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弥陀は逃げ回っている我々を追い詰めて救う! [阿弥陀仏]


(真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」から載せています)

誠なるかなや、
摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ

      (親鸞聖人・教行信証総序)

まことだった!本当だった。
弥陀の誓いにウソはなかった。
みなみな、聞いてもらいたい、
この親鸞が生き証人だ。
早く、弥陀の誓願まことを知ってもらいたい

最初に親鸞聖人は「誠なるかなや」と言われています。
これは、「本当だった」「ウソではなかった」
という喜びの言葉です。
裏を返せば、それまでは「本当だろうか」
「ウソではなかろうか」
と疑っていたということです。

例えば、腹痛で苦しんでいる時、
「この特効薬をのめば、あなたの腹痛は治りますよ」
と言われても「ホントかな」と疑う。
ところが、のんだ途端に腹痛がピタリと治まれば、
「ホントだった」と知らされます。

では、親鸞聖人は、何に対する疑いが晴れ、
「誠なるかなや」と仰ったのでしょう。
それは、次のお言葉、「摂取不捨の真言」
が誠だったと言われているのです。

「摂取不捨の真言」とは、「阿弥陀仏の本願」のこと。
すべての仏の師匠・阿弥陀仏が誓われたお約束で、
『歎異抄』の冒頭には「弥陀の誓願」と著されています。
それは、

どんな人も、
必ず摂取不捨の利益(絶対の幸福)に救う

誓いです。

ここで、
阿弥陀仏が約束されている相手「どんな人も」とは、
「すべての人」のことですが、
それはどんな者なのでしょう。

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阿弥陀仏は、私たちすべての人間を
どのようなものと見て取られて、
摂取不捨と誓っていられるのでしょうか。

「煩悩具足の者」と見られています。
煩悩とは、欲、怒り、妬みそねみといった醜く恐ろしい心。
煩悩具足とは、煩悩の塊、ということです。

「花より団子」「花の下より鼻の下」で、
美しい桜の下、飲んだり食べたりでルンルンで、
私たちは煩悩がフル回転します。
酔っ払って我を忘れ、
ケンカや醜態をさらすのも煩悩の仕業です。
4月の誕生石はダイヤモンド。
宝石に目がくらむのは財欲のため。
欲のままに行動に移せば恐ろしい事件へと発展します。
以前、49歳の男が、
指輪など293点(約1億4000万円相当)
を奪ったうえ、店長と従業員5名を拘束し、
火をつけ、6人を殺害した事件があった。
この男は死刑になりました。
「わが子を注目させたい」のは名誉欲。
学芸会の劇で、主役をめぐって争う
親のモンスターぶりをしばしば耳にします。
日本のある学校で、
「白雪姫の劇の主役が一人なのはおかしい」
と複数の親が教師に迫った。
結局、白雪姫を25人に増やし、小人役なし、
魔法使いのおばあさん役なしの話に仕立てあげたという。
これはイギリスの大手新聞『タイムズ』紙にまで取り上げられ、
「アメリカも同じ」「韓国でも似たようなことがある」
とのコメントが寄せられ物議を醸しました。

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「主役問題」は、さらに深刻な事件にも発展します。
これは、ロシアの名門バレエ団であったこと。
『白鳥の湖』の主役をめぐるトラブルで、
配役を決める監督が顔に強酸性の薬をかけられ、
失明の危機に陥りました。
犯行の指示をしたのは団員の一人。
恋人の女性ダンサーが主役を希望したのに、
「鏡を見てみろ」と拒否された怨恨からの復讐でした。
傷つけられた名誉欲が、恨み・怒りとなったのです。

保険金殺人、ストーカー事件、食品偽装、毒物混入・・・。
世の中を騒然とさせるニュースは、
人間の煩悩によるものばかりです。

「世の中、悪いヤツがいるものだ」
と思われるかもしれませんが、
ほかでもない、これは我々のことなのです。

親鸞聖人は、「すべての人が煩悩具足なのだよ」と、
こう言われています。

「凡夫」というは無明・煩悩われらが身にみちみちて
欲もおおく、瞋り(いかり)腹立ち、
そねみねたみ心間(ひま)なくして、
臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず

          (親鸞聖人・一念多念証文)

人間は、死ぬ(臨終の一念に至る)まで、
煩悩が止まることも、なくなることもないのです。
そして、縁さえ来ればどんなことでもする親鸞だ
と、
こうも告白されています。

さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし」(歎異抄)
口や身体に出さないのは「縁」が来てないだけ。
心の中では、誰にも言えない恐ろしいことを
思い続けている、との懺悔です。

蓮如上人は、
阿弥陀仏は、全人類を“すべての仏に見捨てられた極悪人”
と見て取られている

と、『御文章』で、こう教えられています。

空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我等如きの凡夫なり

            (二帖目八通)
ここで「極悪人」といわれているのは、
倫理道徳でいうような悪人ではありません。
仏の眼からご覧になった私たち人間の姿なのです。

善導大師でさえ

善導大師は、親鸞聖人が大心海化現の善導と
尊敬されているお方です。
(※大心海化現・・極楽浄土から
仏さまが姿を変えて現れたこと)
この善導大師は、「30余年、別の寝処(しんじょ)なし」
と言われ、30年以上、布団を敷いて休まれませんでした。
夜更けまで仏法の研鑽に励まれ、
そのまま机のうつぶすようにして休まれたのです。
また、淫らな心が生じないよう、
母親以外の女性を一切、見られなかったともいわれます。

ところが、同じ善導大師が、
心は一日、八億四千遍もコロコロ変わり通しだ。
思っていることは皆、地獄行きのタネばかり

と次のように言われています。

一日のうちに八億四千の憶い(おもい)あり、
念々になすところこれみな三塗の業なり

(三塗の業・・・苦しみの世界に沈むタネまき)

これは、阿弥陀仏によって照らし出された自己の実態であり、
倫理道徳レベルの問題ではありません。
仏の眼からごらんいなれば、万人が例外なく、
「煩悩具足」「諸仏に捨てられた極悪人」なのです。

しかし、うぬぼれ強い私たちは、とてもそうは思えず、
「そこまでひどくない」「どこを見てるのだ」とはねつける。
その心は、「阿弥陀仏は私を見損なっている」と、
弥陀の本願を疑っている心です。

この本願疑惑心を「疑情」といいます。
物や人に対する疑いではありません。
阿弥陀仏の本願に対する疑いだけを「疑情」というのです。

逃げる者を、追いかけ、追い詰め、助ける

阿弥陀仏は、すべての人を「煩悩具足の者」
「諸仏に見捨てられた者」とお見抜きのうえで、
「摂取不捨の利益(絶対の幸福)に必ず救う」
と誓っておられます。

摂取」の摂とは、逃げ回っている者を、どこまでも追いかけ、
逃げ場がなくなるまで追い詰めて助ける、ということ。
阿弥陀仏が追いかけ追いかけ助けようとされているのに、
私たちは逃げ回っている。


こう聞いても、
「いや、私は阿弥陀さまに助けてもらいたいと思っています。
逃げるなんてとんでもない」
と反発する心が出てくるでしょう。

これも弥陀の本願を疑う心、“疑情”です。
私たちは、阿弥陀さまの御心に背き、
逃げ回っていながら、その自覚すらありません。

これこそ、煩悩具足の姿なのです。
ある講演で、助かりたいと思いながら逃げている姿を、
こう例えられました。

       ■       ■
以前、友達と散歩していた時、
城の空堀に子犬が落ちているのを見つけた。
石垣はほとんど直角。
小犬は何度も堀から上がろうとしたが、
ツルツルと滑って落ちてしまう。
このまま雨が降り、水がたまれば死んでしまう。
何とか助けてやりたいと、
板を持ってきて、堀から上らせようとするが、
犬は逃げ回る。
ひどい目に遭わされるのではと疑っているのだろう。
鬼が来たとでも思っているのか。
こちらは助けたい一杯、犬も助かりたい一杯。
なのに、逃げ回り続ける。
長い時間かけてようやく逃げ場のない隅に追い詰め、
やっと引き上げることができた。
小犬は、広い世界に出て、飛び跳ねる。
私たちもまた喜んだ。

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     ■      ■

助かりたいと願いながら、助ける人を疑い、
逃げ回る小犬。
弥陀を疑っている私たちも同じなのです。

煩悩具足の者は、真実から逃げ回っている。
そういう者を、ガチッと摂め取って、
二度と捨てない絶対の幸福に救ってみせる
と誓われた真実の言葉が弥陀の本願なのです。

●「まこと」と知らされる2つのこと

親鸞聖人も、救い摂られるまでは
弥陀の本願を疑っておられた。
だからこそ、弥陀に摂取され疑情が破れて、
「誠なるかなや、摂取不捨の真言」
と仰ったのです。
これは、「まことだった!本当だった。
無上の仏さまを疑い、逃げ回っていた親鸞を、
絶対の幸福に救うと誓ってくだされた
弥陀の本願まことだった」
という懺悔と歓喜のお言葉なのです。


このことを「信心数え歌」には、
逃げてもにがさぬ御慈悲とは、
ほんに今迄知らなんだ

と歌われています。

『歎異抄』には、こう述懐されています。

しかるに仏かねて知ろしめして、
煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、
他力の悲願は、
かくのごときの我らがためなりけりと知られて、
いよいよ頼もしく覚ゆるなり

        (歎異抄第九章)
とうの昔に弥陀は、煩悩の巨魁が私だと、
よくよくご存じで、その私を救わんと
本願を建ててくださったのだ。
感泣せずにおれないではないか。

このように、弥陀の本願に疑い晴れて「誠だった」と
知らされることは2つあります。

一、煩悩具足で、諸仏に見捨てられた極悪人が
私であったと知らされる。
(自分の本当の姿がハッキリする)

二、絶対の幸福に救う(摂取不捨)と誓われた阿弥陀仏の本願、
まことだったと知らされる。(救いの法がハッキリする)

煩悩以外に何もない私たちが、本当の幸せになるには、
阿弥陀仏のお力による以外ありません。

仏法を聞く目的は、知識欲を満たすためではありません。
「摂取不捨の真言まことだった」
と弥陀の本願に疑い破れるまで、
真剣に聞かせていただきましょう。

 


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弥陀から逃げ回っている者とは、誰か? [阿弥陀仏]

誠なるかなや、
摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ
       (親鸞聖人・教行信証)


まことだった!本当だった。
弥陀の誓願にウソはなかった。
みなみな、聞いてもらいたい、この親鸞が生き証人だ。
早く、弥陀の誓願まことを知ってもらいたい。


今回も、この親鸞聖人のお言葉を解説いたしましょう。
ここで親鸞聖人が「摂取不捨の真言」と言われているのは、
阿弥陀仏の本願」のことです。
大宇宙にガンジス川の砂の数ほどまします
諸仏方の師・阿弥陀仏が誓われたお約束
で、
『歎異抄』冒頭には「弥陀の誓願」と著されています。
それは、
“どんな人も必ず絶対の幸福に救う”
誓いです。

絶対の幸福にガチッと摂め取って捨てぬ、
という弥陀の真実のお言葉
ですから、
親鸞聖人は「摂取不捨の真言」と言われているのです。
摂取の「摂」は、逃げ回っている者を、
追いかけ、逃げ場のないところまで追いつめて救うこと

と述べてきました。
“逃げ回っている者”とは、
弥陀の本願を疑い続けている者のことです。


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そう聞きますと、
なるほど。あの人は、仏法のお話に誘っても断ってばかり。
確かに逃げてるなあ

とか、
夫は、地域の催し物や映画なら一緒に行くけど、
仏法は聞こうとしない。
うちの人も逃げ回っている

と、他人事のように思われるかもしれません。
しかし、阿弥陀仏は、
すべての人を「仏法を疑い、逃げ回っている者」と仰るのです。

「えっ!どうして仏法を聞いている私が?」
と認められない心が出てくるでしょう。

実は、その「私は阿弥陀仏を信じている。疑っていませんよ」
という心そのものが、疑い、逃げ回っている姿なのです。
なぜでしょうか。


信じる心も念ずる心もないのが私たち


阿弥陀仏は、
「すべての人は、煩悩具足で罪悪深重、
まことの本願を信ずる心も念ずる心もない」
と私たちを見抜かれています。

まことの心がカケラでもあれば、
そのまことの心でまことの本願を信ずることもできましょうが、
骨の髄まで煩悩に染まり切った私たちには、
まことを信ずる心は全くありません。

ゼロなのです。
だからこそ弥陀は、「信ずる心も、念ずる心もおこしてみせる」
と誓われています。

蓮如上人は、こう言われています。


信ずる心も念ずる心も、
弥陀如来のご方便より発さしむるものなり

          (御文章二帖目一通)


阿弥陀仏は、私たちを“煩悩の塊”、
つまり“不実の塊”だと見られている。
不実の者は、不実のことは信じても、
真実をはねつける。
それなのに「いや、私は阿弥陀さまを信じている」
とうぬぼれています。
それは「阿弥陀仏は、素直に信じている私をご存じないのでは」
と無上仏(阿弥陀仏)を疑っている心です。
弥陀の本願を疑い、背を向けて逃げる私たちは、
迷いながら迷いに気づかず、
疑いながら疑っていることに気づきません。
逃げ回って堕ちていく先は地獄。
何と哀れな者よ、とても見捨ててはおけぬと、
弥陀は何とか助けてやりたいと私たちを、
追いかけ回し、引っ捕らえて、
浄土往生間違いない身(絶対の幸福)に救ってくださるのです。


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苦しみがやまない原因は?


阿弥陀仏の本願を疑う心のみを「疑情」といいます。
人や物を疑う心とは違います。

この「疑情」こそが苦悩の根元だと親鸞聖人は、
こう教示されています。


還来生死輪転家(生死輪転の家に還来することは)
決以疑情為所止(決するに、疑情を以て所止と為す)

                               (正信偈)


まず「生死輪転の家に還来する」からお話しましょう。
安心、満足というゴールのない円周を、
限りなく回って苦しんでいるさまを、
「生死輪転」とも、「流転輪廻」ともいわれます。
私たちは車の輪が回るように、
同じところをグルグル回り続けている。
そんな一生をトンチで有名な一休さんは、
こう歌っています。
「人生は
食て寝て起きて 糞たれて
子は親となる 子は親となる」
食べたら出す。
出しては食べる。
台所と便所の往復です。


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疲れた体を横たえたら、もう朝。
寝ておりたい。けれど仕事がある。
せわしなく一日が過ぎ、気づけばもう寝る時間。
布団の上げ下げの人生は、
まさに同じことの繰り返しではないでしょうか。
来る日も来る日も、「食て寝て起きて」の反復ならば、
「生まれてきてよかった」の満足などあろうはずがありません。

そうやって親になり、生まれた子供もまた、
おなじように親になる。
天下人、家康でさえ、
「人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くがごとし」
と告白しています。
苦しみの重荷を下ろせず、
果てしない流転の道(遠き道)を歩き続ける人生だった、
との嘆きです。
苦しみは、なぜ、やまないのでしょうか。


私はもう、釣りをしているよ。


「どんな和歌でも、これを下の句にすれば、
皆、納得する」
と室町時代の歌人がいう。
その言葉とは「それにつけても金の欲しさよ」。
試しに一つ。
「朝夕の飯さえこわし やわらかし 
それにつけても金の欲しさよ」
現代でもしきりに、
「もっと金があればなあ」の嘆きが聞こえてきます。
他にも、「マイホームが欲しい」
「もっと認められ、出世したい」
「恋人さえできれば」などなど。
ほとんどの人が苦しみの原因をそこらに見定めて、
それを得ようと、懸命に努力しているが、
果たして幸せになれるのでしょうか。
考えさせる小話があります。


レマン湖のほとりでスイス人が釣りをしている。
ところが全く釣れない。
しばらく見ていた日本人が、
「釣れませんね。いっそ底網をかけてバーッと取ったらどうです」
と提案した。
「底網かけて捕ってどうする」
とスイス人。
「市場で売れば大もうけできる」
「儲けてどうする」
「景色がいいからこの辺の別荘を買えばいい」
「別荘を買ってどうする」
「のんびり釣りでもすればいい」
すると、スイス人。
「私はもう、釣りをしているよ・・・」


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フィギィア・スケートの女王と持てはやされたキム・ヨナ選手
オリンピック後のインタビューで、試合後に見せた万感の表情を
「ずっと我慢してきたことが涙となってあふれ出た」と説明した。
我慢してきたこととは?続けてこう語った。
「スケートを見るのも嫌になって随分たつ」
「競技や、翌日の練習の心配なく生活できること、
軽い気持ちで未来を考えて生活できるだけで今は快適」
「(パンなど)もう好きなだけ食べることができる」
世界トップアスリートが涙を流すほどの喜びは、
“普通の生活ができる”こと。
レマン湖の例になぞらえるなら、
こう言えるかもしれない。
「普通の生活なら、もうしてるよ」


今日、日本で最も権威ある文学賞の一つ「芥川賞」は、
芥川龍之助の業績をたたえて創設されたものですが、
芥川自身は「人生は地獄よりも地獄的である」(侏儒の言葉)
と胸のうちをさらけ出し、最後は自殺しています。
35年の一生でした。
文豪・夏目漱石
「人間は生きて苦しむ為めの動物かもしれない」
と妻への手紙に本音を漏らしています。
金や地位、名声などを得ても、
苦しみはやみません。
人間の苦悩の根っこはもっとずーっと深いのです。

家を離れて生きられないように、
離れ切れない苦しみを親鸞聖人は「家」に例え、
「終わりなき苦しみ」を
「生死輪転の家に還来している」
と言われています。


親鸞聖人の明答


では、人生を苦に染める元凶は何でしょう。
親鸞聖人の解答は、驚くべきものです。
決するに、疑情を以て所止と為す
「疑情ひとつ」と断言される。
「決するに」「所止と為す」の断定には迷いがありません。
和讃にも、
流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき
                 (高僧和讃)
と教えられ、苦悩(流転輪廻)がやまない(きわなき)原因は、
「疑情のさわりにしくぞなき」
と言われています。

「しくぞなき」も「これひとつ」の断定です。
「苦悩の根元は、これひとつ」の「疑情」とは、
「阿弥陀仏の本願を疑う心」のこと。
予想もつかぬところに、苦悩の真因があったのです。


この真実を一体、誰が知るでしょう。
この「疑情」が破れ、過去無量劫からの迷いを断ち切られた
親鸞聖人の魂の叫びが、
「誠なるかなや、摂取不捨の真言(阿弥陀仏の本願)」
なのです。
アニメーション『世界の光・親鸞聖人』
第一巻の最後の場面で、
その喜びをこう告白されています。
不思議なるかなや、不思議なるかなや。
弥陀五劫思惟の願は、親鸞一人がためなり」
「あぁ、多生にも、値(あ)い難き本願力に、今値えたり。
億劫にも、獲難き真実の信心を、今獲たり」

本願、まことだった。まことだった


疑情が浄尽(じょうじん)し、
「露ちりほどの疑心」のなくなった人は、
二度と迷わぬ絶対の幸福に生かされる。
これを蓮如上人は、
「この心の露塵程も疑なければ、
必ず必ず極楽へ参りて、美しき仏とは成るべきなり」
と言われるのです。
この疑情を晴らすには、
阿弥陀仏の本願を聞くよりほかにありません。


おなじくアニメの第一巻で、法然上人はこう説かれています。


「釈尊が、この世にお出ましになったのは、
阿弥陀仏の本願一つを、説かんがためでありました。
この法然も、弥陀の本願によって、救われたのです。
13歳で出家してより、27年間、比叡での難行・苦行も、
京都・奈良で学んだ、華厳・法相などの学問も、
この法然の後生の一大事の解決には、なりませんでした」
「泣く泣く山を下りました。
黒谷で、7000余巻の釈尊の説かれた経典をひもとくこと、5回。
法然のような者でも助かる道がなかろうかと、
探し求めました。
そして、ついに、私一人を助けんがための、
阿弥陀仏のご念力が届いた一念に、
法然の暗黒の魂が、光明輝く心に救い摂られたのです」
「その不思議、その驚き、尊さは、
心も言葉も絶え果てて、ただ泣くだけでした。
まことに皆の人、一日も早く、
阿弥陀仏の本願を聞き開いてください。
いかなる智者も、愚者も、弥陀の本願を信ずる一念で、
救われるのです。よくよく聞いてください」

このように、アニメーション『世界の光・親鸞聖人』の中で、
親鸞聖人、法然上人といった方々が説法されていますから、
このアニメを見せていただくままが聴聞です。
苦しみ迷いの打ち止めをするには、人間に生まれ、
仏法を聞かせていただく以外ありません。
「弥陀の本願まことだった」と疑情が晴れ渡り、
必ず浄土へ往ける身になるまで、
阿弥陀仏の本願を、真剣に聞かせていただきましょう。


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未来永遠に続く幸せの厳存!! [なぜ生きる]

 

(真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」から載せています)

誠なるかなや、
摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ
        (親鸞聖人)
まことだった!本当だった。
弥陀の誓いにウソはなかった。
みなみな、聞いてもらいたい、
この親鸞が生き証人だ。
早く、弥陀の誓願まことを知ってもらいたい

ここで聖人が「摂取不捨の真言」と言われているのは、
「阿弥陀仏の本願」のことです。

すべての仏の師匠である阿弥陀仏が
誓われたお約束のことで、
『歎異抄』の冒頭には「弥陀の誓願」と著されています。

弥陀の誓願は、
“すべての人を、摂取不捨の利益(絶対の幸福)に救う”
という真実の誓いです。

この弥陀の本願を親鸞聖人は「摂取不捨の真言」
と言われているのです。

絶対に捨てられぬ幸福

「摂取不捨」とは文字どおり“摂め取って捨てぬ”ことであり、
「利益」は“幸福”のことです。
“ガチッと摂め取られて、捨てられない幸福”
を「摂取不捨の利益」と言われます。


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私たちは、健康を失わないか、
妻や子供が自分から離れていかないか、
友人の裏切り、会社のリストラ、金や財、名誉や地位から、
見捨てられはしないかと日々不安を抱え、

薄氷を踏むような日暮らしをしているのではないでしょうか。
とらえたと思った楽しみも一夜の夢、
握ったと信じた幸福もシャボン玉、
まるで線香花火のようにはかないものだと
知っているからです。

どんな壮大な栄華も、やがて夢幻と消えていきます。

400万票以上という、最多得票記録で当選した
猪瀬・前東京知事
「東京五輪招致」を実現させた得意の絶頂から
わずか百日余りで辞任とは誰が想像したで
しょう。
辞意表明の前夜に発売された
猪瀬氏の著書『勝ち抜く力』が書店に並ぶ光景は、
まさに盛者必滅を地でいくものでした。
南米エクアドルで新婚旅行中の夫婦が強盗に襲われ、
夫(30歳)が亡くなりました。
目撃者によると、黄色いタクシーと黒い車が走り去った後、
27歳の新妻は、倒れた夫の名を呼びながら
泣き叫んでいたといいます。
挙式の一週間後のことでした。
世界制覇をもくろんだアレキサンダー大王
世界の三大征服者に数えられる彼の死因は諸説ありますが、
その一つが「蚊に刺されマラリアにかかったから」です。
それが本当ならば、広大な地域を支配した男も、
蚊一匹によって、すべてを奪われたことになる。
ある人は、彼を評して、こう言いました。
「全世界で足りなかった人も、一つの墓で十分」

たとえ幸せが続いたとしても

アニメ『世界の光・親鸞聖人』第4巻に
次のような場面があります。

親鸞聖人 「いいですか皆さん。考えてみてください。
      もし皆さんがお金もあり、子宝にも恵まれ、
      健康に暮らせたとしても、それで本当に、安心できますか

参詣者A 「そうなれば、安心できると思うが・・・
参詣者B 「しかしなぁ。金持ちになったら盗まれはせんかと、
       また心配じゃな

親鸞聖人「たとえ、どんなにお金が儲かっても、
      死んで持っていけるわけじゃない。
      病気
が治っても、一時の安心ではありませんか。
      死なんようになったわけじゃない。
      少し死ぬのが延びただけ。
      やがては死なねばなりません

参詣者A 「そんなこと考えんようにするしかないわ
親鸞聖人 「こんな一大事が、外にあるでしょうか。
       考えないで済むことではありません。
        これを後生の一大事といいます。
        この一大事の解決こそが、仏法の目的なのです。
        なぜ苦しくとも生きねばならぬのか。
        この、一大事の解決のためです!


たとえ、事故や事件に巻き込まれず、
幸せが続いたとしても、
人は皆死んでいかねばなりません。

蓮如上人のお言葉に耳を傾けてみましょう。

それ、つらつら、人間のあだなる体を案ずるに、
生ある者は必ず死に帰し、
盛なる者は終(つい)に衰うるならいなり。
されば、ただいたずらに明し、いたずらに暮して、
年月を送るばかりなり。
これまことに歎きてもなお悲しむべし
           (御文章三帖目四通)

(意訳)人間のはかなさをよくよく見るに、
生まれたからには死は免れず、
栄華を誇る者もやがて衰える。
むなしく月日を送るすがたは
まことに嘆かわしいではないか

咲き誇った花も、やがて散る。
死の巌頭に立てば、死に物狂いでかき集めた財宝も、
名誉も地位も、すべてわが身から離散し、
一人でこの世を去らねばなりません。
こんな大悲劇に向かっている人類に、
絶対の幸福の厳存を明示された方が、
親鸞聖人です。

絶対捨てられない身にガチッと摂め取られて、
「人身受け難し、今已に受く」(釈尊)
“よくぞ人間に生まれたものぞ”と、
生命(いのち)輝く摂取不捨の幸福こそ、
万人の求める幸せであり、人生の目的なのです。

疑心を打ち砕かれた聖人の歓喜

“どんな人も必ず、
摂取不捨の幸福(絶対の幸福)に救い摂る”
と誓われた弥陀の本願。
しかし、そんなすごいお約束を素直に
信じられる人など一人もありません。
「本当に絶対の幸福など、あるのだろうか」
「どんな人もと仰るが、私も救われるのだろうか」
という疑いが、必ず起きてきます。

その疑心を粉砕された聖人の歓喜が、
「誠なるかなや、摂取不捨の真言」
なのです。

摂取とは、逃げ回っているものを追いかけて、
もう逃げ場のないところまで追い詰めて救う、
という意味です。
私たちは皆、阿弥陀さまに背を向けて
逃げ回っているのです。
そんな私をどこまでも追いかけ、追いこんで、
「逃しはせぬぞ。必ず救う」と摂取不捨。

「弥陀の本願まことだった、
摂取不捨の真言本当だった。

この親鸞が生き証人だ。
どうか皆さん、早く絶対の幸福になってくれよ


この聖人の断言に、
私たちはどれだけ励まされることでしょう。

仏法は聴聞に極まる

では、どうすれば聖人と同じ、
摂取不捨の幸福に生かされるのか。

聞思して遅慮することなかれ
と教えられています。
「聞思」とは「聴聞」のこと。

蓮如上人は、
仏法は聴聞に極まる
と仰せです。
弥陀の救いは聞く一つなのです。
ちょっと聞いて合点したのが救いではありません。

いつも信心の一通りをば、われ心得顔の由にて、
何事も聴聞するにも、その事とばかり思いて、
耳へも確々(しかじか)とも入らず、(乃至)
かくの如きの心中にては、
今度の報土往生も不可なり
              (御文章二帖目五通)

(意訳)ひととおり聞いて分かったつもりになり、
同じ話を「またあの話か」と馬鹿にして耳にフタをする。
それでは仏法は聞けない、報土往生はできないのである。


ただ珍しきことを聞きたく思うなり。
一つことを幾度も聴聞申すとも、
珍しく、はじめたるようにあるべきなり

             (蓮如上人御一代記聞書)

珍しい話、変わった話を聞きたがるが、何度、
同じことを聴聞しても、初事、初事と聞かなければならない
珍しい体験談や、知識を増やすための聞法では、
ダメです。

阿弥陀如来の救いを、
自分の具体的な体験(いつ、どこで、どうなった)
で語る人がありますが、それは、
万人に通ずる教えではありません。

各人各様の体験談を聞いて救われるのではないのです。
「泣いた」「笑った」「跳び上がった」「念仏が噴き上がった」
のが弥陀の救いではありません。

蓮如上人の金言を胸に、阿弥陀如来の御心(弥陀の本願)
をよくよくしっかりと、聞かせていただくことが肝心です。

 

 


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弥陀は「極楽への往復切符」も授けてくだされる! [親鸞聖人]

 

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の「とどろき」より載せています)

約800年前、親鸞聖人がお生まれになり、
教導されなければ、
私たちは知ることも、達成することも
できなかったであろうことがあります。
その聖人のご生誕を寿ぎ(ことほぎ)
無上の妙法聞かせていただく勝縁が、
「親鸞聖人・降誕会(ごうたんえ)」です。

(平成21年5月号のとどろきから載せています)

今日、世界の光と仰がれる親鸞聖人は、
90年の生涯、どんなことを教えていかれたのでしょうか。

今回は、「恩徳讃」といわれる有名なお言葉に込められた
親鸞聖人の御心を、聞かせていただきましょう。

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「如来」とは、本師本仏の阿弥陀如来のこと。
「本師本仏」とは、大宇宙に無数にまします
仏方の先生ということです。
「如来大悲の恩徳」とは、
阿弥陀如来の大慈悲心によって救われたご恩
ということで、
「そのご恩には、身を粉にしても」とは、
身命を賭してもお返しできない、
と言われているのです。


私たちの生活で、そこまでの恩返しがあるでしょうか。
どの医者にも見放された病気を治してもらったとしても、
その報恩に命まで捨てようとは思いませんし、
全財産投げ出そうとも思えません。

ところが親鸞聖人は、阿弥陀如来から受けた洪恩(こうおん)は、
死んでも報い切れない、
その阿弥陀如来の大悲を伝えてくだされた
方々(師主知識)のご恩も、
骨を砕いても済みません、と言われています。

恩徳讃は、親鸞聖人が救われて
阿弥陀如来と先生方のご恩を
讃嘆(さんだん)された詩なのです。

絶対の幸福に
     救われたからこそ

阿弥陀如来に救われたことを、親鸞聖人は、

愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦
雑行を棄てて、本願に帰す
 (教行信証)

親鸞は、29歳、雑行をすてて阿弥陀仏に救われた
と記されています。
『正信偈』冒頭にも、

帰命無量寿仏如来
南無不可思議光

“阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ。
阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ”
と叫ばれていることは、
繰り返し詳述してきたとおりです。

「救われた」といっても、いろいろあります。
凍死しそうな時に、温かいものをもらって命拾いした。
遭難を救助されて急死に一生を得た。
これらみんな「救われた」といいますが、
親鸞聖人が
「救われた」と言われているのは、
阿弥陀仏の本願に救われた」ことです。

阿弥陀仏の本願とは、阿弥陀仏のお誓い、
お約束のことで、

「  どんな人をも
我をたのまん衆生は
  必ず助ける
       絶対の幸福に

というお約束です。
その本願に救われた、とは、
本願のとおりに「絶対の幸福に救われた」ことです。

「阿弥陀仏の本願まことだった、まことだった」
とハッキリ知らされたことを、
「本願に帰す」と言われているのです。
しかも、この弥陀のご恩はあまりにも大きくて、
身を粉にしても報い切れない、
とおっしゃっているのです。

そして、弥陀がいかに尊いご本願を建立されていても、
伝えてくださる方がなければ親鸞、
知ることはできなかたであろう。
弥陀の本願を届けてくだされた、インド・中国・日本の
師主知識(善知識)方の厚恩にも親鸞、
骨を砕いてもお返しできない、
と感泣されているのが「恩徳讃」なのです。

●「浄土へ往っても
         日帰りだ」

「身を粉に、骨砕いても」とは
オーバーに聞こえるかもしれませんが、
親鸞聖人はお亡くなりになる時、
こう言われています。

我が歳きわまりて、
安養浄土に還帰すというとも、
和歌の浦曲(うらわ)の片男波(かたおなみ)の、
寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。
一人居て喜ばは二人と思うべし、
二人居て喜ばは三人(みたり)と思うべし、
その一人(いちにん)は親鸞なり

            (御臨末の御書)

「我が歳きわまりて」とは、
「親鸞いよいよこの世の命尽きた」ということですが、
これは聖人だけにあるのではない。

私たちすべての確実な未来です。
早ければ今晩。
では、死んだらどうなるか、ハッキリしているでしょうか。

今年の2月、滝田洋二郎監督の映画『おくりびと』
がアカデミー賞を受賞し、
「外国語映画部門」では日本人初の快挙と報じられました。
死者に化粧を施し、
衣装を着せて棺に納める「納棺師」の男性が、
人間の生と死を見つめ直し成長していく物語。
「死」という普遍的なテーマを正面から描き、
「人間の尊厳」を訴えたことが、文化の違いを超えて
世界中の心をとらえた、と評価されています。
考えてみれば私たちは、遅かれ早かれ、
百パーセント死んでいかねばなりません。
「死の旅路」への、いわば「おくられびと」になる時が来るのです。

死ねば遺体は大事に納棺され、通夜、
葬儀が執り行われるでしょう。
最後は火葬され、一つまみの白骨となりますが、
それは肉体のこと。
では魂の行く先は?ハッキリしているでしょうか。

そもそも物質的なもの以外に、
消えずに残る何かが、有るのか、無いのか。
「死後の有無」すらも分かっていないのが、
実際のところでしょう。

私たちの肉体を、単純に「物質」として計算すると、
一人分の原価はわずか5000円だそうです。
内訳は、脂肪が石鹸7個分、炭素が鉛筆の芯9000本分、
鉄分が2寸釘1本分、リンがマッチの頭2200個分、
以上合計5000円、というわけです。

そう知ると、「遺体を大事に扱うことに、
そんなに意味があるのだろうか」と疑問に思ったり、
「人間の尊厳」が、
5000円ぽっきりの「肉体」にあるはずがないと、
なんとなく感じる人もあるでしょう。

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では、肉体が死んで灰になると、
「私」は一体どうなるのだろうか。

ガンと10年闘って世を去った岸本英夫氏(東大宗教学教授)が、
死と真正面から向き合った記録は壮絶です。

生命を断ち切られるということは、
もっとくわしく考えると、どういうことであるか。
それが、人間の肉体的生命の終わりであることは、
たしかである。
呼吸はとまり、心臓は停止する。(中略)
しかし、生命体としての人間を構成しているものは、
単に、生理的な肉体だけではない。
すくなくとも、生きている間は、人間は、
精神的な個と考えるのが常識である。
生きている現在においては、自分というものの意識がある。
「この自分」は、死後どうなるかという点に集中してくる。
これが人間にとっての大問題となる。

          (『死を見つめる心』)

死後が「有る」ように思うし「無い」ようにも思う。
分からない。
すべての人は、未知なる後生に向かって生きているのです。

われわれは断崖(危険)が見えないように、
何か目隠しをして平気でそのなかへ飛びこむ

パスカルは危ぶみます。
思えば私たちは、真っ暗がりの中を、
突っ走っているようなもの。
「死んだらどうなるか」未知の世界に入ってゆく底知れぬ不安を、
何かでごまかさなくては生きてはゆけない。

文明文化の進歩といっても、
後生暗い心が晴れない限り、
このごまかし方の変化に過ぎないといえましょう。

しかし、このごまかしは続かないし、
なんら問題の解決にはなりません。
何を手に入れても束の間で、
心からの安心も満足もない、
火宅のような人生にならざるをえないのです。

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ところが親鸞聖人は、そうではなかった。
「安養の浄土に還帰す」

親鸞死ねば、阿弥陀仏の極楽浄土に往く”
とハッキリ言われています。

これを「往生一定」といい、
“阿弥陀仏の極楽浄土へ往くことが、ハッキリした”ことです。

往生一定になった時、
未来永遠変わらない大満足の身になりますから、
これを「絶対の幸福」ともいわれます。

しかもその弥陀の救いは、一念という何兆分の一秒よりも
短い時に完成します
から、蓮如上人は、

たのむ一念のとき、
往生一定・御たすけ治定
」(領解文)

と教えられています。

29歳の御時、「往生一定」の身になられた聖人は、
それから61年間、身を粉に骨を砕いて、
不思議な弥陀の本願の開顕一つに
驀進(ばくしん)されたのですが、まだ足らぬ、
相済まぬ、九牛の一毛も報い切れないと、
90歳でお亡くなりになる時には、
「極楽でのんびりなんかしてない。
寄せては返す海のように、親鸞、すぐに戻ってくるからなあ」
とおっしゃっています。

みんな、何のために生まれてきたのか、
生きているのか、分かりませんから、
科学は進歩し医学は発達して、
これだけ世の中便利になっても、
少しも自殺者は減りません。
苦しみ悩みは絶えないのです。

だから聖人は、
“人間に生まれたのはこれ一つのためであったと出世の本懐、
果たすまで、親鸞は寄せかけ寄せかけ戻ってくる。
だから、一人で喜んでいる時は二人、
二人の時は三人と思いなさい。
喜んでいる時だけでない。
苦しい時も、悲しい時も、悩める時も、
常に親鸞がそばにいるからね”
と呼びかけていられるのが、
このご臨末のお言葉なのです。

すべては
   弥陀より賜るもの

では、どうしてそんなことができるのでしょうか。
聖人は、

「小慈小悲もなき身にて
有情利益はおもうまじ」
      (悲嘆述懐和讃)

慈悲のカケラもない親鸞、
他人を幸せにしたいという心など、
これっぽっちもない”
といわれています。
その聖人が、どうして“死んでからもすぐに戻ってくる”
と、「恩徳讃」の活躍をなされたのか、
と不審に思われる人もあるでしょう。

それについて『正信偈』には、

往還廻向由他力(往還廻向は他力による)
と教えられています。

「往還廻向(おうげんえこう)」とは、
往相廻向(おうそうえこう)と還相廻向(げんそうえこう)
の二つの廻向をいわれます。
「廻向」とは、差し向ける、与えること、
「他力」とは阿弥陀仏のお力のことですから、
往相廻向と還相廻向、二つの働きはひとえに
阿弥陀仏のお力によるのだ

と言われているお言葉です。
「往相」とは、「往生浄土の相状」のことです。
この世で阿弥陀仏の本願に救われて、
往生一定の身になった人は、
一日生きれば一日、一年たてば一年、
極楽へ極楽へと近づいていることになる。

この「極楽浄土へ往く相」を「往相」といいます。
この働きは阿弥陀仏が与えてくださるものですから、
これを「往相廻向」といわれます。

次に、「還相」とは「還相穢国の相状」のことで、
「還来」は戻ってくること。
「穢国」とは、この娑婆世界のことです。
娑婆というのはインドの言葉ですが、
中国では堪忍土といって、
言いたいことでも言ってはならない、
言いたくないことでも言わねばならない、
やりたいことでも我慢しなければならない時もあれば、
やりたくないことでも、やらねばならない時もある。
そのように、堪え忍ばなければ生きていけない世界なので、
この世のことを堪忍土、娑婆といわれる。
穢れた世界ですから「穢国」ともいわれます。

それで、阿弥陀仏に救い摂られ死んで極楽へ往った人が、
衆生済度のために娑婆世界に戻ってくる相を、
「還来穢国の相状」=「還相」といわれるのです。

(※衆生済度とは、苦しんでいる人々を助け、救うこと)

「寄せかけ還ってくる」の聖人ご臨末のお言葉は、
その告白であり、この働きも阿弥陀仏から賜るものですから、
「還相廻向」といわれ、「往相廻向」と合わせて
「往還二廻向(おうげんにえこう)といわれています。
分かりやすくいえば、
極楽への往復切符を頂くようなもので、
往くも還るも弥陀のお力による、ということです。

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『正信偈』には続いてこう書かれています。

正定之因唯信心(正定の因は唯信心なり)」

その往還廻向の働きの元は、
「唯信心一つなのだ」と言われているお言葉です。

この一念の信心一つで救われると教えられたのが
親鸞聖人ですから、
親鸞聖人の教えを、「唯信独達の法門」ともいわれます。
「ただ信心一つで、人生の目的が達成できる」
ということです。
これを無我に相承(そうじょう)された蓮如上人は、
有名な「聖人一流の章」に、

聖人一流の御勧化の趣は、
信心をもって本とせられ候
」 (御文章)

と断言され、また、

祖師聖人御相伝一流の肝要は、
ただこの信心一に限れり。
これを知らざるをもって他門とし、
これを知れるをもって真宗のしるしとす

          (御文章)

当流親鸞聖人の勧めまします所の一義の意というは、
先ず他力の信心をもって肝要とせられたり

             (御文章)

開山聖人の御一流には、それ、
信心ということをもって先とせられたり

             (御文章)

当流には信心の方をもって先とせられたる、
その故をよく知らずは徒事なり

              (御文章)

とも教示されています。

いずれも、
親鸞聖人90年の生涯、教えていかれたことは、
ただ信心一つであったのだ

(信心=阿弥陀仏からいただいた「南無阿弥陀仏」のこと)
ということです。そして、ご遺言には、

あわれあわれ、存命の中に皆々信心決定あれかしと
朝夕思いはんべり、
まことに宿善まかせとはいいながら、
述懐のこころ暫くも止むことなし

             (御文章)

と、私たちの「信心決定」一つを念じ、
真剣な聞法を教え勧めていかれたのです。

●「身を粉に骨を砕きても」の御心

29歳の御時、阿弥陀如来の本願に救い摂られた聖人は、
90歳でお亡くなりになるまで61年間、
文字どおり「身を粉に骨砕きても」の「恩徳讃」のご活躍をなされ、
なおもご臨末に、

“寄せかけ寄せかけ戻ってくる。
苦しい時も、悲しい時も、悩める時も、
常に親鸞がそばにいるからね”
と私たちに呼びかけていられる御心。
それは、「みなみな信心決定あれかし」
「どうかすべての人よ、片時も急いで、
阿弥陀如来の本願に救われてもらいたい」
これ以外に何もなかったことが、
お分かりになるでしょう。


 


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弥陀の本願ひとつを伝えられた七高僧方とは! [親鸞聖人]


(真実の仏教を説いておられる先生の書物「とどろき」から載せています)

印度西天之論家(印度西天の論家、)
中夏日域之高僧(中夏・日域の高僧)
顕大聖興世正意(大聖興世の正意を顕し)
明如来本誓応機(如来の本誓、機に応ずることを明かす)

                  (親鸞聖人・正信偈)

『正信偈』冒頭に、
「帰命無量寿仏如来
南無不可思議光」

“阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ、
阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ”

と、絶対の幸福に救われた自らのことを
告白された聖人が、
どうしてこの身に救われることができたのか。
まったく弥陀のお計らいであった、

その弥陀の御心を明らかにされた釈迦の教えを、
インド・中国・日本の七高僧方が、
親鸞まで正しく伝えてくだされたおかげであったのだ

と、広大なご恩を喜ばれているのが、
「印度西天之論家
中夏日域之高僧
顕大聖興世正意
明如来本誓応機」
の4行です。

「印度西天之論家」とは、
印度で活躍された龍樹菩薩天親菩薩
二菩薩のことであり、
「中夏日域之高僧」とは、
中国の曇鸞大師道綽禅師善導大師のお三方と、
日本の源信僧都法然上人のお二人のこと。
これら三国の七人の方を、
親鸞聖人は「七高僧」と仰がれ、
その偉大な功績を続いて、
「顕大聖興世正意」
七高僧方は、大聖興世の正意を、
顕かにしてくだされたのである

と讃えておられます。

「大聖」とは、仏教を説かれたお釈迦さまのこと、
「興世」とは「現れられたこと」、
「正意」は「正しい御心」のことですから、
「大聖興世の正意」とは、
「釈迦がこの世に現れられて、仏教を説かれた目的」
ということです。

それを七高僧方は、
どのように鮮明にされているかというと、

唯、阿弥陀如来の本願ひとつを説かれるためであった
と、共通して、明らかにされているのです。

●ただ、阿弥陀如来の本願ひとつ

「阿弥陀如来の本願」とは、
本師本仏の阿弥陀如来が、


“どんな人をも
必ず助ける
絶対の幸福に”


と誓われているお約束のことで、
有名な『歎異抄』の冒頭には
「弥陀の誓願」とも言われています。

「誓願」とは「約束」のことです。
釈迦は、この「弥陀の誓願」ただ一つを説くために
仏教を説かれた、
それが「大聖興世の正意」であったのだ
と、
七高僧方が顕らかにされたことを『正信偈』に、
「顕大聖興世正意(けんだいしょうこうせしょうい)」
“大聖興世の正意を顕らかにされた”
と仰っているのです。

釈迦の教えは、
七千冊余りの膨大な数のお経になって
書き残されており、「一切経」と言われます。

その一切経に、何が説かれているのか。
釈迦は80年の生涯、どんなことを教えられたのか。
古今の歴史上、いろいろな人が、それぞれに解釈して、
「これが仏教だ」「釈迦の真意だ」と主張します。
そんな中、七高僧方はいずれも、
「仏教を説かれた釈迦の正意は、
弥陀の本願一つであったのだ」
と断言されているのです。


これは、ちょっとやそっとの問題ではありません。
ことは仏法です。
未来永劫の救いを説かれた仏教を、
間違って伝えたならば、
取り返しのつかないことになる。

たぶんこうでしょう」「私はそのように味わっています」
などという無責任発言は許されません。

その仏教について、
「釈迦の正意は、これ一つであったのだ」
と断定することは、誰でも彼でもできることではない。

7千余巻の一切経を余すところなく読破して、
すべて正しく理解されていなければ、
とても言えることではないのです。


その難事を、インド・中国・日本の、
これらの方々なればこそなされたのだ、
そのおかげで親鸞、弥陀の本願を知らされ、
救い摂られることができたのだ。
深きご恩を忘れることはできない、
お返しせずにおれないと、
このあと七高僧をお一人ずつ、名前を挙げて、
その活躍を懇ろ(ねんごろ)に紹介されているのです。

では七高僧方は、どのように、
釈迦の正意である「弥陀の本願」
を明らかにしてくだされたのか。

●七高僧方のご活躍

龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)
約1900年前、インドの人です。
釈迦がお経に、
「私の死後700年ののち、
南インドに龍樹という者が現れ、
大乗無上の法を伝えるであろう」
と予言されている、
その通りに世に登場して大活躍されました。


今日「小釈迦」と呼ばれるほど、
仏教の諸宗派かた尊敬され、
『御文章』にも
八宗の祖師龍樹菩薩」(一帖目十四通)
と言われています。

主著の『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろうん)』に、
仏教を「難行道」と「易行道」に分けられ、
易行の「弥陀の本願」を勧められているのです。

天親菩薩(てんじんぼさつ)
約1700年前、インドの人で、「世親菩薩」ともいわれます。
主著の『浄土論』は、
弥陀の本願を釈迦が説かれた
『大無量寿経』の注釈書
であり、
仏教で「論」といえば
『浄土論』のことを指すほど有名です。
『往生論』ともいわれます。
他にも多くの著書があり、
「千部の論主(せんぶのろんじゅ)」
ともいわれています。

曇鸞大師(どんらんだいし)
約1500年前、中国の人です。
親鸞聖人は、お名前の「鸞」の字を
曇鸞大師から頂かれました。

また、『高僧和讃』の中で、
曇鸞大師についての和讃が一番多く、
三十四種あります。

『正信偈』にも「本師」曇鸞と仰っている
(他には直接のお師匠・法然上人のみ)ことからも、
いかに聖人が曇鸞大師を
尊敬されていたかが知られます。

主著の『浄土論註』は、
天親菩薩の『浄土論』を解釈されたもの。
「註」とは解釈のこと。
仏教で「論註」と言えば『浄土論註』を指すほど有名で、
『往生論註』ともいわれます。

道綽禅師(どうしゃくぜんじ)
約1400年前、中国の人です。
主著『安楽集』に、
仏教を「聖道仏教」と「浄土仏教」
の二つに分けられ、
「聖道仏教では助からぬ。
浄土仏教・弥陀の本願のみを信じよ」
と、断言して教えられました。

これは道綽禅師のような方でなければ
できないことであったと、
偉大な功績を親鸞聖人は、
「道綽決聖道難証(道綽は聖道の証し難きことを決し)
唯明浄土可通入(唯浄土の通入すべきことを明かす)」
                (正信偈)
と讃嘆されています。

善導大師(ぜんどうだいし)
約1300年前、中国の人。
中国で最も仏教の栄えた唐の時代。
親鸞聖人は『正信偈』に、
「善導独明仏正意(ぜんどうどくみょうぶっしょうい)
多くの僧侶がいたが、
「仏の正意」に明らかであったのは、
善導大師お一人であった

と、絶賛されています。
とても普通の人間とは思えないと、
聖人は「大心海化現の善導」
(仏さまが、極楽から姿を変えて現れられた方)
とも言われています。


主著の『観無量寿経疏』は、
釈迦の『観無量寿経』を解釈されたものです。

夢に現れた仏の教導を仰いで著されたので、
「写す者は経の如くせよ。一字一句、加減すべからず」
と、自ら仰っているお聖教です。

源信僧都げんしんそうず
約1000年前、日本の人。
「恵心僧都」ともいわれます。
主著の『往生要集』には、
地獄・極楽の様子がつぶさに描写され、
早く浄土往生の身になることを勧められています。


臨終の母君に説法され、
弥陀の本願に喜ぶ身となられたことをご縁として、
著されたといわれます。
(※弥陀の本願に喜ぶ身とは、弥陀に救われたこと)

法然上人(ほうねんしょうにん)
約900年前、日本の人。「源空」ともいわれます。
親鸞聖人の直接のお師匠さまです。
智慧優れ、仏教の大学者であられたことから、
「智慧第一の法然房」「勢至菩薩の化身」
と仰がれました。

勢至菩薩は、阿弥陀如来の智慧を表す菩薩であり、
化身とは、その生まれ変わりのこと。

かの有名な『選択本願念仏集』は、
弥陀の本願以外のすべての仏教を捨てよ、
閉じよ、閣けよ(さしおけよ)、抛てよ(なげうてよ)」
と徹底された書で、「捨閉閣抛(しゃへいかくほう)」
といわれます。

当時の仏教界に、水爆のような衝撃を与えました。
いずれの方も、「弥陀の本願」ひとつを
教えられたことがお分かりでしょう。


そして、
「明如来本誓応機(みょうにょうらいほんぜいおうき)」
「如来の本誓、機に応ずることを明らかにされたのだ」
と、親鸞聖人は『正信偈』に続けて仰っています。

「如来の本誓」とは、「阿弥陀如来の本願」のこと。
その「弥陀の本願」が、
「機に応ずる」と言われている「機」とは、
私たち人間のことです。

世の中にはいろいろな人があります。
男もいれば女もいる。
肌や瞳の色、国や言葉も違えば、顔かたちも違う。
感情的な人、論理を重んじる人、性格もまちまちですが、
阿弥陀如来の本願は、どんな人にも適応する」ことを、
「如来の本誓は、機に応ずる」
と言われているのです。

ちょうど水が、どんな器にも、
器に応じて入るようなものです。
丸い器なら丸く、
四角い器なら四角く水は入ります。
水が器を選んで、
こんな器には入らない、適応しない、
ということはありません。

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同様に、阿弥陀如来の本願は、
「どんな人でも必ず救う」
と誓われたお約束であることを、
七高僧方が明らかにしてくだされた
ことを、
「如来の本誓は、機に応ずることを明かす」と言われ、
そのおかげで親鸞、救われることができたのだと
感泣されている聖人は、
『教行信証』の冒頭に
こうも感激を告白されています。

ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしきかなや、
西藩・月氏の聖典、東夏・日域の師釈に、
遇い難くして今遇うことを得たり、
聞き難くして已に聞くことを得たり。
真宗の教・行・証を敬信して、
特に如来の恩徳の深きことを知んぬ。
ここを以て聞く所を慶び、獲る所を嘆ずるなり

              (教行信証総序)

ああ、幸せなるかな親鸞。
なんの間違いか、毛頭遇えぬことに、今遇えた。
絶対聞けぬことが、今聞けた。
釈迦が、どんなにすごい弥陀の誓願を説かれていても、

伝える人がなかったら、絶対の幸福に
救われることはなかったにちがいない。
ひろく仏法は伝えられているが、
弥陀の誓願不思議を説く人は雨夜の星である。
その希有な、弥陀の誓願を説く
インド・中国・日本の高僧方の教導に、
今遇うことができたのだ。
聞くことができたのだ。
この幸せ、何にたとえられようか。
どんなによろこんでも過ぎることはない。
それにしても知らされるのは、
阿弥陀如来の深い慈恩(じおん)である。
なんとか伝えることはできないものか

はじめに『教行信証』を起草せずにおれなかった心情を、
こう述べて、六巻の『教行信証』は書き始められています。
『正信偈』の中ではこれを、
「印度西天之論家
中夏日域之高僧
顕大聖興世正意
明如来本誓応機」
と讃えられ、懇ろにその教えをひらかれているのです。 

 


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本当の仏教の先生に会うことはいかに難しいか [苦しみの根源]


(真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」から載せています)

真の知識にあうことは
難きが中になおかたし
流転輪廻のきわなきは
疑情のさわりにしくぞなき
        (親鸞聖人)

「真の知識」とは、本当の仏教を説く先生のことです。
「本当の仏教」とは、
「流転輪廻のきわなきは、疑情のさわりにしくぞなき」
と教える仏教のこと
で、
このように説く真の知識には、めったにあえないものである
と聖人は仰っているのです。

では、
「流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき」

とはどんなことか、解説を続けましょう。

●「流転輪廻のきわなきは」とは

「流転輪廻」とは、安心・満足というゴールのない円周を、
いつまでもグルグル回って苦しんでいるさまをいいます。

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禅僧・一休は、
人生は 喰て寝て起きて糞たれて 
子は親となる 子は親となる

と歌いました。

人が生きるということは、食べたり出したり、
寝たり起きたりしている間に、
小学校から中学、高校、大学と進み、
就職し、色気づいて結婚し、
子が親となって子育てしながら、
あくせく働いているうちに、気がついたらはや中年。
あーあ、もう人生の折り返し地点か、
などと寂しがっていると、
あっと言う間に退職を迎え、
いつの間にか孫が生まれて、
「おじいちゃん」「おばあちゃん」になっている。

こうして「喰て寝て起きて」を
何万回と重ねている私たちですが、
その間に「生まれてきてよかった」と
言えるほどの何かいいことあったでしょうか。

「今までで、一番うれしかったことは?」
「どんなときが幸せ?」
と聞かれて、即答できる人はどれだけあるでしょう。
「いやぁ、何かいいことあったかなぁ・・・・」。
昨日見た夢と区別がつかない程の記憶しか残っていないのが、
多くの人の実態ではないでしょうか。

そんな人生を聖人は、
「流転輪廻のきわなきは」
と言われているのです。
この果てしない流転輪廻(苦しみ)から、
「必ず救う。絶対の幸福にしてみせる」
と誓われているのが、阿弥陀仏の本願です。

なぜ苦しむのか

「肛門に目薬」とは、的外れな対処をヤユした言葉ですが、
痔が痛くてつらいのに、
そこへ目薬を差してもどうにもなりません。
そんな例えなら笑って済まされましょうが、
何ごとも原因を知らなかったり、
間違えたりすると大変なことになります。
治る病気も助からない。

お腹が痛い時でも、胃潰瘍の痛みか、
ガンからきているのか、神経性のものなのか、
正しい診断がなければ、的確な治療は望めず、
当然、患者の苦しみは除かれません。

胃ガンを潰瘍と誤診していたらどうなるか。
間違った治療を続けているうちに、
取り返しのつかないことになってしまいます。
病気の原因を突き止めることが、
治療の先決問題でしょう。


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私たちはなぜ苦しみから離れられないのか。
「人間に生まれてよかった」という喜びがないのでしょうか。

流転輪廻のきわのない本当の原因を、
正しく見極めてこそ、それを取り除いて、
真に輝く人生が開かれるのです。

苦悩の真因を、親鸞聖人はこう説かれています。
「疑情のさわりにしくぞなき」

疑情とは「無明の闇」のこと、
「しくぞなき」とは、これ以外にない、
これ一つということですから、

「すべての人が、苦しみから離れ切れない元凶は、
無明の闇ひとつなのだ」
と断言されているお言葉です。

私たちが最も知りたい、知らねばならないことを、
聖人は一言で説破されているのです。

●「無明の闇」とは何か

「無明の闇」とは、何なのか。
「無明」とは「明かりが無い」と書くように、
「暗い」ことです。
暗いことを「闇」とも言われますから、
意味を重ねて「無明の闇」と言われています。
「暗い心」のことです。
「暗い」とは分からない、ハッキリしないことで、
例えば「経済に暗い」といえば、
経済のことを知らないこと、
「パソコンに暗い」とは、パソコンのことはよく分からない、
ということ。
「無明の闇」とは、「後生」に暗い心をいうのです。
「後生」とは、私たちの100パーセント確実な未来です。

一休は、「元旦や 冥土の 旅の 一里塚」
と歌った。
「冥土」とは、死んだ後の世界です。。
年が明けると、みんな「おめでとう」「おめでとう」と言いますが、
私たちは「一年経てば一年、一日生きれば一日、
死に近づいております。
死ぬのは嫌じゃ嫌じゃと言いながら、
毎日、墓場に向かって行進しているのです。

すべての人が、後生へと向かっての旅人なのです。
たとえ地震や津波から逃げることはできても、
死ぬことから免れることはできません。
早ければ今晩かも知れません。
何かのことで吸った息が吐き出せなければ、
吐いた息が吸えなければ、その時から後生です。

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先のゴールデンウイーク、
関越道で高速バス死亡事故が起きました。
(平成24年のことです)
金沢を4月28日の夜に出発、富山県を経由して、
ディズニーランドのある浦安へ向かっていた夜行バスが、
92キロのスピードで防音壁に激突、
19歳の女性を含む7人の尊い命が奪われました。
乗客45名は皆、明日、目が覚めたら東京だ、
ディズニーランドだとワクワクしながらバスに乗り込み、
眠りに就いたにちがいありません。
ところが翌朝4時40分の事故で、
一瞬にして後生へと旅立ってゆかれた。

今生から後生へと変わるのには、
一日もかからない。
あっという間です。
50年や60年先のことではなく、
一息一息と触れ合っているのです
から、
人類70億の中で、後生と関係のない人は、
一人もありません。

ところが、普段「死」と聞いても、
ほとんどの人が「死んだら死んだ時だ」
「考えたって、どうにかなるものじゃない」
と、問題にもしていません。
肉親や友人の死にあって否応なしに考えさせられる時は、
「もうあの人には永遠に会えないのか。
いや待てよ、オレもやがて死ぬんだな」
と真面目にもなりますが、一過性で、
しばらくするとケロッとしています。
「そりゃあ、いつかは死ぬだろうが、
まだ当分、先のこと」と、死を先送りする。
死ぬということが、どうしても問題にならないのが私です。
「死ぬのは恐ろしい」と言ったところで、
ながめている他人の死と、眼前に迫った自己の死は、
動物園で見ているトラと、
山中で出くわしたトラほどの違いがあるのです。


秋田県のクマ牧場で、女性従業員2名が、
飼育していたヒグマに襲われ亡くなる事故が起きました。
いつも餌を与えていたクマたちが、
檻から逃げて目の前に出現した時の恐怖は、
どれほどだったことか。

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元気な時は、「死は休息だ」「永眠だ」「別に怖くないよ」
と気楽に考えていますが、“いざ鎌倉”となると、
先はどうなっているかが大問題となります。

死後は有るか、無いか。
無いなら無いでハッキリしているなら安心もできようが、
どうなっているやら、さっぱり分からない。
後生は真っ暗がりなのです。

この「死んだらどうなるか分からない心」を、
「無明の闇」といわれるのです。


阿弥陀仏は、この「無明の闇」こそが
私たちの苦しみの根元と見抜かれ、
「すべての人の無明の闇を破り、
必ず浄土へ往ける大安心に救う」
と約束なされている。
これが「阿弥陀仏の本願」です。


「本願」とは「誓願」とも言われます。
この「弥陀の誓願」を正しく伝える方を「真の知識」と言い、
そういう方はめったにおられないから、
「真の知識にあうことは 難きが中になお難し」
と仰っているのです。


そんな中、幸いにも親鸞は、
弥陀の誓願不思議を説かれる法然上人に
お会いすることができたのだ。
ああ、なんと幸せな者なのかと、
喜んでおられるお言葉なのです。

ここで、「無明の闇を破る」お力のある方が、
大宇宙広しといえども、
それは本師本仏の阿弥陀仏だけなのだよ
と、
親鸞聖人は、

無明の闇を破するゆえ
智慧光仏となづけたり
一切諸仏三乗衆
ともに嘆誉(たんにょ)したまえり

と褒め称えておられるのです。


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闡提とは何か [Q&Aシリーズ]

(質問)真剣に仏法を求めていくと、
      見えてくる闡提の機とはどんなことか。

闡提(せんだい)とは梵語で、断善根(だんぜんこん)
の衆生のことで、無信と訳されています。
微塵ほどの善根のない者をいいます。
信順を因と為し、疑謗を縁と為し、
信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕さん

        (教行信証)
と親鸞聖人の仰せのように、
謗法(ほうぼう)の者はまだ多少とも助かる
縁手掛かりがありますが、
闡提だけは全く助かる見込みがありませんから

『涅槃経』には「死骸のごとし」と説かれています。
親鸞聖人は「逆謗の屍」と仰っておられる心です。

これは己の死を真面目に凝視して真剣に求道しなければ、
見えてこない心です。

(※謗法とは、仏法を謗ることです。)

ある所に、よく喧嘩をする菓子屋の夫婦がいました。
今日もささいなことで口争いとなり、
ついには亭主は女房を殺すと言い、
女房は殺すなら殺せ、と叫喚怒号となりました。
たまたまそこへ通りかかった寺の和尚が、
また始まったかと思って、
「どうしたんだ、あまり大きな声を出すと、
人が寄ってきて笑うじゃないか、ほれほれ、
あんなに多くの子供が見ているじゃないか、
やめなさい、やめなさい」
と仲裁に入りますが、亭主は頑として聞かない。

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「和尚さん、今日という今日は我慢ならねえ、
今日こそ、かかあをたたき殺してやる、
捨てておいてください」
女房も女房で、
「和尚さんほうっといてください。
さあ!殺せるものなら殺してみろ」
とかみつかんばかりに逆上している。
思案に暮れた和尚は、
「これほど止めても聴き入れぬなら仕方がない、
殺すと殺されると勝手にするがよからう」
と言って、店先の菓子をつかんで、
「さあよいか、おまえたちにこの菓子全部くれてやるから、
好きなほど持っていけ」
と子供たちに、どんどんばらまいた。
菓子屋の夫婦は驚いた。
「和尚さん、何をされる、そんなことされては、
私たち、明日から商売できんじゃないですか」
と和尚のところへ飛んできた。
「何!明日から商売、殺すとか殺されるとか言っていたのは、
おまえさんらではないか、今殺される人と、
殺して牢屋へ行く人じゃないか、してみれば、
おまえさんらに用事のない菓子じゃないか」
と和尚が言うと、
「ああは言ったが、今晩また一緒に寝るつもりじゃ」
と言ったそうですが、
私たちには感情は激怒している時も、
その下に湖底のように静まり返っている心があります。

見えてくる
    腹底の心

特に真剣に仏法を聴聞していきますと、
ハッキリと2つの心があることが分かってきます。
死に直面すれば、一切のものが総崩れになり
真っ暗な後生に泣かねばならないのではないかと、
上の心は焦っても、天王寺の鐘を
蚊が刺したほどにも思わぬ心が、
腹底に横たわっていることに気がつきます。

地獄と聞いても驚かず、極楽と聞いても喜ばず、
仏法に明日という日はないのだと切り込まれても
急ぎもしなければ慌てもしない、
仏法に向かったら金輪際動かぬ心が闡提の機というのです。

上辺の心は罪悪の恐ろしさに縮み上がって、
今死んだら大変だと後生の一大事にジリジリしていても、
下の心は悪を悪とも思わず、
業を業とも感ぜず、キョロン、トロン、ボーと
知らん顔しているのです。

あの人が死んだのかと驚いて
同情の涙は流しても、その心の底には、
自分はまだ死なない、まだ死なないと、
後生とも菩提とも思わず、
平気でせせら笑っている心が闡提です。

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因果の道理を整然と聞かせていただければ、
教えには何一つ欠点はありませんから、
頭は分かりすぎるほど合点承知しているのですが、
どうしても承知しない納得しないやつが、
腹底にドタ牛が寝ているようにビリッとも動きません。

一念で
   生き返る

打ってもたたいても浴びるほど聞かせていただいても、
うんともすんとも言わない心です。
素直に聴聞しようとすればするほどひねくれてくる心、
はしにも棒にもかからぬ心、
三世の諸仏があきれて逃げた心は
この心であったのかと泣かずにはおれない心です。

この死骸のような闡提の機が、
若不生者の念力に貫かれた一念で生き返り、
聞き切らんやつが聞かされ、
金輪際なれぬやつが成らされ、
「謗法闡提(ほうぼうせんだい) 
廻心皆往(えしんかいおう)」を体験されるから、
不可称不可説不可思議のご本願よと、
感泣せずにおれないのです。
(※若不生者の念力に貫かれるとは、阿弥陀仏に救われること)


タグ:謗法 闡提
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聖道仏教ではなぜ助からないのか? [聖道仏教と浄土仏教]

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親鸞聖人の主著「教行信証」

聖人の代表的著作
     三重廃立の教え

親鸞聖人の代表的著作と言えば『教行信証』である。
聖人の教えは、すべて、このお聖教の中に記されており、
故に、浄土真宗の根本聖典となっている。
『教行信証』を知らずして、
親鸞聖人のみ教えを知ることはできない。

では、何が説かれているのか。
ズバリ、「三重廃立」である。
「廃立」とは、捨てものと、ひろいもの、の意である。
全人類が、真実の幸福を獲得するためには、
三つのものを捨て、
三つのものを信じなければならない。

三重廃立とは、こうだ。
内外廃立・・仏教以外の全宗教を捨てて、仏教を信じよ。
聖浄廃立・・聖道仏教を捨てて、浄土仏教を信じよ。
真仮廃立・・浄土他流を捨てて真宗を信じよ。

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聖道仏教を捨てよ

今回は、「聖浄廃立」について、明らかにしよう。
「聖」とは聖道門自力の仏教のことであり、
宗派で言えば、天台宗、真言宗、禅宗などが代表と言える。
「浄」とは、浄土門他力の仏教であり、
浄土真宗、浄土宗などである。
「廃立」は前述の如く、
捨てるべきものと、信ずべきものであり、
親鸞聖人は、徹底的に、
聖道仏教を捨てよ、浄土仏教を信じよ、
と叫んでゆかれた。

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聖道権化の方便に
衆生久しくとどまりて
諸有(しょう)に流転の身とぞなる
悲願の一乗(いちじょう)帰命せよ

         (親鸞聖人)

聖道仏教という方便の教えを、
多くの人が真実の仏教と勘違いして、
長らくそこにとどまっているから、
たちまち短い一生が終わって、
迷いの世界に流転輪廻してしまう。
人々よ早く、聖道仏教を捨て、
全人類の救われる唯一絶対の教えである、
阿弥陀仏の本願に帰命せよ

『正信偈』の中にも、説かれている。
「道綽決聖道難証(どうしゃくけっしょうどうなんしょう)
唯明浄土可通入(ゆいみょうじょうどかつうにゅう)」

道綽は、聖道の証し難きことを決し、
唯、浄土の通入すべきことを明かす」と読む。

中国の高僧、道綽禅師は、聖道仏教では、
人々が救われないことをハッキリと教えられ、
唯一、浄土門他力の仏教こそ、万人の救われる道たることを
明確に説き切られた。

親鸞聖人は、その功績を讃えられ、
『正信偈』に記述しておられるのだ。

天台宗、真言宗といえども釈迦の説かれたみ教えなのに
何故に親鸞聖人は排斥されるのだろうか。

その前に、釈尊の教えは一つの筈なのに、
多くの宗派が存在するのは、何故なのか。
説明しなければならない。

仏教の目的は成仏
    手段の相違が宗派を生む

仏教とは、仏の教えであり仏になる教えである。
「仏」とは何か。
これは仏教でいう「さとり」の一名称なのだ。
仏教では、「さとり」という言葉をよく使うが、
さとりには、五十二の位がある。
それぞれに名前がつけられている。

例えば千三百年ほど前の中国で、天台宗を開いた天台は、
生涯独身を貫いて、仏道修業に打ち込んだ人物である。
天台の臨終に弟子が尋ねた。
「師は、いずれの位をさとられましたか」
その時、天台は正直に告白した。
「下から九段目の五品弟子位(ごぼんでしい)までしか
到達できなかった。
もし、私が、大衆の教化に時間を費やすことがなければ、
下から十段目の六根清浄位は獲ていただろう」

一宗一派を開いた程の人物にしてわずか九段。
如何に、さとりの階段を上るのが困難かが分かる。
仏の覚り、とは、この五十二位中の最上の位を言う。
五十二段目である。
これ以上の覚りはないから無上覚とも言い、
妙覚ともいう。
涅槃、大覚、無上正真道(むじょうしょうしんどう)などみな、
仏のさとりの異名である。
これに達した方のみを仏というのである。

釈尊の場合、生老病死の人生の無常を感じられて、
29歳で出家され、35歳までの6年間の難行苦行の末、
遂に35歳12月8日に、仏の覚りを極められたのである。
成仏得道、とこれを言う。
仏道修業は成仏得道、仏のさとりに達する事が目的である。
そこに、一切の苦悩から解放された世界があるのだ。

釈尊は、仏のさとりに至る修行を種々に説かれた。
目的は同一でも、手段が異なることはある。

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分け登る
ふもとの道は 異なれど
同じ高嶺(たかね)の
月を見るかな

この古歌の意味は
「登山する人は、いろいろな方角から登るが、
同じ頂上で、同じ月を見るのだ」
というものである。
富士山で言うならば、東から登れば御殿場口、
西から行けば浅間口、
北側からならば自動車道路スバルラインで5号目までは快適だが、
そこから頂上までは、やはり歩かねばならぬ。

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同様、仏の覚りを開いて眺める真如の月は同一でも、
修業方法は宗派によって異なる。

座禅の行を主とする禅宗、
彼らは、「只管打坐」ただすわれ、と言う。
天台宗は『法華経』に説かれる行を実践し、
真言宗は、『大日経』に従うのだ。
『華厳経』を所依(しょえ)とする華厳宗もあれば、
『涅槃経』に基づく涅槃宗などもある。
『浄土三部経』をよりどころとするのは
浄土真宗、浄土宗などである。

いずれも、目的は、成仏得道であるから、
それが見失われたら、もはや仏教ではない。

千日回峯行(せんにちかいほうぎょう)にみる
      自力難行道

数多ある宗派を、親鸞聖人は、
どのように、二種類に分類されたのか。

仏のさとりに向かうのに、
あくまでも、自力の難行で行こうとするものを、
自力聖道仏教
と言われ、
自力では到底仏果に達することはできない。
阿弥陀仏の本願に救われて、五十一段高飛びをし、
あと一段で仏という等正覚、正定聚(しょうじょうじゅ)の位に
入ろうとする教えを他力浄土仏教
と言われるのだ。

「他力」とは、阿弥陀仏のお力のみを言う。
他人の力、自然の力などの意味ではない。
親鸞聖人は、9歳から29歳まで、
自力聖道仏教たる天台宗で修業され、
29歳の御時、法然上人との運命的な邂逅(かいこう)により、
阿弥陀仏の本願力不思議に摂取されたのである。

自力と他力、聖道門と浄土門、双方を体験された聖人が、
聖道仏教を捨てよ、と教えられている。

そう教えられたのには種々の理由がある。
まず第一に「自力難行道」と言われる如く、
修業そのものが常人には到底為し難い(なしがたい)ほど
難しい点にある。

2、3例あげてみよう。
滋賀県比叡山の天台宗は、
『法華経』の教えの通りに修業しようという宗派であるが、
有名な、千日回峯行という荒行がある。
千日回峯行を成就した、というだけで、
新聞やテレビに紹介されるほどの凄まじい行なのだ。
修業の期間は8年間。
1年目から6年目までは、毎年百日ずつである。
百日間毎日、午前2時に起き、比叡山に設定された7里半、
30キロの行者道を歩くのだ。
この間、塔堂伽藍、山王七社、霊石、霊水など、
350ヶ所で所定の修業をする。
雨風雪でも中断はできない。
中断したならば、持参の短刀で自害するのが、
江戸末期まで、山の掟となっていた。
病気、事故でも、同様である。
伝教(でんぎょう)が山を開いてより、
幕末までわずか300人しかいないといわれるから、
随分、途中で切腹して果てた修行僧がいたに違いない。

6年間で600日頑張ると、
7年目は、一年間に200日と日数が倍加する。
その間、700日目に入った時には、
天台宗で「生き葬式」といわれる「堂入り」という修業がある。
堂に入って断食、断水、不眠、不臥(ふが)のまま、
9日間も、真言を唱え、経典を読み続けるのだ。

断食・・・食物を一切とらない。
断水・・・水を断つ。普通、3、4日も水を断つと
     生命が危険といわれる。
     それを9日間である。
不眠・・・「真言」を10万回唱えたり、
      経典を読んだりする。ねない。
      一日一回だけ、堂から出ることは許されるが、
      それは「水取り」といって、小便に行く時だけなのだ。
不臥・・・横たわってもいけない。

この堂入りを成し遂げた人の体験談。
「堂に入ってボンヤリしているのではなく、
たえず、経文を読み、誦文(じゅもん)を唱えているので、
口の中に水気がなくなりやがて、
口の中に粘膜を張ったようになり、
睡魔との闘いで、頭がガンガンしてくる。
それをすぎると、ある感覚が異常に研ぎ澄まされ、
線香の灰の落ちる音さえ『ドサッ』と聞こえる。
灰の落ちていく有様が、スローモーションのように見えてくる。
最後はほとんど意識を失った状態になる」

この9日間の堂入りが、
如何に至難なことか、比較してみよう。
親鸞聖人は19歳の時、
大阪磯長(しなが)の聖徳太子廟(びょう)を訪ねられた。
その時、自らの後生の一大事の解決を祈願して堂に籠もられた。
その折りも不眠、不休、断食、断水であったが、
3日間こもられた時、遂に意識不明で昏倒してしまわれた。

その夢の中に聖徳太子が現れて
「汝が命根(みょうこん)、応に(まさに)十余歳なるべし」
という一文を含む、夢告(むこく)をなされたのである。
磯長の夢告といわれ、
親鸞聖人の求道に大変な衝撃を与えている。
19歳といえば、体力的には、最高潮の時であろう。
その時期の親鸞聖人でさえ、3日間で意識不明になられたのだ。
9日間の堂入りが如何に至難の行であるか知られる。
親鸞聖人はそれ以後に、大曼の難行という、
千日回峯行のような行を果たしておられるから、
別の機会では、9日間の堂入りのような行も、
達成されたのであろう。

堂入りで終了ではない。
801日目から1000日にむかう最後の一年間は大回りといい、
修業コースが大幅に延びる。
21里、84キロメートルの道のりを日々修業するのだ。
オリンピックのマラソンの距離が、42.195キロであるから、
その倍の長さである。
オリンピックの金メダルの選手が走っても、
4時間以上かかるのだ。
そのようなコースは比叡山では設定できないので、
山を降りて、一乗寺、平安神宮、祇園と市街地を走る。
1日17~8時間かかるのだ。
それを年間200日、1日も休まず続けねばならない。
30年ほど前、それを達成したS氏は、
苦しかった体験を述べている。
「修業の途中、イノシシに追っかけられて、
左足を痛めた。
足が倍くらいにはれて、
このままでは行が中断されると思って
短刀で切開してうみを出し、
血まみれで歩き通した。
その足で泥水の中も歩いたのに破傷風にもならず、
やり遂げることができた」
これだけ修業しても、仏果にはほど遠い、
初歩の段階でしかないのだ。
こんな修業を誰ができるというのか。
まさに難行道といわれる所以である。

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四十段までが退転位
   少しの油断も許されぬ

自力聖道の修業が難しいのは、さとりの五十二位中、
四十位までが退転位である点にもある。

退転位とは、退き、転がるの意で、
四十段までは、さとりを開くと言っても、
少しでも油断すると、たちまち崩れてしまうのだ。

法然上人と同時代、華厳宗に明恵という学僧がいた。
ある日、弟子が明恵の好物の雑炊を造って部屋に運んだ。
「おお、雑炊か」と、早速、
箸を手に一口食べた明恵の顔が曇った。
すると、何を思ったのか、明恵、茶碗を持ったまま立ち上がり、
障子に近寄って、桟にたまっていた埃を指ですくい、
雑炊にかけ始めた。
折悪くし、2、3日前から、弟子たちが掃除を怠っていたのである。
無言のうちにも、
その事を厳しく指摘されていると思った弟子は恐縮して、
いかにもまずそうに埃のかぶった雑炊を
黙々と食べ続けている明恵を見つめていた。

やがて食事を終えた明恵、
「先ほど、ワシは奇妙なことをしたであろう」
「まことに申し訳ございません。
お部屋のそうじをいたしておりませんでした」
「いやいや、そなた達のそうじのことをとやかく思ってのことでない」
「では、一体なぜ、あのようなことを」
「恥ずかしい事だが、お前の造ってくれた雑炊が、
あまりにも美味しかったので、一口食べたときに、
自分の心の中に美味しい食べ物に対する執着の心がムクムクと、
蛇の鎌首を持ち上ぐるように起こってきたのだ。
おいしい雑炊を作ってくれたお前の親切心だけを
味わえばよいのに、
余りに味が美味しかったので、味覚のとりこになろうとした。
ワシの心は実にあさましい限りだ。
だから、あわてて埃を入れて折角ながら、
おいしい味を消していただいたのだ。
これでやっと口先の誘惑からまぬがれることができた」
おいしい食べ物に心を奪われれば、心にスキが生じ、
さとりが、退転してしまうのだ。

それほどに油断なく自らを律していた明恵にして、なお、
さとりが退転してしまったことを記述している。
ある時、師匠から拝領(はいりょう)した念珠を手に
境内を散歩していた。
その時、ふとした油断から数珠を落としてしまった。
念珠は、仏を礼拝する時の大切な仏具である。
もとより大切に扱うべきであり、地面に落とすなど、
もっての外である。
特に聖道仏教は、こうした作法がやかましい。
「しまった」と思った明恵、咄嗟に、
もう一方の手で落ちてゆく念珠を受け止めたのである。
その時、「ああ、よかった」
と思った一瞬の心のゆるみから、
さとりが崩れてしまったというのである。

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四十一段目の不退転位に至るまでは、
そのように一瞬の油断も許されないから、
そんな所を難行苦行で極めていこうとする自力聖道仏教は、
我々凡夫の救われる教えではない。

千日回峯行にしろ、明恵の覚悟にしろ、
常人の想像を絶するような、
意志堅固な求道心の持ち主でなければ進めない。

自力聖道の菩提心
心も言葉も及ばれず
常没流転の凡愚は
いかでか発起せしむべき

      (親鸞聖人)
我々凡夫が、どうしてそのような、
自力聖道の菩提心を起こすことができようか。

親鸞聖人のご和讃が深くうなずかれるではないか。


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なぜ生命は尊いのか [なぜ生きる]


テストの成績を知られたくなくて、
保護者面談の日に自宅に火を放ち、
母と幼い兄弟を死なせた16歳少年がありました。
女性との交際をめぐって人を生き埋めにしたり、
隣近所の子供を狙ったり、
生命の尊厳を踏みにじる犯罪が相次いでいます。
悲劇が起きるたび、
「尊い命を守りましょう」
「命の大切さを実感させる」
「人命は地球より重い」
という言葉が多く掲げられます。
しかし、これは本当に、説得力のある言葉として
人々の心に響いているのでしょうか。
大人も子供も、「命は尊い」と本心から思っているのでしょうか


呼吸器取り外し問題と仏法

無理やり生かされるのはかわいそう?

「日本人の8割は、病院で死ぬ」
といわれます。
大多数の人が、そう遠くない将来、
かかわるであろう医療現場で、
末期患者の人工呼吸器が取り外され、
全国に議論を巻き起こしました。
(平成18年のことです)
奇しくも本誌編集部のすぐ近くの病院で
起きた出来事を通して、
仏教から“命の尊厳”を学びましょう。

今年の3月下旬、
富山県の射水市民病院の外科部長(当時)が、
ガン患者など7人の人工呼吸器を取り外していたことが
明らかになりました。

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病院長と外科部長の意見の相違から、
発覚したといわれますが、
両者の主張を整理すると、
まず病院長が指摘する外科部長の問題点は2つ。

1つは患者の意志がハッキリせず、
得られた家族の同意も口頭のみであったこと、
2つに、病院や他の医師に相談していないことです。
「明確な本人の意思が分からぬうえに、独断であった」
ことを問題視しています。

対して、外科部長は、
「快復の見込みもないのに、
人工的に無理やり生かされているのはかわいそう。
家族の同意も得たし、
患者のためにも死なせたほうがいい」
という考えです。

すべての人の100パーセント確実な未来である
死にかかわる問題に、大きな関心が寄せられました。
双方の見解に対して、新聞、雑誌などで論争が広がり、
さまざまな立場から、真摯に問う声が上がりました。
「医師が、『生命』のチャンスを断ってしまうのは
いかがなものかと疑問に思う」
「いかなる病院であっても人の生命を、
何の取り決めもなしに軽んじてはならない」

一方で、このような意見も多く見られました。
「意識もないのに生かされる延命治療は必要ないと思う」
「死に際しては、自然体が尊重されるべきだ」
「寝たきりの母を見ていると、
つい、楽にしてあげられたらと思う」
「意味のない延命は、医療費の無駄遣いでは?
家族の負担も心配だ」
その後、この病院では、「人工呼吸器は、
つけたら外さないことを基本方針として確認し
た」
と発表しました。

問われる大前提
     「延命の意味」と「命の尊厳」

それぞれの主張を突き詰めていくと、
このような論点が浮き彫りになります。
「延命に意味はあるのか」
「なぜ生命は尊厳なのか」

これはどういうことでしょうか。

例えば、「延命は是」という意見は、
「生きる=よいこと」という方程式が
正しいことを大前提にしています。
それが覆れば、延命は意味を失います。

逆に、「延命は患者に苦痛を与えるのみ」
と主張する人は、「延命は無意味、無目的」
と思っているのでしょう。
延命に重大な意味があれば、
苦痛があっても死なせてはならないからです。

いずれも、「延命に意味はあるのか」に
明解な答えがなくては、語れないことです。

ただ、多くの人は、この延命について、
「本人の意思を尊重せよ」
と結論づけています。
一見、もっともらしい回答ですが、この結論も、
「万人が命の尊厳を十分に知っている」
ことを大前提にしないと言えないことではないで
しょうか。

生死に無知なのは誰?

ところで私たちは、
「死」というものの実態をどれだけ知っているでしょう。
そもそも人が「死」を考える、という場合の「死」とは、
多くは「他人の死」であって、「自分の死」ではありません。

例えば肉親や知人が亡くなるのを見て、
「自分もいつか死んでいくんだな。
でもあんなふうに体中に管を巻かれて死にたくない」
と思ったり、
「できれば自分の意志で、
皆に送られながら自然に死にたいものだ」
と思っていますが、
これは、自分で見聞きした「他人の死」を
基準にして考えているだけで、
本当に「自分が体験する死」ではありません。
生きている私たちが、
「死」を体験するのは、すでに死んでしまった時で、
生きている人間には想像できないことなのです。

「死」があいまいなのですから、
生命の実態や、死後のこともだれも分かりません。

解剖学の権威という東大名誉教授も、
このようにサジを投げています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
死について考えるといっても、
自分の死について延々と悩んでも仕方がないのです。
そんなのは考えても答えがあるものではない。(略)
死んだらどうなるかは、死んでいないから分かりません。
誰もがそうでしょう。
しかし意識が無くなる状態というのは
毎晩経験しているはずです。
眠るようなものだと思うしかない。
そんなわけで私自身は、
自分の死で悩んだことはありません。
            (養老孟司「死の壁」)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「自分の死」ほどの大問題はないのに、
「仕方がない」とか、「悩んだことがない」で、
本当に納得できるでしょうか。

「死んだらどうなるか」が分からないから
「延ばした命で何をするのか」も
「なぜ命は尊いのか」も分からないのです。

だれしもが「生きる意味」「生命の尊厳」という
人生の根本問題に、
全く無知だということはないでしょうか。


仏陀・釈尊の教え
    「天上天下 唯我独尊」

ではそれを知るにはどうすればよいのか。
それは、人智を超えた仏さまの教えによって
知る以外にありません。

世界の三大聖人の筆頭に挙げられるお釈迦さまは、
35歳で大宇宙最高の仏のさとりを開かれ、
80歳でお亡くなりになるまでの45年間、
教えを説かれました。
では、生命の尊厳を、
仏教ではどのように教えられるのでしょうか。
釈尊は、
「天上天下 唯我独尊」
とおっしゃっています。

お釈迦さまが誕生された時、
天と地を指さされておっしゃったといわれるお言葉です。
多くの人は、これを
「この世でいちばん偉くて尊いものは、
自分一人である」
と、釈尊が威張り、
うぬぼれて言われたことのように扱っています。
しかし、このお言葉は、
決してそのような思い上がった御心で
おっしゃったものではありません。
なぜなら、この「我」というのは、
決して釈尊だけのことではないからです。
この「我」は、人間一人一人のことなのです。
「独尊」とは、たった一つの尊い使命ということで、
自分一人が偉いのだということではありません。

このお言葉は、我々人間は、天上天下、広しといえども、
たった一つしかない聖なる使命を果たすべく、
この世に生まれてきた、という意味なのです。

ですから、人間だれしも釈尊と同じように、
「天上天下 唯我独尊」
なのであり、またそういえるのです。
「私たちは、過去無量劫の永い間、
生まれ変わり、死に変わり、流転を重ねてきたが、
人間に生まれなければ絶対に完成できない
尊い目的があるのだ」
ということです。

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よくぞ人間に
     生まれたものぞ
  
      盲亀浮木(もうきふぼく)のたとえ

この尊い使命を果たした喜びを、
お釈迦さまはこうおっしゃっています。

「人身受け難し、今已(すで)に受く。
仏法聞き難し 今已に聞く。
この身今生に向かって度せずんば、
さらにいずれの生に向かってか、
この身を度せん」

「人身受け難し、今已に受く」
とは、
「生まれ難い人間に、生まれることができてよかった」
という喜びの言葉です。
「よくぞ人間に生まれたものぞ」
という生命の大歓喜です。
仏教では、
「人間に生まれたことは大変ありがたいことだから、
喜ばねばならないよ」
と説かれています。

『雑阿含経』の中には、
有名な盲木浮木の譬えがあります。

ある時、お釈迦さまが阿難というお弟子に、
「そなたは人間に生まれてきたことを
どのように思っているか」
と尋ねられました。
「大変喜んでおります」
と阿難尊者が答えられると、
お釈迦さまは次のような話をされています。
「果てしもなく広がる海の底に、
目の見えない亀がいる。
その盲亀が、100年に一度、海面に顔を出すのだ。
広い海には一本の丸太ん棒が浮いている。
丸太ん棒の真ん中には小さな穴がある。
その丸太ん棒は風のまにまに、西へ東へ、
南へ北へ漂っているのだ。
阿難よ。100年に一度、浮かび上がるこの亀が、
浮かび上がった拍子に、丸太ん棒の穴にひょいと
頭を入れることがあると思うか」
聞かれた阿難は驚いて、
「お釈迦さま、そんなことはとても考えられません」
と答えると、
「絶対にないと言い切れるか」
お釈迦さまが念を押されると、
「何億年かける何億年、何兆年かける何兆年の間には、
ひょっと頭を入れることがあるかもしれませんが、
無いと言ってもよいくらい難しいことです」
と阿難が答えると、
「ところが阿難よ、私たちが人間に生まれることは、
この亀が、丸太ん棒の穴に首を入れることが有るよりも、
難しいことなんだ。有り難いことなんだよ」
とお釈迦さまは教えられています。

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「有り難い」とは「有ることは難しい」ということで、
めったにないことをいいます。
『涅槃経』には、
「地獄に堕つる者は十方世界の土の如く、
人間に生まれる者は爪の上の土の如し」

とも説かれています。
人間に生まれることは、それほど喜ばねばならないことだと、
お釈迦さまは教えられている
のですが、
喜んでいるどころか、何で生まれてきたのだろう。
人間に生まれさえしなければ、
こんなに苦しまなくてよかったのに、
と恨んでいる人さえあります。

それは、何のために人間に生まれてきたのか。
何のために生きているのか。
なぜ苦しくても生きねばならないのか。
人生の目的が分からないからです。

受け難い人身を受けたということは、
人間に生まれなければ果たせない大切な聖使命があり、
それを達成するための命なのだということです。

唯一無二の聖使命

ではその聖使命とは何でしょう。
それこそがお釈迦さまがこの世へ生まれられた、
たった一つの目的です。
その釈尊の出世本懐を、
一切経を何度も読破せられた親鸞聖人は、
『正信偈』に次のように仰せられています。

「如来、世に興出したもう所以は
唯、弥陀の本願海を説かんがためなり」
「釈迦如来が、この世に生まれ出られ、
仏教を説かれた目的はただ一つ。
弥陀の本願を説くためであったのだ」


「すべての人々を、
必ず絶対の幸福にしてみせる」
と誓われた、大宇宙の仏方の本師本仏である
阿弥陀仏のなされたお約束のことです。
「この世界広しといえども、
唯一無二の弥陀の本願を説くという、
たった一つの尊い使命を担って、
この釈迦は生まれてきたのだ」

という、釈尊の使命感が、
「天上天下 唯我独尊」
という格調高き宣言となったのです。

お釈迦さまはこのように、
弥陀の本願を説くという、たった一つの聖使命を、
「唯我独尊」とおっしゃいました。
同時に、
一切の人々は、
その仏陀・釈尊が唯説なされた
弥陀の本願を聞くことが、
人間に生まれた、
たった一つの使命なのだと示されています。


釈尊と私たちとは、「弥陀の本願」という一点において、
共通の人生の目的を持っているのです。

ところが、それを知らぬ人々は
人生の目的を何と心得ているでしょうか。
人生の喜びを金儲けと見定め、
マネーゲームに興ずる者たち、
地位を追い、名誉に明け暮れて、
むなしく一生を過ごす人。
スポーツや芸術に醍醐味を見出し、
花鳥風月をめでる人。
人の数だけ人生はあっても、
「わが人生こそ『独尊』なり」
と、心から叫べる人はどれだけあるでしょうか。

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「人の一生は
重荷を負うて
遠き道を行くがごとし」
と、徳川家康は天下を取ってもなくならぬ
人生の苦しみを告白し、
「花のいのちはみじかくて
苦しきことのみ 多かりき」
と、作家の林芙美子は振り返っています。
いずれも涙とともに、
はかなく一生を閉じているではありませんか。
仏教に説かれた本当の人生の目的が
明らかに自覚されていない人は、
決して、
「天上天下 唯我独尊」
と叫ぶことはできないのです。

そこで釈尊は次に、
「仏法聞き難し 今已(すで)に聞く」
と仰せられています。
「聞き難い仏法、よくぞ聞かせていただいたものぞ。
仏教の真髄、弥陀の本願を聞くことができてよかった」
の法悦です。

しかも、このように
弥陀の本願を聞かせていただくことは、
何億年に一度しか巡ってこない
絶好のチャンスなのだ
と、
「この身今生に向かって度せずんば、
さらにいずれの生に向かってか、
この身を度せん」
と仰せられ、真剣な聞法求道を勧めておられます。

弥陀の救いは
    ハッキリする
     臨終 息の切れ際でも

弥陀の救いは「一念」で完成します。
「一念とは時尅(じこく)の極促」と
親鸞聖人はおっしゃっています。
何億分の一秒より短い、時間の極まりをいいます」
阿弥陀仏は「ひとおもい」で
絶対の幸福にしてみせると誓っていられるのです。

これを聖人は、
「一念往生」とか、
「一念の信心」
ともおっしゃっています。
いずれも、アッという間もない時尅の極促に、
無上の幸福を与えてくださるのです。
この身今生、ただ今の一念で、
迷いの世界から出離できる。
かくて、仏法を聞き、
未来永遠の絶対の幸福を獲得(ぎゃくとく)した時にこそ、
人間に生まれた本当の有り難さ、
輝く生命の尊厳が知らされるのです。

仏法を聞き開かぬ限り、
人界受生(じんかいじゅしょう)の本当の喜びなど
絶対に分かるものではありません。

弥陀の救いに値う(あう)ことこそ、
人生の目的であり、
それは臨終、息の切れ際でも達成できます。
だからこそ、一分一秒でも命を延ばすことが、
極めて大切になるのです。

人間に生まれてきた唯一の聖使命を知り、
その使命に向かって全力を挙げ、
この使命を成就した時にこそ、
すべての人々が、天と地に向かって、
「天上天下 唯我独尊」
と、絶叫せずにいられなくなるのです。

これを機縁に我々の生きる聖なる目的について、
深く考えてみようではありませんか。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
読者の声

人間に生まれた意味をしらせていただいたことが、
何よりの喜びであります。
私の命の尊さも知らされた。
       (石川県・70代男性)

一刻も早く生命の歓喜する身となり、
家族や周りの人たちにも
伝えられる人になりたいと思います。
       (栃木県・30代女性)

生まれ難い人間に生を受けた喜びに手を合わせ、
日々仏法を心にかけて暮らします。
       (富山県・70代女性)

正しい生命の実相を知らねば、
大人も子供も救われません。
       (石川県・80代女性)

有り難く尊い生命を頂いたことを、教えていただきました。
        (滋賀県・80代男性)

 


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親鸞聖人と「浦島太郎」 [罪悪深重]

 (真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています)

春も間近になりました。
もう3月、
「あれ、この前、年が明けたばかりなのに・・・」
と感じておられる人もいるでしょう。
「月間カレンダーが日めくりのようだ」
とつぶやく声も聞こえてきます。
それほど、あっという間に過ぎ去ってしまうのが
人生なのだと蓮如上人は、
「この世の始中終、幻のごとくなる一期なり」

(人の一生はまるで夢幻のごとく儚いものだ)
と仰っています。

そんな儚い人生を
私たちはどのように生きているのか。
その人間の本当の姿を描いているのが、
誰もが親しんできたおとぎ話「浦島太郎」です。
子供の話と侮るなかれ。

ここには、親鸞聖人のみ教えを学ぶ
私たちにとって大切なものが詰まっているのですから。

今回はその「浦島太郎」に学びましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
気づかなかった、
  浦島太郎の大矛盾

日本人なら誰でも、子供の頃に「浦島太郎」の話を
聞いてきたでしょう。

漁師の浦島太郎が、浜へ漁に出かけると、
一匹の亀が大勢の子供たちに虐待されている。
かわいそうに思った浦島太郎は、
再三再四、動物愛護を説くが、
子供たちは一向に聞き入れない。
そこで彼は亀を買い取り、海へ放してやった。
亀は幾度も礼を言い、海中に姿を消した。

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数日後、彼が舟を浮かべて漁をしていると、
先日助けた亀がポッカリ浮かんだ。
「ご恩返しに、今日はよい所へご案内いたしましょう」
と、龍宮上へ連れて行かれた浦島太郎は、
乙姫様に迎えられ、山海の珍味でもてなされ、
限りない楽しみを味わった。
故郷に帰った浦島太郎が、
乙姫様から贈られた玉手箱を開くと、
モクモクと白煙が立ち昇り、
たちまち白髪の老翁になっていまったという。

話を終えた父母や教師から、
「浦島太郎のような、慈悲深い、
生き物をかわいがる心優しい人になりましょう」
と教えられたものです。
確かに、一切の生き物に慈悲をかけ、
命を大切にする心は、
子供たちに伝えていきたいものです。
ところが、浦島太郎の言動には大きな矛盾があることに、
気づいているでしょうか。

一つの命を助けた
    “善人”の限界

子供たちに金を与えてまで、
一匹の亀を助けた浦島太郎ですが、
その肩に担がれていたのは、魚釣り竿。

彼は漁師なのです。
その釣り竿で彼はこれまで
何百何千の魚の命を奪ってきました。
もし浦島太郎が本当に一切の生命を愛する善人ならば、
まず真っ先にするべきことは、
己の釣り竿をたたき折ることでしょう。

これまで何百何千の殺生を平気でやりながら、
たまたま一つの命を助けたからといって、
いかにも慈悲深い善人だと思うのは、
あまりにも早計です。

では、彼はその魚釣り竿を
放棄することができるでしょうか。
釣り竿には彼の生活の全てがかかっています。
折ればたちまち生きていけなくなる。
ここに善人たらんとする浦島太郎の限界があるのです。

一つの命を助けることはできても、
幾万の命を奪わずしては生きていけない。
これは一人、浦島太郎だけのことではなく、
私たちすべての人間の実相とはいえないでしょうか。

●生きるためには仕方がない?

約800年前、関東でご布教なされていた親鸞聖人のお弟子の
「入西房」は、元は日野左衛門という名の猟師でした。

彼は初め、大の仏法嫌いでしたが、
親鸞聖人から真実の仏法をお聞きして大変わりしたのです。

その時の問答が、アニメショーン『世界の光・親鸞聖人』
第4巻に描かれています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
親鸞聖人と出会い、「ただ今この世で絶対の幸福になれる」
という阿弥陀仏の救いを初めて知らされた日野左衛門。
だが、首を横に振って、自嘲ぎみにこうつぶやく。

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日野左衛門 「しかしなあ。殺生ばかりしている俺なんかどうせ、
                   縁なき衆生さ」

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親鸞聖人  「日野左衛門殿。あなたが殺生されるのは、
       肉を好んで食べる人が、いるからでござろう」
日野左衛門 「そうだが」
親鸞聖人  「たとえ自分が殺さずとも、肉を食べれば、
       同じ殺生罪と教えられているのが、仏法です

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
殺生とは文字通り、生き物を殺すことです。
私たちは動物を食べるのを当たり前に思っていますが、
食べられる動物たちは決して、人間のための命とも、
当然の犠牲とも思っていないでしょう。
どんな生き物も死にたくないのは私たちと同じ。
船上の魚がピチピチはねるのも、
鶏が首を絞められバタバタもがくのも苦しいから、
死にたくないからです。

今話題の『進撃の巨人』(諌山創・作)というマンガには、
突如として現れ、圧倒的な力で
人間を捕らえて食い殺す巨人と、
人類との戦いが描かれています。

何とムゴイ、不条理な、
と思わず顔を背けたくなりますが、
目を転ずれば、動物の肉を喜んで食べている
自分の姿と重なるのです。

すべての人の
   例外ない種まき

仏教では「全ての生命は平等であり、
上下はない
」と教えられます。
「生きるためには仕方がない」
と人間の命だけを尊しとするのは、
人間の勝手な言い分であり、
殺生は恐ろしい罪に変わりはありません。

その殺生に「自殺」「他殺」「随喜同業」
の3通りある、と仏教では教えられます。


初めの「自殺」とは、自分で生き物を殺すこと。

自ら命を絶つという一般的な意味とは違います。
浦島太郎や日野左衛門が、食べるために魚や鳥、
獣を殺すのは、この自殺です。


次に「他殺」とは、他人に命じて殺させることをいいます。
自分で直接手にかけなくても、
自分で殺したのと同罪になると教えられているのです。


随喜同業」は、他人が殺生しているのを見て
楽しむ心があれば同罪ということ。

肉や魚の料理に舌鼓を打つのは、
「他殺」であり、「随喜同業」の罪を造っている姿です。

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この三つ、いずれも当てはまらないと
言える人はないでしょう。

“私は肉を食べません”と言う菜食主義の人も、
その野菜を作るために多くの虫を
駆除していることを承知しているでしょうか。

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たとえ生き物の肉を一切食べなかったとしても、
蚊に刺されれば思わずパチンとたたき潰す。
道を歩けば、どれほどの生物が
靴の下敷きになっていることでしょう。

いかに慎んでも、殺生と無関係な人はありません。
自覚しようと、いまいと、
すべての人が免れることのできない罪なのです。

「蜘蛛に生れ 網をかけねば
ならぬかな」    (俳人・高浜虚子)
蜘蛛が巣を張り、引っかかった獲物を捕らえる。
残虐だといわれることもあるけれど、
蜘蛛に生まれたからには、
そうして網をかけて餌を捕まえなければ
生きてはいけないのだ。

人間もまるで同じ。
おびただしい殺生をせずして生きられない、
深い業を持っているのです。

アニメ第4巻、親鸞聖人のご説法の続きをお聞きしましょう。

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親鸞聖人  「たとえ自分が殺さずとも、肉を食べれば、
       同じ殺生罪と教えられているのが、仏法です」
日野左衛門 「えっ?それじゃあみんな、殺生していることに
       なるじゃないか」
親鸞聖人  「いかにも。殺生せずしては、生きてゆけない。
       私たちの、どうにもならぬ、恐ろしい業なのです

日野左衛門 「そのとおりだ」
親鸞聖人  「すべての人が、どうにもならぬ極悪人だからこそ、
       阿弥陀如来は我を信じよ、必ず、救い摂ると
       誓っておられるのです

どうにもならぬ罪を抱える私たちを、
必ず救ってみせると誓われた阿弥陀如来とは、
どんな仏さまなのでしょう。

自己の罪悪に驚いた読者の手記に続いて、
後半で明らかにいたします。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここで体験手記をはさみます。


   殺生が生業(なりわい)の私
        救われる教えは? 
             富山県 西村 文男さん(71歳)

永年、調理師として勤めた新川さんは、
ある日、自己の姿に驚き、
仏法に救いを求められました。
どんなことがあったのか、聞いてみましょう。

私のこの手は40年間、調理師として
多くの生き物を殺してきた血染めの手です。
1日50匹以上、鯉を殺し、洗いを造る。
スッポンの首を切り、生き血をブドウ酒に入れ、
精力飲料として出す。
鰻は生きたまま引き裂く。
その他、客の注文に応じ、
多くの魚を殺すのが私の日課でした。
「西村のつくる料理はうまい」
そんな客の言葉は、料理人冥利に尽きます。
暴れる鯉に手こずる新米が歯がゆく、
「どけっ、俺がやる。よく見ておけ!」
ここは腕の見せ所、と得意絶頂の毎日でした。

                      血に染まった鬼

そんなある日、鯉料理200人分の注文を受けたのです。
外に設けた、にわか作りの流しで、
朝4時から100匹の鯉を次々と殺していきました。
向かいの山頂から朝日が私の周辺をまぶしく照らし、
何気なく窓に映るわが身の姿を見たとき、
そこには帽子から白長靴まで、
赤いペンキをかぶったように
血ダルマになった鬼が立っていました。
流しからあふれ出た鯉の血は、足下に広がり、
まさに血の池地獄さながら。
大きなポリバケツには、たった今切り落とした
鯉の頭がびっしり詰まり、
悲痛な叫び声を上げているかのように、
口をパクパク動かす。
「ああ、俺は何と残酷なことをやっていたのか!」

                            先輩の臨終

恐ろしさに包丁を投げだし、
手についた血を流さずにはおれませんでした。
夢か?
いや、恐る恐る見渡した地獄の光景は
紛れもない現実でした。
思わず目を閉じる私の脳裏に、
ガンに冒され
もがき苦しんで逝った先輩の顔が浮かびました。
「ワァ!魚が来る。魚が俺を突きにやってきた。
助けてくれ」
大声で泣き叫び、全身赤い傷で腫れ上がって、
息絶えました。
「俺にも必ず、臨終が来る」
そう気づいて、目の前が真っ暗になりました。
足元が崩れ落ちるショックを受け、
「もう二度とこんな仕事やらん」
と、職場から逃げ出したのです。
「母さん、助けて!」
気づけば、母の墓前で泣いていました。

       知らされた救いの道

恐怖におののく私に、父は、
「この本を読みなさい」
と一冊の仏教書を手に握らせてくれました。
貪るように私は読みました。
「この真実を知った者は、
二度とつまらぬ迷いに命をかけることはできない。
泣いても笑っても真実の道は一本きり。
ハッキリするまで求め抜くことだ」
と、その本に呼びかけられ、
私はいても立ってもおれず、
聞法会場を探して走りました。
そこで初めて親鸞聖人の教えを
聞かせていただいたのです。

火の車
造る大工は なけれども
己が造りて 己が乗りゆく

今まで造ってきた罪悪で火の車に乗せられ、
「地獄行き間違いなし」
の私を照らされました。
聞くほどに知らされるのは、
罪悪にまみれた血ダルマの私を、
一念で救い摂る無上仏(阿弥陀仏)のやるせなきお誓い。
今は亡き父と、因果応報を身をもって
教えてくれた先輩の死は、
私に仏縁を結ばせるご方便でした。
「一生造悪の者を、そのまま絶対の幸福に救う」
と誓われた無上仏の本願に信順したいと思うのです。

※一念とは、一秒より短い時間のきわまり

体験手記はここまで

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
悪にまみれた
  すべての人を
   必ず助けてみせる

「願力無窮(がんりきむきゅう)」に阿弥陀仏

悪の自覚もなく安穏(あんのん)に生きる
浦島太郎のような私たち。

その人間の実態を知らせ、
救わんとして説かれたのが真実の仏教です。

悪を造らねば
  生きてはいけない

浦島太郎は、魚釣り竿でおびただしい命を
奪っている自覚もなく、
一匹の亀を助けようと思いました。

同様に、恐ろしい自己の姿に気づかず、
善いことをしていると思って私たちは生きています。

しかし、西村さんのようにふと、
気づかされることがあります。
無邪気そうな子供が、サケの稚魚を放流し、
笑顔で手を振っている。
「大きくなって帰ってきてね」
やがて育って帰ってきたサケは、
釣り上げられ切り裂かれて
食卓を飾ります。
牛や豚に良質の餌を与え、
毛にブラシをかけてかわいがっていますが、
目的は殺して食べるためです。

生きた牛や豚や鶏を、自分の手で殺せる人は
どれだけあるでしょう。
屠殺場を見ても目を背けずにおれない。
まして手にかけて殺すなど、とても。

しかし私たちは毎日、そんな恐ろしいことを
誰かにやってもらって、肉を食べ、
殺生をし続けているのです。

「生命を頂いた分、一生懸命生きればよい」
と言われますが、どこへ向かって
一生懸命生きるのでしょうか。

蜘蛛が網をかけねば生きられぬように、
己の業界から抜け出せず、
罪悪を造らずしては生きられぬ
私たちの姿を親鸞聖人は、
このように仰っています。

悪性さらにやめがたし
心は蛇蝎のことくなり

悪のやまらない親鸞。心はヘビやサソリを
見た時のようにゾッとする恐ろしさだ


生きるために恐ろしいことや、
あさましいこともやらざるをえない。
何とも救われ難き身です。

そんなご自身の姿を
「一生造悪」(正信偈)
(一生悪を造り続けの親鸞だ)
とも仰っています。
そんな悪人と知り、悔い改める者なら殊勝ですが、
邪見憍慢(じゃけんきょうまん)の悪衆生」(正信偈)
で、うぬぼれて悪性のわが身を
正しく見ることができないのだ。

さりとて恐ろしい罪を犯している不安も払拭できず、
「生きるためには仕方がない」
と、言い訳せずにはおれない。
これが人間の限界なのです。

自覚なき極悪人を
  「われひとり助けん」

悪業をば恐れながらすなわち起し、
善根をばあらませども得ること能わざる凡夫なり

          (口伝鈔)
悪を恐れながら、悪しかできず、
善行をしようと思ってもできない人間である

息するままが悪の種まき、
地獄へ運ばれる悪性の身、
それを大宇宙最高の仏である、阿弥陀仏だけが
「われひとり助けん」
(私が必ず助けよう)
と立ち上がってくだされたと、
蓮如上人はこう仰っています。

十悪、五逆の罪人も、五障、三従の女人も、
空しく皆十方、三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我等如きの凡夫なり。
然れば、爰に弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師本仏なれば、
久遠実成の古仏として、
今の如きの諸仏に捨てられたる末代不善の凡夫、
五障三従の女人をば弥陀にかぎりて、
「われひとり助けん」といふ超世の大願を発して

            (御文章二帖目八通)
十悪五逆の罪人とは、すべての人のこと。
古今東西のすべての人間は、
皆罪人だと言われています。
しかも日々の楽しみに心を奪われ、
罪を重ねている自覚がない。

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魚釣り竿でこれまで計り知れぬ殺生を重ねながら、
一匹の亀を助け、善人とうぬぼれる浦島太郎のごとく、
罪と教えられても、本人は恐ろしいとも思わず、
人生をアッという間に流して
酔生夢死(すいせいむし)するのです。

これを「無慚無愧の極悪人」と、
親鸞聖人は言われています。
「無慚」とは、自分に恥ずる心のないこと、
「無愧」は他人に恥ずる心がないことです。

悪にマヒし切った私たちですから、
大宇宙の仏方は“助かる縁手掛かりなし”
と見捨てられたのだ、と蓮如上人は仰っています。
だが、“そんな者は、絶対に救われぬだろう”
と絶望することはない。
その極悪人を「必ず救う」とただ一仏、
誓われた方がましますと、

然れば、ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、
今の如きの諸仏に捨てられたる末代不善の凡夫をば
弥陀にかぎりて、
『われひとり助けん』という超世の大願を発して、
已(すで)に阿弥陀仏と成りましましけり。
この如来を一筋にたのみたてまつらずば、
末代の凡夫、極楽に往生する道、二つも三つも、
有るべからざるものなり

           (御文章二帖目八通)
と仰っています。

その無限のお力を持たれた阿弥陀仏の救いを、
親鸞聖人はこう讃嘆されています。

願力無窮にましませば
罪悪深重もおもからず
仏智無辺にましませば
散乱放逸もすてられず

阿弥陀仏のお力は絶大で底無しだから、
どんな罪の重い者も助けてくださるのだ

阿弥陀仏の願力によって「罪悪深重」「散乱放逸」
の私と知らされた人のみが、
「願力無窮」「仏智無辺」の偉大な弥陀のお力に
感泣せずにおれない。

この阿弥陀仏に助けていただくよりほかに、
極楽に往生する道は二つも三つもないのです。

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玉手箱はもう開いている

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では、どうすれば弥陀に救い摂られるのでしょうか。
蓮如上人は、
仏法は聴聞に極まる
と教えられます。
阿弥陀仏の本願は、聞く一つで救うお約束なのです。

ところが、
“そうは仰るけれど・・・聞くだけで助かるのかしら?”
“私など救われないのではないか、難しいのではないか”
と、弥陀の御心を聞かず、はねつけています。
そんな私たちに、凡夫の愚かな知恵で
モタモタ思案せず、
ひたすら光に向かって進めと、
「聞思して遅慮することなかれ」
と親鸞聖人は教示されています。

もう玉手箱から煙は立ち昇っています。
人生の終着駅に着く前に、弥陀の本願を聞き抜いて、
決して後悔なきようにと、聖人は全身全霊で、
真剣な聞法を勧められているのです。

“阿弥陀仏のお約束、誠だった”
と信知させられるまで聞法精進いたしましょう。

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