のお言葉を全くご存じない人の言うことだと、
お分かりになるでしょう。

聖人と同じ世界に出させていただくところまで、
真実の仏法を真剣に聞き求めましょう。


・・・・・・・・・・・・・
【読者の声】

人生を歩ませていただく道の、
いかに険しくとも、「往生一定」の世界に向かって
一歩一歩、踏みしめて歩いていきたい。
そして、素晴らしい日を送りたいと思います。
          (兵庫県・60代女性)

現在暗い心が救われなければ、
一生涯不安な暮らしです。
私たちの苦悩を救い、
未来永遠に生かし切ってくださる弥陀の本願。
その弥陀の本願に救い摂られた世界を
「往生一定」と言われました。
本当にありがたいお言葉です。
私もこの心になれるよう光に向かいます。
        (北海道・50代男性)


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殺生の限りを尽くしている者が救われるには! [罪悪深重]

  (真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています) 

生死の苦界ほとりなし 久しく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ 乗せてかならずわたしける

               (親鸞聖人)

果てしない苦しみの海に溺れもだえている我々を、
阿弥陀仏の造られた大船だけが、乗せて必ず、
明るく楽しく極楽浄土まで渡してくださるのだ


今回も、この親鸞聖人のお言葉を解説いたしましょう。

阿弥陀仏が見抜かれた約束の相手

「弥陀弘誓の船」の説明の途中ですので、
続けたいと思います。
「弥陀」とは、全ての仏の先生である阿弥陀仏、
「弘誓」とは、
“すべての人(十方衆生)を必ず絶対の幸福に救う”
お約束のことです。

阿弥陀仏が見て取られた約束の相手、
十方衆生(すべての人)について
『御文章(お文)』に分かりやすく、
こう書かれています。

それ、十悪・五逆の罪人も、(乃至)
空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我等如きの凡夫なり

              (御文章二帖目八通)

弥陀は私たちを、十悪・五逆という罪を犯し、
大宇宙の仏方(十方・三世の諸仏)から
見捨てられた者と見抜かれているのです。

十悪とは、仏教で教えられている十の罪悪をいいます。

心で犯す罪
①貪欲
②愼恚(しんい)
③愚痴

口で犯す罪
④綺語
⑤両舌
⑥悪口
⑦妄語
身で犯す罪
⑧殺生
⑨偸盗(ちゅうとう)
⑩邪淫

今回は身(からだ)で犯す罪を解説します。

【殺生】
一口に「殺生」といっても、
3通りあると仏教で教えられています。
○自殺
○他殺
○随喜同業(ずいきどうごう)
の3つです。

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最初の「自殺」とは、自分で生き物を殺すこと。
世間でいう、首をつって死ぬとか、
飛び降り自殺のような、
自ら命を絶つことではありません。
食べるために魚や鳥を殺したり、
蜂や蚊に刺されて怒りのあまり殺したり、
遊びのために釣りや猟で動物を殺すことです。

「生きるためには仕方がない」「害を与えるから」と
私たちは毎日、どれだけの生き物を
殺していることでしょうか。

「他殺」とは、他人に依頼して殺させる罪。
直接殺さなくても、自分が殺したのと
同罪だと教えられています。

魚屋さんは魚を殺し、
肉屋さんは牛や豚を殺しますが、
魚や肉を買って食べる人がいなければ、
それらの人たちは殺生をしなかったでしょう。
肉の好きな私たちが、肉屋さんに頼んで
牛や豚を殺してもらっているのですから、
肉を買って食べる私たちは、
「他殺」の罪を犯していることになります。

「随喜同業」は、他人が殺生しているのを
見て喜ぶ心があれば同罪、ということです。

日々の言動を振り返れば、
殺生を犯さずには生きられぬ
自己の姿が知らされます。

動物虐待者をののしる、その口で・・・

以前、矢が刺さったまま泳いでいるカモが発見され、
一大騒動に発展したことがあります。

通称“矢ガモ”といわれ、連日テレビで報道されました。
痛々しい矢ガモの映像を見ながら、
「かわいそうに」「鬼の仕業だ」
「犯人をボーガンで撃ってやりたい」
と口々に言いながら、
その“口”で、何をしていたのか?

ある人は、“焼き鳥”を食べ、
ある人は、“北京ダック”を平らげ、
“カモ鍋”に舌鼓を打っていたのです。

動物を傷つけてさえ、
「鬼だ」「無慈悲だ」と言うのなら、
殺生の限りを尽くし、
うまいうまいと喜んでいるわが身は
何と評すればいいのでしょう。

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いとしのPちゃんを食べる?

「ブタがいた教室」という実話をもとにした映画があります。
ストーリーは次のとおり。
ある小学校の先生が、食べることを前提として
子ブタを飼うことを児童たちに提案する。
「いのちとは?」「食べるとは?」
という教育の一環として、
卒業までの一年間、26人の児童が
子ブタの面倒を交代で見ることになる。
「Pちゃん」と名づけた子ブタをみんなが可愛がった。
そしてその日がやってくる。
「育てた豚をみんなで食べる」日。

クラスのみんなでPちゃんのことを話し合う。
食べるか、食べないか、
みんなで泣きながら真剣に討論する。

そして結局は・・・みんなで食べた。
実際にこのような授業をすべきかどうか、
賛否は分かれましょうが、
生き物を殺して食べるとはどういうことか、
誰もが考えてみる必要はありそうです。

多くは、「生きるために仕方ない」と、
済ませてしまいますが、
「仕方ない」と「悪くない」は全く別です。
私たちは、殺生せずしては生きられない、
どうにもならない恐ろしい業を持っているのです。

【偸盗】
「偸盗」とは他人のものを盗むこと。
リンゴ泥棒、米泥棒、スーパーや本屋での万引きなど
様々な盗みが行われています。
警察庁によると、一昨年、万引きで逮捕や書類送検、
補導などされた人は95000人。
19歳以下の少年が26000人だったのに対し、
65歳以上は29000人と初めて高齢者が上回りました。
万引きが「少年の犯罪」といわれていたのは昔のこと。
年齢、男女を問わず、盗む罪がやみません。

盗みは物に限らない。
約束の時間に遅れるのは、
相手の時間を奪う時間泥棒です。

また、お経には、
「己にふさわしからぬものを用い、または食する」
のも偸盗罪と説かれています。

心の中で、あれが欲しい、これも欲しいと物色を続け、
偸盗罪を造り続けているのが
人間だとお釈迦さまは教えられます。

【邪淫】
「邪淫」とは、よこしまな男女関係。
ストーカーや不倫などの問題が
毎日のように報道されていますが、
人間は、幾つまで愛欲に悩まされるのでしょうか。

それを、大岡裁きで有名な大岡越前が
母親に尋ねると、
一言も語らず囲炉裏の灰を
火箸でかき混ぜているだけ。
釈然とせぬまま、その場を去った大岡越前。
後でポンと手を打って、
「なるほど、灰になるまでか」
と言ったという。
「世の人の心惑わす事、色欲には如かず。
人の心は愚かなるものかな」
とは、『徒然草』の吉田兼好の言葉。
科学だ、文明だといいながら、
人間幾つになっても、
邪淫の罪はなくならないようです。

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●極悪を 捨てず裁かず 摂め取る

心では貪欲・瞋恚・愚痴。
口では綺語・両舌・悪口・妄語。
身では殺生・偸盗・邪淫
の十の悪を造り続けているのが人間だと、
お釈迦さまは説かれています。

これが「十悪」です。

中でも口や身(からだ)をそうさせる
心の姿をよくよく見つめなさいよ、
と教えられるのが仏教です。

恐ろしいのは、十悪を犯しながら自覚がなく、
善人とうぬぼれているところにあります。

「夢の世は 罪を罪とも知らねども
         報わんときや 思い知られん」
罪を罪とも知らず、悪を悪とも思わず、
罪悪を造り続けていますが、
その報いは必ず受けていかねばなりません。

だから、苦から苦、闇から闇への
綱渡りを続ける私たち。
このままでは何のために生まれてきたのか、
生きているのか、分かりません。

そんな苦悩の悪衆生と私たちを見て取られ、
「我を信じよ。
どんな極悪人も、
必ず絶対の幸福に救い摂る」
と誓われているのが阿弥陀仏の本願なのです。

極悪を 捨てず裁かず 摂め取る」
底なしの弥陀の大慈悲によらなければ、
金輪際助からないのが私たちであります。

「生死の苦海ほとりなし 久しく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ 乗せてからなずわたしける」

自分の行い(業)が生み出した自業苦(じごく)の海で
苦しみ続ける私たちが、
弥陀弘誓の船に乗せていただければ、
この世から絶対の幸福に生かされ、
死後必ず極楽浄土に連れていってもらえるのだよ、

との親鸞聖人の仰せです。

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人(いちにん)が為なりけり、
されば若干の業をもちける身にてありけるを、
助けんと思し召したちける本願のかたじけなさよ
              (歎異抄)
弥陀が五劫という長い間、
熟慮に熟慮を重ねてお誓いなされた本願を、
よくよく思い知らされれば、全く親鸞一人のためであった。
こんな量り知れぬ悪業をもった親鸞を、
助けんと奮い立ってくだされた本願の、
なんと有り難くかたじけないことなのか

弥陀のご本願、真剣に聞かせていただきましょう。


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阿弥陀仏の大慈悲心とは! [阿弥陀仏]

大悲の願船に乗じて、
 光明の広海に浮かびぬれば、
至徳の風しずかに、
  衆禍の波、転ず
        ーー教行信証

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
●私たちを唯一救ってくだされる
         大慈悲の仏


大悲の願船に乗じて、
光明の広海に浮かびぬれば、
至徳の風しずかに、
衆禍の波、転ず
       (教行信証行巻)

“大悲の願船に乗って見る人生の苦界は、
千波万波きらめく明るい広海ではないか。
順風に帆をあげる航海のように、
なんと生きるとは素晴らしいことなのか”

親鸞聖人は、初めに「大悲の願船」と仰っています。
「大悲」とは、「大慈悲心」のことです。
ここに、「慈悲」という言葉が出てきます。
日常でも、「あの人は慈悲深い方だ」とか、
「あんな無慈悲なやつとは思わなかった」など、
「慈悲」という言葉を使いますが、
本来、「慈悲」とはどういう意味なのでしょう?
「慈悲」とは、慈の心と、悲の心に分けられ、
親鸞聖人が大変尊敬しておられる、
中国の曇鸞大師は、
「苦を抜くを『慈』という、
楽を与うるを『悲』という」

と教えられています。


大事なわが子が病気で苦しんでいると
居ても立ってもいられない、
真夜中でも病院へ連れていって苦しみを
抜いてやりたいと思うのは、
親の「慈」の心。

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動物園や遊園地に子供を連れていき、
楽しませてやりたい思いは、
親の「悲」の心といえましょう。


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 慈の心は、
抜苦(苦しみをぬいてやりたい)の心、
悲の心は、
与楽(幸せを与えてやりたい)の心ともいわれます。

苦しみをなくして幸せになりたいのは、
誰もが願っていることですが、
現実はどうでしょう。

●人生は「苦しみの花咲く木」

人生は「苦しみの花咲く木」といわれます。
病気という苦しみの花が咲き、
治療に専念していると、
経済的に困窮するという別の花が咲く。
病気も治り、何とか仕事がうまく回って、
貧苦の花の枝をやっと切り落とせたと思ったら、
今度は家族との関係がこじれていた。
その修復をしているうちに、
体調を崩したり、思わぬ事故やトラブルに
巻き込まれたりと
新たな苦しみの花が咲き乱れる。
天災や人災、リストラや大切な人との死別など、
さらに深刻な苦の花が咲くことも・・・。
生きるって、本当に大変。
とにかく目の前のことを一つ一つ解決していこうと、
私たちは頑張っています。
一人の力ではどうにもならぬと、
政治、経済、科学や医学と、
総力挙げて苦しみの花を
切り落とそうとしています。
景気や雇用の問題を解決するのが
政治の役目ですし、
快適に過ごすには科学技術も必要。
病苦を除くには医学の力が欠かせません。
明日への活力を与えるスポーツや芸術も大切でしょう。
人間の営み全ては、いかに苦しみを減らし、
幸せを得るかの努力にほかなりません。
言うまでもなく、いずれも大事なことばかりですが、
もう少し踏み込んで考えてみましょう。


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かつて、政治や経済、科学、医学などによって
人生苦がなくなり、
「人間に生まれてよかった!」
との生命の歓喜を得られたことがあったでしょうか。
古今の歴史をひもといてみれば、
どの時代でも、どこの国でも、
人生には常に深刻な不安や悩みが付きまとい、
私たち人間は一時的な幸せしか得られませんでした。

一つの枝を切ってヤレヤレと思っても、
また別の枝に苦しみの花が咲く。
どれだけ努力して枝を切ったところで、
苦の根っこがある限り、
また新たな苦の花が咲く。

どこまでいっても、
人間に生まれた真の喜びにはたどり着けません。
歴史を直視すれば、それが、
私たちの現実の姿です。
終わりなき苦しみを根本解決するには、では、
どうすればいいのでしょうか。

その答えを示されているのが、
実に仏教なのです。

●阿弥陀さまは「大慈悲」の仏

仏教とは、仏さまの説かれた教えです。
一口に「仏」といいましても、釈迦は、
大宇宙には地球のようなものは
数え切れないほどあり、
そこには無数の仏さまがまします
と説かれています。
それらの仏方を、「十方諸仏」とか「十方三世の諸仏」
といわれます。

「仏心とは大慈悲これなり」
と言われるように、仏さまは皆、
慈悲深いお方ですから、
仏教は「慈悲の教え」ともいわれます。
苦しみを抜き、楽しみ(幸せ)を与える。
これ以外に仏さまの願いはありません
から、
仏教の目的を漢字四字で示すなら、
「抜苦与楽」で100点満点です。
しかし、苦しみを抜いてやりたいと
どれだけ願っても、
重すぎる病は治せぬように、
力及ばぬことがあります。

十方諸仏は、苦しみにあえぐ私たちを、
何とか助けようとされたけれど、
とてもかなわぬと
さじを投げてしまわれた
のだと、
蓮如上人は、『御文章(御文)』にこう書かれています。

それ、十悪・五逆の罪人も、
(乃至)空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我等如きの凡夫なり

凡夫とは、私たち人間のこと。
私たちは煩悩の塊で、
罪が重く、「十悪・五逆の罪人」と言われる
「救い難い者」なのです。
助けてやりたいのはやまやまだが、
とても我々の手には負えぬと、
十方諸仏は、私たちを救うことを
断念せざるをえなかった。

では私たちは、真の幸せを知らぬまま、
あくせく生きて、
むなしく死んでいくばかりなのでしょうか。
そうではありません。
諸仏に見捨てられた極悪人なら、
なおかわいいと、ただ一仏、
「われひとり助けん」と立ち上がってくだされた
仏さまがいらっしゃいます。
その方こそが、
十方諸仏の師・阿弥陀如来なのです。
大宇宙最高の仏である弥陀だけが、
「どんな人も我をたのめ、
必ず絶対の幸福に助ける」
という無上の誓願を建立してくださいました。

蓮如上人は、それを次に明示されています。

ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、
(乃至)弥陀にかぎりて、「われひとり助けん」
という超世の大願を発して、
われら一切衆生を平等に救わんと誓いたまいて、
無上の誓願を発して、
すでに阿弥陀仏と成りましましけり

        (御文章二帖目八通)

苦しみの花咲く木の根元から
解決できる仏さまは、
この大宇宙に弥陀一仏だということです。

私たちの苦悩の根元を断ち切り、
「人間に生まれてよかった」と
生命の歓喜を与えてくださるお力を持つ
唯一の仏さまですから、

阿弥陀仏はすべての仏から、
「われらが師匠だ。本師本仏だ」
と褒めたたえられています。

阿弥陀仏の御心は
「衆生苦悩 我苦悩
衆生安楽 我安楽」
“衆生の苦悩は、我が苦悩であり、
衆生の安楽は、我が安楽である”

弥陀にとって、人々の苦しみは
ご自分の苦しみであり、
人々の幸せがご自身の喜びなのです。

「おまえを助けるためなら、
どんな苦労もいといはしない。
見捨てはしないぞ。我にまかせよ」

の阿弥陀仏の御心は、
まさに限りなき大慈悲心にほかなりません。
この阿弥陀仏の大慈悲心の願いによって
造られた衆生救済の大船を
「大悲の願船」と親鸞聖人は仰っています。


聖人は、「必ず絶対の幸福に救う」
弥陀の誓願どおりに、
この世で無上の幸福に救い摂られ

「親鸞は、弥陀の大悲の願船に
乗せていただいたぞ!
この広大な世界、皆にも知らせたい」

と、歓喜の叫びを『教行信証』に
書きつづっておられるのです


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間違った信心では不幸になる、正しい崩れない信心を持てよ! [なぜ生きる]

(真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」から載せています) 

浄土真宗の勤行で拝読する『正信偈』は、
親鸞聖人が一字一涙の御心で書き遺されたものです。
『正信偈』とはどんなお聖教なのか、学びたいと思います。

漢字ばかりで書かれているためか、
『正信偈』を「お経」だと思っている人があります。
あるテレビ番組でも、100歳のおばあちゃんが
『正信偈』を元気に拝誦するシーンで、
字幕には「お経を読む、○○さん」
と紹介されていました。
「正信偈はお経」が常識になっているからでしょう。
しかし、それは誤りです。
『正信偈』はお経ではありません。
まずその違いから、お話する必要がありそうです。

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「お経」は、お釈迦さまのご説法を、
弟子が書き残したものです。

正式には「仏説○○経」と命名されています。
「仏説」とは「仏さまが説かれた」の意で、
「仏さま」とは、お釈迦さまのこと。

約2600年前、インドに現れたお釈迦さまが、
35歳で最高無上の「仏」というさとりを開かれてから、
80歳でお亡くなりになるまでの45年間、
仏として説いていかれた教えを今日、
「仏教」といわれます。
その教えのすべては、「一切経」に書き残されており、
これがいわゆる「お経」といわれるものです。

その数は七千冊余りという膨大なものですが、
どのお経にも、「仏説大無量寿経」「仏説阿弥陀経」など、
「仏説」と冠されているのは、
「お釈迦さまが説かれた」ことを表しています。

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それに対して『正信偈』は、
親鸞聖人の書かれたものです。
「帰命無量寿如来 南無不可思議光」
で始まり、
「道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説」
で終わる『正信偈』は、
一行七文字、百二十行で八百四十字。
「なんとか伝えたい。知ってもらいたいことがある」
と、親鸞聖人が泣く泣く筆を執られた、
一字一涙の『正信偈』には、
聖人90年の教えのすべてがおさまっています。

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その『正信偈』を、多くの人が「お経」だと思っているのは、
漢字ばかりで、しかも棒読みのように聞こえるからでしょう。
しかし『正信偈』の「偈」とは、「うた」ということで、
読経とは異なり抑揚がつけられているのです。

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このように、お釈迦さまの説かれた「お経」と、
親鸞聖人のお書きになられた『正信偈』とは、
違うことがお分かりでしょう。


では『正信偈』には、何が書かれているのでしょうか。
親鸞聖人が私たちに、なんとしても知ってもらいたいこと、
とは何だったのか。

名前に「正信」とあるように、
それは「正しい信心」ひとつでした。

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●「オレは何も信じていないよ」は、ありえない

「信心」と聞くと、自分とは何の関係もないことだと
思われている人もあるかもしれません。
しかし、私たちは何かを信じなければ、
一日たりとも生きてはいけないのです。

例えば、明日も生きていられると、
命を信じて生きています。
だからこそ、明日は彼女と会う、
ディズニーランドに行くと、
予定を決めているのです。

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また、いつまでも元気でいられると、
健康を信じています。

「人間ドックでも、異常は見つからなかったから」
と、診断結果を見て安心しています。
夫は妻を、妻は夫を信じ、
子供は親を、親は子供を信じて生きております。
「不幸の全ては金で解決できる」という金の信心もあれば、
名誉や地位の信心もあります。
才能が学歴を自負したり、資格を当てにする人もいます。
「宗教はアヘンだ」と否定するマルキストも、
共産社会こそ理想と「信じて」いる人たちです。
ある文化人類学者が指摘しているように、
「経済成長が私たちの幸せをもたらす」
と思っているのは「経済成長教」という宗教の信徒であり、
テストの点数のみで人間の優劣を決め、
GDPや年収などの数値こそが「豊かさ」の指標だ、
と信じているのは「数字信仰」でしょう。

このように、神や仏を信ずるだけが、
信心ではありません。

「オレは何も信じない」「だれも信用していない」という人も、
そんな「信念」で生きている人です。

“イワシの頭も信心から”といわれるように、
何かを信じておれば、それはその人の信心なのです。

何を命として信ずるかは一人一人違いましょうが、
すべての人は何かの信心を持って生きている。
「生きる」ということは、イコール「信ずる」ことだ、
ということです。

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苦しみ、悩み、怒り、悲しみの原因は

ところが私たちは、信じていたものに裏切られたときに、
苦しみ悩みます。

失恋の苦しみは、恋人に裏切られたからです。
その怨恨で相手を殺害したり、
自殺するほど深刻なケースもあります。
子供に老人ホームに入れられ、
「一度も会いに来てくれない」と泣くのは、
命と信じて育てた子供に裏切られたからでしょう。

バブルが崩壊し、何億という資産が
借金に変わった人の懊悩は、
「経済成長教」の信仰が絶望に転化した結果、といえます。
悪徳商法やリフォーム詐欺に引っかかり、
「老後の蓄えを取られた」
と途方に暮れる人も後を絶ちません。
「うまい儲け話なんかあるものか」
と警戒していたはずなのに、
きれいなパンフレットを見せられ
言葉巧みに説得されると、
もとより人間は儲けたい欲一杯、
「この人なら大丈夫」「チャンスだ」
と思ってしまうのでしょう。
「だまされた!」と気がついた時は後の祭り、
やり場のない怒りや後悔も、
「信じた」のが原因とはいえないでしょうか。

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病気になると、健康に裏切られたことで苦しみます。
肉体的苦痛も酷いですが、検査で「ガンの疑いがある」
と医者から言われただけでも、
足元が崩れるようなショックを受けるといわれます。
まさか、節制しているオレが」の健康信心、
「いつまでも生きていられる」という命の信心は、
自覚はなくても、実に根深いものがあるのです。

しかも深く信じていればいるほど、
それらに裏切られた時の悲しみや怒りは大きくなります。


私たちは決して苦しんだり悲しんだりするために
生まれてきたのではありません。
生きているのでもありません。
幸福を求めて生きているのです。


では、裏切らないものを信じて、
私たちは生きているでしょうか。
たとえ70年、80年信じられるものがあったとしても、
私たちは最後、死なねばなりません。
いよいよ死んでいかねばならない時には、
信じていた家族や、お金や財産、名誉にも裏切られ、
最も大事なこの肉体さえも
焼いていかなければなりません。

お釈迦さまの『雑阿含経』に説かれている、
「3人の妻」という喩え話は有名です。
 
  ■    ■    ■    ■

昔、ある金持ちの男が3人の妻を持って楽しんでいた。
第一夫人を最も可愛がって、
寒いと言っては労わり(いたわり)
暑いと言っては心配し、
ゼイタクの限りを尽くさせ
一度も機嫌を損なうことはなかった。

第二夫人は、それほどではなかったが、
種々苦労して、他人と争ってまで手に入れたので、
いつも自分のそばに置いて楽しんでいた。

第三夫人は、何か寂しい時や、悲しい時、
困った時だけ会って楽しむ程度であった。
ところがやがて、その男が不治の病床に伏すようになった。

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刻々と迫りくる死の影に恐れおののいた彼は、
第一夫人を呼んで心中の寂しさを訴え、
ぜひ死出の旅路の同道を頼んだ。
ところが、
「ほかのことと違って、
死の道連れだけはお受けすることはできません」と、
すげない返事に男は絶望のふちに突き落とされた。

しかし、寂しさに耐えられぬ男は、
恥を忍んで第二夫人に頼んでみようと思った。
「貴方があれほど、かわいがっていた第一夫人さんでさえ、
イヤとおっしゃったじゃありませんか。
私もまっぴらごめんでございます。
貴方が私を求められたのは、貴方の勝手です。
私から頼んだのではありません」。
案の定、第二夫人の返事も冷たいものであった。

男は、恐る恐る第三夫人にすがってみた。
「日ごろのご恩は、決して忘れてはいませんから、
村外れまで同道させていただきましょう。
しかし、そのあとはどうか、堪忍してください」
と突き放されてしまった。

男というのは、すべての人間のことである。
第一夫人は肉体、
第二夫人は金銀財宝、
第三夫人は父母妻子兄弟朋友
などを喩えたのだ。


今まで命にかえて大事に愛し求めてきた、
それら一切のものから見放され、
何一つあて力になるものがなかったことに驚き悲しむ、
これが人間の実相なのである。

■   ■    ■    ■

やがて必ず裏切るものを信じているから、
苦しみ悩みが絶えないのだ、
本当の幸福になりたければ、
絶対に裏切ることのない正しい信心を持ちなさいよと、
親鸞聖人は教えられているのです。

●「正しい信心」は、たった一つ

『正信偈』の「正」という字は、
「一に止まる」と書きます。
正しいものは一つしかないということです。
二つも三つもあるものではありません。
そのただ一つの正しい信心を、
親鸞聖人が明らかになされたのが『正信偈』です。

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ですから親鸞聖人は、
「なんでもかんでも、その人がいいと思っていたものを
信じて生きていけばいいのだ」
などとは、決しておっしゃっていません。

「正しい」信心があるということは、
そうでない信心がある、ということ。

すなわち、迷信、邪信、偽信といわれるものです。
それら間違った信心は、
必ず裏切られて苦しまねばなりません。

皆さん、一日も早く
「正しい信心」「真実の信心」を獲得して、
死の巌頭(がんとう)にも崩れない
「絶対の幸福」に救い摂られてくれよ、
と念じ、叫び続けていかれた方が親鸞聖人なのです。

その「正しい信心」一つを明示されたのが
『正信偈』であり、

冒頭の、
帰命無量寿仏如来
南無不可思議光」
の二行は、聖人ご自身が、その「正信心」を獲得された
生々しい感動、喜びの体験を告白されたお言葉なのです。



 


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葬儀・法事は何のため!? [葬儀・法事とは]

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(真実の仏法を説いておられる先生ご執筆の「とどろき」より載せています。)

葬儀・仏事は何のため?
誰にも聞けなかった仏教の“モヤモヤ”解消します。

(25年8月のとどろきを載せています)
セミの声を耳にしながら、
盆に家族親戚と墓参り。
夏の風物詩、恒例仏事ですが、
「この墓参りや法事で、
ご先祖さまは本当に喜んでいるの?」
と、ふと思うことはないでしょうか?

それは、伝統や形式を重んじる旧来の考えと、
私たちの心情・実情が、合わなくなってきている、
と感じる人が、昨今多いからです。
そこで今回は、私たちの身の回りで起きている
さまざまな仏事のトラブル、実例を見ながら、
仏教を説かれたお釈迦さまはどう教えられているのか、
その教えをものさしにして
「知っているようで知らない仏事」を学びましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
全国紙でも仏事が話題に
     驚きの事例あれこれ

近年、葬儀も墓も自由にしたいと、
これまでの形式を見直す風潮があります。
しかし、旧来、葬儀を取り仕切ってきた僧侶や寺院が、
そういう変化を受け入れられず、
問題が各地で起きているようです。

今年3月『朝日新聞』に、仏事に関する投書が続けて
掲載され、約1ヶ月にわたって議論が交わされました。
幾つかの内容を紹介しましょう。

【69歳男性から】

知人は、亡き父が
「葬儀はお金がかかるから、
戒名(かいみょう)も僧侶の読経も不要」
と言っていたのです。
手次の寺に納骨だけを依頼した。
ところが、
「当宗の習慣にのっとった葬儀をしなかったので、
埋葬できない」
と言われ、やむなく読経し、戒名をつけて納骨。
また、親友が亡くなった時、
その奥さんは友人葬をして
先祖の墓地に納骨しようとしたが、
同様の理由で寺から拒否された。
憤慨した奥さんは民間の墓地を買い、
先祖の骨ごと移した。


【74歳男性の体験】

21年前に、交通事故死した母の通夜でのこと。
僧侶から「大姉(だいし)」の戒名を贈るように言われた。
先祖は皆、信士(しんじ)・信女(しんにょ)だから、
それより上の「大姉」はつけられないと断った。
すると「祖父母と父にも居士(こじ)、大姉を
追贈すればいい。費用は400万円」と言われた。
母を失った悲しみに沈んでいた時に、
心を踏みにじられた気がした。
自分は、戒名も僧侶の読経も墓も不要。
私の骨は山野に埋めてもらったらいい。


大切な人の死
  “私はどうすれば?”

大切な人が亡くなったあとに、
何をすればよいのか、
とりわけ親には不幸してきた過去が思い出され、
悔やみます。

今更、何をすることもできないが、
何かせずにはいられない。
やり場のない心から、墓に酒や水をかけ、
語りかけながら、
好物を供え花を立てたりするのでしょう。

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亡くなった親や子供は、夫・妻は、
今頃どうしているのか、苦しんでいないか、
寂しい思いをしてはいないか、分かる手がかりもない。
死んだ後のことなど、勉強したこともないから、
ここは専門家の僧侶に委ね、
言われるままに法名をつけ、
葬式、納骨をするしかない。

近所の目もあるから、常識と外れたことはできない。
ほとんどの人がそう思い、形式どおり事を進めます。

しかし、亡くなった人の死を無駄にしたくない、
今からでもその人のために何かしたいという願いは、
本当にそれで、かなえられるのでしょうか。

正しい仏教を知れば、
どうすれば亡き人を幸せにできるか分かり、
前述のような問題もおのずと解決します。
お釈迦さま、親鸞聖人にお聞きしましょう。

お経は生きている人に説かれたもの

アニメーション『世界の光・親鸞聖人』第6巻には、
こんな場面がありました。

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あるお弟子が、お釈迦さまにお聞きしました。
「お釈迦さま、長いお経を読んでもらったら、
地獄に堕ちている者でも、
極楽へ往けると言う人がいるのですが、
本当でしょうか」
その時、お釈迦さまは、無言で立ち上がり、
小石を一つ手に取られて、
池に投げ込まれました。
輪を描き沈む石を指して尋ねられたのです。
「そなたたち、この池の周りを、
石よ浮かび上がれ、石よ浮かび上がれ、
と言いながら回ったら、あの石が浮かんでくると思うか?」
質問に驚いて
「そんなことで、石が浮かぶはずがありません」
と答えた弟子に対し、お釈迦さまは
「そうだろう。石は石の重さで沈んでいったのだ。
どんなに浮かび上がれと言ったところで、
浮かぶものではない。
人は、己の過去に造った悪業によって
悪因悪果、次の世界に沈むのだ」
と説かれました。

読経で死者が救われるということは、
本来仏教にはありませんでした。

お経は、お釈迦さまが生きている人に
説かれた説法を記録したものです。

お釈迦さまは、死人に説法されたはずはないのですが、
どう間違ったのか、今日お経は、
死人のごちそうとまで誤解され、
それが常識になっているほどです。

お釈迦さまの御心を、親鸞聖人は明らかになされ、
生きている人が、生きている間に、
永遠の幸福になれる教えを説かれました。

葬儀・法事は仏法聞くご縁

では葬式や法事や読経などはしなくてよいのかと、
親鸞聖人にお聞きした女性に対し、
アニメではこのように教えられています。

聖人 「(葬式や法事は)多くの人が集まるよい機会だから、
    亡くなった人をしのんで、
    みんなで仏法を聞くご縁にしなければもったいない。
    それが亡くなった人の最も喜ぶことなんだからね

女性 「みんなで仏法を聞くことが、そんなによいことなんですか」

聖人 「そうだよ。仏法にはどんな人も本当に幸せになる、
    たった一つの道が教えられているのだからね。
    亡くなった人をご縁として無常を見つめ、
    真剣に後生の一大事を心にかけて、
    一心に阿弥陀如来の本願を聞けば、
    みんなが最高の幸せに救い摂られるのだからね。
    これほど尊いことはないのだよ

       (アニメ『世界の光・親鸞聖人』第6巻)

厳粛な葬式を縁として、はかない人間の命を観じ、
聞法精進すれば、得がたい勝縁となります。

また、法事もチンプンカンプンの読経だけで終わっては
詮がありません。
そのお経に説かれている教えを
正しく聞かせていただいてこそ、
意味があります。
仏教で教えられる、本当の救いを知って、
法事を幸せへの機縁といたしましょう。

仏事の“トラブル”
 その原因は何?
   
      親鸞さまの御心に立ち返る

仏法上の行き違いや誤解は元をたどれば、
ある“原因”に行き当たります。
真の仏法を勤めるに大切な「仏の教え」
を親鸞聖人からお聞きしましょう。

●蓮如上人の戒め

前章で取り上げたような門徒と僧侶の
“トラブル”は、実は今に始まったことではありません。

親鸞聖人や覚如上人、蓮如上人の時代にも、
同様の記録が残っています。
蓮如上人は『御文章(御文)』に、
「門徒の方より物を取るを善き弟子といい、
これを信心の人といえり。
これ大(おおき)なるあやまりなり。
また弟子は坊主に物をだにも多くまいらせば、
わが力かなわずとも、
坊主の力にて助かるべきように思えり。
これもあやまりなり」
           (一帖目十一通)
と、寺の存続や自身の生活を優先して、
布施の大小で往生が決まるように説く
邪を戒められています。

同様のことは『歎異抄』にも書かれていますから、
親鸞聖人がお亡くなりになった直後にも、
すでにそういう者が多くいたのでしょう。
彼らは門徒を「わが弟子(自分の資産や所有物)と考え、
門徒が他の場所に行って仏法を聴聞すると、
財産を取られたように思って腹を立て、
折檻して、今度、別の場所で聞法するのを禁じてしまう。
これは自損損他(じそんそんた)である、
と『御文章』一帖目一通にも記されています。
僧侶が教えも説かず、門徒の聞法さえも妨げる。
何とあさましいことか、
と蓮如上人はこう猛省を促されています。

「皆人の地獄に堕ちて苦を受けんことをば何とも思わず、
また浄土へ参りて無上の楽を受けんことをも分別せずして、
徒に明し空しく月日を送りて、
更にわが身の一心をも決定(けつじょう)する分も
しかじかともなく、また一巻の聖教を眼にあてて見ることもなく、
一句の法門を言いて門徒を勧化する義もなし。
ただ朝夕は暇をねらいて、
枕を友として眠り臥せらんこと、
まことにもって浅ましき次第にあらずや。
静かに思案を廻(めぐ)らすべきものなり

        (御文章二帖目十二通)
地獄に堕ちる後生の一大事を思わず、
浄土往生して無上の楽果を受けることをわきまえず、
日々をむなしく送り、真実の信心を獲得せず、
尊い聖教を開いて学びもせず、
一句の仏語を伝えて門徒を教化しようともしない。
ただ朝夕、世間事に明け暮れ、
暇さえあれば怠けてばかりいる。
まことにあさましい限りである。
よくよく深く受け止めねばならぬ

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善知識から聞く

仏法を聞かせていただく私たちは、
まずものさしとなる正しい教えをよく知ることが大事です。
そこで、教えを正しく伝えられる師(善知識)を
求めて聞かねばなりません。

「イヤァ、別に私は教えはどうでもいいんだ。
葬儀や法事さえしてもらえれば・・・」
と言われる方もあるかもしれませんが、
それでは先祖は喜びませんし、
自分のためにもなりません。
仏法は、誰から聞いてもいいのではないのです。
善知識について、蓮如上人はこう仰います。

「善知識の能というは
『一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし』
と、人を勧むべきばかりなり。(乃至)
されば、善知識というは『阿弥陀仏に帰命せよ』
と言える使なり」

         (御文章二帖目十一通)


善知識とは仏教の結論である、「一向専念無量寿仏」

(弥陀一仏に向き、弥陀のみを信じよ)
一つを教え勧められる方であります。
すべての人の後生の一大事は、
弥陀の本願によらねば、
絶対に解決できないからです。

この「一向専念」の教えを蓮如上人は、

皆々心を一(ひとつ)にして、阿弥陀如来を深く
たのみまつるべし。
その外には何れの法を信ずというとも、
後生の助かるということ、
ゆめゆめあるべからず

         (御文章四帖目十通)
誰人も心を一つにして弥陀を一向にたのまねばならぬ。
それ以外にどんな教えを信じようとも、
後生の一大事の助かることは絶対にないのだ

末代無智の在家止住(ざいけしじゅう)の男女たらん輩は、
心を一にして、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、
更に余の方へ心をふらず、
一心一向に、「仏助けたまえ」と申さん衆生をば、
たとい罪業は深重なりとも、
必ず弥陀如来は救いましますべし

         (御文章五帖目一通)
すべての人は一心に弥陀一仏を深くたのみ、
他の神や仏に心を向けてはならなぬ。
一向専念無量寿仏に救い摂られた人は、
どんなに罪が深くとも、
必ず弥陀は浄土に往生させてくだされるのである

と易しい表現で教えられています。

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無上の仏
 弥陀一仏を信じなさい

私たちを救ってくださる阿弥陀仏とは
どんな仏さまなのでしょうか。
地球上で最も尊いお釈迦さまが、
言葉を窮め(きわめ)、
褒め称えられる大宇宙最高の仏さまです。

無量寿仏の威神光明は最第一にして
諸仏の光明の及ぶこと能わざる所なり

         (大無量寿経)

阿弥陀仏のお力は、大宇宙最尊であり、
十方の諸仏の光明の遠く及ばぬ勝れたお力である

諸仏の中の王なり、光明の中の極尊なり、
光明の中の最明無極なり

         (大阿弥陀経)
阿弥陀仏は十方諸仏の王である。
そのお力は十方諸仏の中で最も強く尊く、無限である

釈迦の説かれた一切経には、
このように至る所に阿弥陀仏を
称讃されていますから、
天台宗の僧・荊渓(けいけい)でさえ、
諸教に讃ずる所、多く弥陀に在り
と言っています。

阿弥陀仏は、諸仏にズバ抜けたお力で、
われらの後生の一大事を
解決してくだされる唯一の仏なのです。
だから、弥陀一仏を信ずることが、
弥陀の弟子である諸仏方の
最も喜ばれることになるのです。

阿弥陀如来は三世諸仏の為には本師・師匠なれば、
その師匠の仏をたのまんには、
いかでか弟子の諸仏のこれを喜びたまわざるべきや

           (御文章二帖目九通)
阿弥陀如来は大宇宙の諸仏の先生である。
すべての仏は「早くわが師・弥陀に救われなさいよ」
と勧めておられるのだから、
我々が弥陀に救い摂られることが、
諸仏方の最も喜ばれることになるのである

お盆などの仏事は、この大宇宙最高の阿弥陀仏に向かい、
救っていただくご縁としたいものです。

   (8月号のとどろきより載せています)

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●「後生の一大事、
  必ず救ってみせる」

では、阿弥陀仏に救っていただきなさい、
と言われる「後生の一大事」とは何でしょう。

「後生」とは、死後、来世のことです。
死と聞けば遠い先のこと、
自分とは無関係のように私たちは思っていますが、
それは本当でしょうか。
5月、ハリウッド女優のアンジェリーナ・ジョリーさんが、
乳ガン予防のため乳房を切除したと公表し、
話題になりました。

母親や叔母をガンで亡くした彼女は、
自身もガン抑制の遺伝子に異変が見つかり、
乳ガン87パーセント、卵巣ガン50パーセントの
リスク(危険性)があると診断されたためです。
この手術で彼女の乳ガンの危険性は5パーセントになり、
多くがアンジェリーナさんの決断を称えました。
しかし考えてみれば、ガンのリスクは低下しても、
死ななくなったわけではありません。

100パーセントの未来に死が待ち受けている
事実は変わらないのです。
しかも、これは命あるすべての人に
共通の大問題ですから、
“自分は無関係”と安閑(あんかん)としていられる人は
一人もありません。

私たちも目前に死が突きつけられれば、
何を措(お)いても逃れたいと
必死で抵抗するでしょう。

絶対に死にたくない者が、
しかし絶対に死なねばならない。
これを人生最大の矛盾といわずして
何といいましょうか。

この生死の一大事、後生の一大事を
阿弥陀仏に救っていただき、
この世は絶対の幸福、
いつ死んでも弥陀の無量光明土(浄土)に
生まれる身になることが、
人間に生まれてきた唯一の目的なのです。
命尽きて、浄土で仏のさとりを開けば、
亡くなった肉親がもし六道で苦しみに沈んでいようとも、
仏の方便力で救うことができるのだよ

と親鸞聖人は仰っています。

真の仏事は、自他ともに
弥陀の救いにあう勝縁ですから、
その意義を正しく知り、
祖師の御心にかなった本当の
お盆を過ごしていただきたいと思います。

(25年8月のとどろきを載せています)

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釈迦は何に苦しまれたのか [釈迦]

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●悉達多太子は何に苦しまれたか
(※悉達多太子とは、お釈迦さまが仏になる前のお名前)

世界の屋根、ヒマラヤ山脈のふもと(今日のネパール)に、
かつての釈迦族の国があった。
首府はカピラ城といい、城主・浄飯王(じょうぼんのう)の
統治によって栄えていた。
後にお釈迦さまとなる悉達多太子(しったるたたいし)は、
浄飯王と妃・マーヤ夫人の間に生を受けられる。

満開の花咲き誇る四月八日、初産のため故郷へ戻る途中のマーヤー夫人は、
ルンビニーの花園で太子を出産された。
今日、お釈迦さまのご生誕を「花祭り」といってお祝いするのは、
このことに由来する。



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未来永遠の家族になる方法はあるのか!? [死後に再会するためには]

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親兄弟や愛児、恋人との
悲しい別れを経験した人は、
故人の在りし日を、
しみじみと思い出すことがあるでしょう。

今ごろあの人は、どこでどうして・・・
もう一度会いたい

つのる思いは簡単には消せません。
私たちを突如、涙の谷に突き落とす残酷な死。
しかしそれは、私自身にも必ず訪れます。
愛する人の死を無駄にしないためにも、
我が身の一大事を見つめ、
弥陀の浄土で再会できる身に
ならせていただきましょう。


お別れね。また私を見つけてね。

小説『世界の中心で、愛をさけぶ』(片山恭一著)が、
三百万部を超える記録的なベストセラーになりました。
主人公の朔(さく)とアキは、
将来を誓い合う高校生同士。
「いつか一緒にオーストラリアに行こう」
と夢を馳せる二人が、
アキを襲った白血病によって、
悲しい別れを余儀なくされる物語です。
「愛し合った二人が再び会える世界ってあるのかな?」
別れを悟った二人の関心は、
死後再会できるかという一点に
向かっていきました。

しかし、結論の出ぬまま、
アキに最期が訪れます。
「お別れね、また私を見つけてね」
朔に告げたアキの言葉に、
多くの人が涙しました。



不慮の事故や事件で、突如、
家族を失った心の傷も深刻です。
長崎の小6同級生殺害事件は
日本中に衝撃を与えました。
愛娘を失った父親の、
さっちゃん。今どこにいるんだ」の手記には、
だれもが胸を痛めずにはおれませんでした。

大切な人の死を悼む気持ちは皆同じです。
でも、死別はいつも私が残るとは限りません。
親しい人の死に接した時、
人はやがてわが身に訪れる死を予感し、
底知れぬ不安と恐怖を感じます。
「もう再び会えないのだなあ、
話もできないのだ。」
と、故人のために流す涙は、実は、
「自分もいつか必ず、
再び帰ってはこられない遠い世界に、
たった一人、旅立たねばならないのだなあ」
と、自分のために流す涙でもあるのです。

家族や友人の無常を、
我が身に迫る一大事を
見つめる勝縁とすることこそ、
肝心ではないでしょうか。


こうまでしてくださらないと 
             分からぬ私でありました

お釈迦さまの時代に
こんな話が残されています。


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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
キサーゴータミーといわれる麗しい女性が、
結婚して玉のような男子を生んだ。
命より大切にして育てていたその子が、
突然の病で急死した。
彼女は狂わんばかりに
愛児の亡骸を抱きしめ、
この子を生き返らせる人はいないかと
村中を尋ね回った。
会う人見る人、その哀れさに涙を流したが、
死者を生き返らせる人などあろうはずがない。
だが今の彼女に、
何を言っても無駄だと思う人たちは、
「舎衛城(しゃえじょう)にまします釈尊に
聞かれるがよい」
と教える。

早速、キサーゴータミーは釈尊を訪ね、
泣く泣く事情を訴え、
子どもの生き返る法を求めた。
哀れむべきこの母親に釈尊は、
優しくこう言われている。
「あなたの気持ちはよく分かる。
いとしい子を生き返らせたいのなら、
私の言うとおりにしなさい。
これから町に行って、
今まで死人の出たことのない家から、
ケシの実をひとつかみ、
もらってくるのです。
すぐにも子どもを生き返らせてあげよう。」
それを聞くなりキサーゴータミーは、
町に向かって一心に走った。

どの家を訪ねても、
「昨年、父が死んだ」
「夫が今年亡くなった」
「先日、子どもに死別した」
という家ばかり。
ケシの実は、どの家でも持ってはいたが、
死人を出さない家はどこにもなかった。
しかし彼女は、なおも死人の出ない家を
求めて駆けずり回る。
やがて日も暮れ夕闇が町を包むころ、
もはや歩く力も尽き果てた彼女は、
トボトボと釈尊の元へ戻っていた。

「ゴータミーよ、ケシの実は得られたのか」
「世尊、死人のない家はどこにもありませんでした。
私の子どもも死んだことがようやく知らされました。」
「そうだよキサーゴータミー。
人は皆死ぬのだ。
明らかなことだが、
分からない愚かな者なのだよ。

本当に馬鹿でした。
こうまでしてくださらないと、
分からない私でございました。

こんな愚かな私でも、
救われる道を聞かせてください。」
愛児の無常に、自らの一大事を自覚した彼女は、
深く懺悔し、直ちに仏法に帰依したという。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

宇宙に飛び出しても逃げられない「死」

生あるものは必ず死す。
有史以前から幾憶兆の人類で、
死ななかった人は一人もいない。
蓮如上人は、『御文章』に、
上は大聖世尊(釈迦のこと)より始めて、
下は悪逆の提婆(だいば)に至るまで、
逃れがたきは無常なり。

と仰っています。
最も偉大なお釈迦さまも、
その釈尊の名声をねたみ、
命を付け狙った提婆も、
死を免れることはできない。
たとえ、宇宙に飛び出しても
逃れることはできないのです。

死は突如やってくる暴力

死は百パーセント確実な未来と納得しても、
とかく遠い先のことと思いがちです。
死なんてまだまだ先の話。
今から考えたってしょうがないよ。」
と言う人がありましょうが、
果たして、
正しい人生観といえるでしょうか。


タレントのビートたけしさんは、
かつてのバイク事故で生死をさまよった時、
「今までどうしてこんな生き方をしたんだろう」
と猛省し、「人生観の訂正」をせざるをえなかったことを
告白しています。
死というものは突如来る暴力なんだね。
準備なんかしなくたっていいと言ってても、
結局死というものには
無理矢理対応させられるわけだよ。

あまりに一方的に向こうが勝手に来るわけだから。
死というもののすごさというのは、
自分が人生を振り返って、
何をしたとか何をしていないとかいうのは
全然関係ない。
そんなことはビタ一文かすんないんだよ

                 (『たけしの死ぬための生き方』)

精神科医であった頼藤和寛氏も、
五十二歳でガンの宣告を受けたとき、
著書にこう綴っています。
これまで平気で歩いてきた道が
実は地雷源だったと教えられ、
これから先はもっと危ないと
注意されるようなものである。
それでも時間の本性上、
退くことはおろか立ち止まることもできない。
無理矢理歩かされる。
次の一歩が命取りなのか、
あるいはずいぶん先の方まで
地雷源に触れないままに進めるのか。
いずれにせよ、
生きて地雷源から抜け出せることはできない。

        (『わたし、ガンです ある精神科医の耐病記』)


次の一歩で爆発するかもしれない道を、
誰もが歩いているのだと訴えています。
死はまだまだ先の話ではない。
今の問題だと知らされるではないですか。

にもかかわらず、
自分が死ぬとは思えないのは、
太陽と死は直視できないといわれるように、

己の死は、直視するには
あまりに過酷だからでしょう。

しかし、いくら目を背けていても
解決にはなりません。


「今死ぬと 思うにすぎし 宝なし
       心にしみて 常に忘れるな」

死を見つめることは
いたずらに沈むことではなく、
生の瞬間を日輪よりも明るくする
第一歩なのです。


生死の一大事を
     ただいま解決する真実の仏法


いよいよ死なねばならぬとなったらどうでしょう。
蓮如上人のお言葉です。

「まことに死せんときは、
予てたのみおきつる妻子も財宝も、
我が身には一つも相添うことあるべからず。
されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、
唯一人こそ行きなんずれ


今まで頼りにし、
力にしてきた妻子や金や物も、
いよいよ死んでいく時は、
何一つ頼りになるものはない。
すべてから見放されて、
一人でこの世を去らねばならない。
丸裸で一体、どこへ行くのだろうか。




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仏典にはこんな話が伝えられています。

昔、ある金持ちの男が
三人の妻を持って楽しんでいた。
第一夫人を最も可愛がって、
寒いと言ってはいたわり、
暑いと言っては心配し、
贅沢の限りを尽くさせ、
一度も機嫌を損なうことはなかった。

第二夫人は、
それほどではなかったが種々苦労して、
他人と争ってまで手に入れたので、
いつも自分のそばに置いて楽しんでいた。

第三夫人は、何か寂しい時や、悲しい時や、
困った時だけ会って楽しむ程度であった。

ところがやがて、
その男が不治の病床に伏すようになった。
刻々と迫り来る死の影に恐れおののいた彼は、
第一夫人を呼んで心中の寂しさを訴え、
ぜひ死出の旅路の同道を頼んだ。

ところが、
「ほかのこととは違って、
死の道連れだけは、
お受けすることはできません」
とすげない返事に、
男は絶望のふちに突き落とされた。

しかし、寂しさに耐えられぬ男は、
恥を忍んで第二夫人に頼んでみようと思った。
「あなたがあれほど、かわいがっていた第一夫人でさえ、
嫌とおっしゃったじゃありませんか。
私も、まっぴらごめんでございます。
あなたが私を求められたのは、
あなたの勝手です。
私から頼んだのではありません」
案の定、第二夫人の返事も冷たいものであった。

男は、恐る恐る第三夫人にすがってみた。
「日ごろのご恩は、決して忘れませんから、
村はずれまで同道させていただきましょう。
しかし、そのあとはどうか、堪忍してください。」
と突き放されてしまった。

男というのは私たち人間のことです。
第一夫人は肉体、
第二夫人は金銀財宝、
第三夫人は父母妻子兄弟友人などを
例えられています。

いよいよ死んでいくときに、
私たちは今まで命にかえて、
愛し求めてきた財産や家族、
この肉体からさえも見放され、
何一つあて力になるものがなかったことに、
嘆き悲しむのです。

そして、一歩後生へと足を踏み出した時、
魂は真っ暗な未来に泣き、たった一人、
未知の世界へと入っていかねばなりません。


お釈迦さまの、この一大事の解決一つを
教えられているのが、真実の仏教です。


●往くは、光明輝く弥陀の浄土

釈尊は、一切経の結論として、
『大無量寿経』に、

一向専念無量寿仏」とおおせになり、 
(※無量寿仏=阿弥陀仏)
後生の一大事の解決は、
大宇宙最高の仏である
阿弥陀仏の本願によるしかない。
だから、阿弥陀仏一仏に向き、
阿弥陀仏だけを信じよ

と明言されています。
 

 
蓮如上人も、だから『御文章』に、
これによりて、ただ深く願うべきは後生なり、
信心決定して参るべきは
安養の浄土なりと思うべきなり

とおっしゃり、
阿弥陀仏を信ずるよりほかに、
後生の一大事を解決する道は
決してないぞ
、と明かされています。

弥陀は、その誓願に、
「死後のハッキリしない暗い心を一念で破り、
‘極楽浄土へ必ず往ける’大安心、
大満足の身にしてみせる」
と誓われています。

この阿弥陀仏の本願を信じ切れた時、
この世は生きてよし、
死んでよしの無上の幸福に生かされ、
死後は必ず弥陀の浄土へ往生しますから、
後生の一大事は完全に解決いたします。


しかも極楽の蓮台(れんだい)に
仏として生まれれば、
懐かしい人たちとも再会できるのです。

『阿弥陀経』には、
「倶会一処(くえいっしょ)」と
説かれています。
弥陀の浄土は、ともに一処に会うことのできる
世界だからです。


ただ、ここで、
真実の信心をえたる人のみ
本願の実報土(極楽浄土)によく入ると知るべし

               (尊号真像銘文)
と、親鸞聖人が明言されているように、
浄土へ往けるのは、真実の信心、
すなわち阿弥陀仏から賜る他力の信心を
得ている人のみである
ことを
よく心得ていなければならない
でしょう。

蓮如上人も、
一念の信心定まらん輩(ともがら)は、
十人は十人ながら百人は百人ながら、
みな浄土に往生すべき事更に疑いなし

とおっしゃり、
死後、浄土に往生できるのは、
一念の信心(他力の信心)を獲得した人だけだぞ

と目釘を刺しておられます。

●信心の異なる者は、再会できない。

親鸞聖人三十四歳の御時、
そのことを明らかになされたことがありました。
法然上人のお弟子であった聖人は、
ある時、聖信房、勢観房、念仏房らの
そうそうたる高弟の居並ぶ前で、

「法然上人の信心も、この親鸞の信心も、
少しも異なったところはございません。
全く一味平等でございます。」
と喝破なされた。

「そなた何様のつもりだ」
「お師匠さまを冒涜するにもほどがある」
聖人のあまりに大胆不敵な発言に、
憤慨した三人は激しく難詰(なんきつ)する。
智恵第一、勢至菩薩の化身と尊崇されていた
法然上人の信心と同じになれるなど、
夢にも考えられぬことであったからでしょう。

朝夕、ともに法然上人の説法を聞いていても、
上人の告白される血を吐く懺悔もなければ、
飛び立つような大慶喜心もない。
これはなぜだろうと思ってはみますが、
お師匠さまと同じ信心になれるはずがないと
思い込んでいますから、
親鸞聖人のお言葉は大変な驚きであったのです。

その時聖人は、穏やかに、
「皆さん、お聞き違いくださいますな。
この親鸞は智恵や学問や徳がお師匠さまと同じだと
申しているのではありません。
ただ、阿弥陀仏より賜った他力金剛の信心一つは、
微塵も異ならぬと申したのでございます。」
と断固として言い切られました。

この激しい信心の諍論に対して法然上人のご裁断は、
実に快刀乱麻を断つ、明快そのものでした。

皆さん、よく聞きなさい。
信心が異なるというのは、
自力の信心であるからだ」
「自力の信心は、智恵や学問や経験や才能で
作り上げたもの。
その智恵や学問や経験や才能は、
一人一人異なるから、
自力の信心は、一人一人違ってくるのだよ

「他力の信心は、
阿弥陀仏からともに賜る信心だから、
だれが受け取っても皆、
同じ信心になるのである」
「それゆえに、阿弥陀如来から賜った私の信心も、
親鸞の信心も、少しの違いもない。
全く同じになるのだよ。」


「いいですか。この法然と異なる信心の者は、
私の往く極楽浄土には往けませんよ。
心しておきなさい。」

と、キッパリと相手の顔色をうかがわずにおっしゃいました。

同一の信心でなければ、
同一の世界には生まれられません。
自力の信心は一人一人異なり、
後生も一人一人の世界に堕ちていきますから、
再会はかないません。

この世だけの友だけでは情けない。
未来永遠の友でありたい、
との法然上人の慈愛あふれるお言葉なのです。



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泣くな、友よ
    浄土でまた遇おうぞ

かつて、
「一向専念無量寿仏」をあまりに強調されたため、
法然、親鸞両聖人が、神信心の権力者の怒りを買い、
流刑に遭われたことがありました。
法然上人は南国・土佐へ。親鸞聖人は越後へ。

旅立ちの前夜、
「お師匠さま・・・。
短い間ではございましたが、親鸞、多生の間にも、
遇えぬ尊いご縁を頂きました」
と嘆き悲しむ聖人に、

法然上人は優しく語りかけられます。
「親鸞よ。そなたは越後か・・・・。
いずこに行こうと、ご縁のある方に、
弥陀の本願をお伝えしようぞ。
くれぐれも達者でな」

「はい、お師匠さま。
お師匠さまは南国・土佐へ・・・。
遠く離れて西・東。
生きて再びお会いすることができましょうか。」

恩師との別れを惜しむ親鸞聖人は、
一首の歌をしたためられます。
「会者定離 ありてはかねて 聞きしかど
    昨日今日とは 思わざりけり」

法然上人は、次の返歌を贈られました。
別れ路の さのみ嘆くな 法の友
   また遇う国の ありと思えば

たとえ今生で再会できなくても
しばしの別れ、嘆くな親鸞よ、
再び会える世界(弥陀の浄土)が
あるのだからとの仰せです。


●半座あけて待っているよ

ご臨末の近づかれた親鸞聖人も、
浄土往生の確信から、
「この身は今は歳きわまりて候えば、
定めて先立ちて往生し候わんずれば、
浄土にて必ず必ず待ちまいらせ候べし」
              (末灯鈔)

「親鸞、いよいよ今生の終わりに近づいた。
必ず浄土に往って待っていようぞ。
間違いなく来なさいよ。」
と明言されています。


‘必ず浄土で待っているぞ’と、
力強くも温かく、末代の私たちに
語りかけてくださっているのです。



真宗の盛んな村に、仏法熱心な夫婦があった。
平生から弥陀の本願を喜ぶ身になっていた夫は、
(阿弥陀仏に救われていたということ)
いよいよ臨終が近づいた時に、
ともに苦楽を乗り越えてきた愛する妻に、
こう告げた。
おまえと一緒になれて、
本当によかった。
極楽の蓮台で、
半座空けて待っているからな

妻の目に、熱いものがこみ上げたという。

縁あって同じ家に生まれ合わせた家族と、
この世限りの縁では寂しい。

親子、夫婦そろって
弥陀の本願を聞かせていただき、
(弥陀の本願を聞くとは、弥陀に救われるの意味です。
聞即信と言われるように、弥陀の「助けるぞ!」の呼び声を
腹底にある我々の本体、阿頼耶識が聞く一つで助かるからです。)
ともに弥陀の浄土で再会する
未来永遠の家族とならせていただきたいものです。



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蓮如上人にまた叱られる [蓮如上人]

(平成10年のとどろきより載せています)

本年(H10)は蓮如上人の500回忌とあって
大変な蓮如上人ブームである。
しかし、蓮如上人があれほど徹底して説かれた
「後生の一大事」について、
詳しく解説する人は皆無に近い。

それでは蓮如上人の御心に反することになる。
もし蓮如上人が現状を見られたら、
「なぜ、わしが教えたようにまず後生の一大事、説かないのか」
とお叱りを受けることになるだろう。

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                                (蓮如上人)

●後生の一大事を心にかけて   
       死んだらどうなるか?

とにかくすさまじいばかりの蓮如上人ブームである。
映画館ではアニメ『蓮如上人物語』(五木寛之原作)が上映され、
週刊誌『サンデー毎日』では
小説『蓮如上人ー夏の嵐』が連載中である。
新聞では「京都新聞」「北国新聞」「富山新聞」が
蓮如上人の生涯を描いた小説『此岸の花』の連載を終了し、
単行本として出版されている。
ところがこれらの中でも
「後生の一大事」という大事な仏語がほとんど出てこない。

残念なことである。
蓮如上人がいかに後生の一大事を力説されたか、
上人のみ教えが凝縮された『御文章』(御文)で確認してみよう。

蓮如上人が親鸞聖人のみ教えを
お手紙で分かりやすく伝えられた「御文」は今日、
五帖に編集されている。
一帖から五帖まで、五冊あるのだが、
真宗門徒のお仏壇には大抵、
「末代無智の章」から始まる五帖目が備えられている。
五帖目には二十二通が収められているが、
その中、十三通に「後生の一大事」
または「後生助けたまえ」と記されている。
具体的に引用してみよう。

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五帖目二通
「・・・弥陀如来、今度の後生助けたまえ、と深くたのみ・・・」
三通
「・・・後生助けたまえと申さん人をば・・・」
六通
「・・・後生助けたまえ、と申さん者をば、
必ず救いまします・・・」
七通
「・・・後生助けたまえ、と思う心一にて・・・」
八通
「・・・後生助けたまえ、と申す意なるべし・・・」
九通
「・・・阿弥陀仏後生助けたまえ、
と一向にたのみたてまつる意なるべし・・・」
十二通
「・・・後生を助けたまえ、とたのみ申せば・・・」
十四通
「・・・今度の一大事の後生助けたまえ、
と申さん女人をば、
あやまたず助けたまうべし・・・」
十六通
「・・・誰の人もはやく後生の一大事を心にかけて
阿弥陀仏をふかくたのみ・・・」
十七通
「・・・一心に後生を御助け候えと、
ひしとたのまん女人は・・・」
十八通
「・・・阿弥陀如来後生助けたまえと、
一念にふかくたのみ・・・」
十九通
「・・・その他には何れの法を信ずというとも、
後生の助かるという事、ゆめゆめあるべからず・・・」
二十通
「・・・弥陀如来をひしとたのみ、
後生助けたまえ、と申さん女人をば、
必ず御助けあるべし・・・」

このように「後生」「後生の一大事」と
五帖目だけでもこれほど徹底して説かれた方が蓮如上人なのだ。

我々が阿弥陀仏に助けていただくのは病気や経済苦ではない。
後生の一大事が分からなければ
蓮如上人のみ教えは全く理解できない。

●誤った一大事の解釈

何が「後生の一大事」なのかを明らかにする前に、
世間に横行する解釈を列記してみよう。

大阪大学名誉教授A・O氏はこう言っている。
「死後に三途の河があるとか地獄があるとかいうことを
現代人はもはや信じない。
この世しかないと思っているからである。
しかし、たったひとりで棺桶に入って無に落下することは、
まさしく地獄に落ちることではないのか。
『後生の一大事』は依然として、
現代の我々を放していないのである」
死後は無であり、そこへ落下することが
「後生の一大事」だという。
死後、未来世の実在を信じられない知識人がよく陥る誤りである。

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同様な考えのもとに
「釈尊は死後を説かれなかった」などと主張する人もいる。
無責任にもほどがある放言である。
過去世、現在世、未来世の三世の実在を説き、
その上に因果必然の理法を説くところに仏教の特色があるのだ。
未来世を否定してしまったら仏教にならない。

当然、釈尊は経典中の至る所で三世の実在をご教示なされている。
一例を挙げよう。
「因果応報なるが故に来世なきに非ず」 
              (阿含経)

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前述の教授や唯物論の共産主義のように
死後を無とする思想を釈尊は「断見外道」として
徹底的にその誤りを正しておられるのだ。

もし、断見外道が正しく死後が無であるならば、
それは永遠の眠りと言い換えてよい状態であり、
苦しい思いをして生きるよりも死んだ方がよほどよいことになる。
「世の中に 寝るより楽はなかりけり
浮世の馬鹿は 起きて働く」
という狂歌があるとおりである。
一大事でも何でもない。
断見外道がはこびると安易に自殺をする者が多くなってゆく。
後生の一大事の別な解釈に、
「後生の一大事とは今生の一大事、
それは今の一大事」
などと言う人もいる。
やはり死後を認めたくない気持ちからであろうが、
後生はあくまで「現世」「今生」に対しての言葉であるから、
「明日は今日である」「来月は今月である」
「女は男である」と言っているようなもので、
まるで意味不明になってしまうのだ。

●全人類は愚かな旅人
     足下に迫る一大事

では仏教で「後生の一大事」とはいかなることか。
後生とは我々の死後のことである。
一大事とは大事件、取り返しのつかない大変なことをいうのだ。

全人類の死後に何があるのか。
釈尊にお聞きしよう。

釈尊は一つの有名な譬で教えておられる。
ある旅人が野原で飢えた虎に遭遇して、
必死に逃げたところが、断崖絶壁に出てしまった。
崖には松の木が生えていたが、
登っても無意味、虎は木登りができる動物だ。
幸い松の根元から一本の藤蔓が垂れ下がっており、
旅人はそれにぶら下がって何とか虎の難から逃れられた。
下はどうなっているのだろう、
と足下を見た旅人、思わず悲鳴をあげた。
足下には怒濤さかまく深海、
しかも波間から三匹の毒龍が大きな口を開けて
旅人の落ちてくるのを待っているではないか。
上に虎、下に龍、絶体絶命である。
ところがさらに悪いことが起きた。
藤蔓の根元に白黒二匹のネズミが現れ、
旅人の命の綱の藤蔓をかじっているのだ。
そのネズミを追い払おうと藤蔓を揺さぶったが、
ネズミは依然としてガリガリかじり続ける。
藤蔓を揺すったとき、何かが滴り落ちてきた。
手に取ってみればおいしそうな蜂蜜である。
上の蜜蜂の巣からこぼれてきたのだ。
密の甘さに旅人はたちまち、
虎や龍、ネズミのことなど忘れ、
蜂蜜のことばかり考えるようになってしまった。

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この旅人こそ万人の姿だと釈尊は言われる。
飢えた虎とは恐ろしい死、
我々はそれから逃げようと
必死に病院や薬を求めて逃げ回っている。
崖の松の木は財産や地位だが、
億万長者も大統領も死の虎からは逃れられない。
細い藤蔓とは我々の寿命のことだ。
まだまだ死なんぞ、とぶらさがっている。
白黒のネズミは昼と夜。
交互に寿命を縮めている。
寿命の藤蔓が切れた先が後生の一大事である。

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人間死んだらどうなるのか。
釈尊は、全人類が怒濤の深海、
毒龍の餌食になると説かれている。

まさに一大事だ。
怒濤の深海に譬えたれたのは暗黒と大苦悩の無間地獄である。
なぜそのような世界に堕ちるのか。
三匹の毒龍がそれを生み出すと釈尊は仰せられる。

欲、怒り、愚痴という三毒の煩悩のことだ。

●悪逆非道な人間

人間は生きるためには仕方ないと悪を造り続ける。
例えば「殺生罪」。

仏教では人間も他の動物、生き物も同じく衆生である。
人間が健康で長生きしたいと思っているように、
牛も豚も鶏も殺されて食われたいと思っていない。
人間が無理やり暴力で彼らの命を奪っているのだ。
ちょうど我々が家族で平和に暮らしている所へ
独裁権力者が土足で上がり込み、
家族を皆殺しにして、五体をバラバラにしてしまうようなものだ。
そのような仕打ちを受けたら、
我々はどれほど相手を恨むかしれない。
ヒットラーはユダヤ人を六百万人殺害したといわれるが、
そんな男は地獄に堕ちて当たり前だろう。
動物の側から見れば、
我々の一人一人が血も涙もない悪逆非道な存在なのである。

殺生といっても自分で直接殺す場合と、
他人に依頼する場合がある。
肉屋で牛肉、豚肉を買うのは、
消費者である我々が、業者に殺して肉を分けてくれと
頼んでいるのである。

自分が殺したと同じ殺生罪である。
毎日、三度の食事をとるたびに殺生罪を重ねている。
これまで、何万、何十万の生き物の命を奪ってきたことか。
それは何万、何十万の殺人をしたのと同じ罪なのだ。
毎日、何回も殺人しながら平然と生きているのと
同様の極悪人が我々の実態だ。

そのすさまじい罪悪が未来の地獄を生み出すと
釈尊は教えられる。

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後生の一大事は足下に迫っている。

今日死ねば、今日から恐るべき大苦悩を
受け続けなければならない。

しまった、と後悔しても取り返しがつかないのだ。
ところが旅人はすべてを忘れて蜂蜜ばかりを求めていると
釈尊は言われる。
蜂蜜とは食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲の五欲をいう。
全人類は朝から晩まで五欲の満足を求めて東奔西走である。
死ねば大変な後生の一大事の起きることを知らないのだ。

●後生の一大事の解決を
     一心に弥陀に帰命せよ

釈尊は全人類に後生の一大事の有ることと、
その解決は、「一向専念無量寿仏」以外にないと教えられた。

最高無上の仏、阿弥陀仏の本願力に極重悪人のまま救いとられて、
いつ死んでも弥陀の浄土に往生できる、
信心決定という身にならなければならないのだ。

これを蓮如上人は『御文章』に、
「後生ということはながき世まで地獄におつる事なれば、
いかにもいそぎ後生の一大事を思いとりて、
弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定(けつじょう)すべし」
と教えられたのだ。

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大意「後生の一大事とは、罪悪深重の我々が、
死後、必ず無間地獄に堕ち、八万劫という長い間、
大苦悩を受け続けることだ。
ゆえに急いで後生の一大事の解決を求め、
弥陀の本願に救われ、浄土往生間違いない、
信心決定の身にならねばならない」

死後、無になるのが一大事とか、
今生の一大事だなどということが
いかに狂った解釈か分かるであろう。

また、こうも教えられる。
「此の一流のうちに於て、
確々(しかじか)とその信心のすがたをも得たる人これなし。
かくの如くの輩は、いかでか報土の往生をば容易く遂ぐべきや。
一大事というは是れなり」
       (御文章一帖目五通)

大意「真宗の中には信心決定している人が少ない。
信心を獲得していない人はどうして弥陀の浄土に往生できようか。
それどころか、死ねば直ちに無間地獄におつるのだ。
後生の一大事とは、このことである」
法然上人や親鸞聖人は
比叡山で徹底的に仏道修行をなされたのは
ひとえに後生の一大事の解決のためであった。

そして法然上人は四十三歳で、
親鸞聖人は二十九歳の御時、
阿弥陀如来の本願に救われ、信心決定の身となられて以来、
後生の一大事、一心に弥陀に帰命せよと勧めてゆかれたのだ。

蓮如上人もただひたすら後生の一大事とその解決の道、
弥陀の本願の救いを説き続けてくだされた。
それを知らねば、蓮如上人ブームも空しいことになってしまう。

「この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして、
無間地獄に堕在すべきものなり」
        (御文章二帖目二通)

大意「信心獲得しなければ極楽には生まれられず、
無間地獄に堕ちる後生の一大事があるのである」
後生の一大事とその解決の道を、
蓮如上人にハッキリ教えていただこう。

●「皆々信心決定あれかし」
    すでに助かっているのか?

全人類の後生に、大苦悩の地獄へ堕ちねばならない一大事がある。
阿弥陀如来の本願に救い摂られる以外に、
後生の一大事を解決する方法はない。

ところが、「阿弥陀さまはお慈悲な仏さまじゃから、
十劫の昔から我々は助かってしまっている。
それを感謝して、お念仏の日暮らしをいたしましょう」
と公言してはばからない人が、
浄土真宗門徒に見られるようだ。
一劫とは、四億三千二百万年なので、
その十倍の長年月が十劫である。
ずっと昔に助かってしまっているという誤りを、
「十劫安心の異安心」と言うのである。
「異安心」とは、親鸞聖人・覚如上人・蓮如上人といった
善知識方の信心とは違う信心をいう。
信心が異なっていては、
善知識方と同じ浄土に生まれることはなく、
地獄へ堕在せねばならない。

●信心の有無で決する
    地獄行きと極楽往き

確かに阿弥陀仏は、十劫の昔に、
すべての人を本当の幸せに助ける、
「南無阿弥陀仏の六字のご名号」を完成なされた。
だが、それがそのまま、私たちが助かったことにはならない。
「六字のご名号」は譬えれば、
重病人を完治させる特効薬である。
いかにもよく効く薬ができあがり、
薬局に並んでいても病人が、それを購入して服用せねば
病気は治らないのは当然だ。

このような誤解は、今日だけでなく、
蓮如上人時代にもあったようである。
「『十劫正覚の初より、我等が往生を定めたまえる弥陀のご恩を、
忘れぬが信心ぞ』といえり。これ大なる過りなり」
           (御文章一帖目十三通)
「いかに十劫正覚の初より、
われらが往生を定めたまえることを知りたりというとも、
われらが往生すべき他力の信心の謂われをよく知らずば、
極楽には往生すべからざるなり」
           (御文章二帖目十一通)
「十劫正覚」とは、阿弥陀仏が、
六字名号を完成なされて仏のさとりを成就されたときを言われた。
そのときに助かっている(往生が定まっている)ならば、
生まれたときから救われていることになる。
もしそうなら、これほど結構なことはない。
それどころか、「苦しい人生、死んだ方がよい」となり、
自殺を肯定する危険思想である。
この世に現在生きている人の中に、
助かっている人と、いまだ助かっていない人があるのだ。
それは次のお言葉で明らかである。
「この御正忌のうちに参詣をいたし、
志を運び、報恩謝徳をなさんと思いて、
聖人の御前に参らん人の中に於て
信心を獲得せしめたる人もあるべし、
また不信心の輩もあるべし。以ての外の大事なり」
          (御文章五帖目十一通)
「御正忌」とは、毎年秋に行われる、
浄土真宗最大の行事・報恩講のことだが、
仏法を聞かせていただこうと思って、
ご法話会場(報恩講)へ集まっている人の中に、
信心を獲得して、後生の一大事を解決できた人と、
信心をまだいただけずに、
死ねば地獄行きの人と、二通りあるのだと仰有ったのだ。
仏縁ある人々にすら、蓮如上人はこう仰っている。
まして、聞く気もなく、それどころか、
キリスト教やイスラム教、雑多な新興宗教の信者も含め、
すべての人が生まれたときから救われていると言うに至っては、
蓮如上人の仰せを反故にした暴言と言われねばならない。
「信心決定」「信心獲得」していなければ、
後生の一大事は助からないのである。

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●聞法の目的は信心獲得

「信心決定」とか「信心獲得」とは、
阿弥陀如来の本願に救い摂られ、
絶対の幸福にこの世から生かされた驚天動地の体験を言う。

親鸞聖人は二十九歳の御時、
生涯の師・法然上人から阿弥陀如来の本願を知らされ、
信心獲得の身になられた。
アニメ『世界の光・親鸞聖人』(第1部)
に描かれているので、見ていただきたい。

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また蓮如上人は、
「毎月両度(二回)の寄合(法話)の由来は、
何の為というに、更に他の事にあらず、
自身の往生極楽の信心獲得の為なるが故なり」
           (御文章四帖目十二通)
「あわれあわれ、存命の中に
皆々信心決定あれかしと、朝夕思いはんべり」

           (御文章四帖目十五通)
と、仏法を聞く目的である信心獲得を繰り返し示された。
さらには、前述の通り、
「この信心を獲得せずは、極楽には往生せずして、
無間地獄に堕在すべきものなり」

           (御文章二帖目二通)
と厳しい。
先ほどの薬の譬喩にあてはめれば、
薬を飲んで病気の治った体験が信心獲得である。
薬はどれだけあっても、飲まねば病気は治らない。

●往き易くして人無し
      矛盾のような仏語の真意

次に、仏法を聞いている人のうち、
信心獲得した人はどのくらいあるのか、
蓮如上人から教えていただこう。
「蓮如上人の御時、志の衆も御前に多く候とき、
『このうちに信を獲たる者幾人あるべきぞ、
一人か二人か有るべきかな』と御掟候とき、
各『肝をつぶし候』と、申され候由に候。
          (御一代記聞書)
御前に参詣した、多くの人を前に蓮如上人が、
「この中で、信心獲得しているのは、
一人かな、二人かな・・・」
と仰有ったので、救われたつもりでいた人々は、
驚いて二の句を継げなかったのである。
信心獲得していなければ、後生は一大事だからだ。

誰でも簡単に浄土へ往けるならば、『大無量寿経』に、
「易住而無人」と仰るはずがない。
「阿弥陀如来の浄土へは、往きやすいけれども、
往っている人が少ない」
と一見、矛盾したようなことを釈尊は仰っている。
弥陀の浄土へ往くことが易しいならば、
多くの人が往っているはずだし、
浄土へ往っている人が少ないのが本当ならば、
往きにくい浄土だと仰るはずである。
これを蓮如上人は、『御文章』二帖目七通に、
「『安心を取りて弥陀を一向にたのめば、
浄土へは参り易けれども、信心をとる人稀なれば、
浄土へは往き易くして人なし』と言えるは、
この経文の意なり」と解説された。
阿弥陀仏の浄土へ往き易いのは、
この世で信心獲得の身に救われた人である。
ところが、そんな人ははなはだ稀なので、
「人無し」と仰有った。
信心獲得こそが、もっとも大事だと知らされる。

●「世間のヒマを欠きて聞け」
    聞き歩かなくてよいのか?

遠路を厭わず、間断なく聞法する人に、
「そんなに聞き歩かんでもよい」
と言う人がいる。
蓮如上人は、しかし、こう教えられた。
「仏法には世間のヒマを欠きて聞くべし。
世間のヒマをあけて法を聞くべきように思うこと、
浅ましきことなり。
仏法いは明日ということはあるまじき」
          (御一代記聞書)

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「世間のヒマ」とは、仕事を指す。
仕事よりも優先して聞かねばならぬのが仏法だと、
仰有っているのだ。

「それでは、生きてゆけんじゃないか」
と思うかもしれないが、イヤな上司に叩かれ、
後輩からは突き上げられながらも、
あくせく生きているのは、何のためだろうか。
徳川三百年の礎を築いた家康は、
「人の一生は、重荷を背負うて遠き道をゆくがごとし」
と、苦しみの連続だった生涯を告白している。
はたして私たちに、家康ほどの事業ができるだろうか。
たとえできたところで、夢幻と化す、
苦渋に満ちた人生ならば、哀れである。
生まれがたい人間に生まれてきたのは、
仕事をするためでもなければ、家を建てるためでもない。
地位を得るためでも、財を築くためでもない。
仏法を聞いて、阿弥陀仏の本願に救い摂られ、
絶対の幸福になるためだと、蓮如上人は、示しておられるのだ。
「今日仕事をして、明日聞こう」
と思っても、明日は後生かもしれぬのが、
私たちである。
無常の風に、頭叩かれて驚いては手遅れだから、
聞けるあいだに聞きぬかねばならぬのだ。

●仏法に独断は禁物
     阿弥陀仏の願いを聞く

絶対の幸福に救われるには、
阿弥陀仏の願いをよく知らねばならない。

他人を喜ばせたければ、相手が何を願っているかを
知らねばならないのと同様である。
太郎君が、憂鬱そうな花子さんを喜ばせようと、
全財産の百万円を与えた。
ところが、花子さんは少しも喜ばない。
それもそのはず、花子さんは、大資産家の令嬢だったのだ。
大変辛い思いをしながら、
太郎くんの苦労は水の泡となってしまったのである。
そんなときは、花子さんが何を望んでいるのか、聞けばよい。
「何かあったの」
花子さんは、言った。
「かわいがっていた猫のミイちゃんが、
行方不明なの」
さっそく友達と手分けして探すと、
その猫は隣家の猫と仲良く遊んでいた。
花子さんは大喜び。
百万円どころか、一銭も使わずに喜ばせることができたのだ。

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結婚式の引き出物でも、最近は、もらう人がカタログを見て、
品物を自由に選択できる方式がはやっているそうである。
いくら高価なものでも、
もらった本人にとって不要なら、
物置のスペースをとるだけのガラクタになってしまうからだろう。
苦労すればさえよいのではないのだ。
相手の願いをよく聞き、熟知することは、
人間相手でさえ、重要なのである。
まして、未来永劫の魂の浮沈がかかった
弥陀の救済にあずかるには、独断は禁物。
阿弥陀仏の願いをよくよく聞かせていただかねばならないのである。

●火中突破の覚悟で

親鸞聖人は、
「たとい大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏のみ名をきくひとは
ながく不退にかなうなり」
       (浄土和讃)
と仰有った。

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火の海かき分けて、命がけで聞かずにおれなくなった人が、
永久に崩れぬ絶対の幸福になれるのだ、
との意である。

蓮如上人は、また、
「火の中を分けても法は聞くべきに、
雨・風・雪はものの数かは」
と厳しい聞法を勧めておられる。
火中突破の覚悟で聞かねばならぬ仏法なのに、
「今日は雨が降っているから、やめておこう」
「今日は風が強いので、また次の機会に」
「雪が積もっているこんな日に、聞かんでもよかろう」
と、聞法をおろそかにしていないか。
雨・風・雪は、ものの数ではないのだ、
と仰るのである。

浄土真宗の先哲は、聞法の心構えを分かりやすく、
四つに分けて教えてられている。
①骨折って聞け
②衣食忘れて聞け
③間断なく聞け
④聞けないときは思い出せ

苦労して真剣に聴聞せよ、とのご教導である。

暑ければ説法中でも扇子を使い、
足が痛めばいつでも投げ出す。
のみたくなればたばこをのみ、
眠たくなれば前後不覚に船をこぐ。
近くに法座があれば参るが、少し遠方だと参る気がなくなる。
こんな聞法では、真剣に聞いているとは言えない。

●一座一座のご縁を大切に

蓮如上人は、また、『御一代記聞書』に、
こう教えられている。
「至りて堅きは石なり、至りて軟なるは水なり、
水よく石を穿つ。
『心源もし徹しなば、菩提の覚道何事か成ぜざらん』
といえる古き詞あり。
いかに不信なりとも、聴聞を心に入れて申さば、
御慈悲にて候間、信を獲べきなり。
只仏法は聴聞に極まることなり」
昔、明詮という僧が、真剣に仏道修行に励んでいた。
三年たってもいっこうに魂の解決がつかず、
「私のような者に、求めきれる道ではない。
今はこれまで」と、永遠のおいとまを願いでた。
師僧は思いとどまるよう説得したが、
明詮の決意は堅く、慰留をあきらめ、これを許した。
しかし、苦楽をともにした法友と別れるのは、
さすがにつらい。
明詮は泣きながら寺を出た。
ところがそのとき、にわかに大雨が降ってきたので、
やむなく山門の下に腰をおろし、
雨の晴れるのを待っていた。
何気なく、山門の屋根から落ちる雨滴を見ていた明詮は、
雨だれの下の石に大きな穴があいているのに気がついた。
「こんな堅い石に、どうして穴があいたのだろう」
まぎれもない、それは雨滴の仕業ではないか。
「このやわらかい水滴が、堅い石に穴をあけたのか。
何と言うことだ。
私は二年や三年の修行でへこたれて、
断念したが、この水にも恥ずべき横着者であった。
仏法の重さを知らなかった。
たとえ水のような力のない自分でも、
根気よく求めてゆけば、
必ず魂の解決ができるに違いない。」

奮然として、その場を立った明詮は、
水から受けた大説法を師匠に話し、
深く前非をわびて努力精進し、
後に「音羽の明詮」といわれる大徳になったのである。
何事も、真剣に続けるほど大切なことはない。
マッチ一本で灰になる家屋でも、
一日や二日の努力で完成するものではない。
それ相当の長年月の粒々辛苦の結果である。
途中でその努力が断たれれば、
完成した家屋は楽しめない。
後生の一大事の解決をめざす仏法においてをや、である。
「聞き歩かんでもよい」どころか、
一座一座のご縁を大切に、真剣に求める人にこそ、
弥陀の呼び声が徹底し、
足下に安養の浄土が開かれると知らねばならない。

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